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13.夢見る草猫達(2)
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普段でも扱いにくいヒストは、波打つ草に苛立つように猛っている。ヒストにひたりと身を寄せ、風の抵抗をできるだけ受けないように走らせるユーノは、みるみる追い付いてきたアシャを視界の端に捉えて少しほっとした。
「ちっ」
(何を甘えている)
自分の温さに気付いて舌打ちしたが、
「ユーノ!」
「ああ!」
鋭い声が前方を見るよう促して視線を前に向ける。
2人の目の前に、青白い篝火を数カ所灯らせた石造りの砦が見え始めていた。平原からやや奥まった岩と岩が互いの肩を寄せあうような窪地、焦茶色に湿った岩盤を基底部として黒い岩を積み上げてある。
だが、小高い物見台は既に崩れ、外壁は形もない土塊と化している。薄暗い口をあちこち開けた砦は、かつての熱気溢れる人間達の代わりに、不思議な気配で満たされている。
(!)
突如殺気を感じて手綱を引き絞ったユーノは、棒立ちになったヒストにかろうじてしがみついた。ほぼ同時に地響きがして、少し先の地面に青白い炎が降り落ちる。
それは燃える岩の塊だった。
ぼふぼふっと煙と火を吐きながら岩は草の間で光り輝いている。きな臭いにおいが広がり、ヒストが不愉快そうに嘶く。
すぐに続いてもう1つ、空気を切る重い気配が降ってきた。真側に落ちて白煙を上げ、ユーノの側に駆け込んできたアシャも馬を操り、落ちてきた岩から後退せざるを得ない。
続いてもう1つ、今度はもっと間近に降ってきた。直接こちらは狙っていないようだが怯えてて飛び出してしまえば、燃える岩の下敷きになるのは必至、荒い鼻息になっていきりたつヒストを宥めて静まらせ、距離をとって背後に引きながら、ユーノはじっと砦を注視した。
当たれば確実に致命傷を与えるだろう攻撃を、相手はユーノ達に向けてこない。
(近付くな、か)
警告なのだ。
砦とこちらの間に、いつの間にか幾匹かの獣の姿が浮かび上がっていた。
見ている間に1匹2匹と、青白い篝火に影を波打たせながら、数が増えていく。
子どもなら軽々と背中に乗せて運べそうな薄緑色の体躯の四つ足、猫のようにしなやかな動きで砦のあちこちから忍び出てきて、こちらを輝く緑の瞳で見つめてくる。体の表面は指の幅ぐらいの剣型になった平らな皮のようなものが重なりあい、くねらせて攻撃的に上げた尻尾まで滑らかに覆っている。
やがてその中から、一際明るく輝く瞳の獣が1匹、ゆっくりと尾を中空に翻らせた。緊張を走らせた尾が一瞬ぴんと伸びたかと思うと、微かに震え出し、音とも振動ともつかぬ響きが空間を伝わってきた。
『ワレ……ラハ……オウヲヒ……ツヨ……ウトシ……テイル』
強くなったり弱くなったりするうねりで、ことばがよく聞き取れない。
「アシャ」
「草猫だ」
相手を見つめながら問いかけたユーノに、アシャが低く応じた。頷き、ユーノは指示する。
「……馬を降りよう」
「なぜだ」
「確信はない、けど」
答えながらユーノは草猫達を刺激しないようにゆっくりとヒストから滑り降りる。
「レスファートが攫われる夢で、草に触れていると誰かの声が聞こえた」
「……確かに草猫達は草原を通じて意志を伝えることができるとは聞く」
溜め息まじりにアシャが呟き、するりと同じように馬から降りるのがわかった。
「だが、逆に捕われる可能性もあるぞ?」
「でも、このままじゃ、レスを返してくれそうにない」
言い切ると、そうだな、とアシャが苦笑しながら近寄ってきた。体温は空気を介して伝わるのか、気持ちが強くなるのを感じる。
(側にアシャが居る)
一瞬目を伏せ、ヒストを待機させて、ゆっくりと草猫達の方へ歩み出した。すぐにアシャが背中を守るように寄り添ってくる。草猫達の尾が急に激しくうねり出す。緑の瞳は明滅する星のよう、警戒心がきりきりと大気を絞り上げていく。
ごうっ………どすっ。
「!」
摩擦音を響かせ、青白い光球がユーノの耳元を掠めて背後に落ちた。アシャが巻き込まれたかとひやりとするが、軽く避けた気配、続いて幾つも流星群のように注ぎ始めた光球に身動き取れなくなって、思わずアシャを振り返る。
草原の緑と夜空の濃紺、ちらつく蒼炎になお暗く深い黒の砦、世界が寒色のみで構成されている中、周囲を裂く光球の間を縫うように歩を進めたアシャが真横に並んでくる。整った横顔には煌めく紫の瞳と薄紅に染まった唇、僅かに紅潮した頬には乱れる黄金色の髪、艶やかさに命を感じ取って、ユーノは息をつく。
(1人じゃない)
そうだ、夢の中のように、たった1人、屠られる瞬間を従容と待たなくていい。
(ならば)
何を竦むことがある、何を恐れることがある。
倒れても今ならアシャの側だ。
ユーノは光球の途切れた隙に足を踏み出した。ぎくりとしたようにアシャが振り向くのに薄く笑って、なおも前へと進む。
「ユーノ…っ」
焦れた声でアシャが呻いた。掠れた響きが切なげで妖しい。
「…待て」
引き止める声をもっと聞きたい。
闇の魔性に煽られたかと自嘲しながら、ユーノはくすりと笑ってなお1歩足を伸ばす。
ごうっ……ひゅうっ……どすっ、どすどすっ。
見る見るあたりは昼間のように燃え上がる光球で明るく輝く。がしかし、次の瞬間、周囲の草がざわめいて、まるで2人を絡め取るかのように両足に倒れ押し寄せてきた。足を抱え込みまとわりつき、密度を増しながら固定しようとするようだ。
「んっ」
さすがにこのまま狙われるとまともに光球の餌食になる。
ユーノが緊張した矢先、さきほどの草猫が再びこちらを見据えながら、立てた尾を激しく震わせた。
『我らは王を必要としている』
「アシャ」
「ああ」
草猫の尾の震えが強まるに従って、共振するように腰から下を包み込んだ剣型の草が、鋭い傷みとともに波立ち突き立ちながら蠢く。同時に朗々とした声が脳の奥底から響き渡ってきた。
『我らはネークの草猫として、我らの王を欲している』
光球が降り注ぐのが止まった。
静まり返った草原に、燃え盛っていた炎も、1つまた1つと草原の露に濡らされたように消えていく。
「王はラズーンではないのか」
アシャの問いに、草猫は深い哀しみの色を瞳にたたえた。鮮やかに光を放っていた眼が曇るように色を薄めて、淡い黄緑色に滲んでいく。
『ラズーンは我らを見放した』
色を薄めて逆になお大きく見開いた瞳で、草猫は訴えた。
『ラズーンの視察官(オペ)の存在も感じぬ。ラズーンは我らを治めるのを放棄したのだ。よって、我らは新たなる王を必要とする』
「誰がそんなことを」
アシャが尋ねた。
「ラズーンは統治を放棄などしていない」
「…」
ユーノはちらりとアシャを見遣る。
ときどきそうだ、アシャはまるでラズーンを知っているかのように振る舞う。
(それもこの世界を治める存在とごく身近に居たように)
確かにアシャは旅人だ。けれど、ラズーンを旅してセレドまで来たような旅人の話は聞いたことがない。世界はそれほど狭いものではないはず、ましてやアシャのような若さでラズーンのことを語れるなど。
(希代の詐欺師か、誇大妄想の愚かな男か)
だが、アシャはそのどちらでもない。
(だとしたら)
ありえない、けれど全く別の1つの可能性は。
ラズーンの神、とは如何なる存在か。
それはひょっとすると、人離れした美しさを持ち、数々の才能と経験を貯え、しかも不老不死、だったりする、のか?
(そうであってほしくない)
万が一アシャがそんな存在だとしたら、レアナの想いなど意味がなくなってしまう。セレドを託すことなど、不敬でしかない。
「違うよ」
「!」
ふいに聞き覚えのある幼い声が、聞いたことのない不遜な調子で響いてユーノは我に返った。
「レス!」
ユーノの低くて鋭い声が草原を渡る。
群れをなしてアシャ達を見つめる草猫達の後ろから、小柄な姿が浮かび上がって前に立つ草猫の隣に並んだ。
まるで夢を見ているように、熱に浮かされた表情をたたえたアクアマリンの瞳がぎらついている。いつも聡明な気配で引き締まっていた唇が半端に弛んで、年齢に不似合いな蠱惑的な微笑が浮かんでいる。
「彼らは孤独なんだ」
幼いレスファートには決して出せない、深々と響く自信に満ちた声音。
「彼らは迷っているの。ぼくの心に話しかけたの。寂しいって。主人がいなくなったって。ぼくなら、彼らの心を読める。彼らの気持ちがわかる。だから彼らの王にふさわしい」
平板ではっきりとした、なのに舌足らずなことば遣い、自分の意志ではない何かに操られているのに気付かない熱に輝く瞳に、ユーノがレス、と呟いて身を竦めた。
「心を読めるのを逆に使われたんだ」
ユーノが怯えた顔で振り向くのをアシャはまっすぐ見返す。
「ラズーン支配が届かなくとも、統治を放棄したわけじゃない。草猫達にはわかっていない」
ことばに含めた謎を読み取ったのだろう、何か問いたげに開いたユーノの唇、だが続くはずの問いは無理矢理逸らされ置き換えられる。
「このままだと……レスはどうなる?」
単純な問いかけの形をとったそれを、アシャは苦笑で迎えた。
人間に知られていないはずの草猫の生態をわかっていなければ応えられぬ問い、それに答えを持つことはアシャが特殊な立場にあること、単なる旅人ではないことを証明すると知っている。
(頭がいい)
苦笑いを広げながら、アシャは答える。
そうだ、もちろん、アシャはその知識を備えている。
「………草猫は草を常食にしている。しかし、レスが草以外の食事を必要としているのはわかっていないに違いない」
「じゃあ、レスは」
それでもユーノはアシャに追及を向けなかった。気遣わしげに見やる視線の先には、草色の仮面をつけたままプラチナブロンドを風になびかせ不安定に揺れているレスファートの体、寄り添うような若い草猫を睨みつけたまま、問いかけて、口を噤む。
「あの興奮状態が続いている限り、体力の衰えはわからないだろう。倒れるまで草猫達の熱に魅せられたままネークの草原を歩み続けることになる」
答えに、唇を引き締めたユーノが絡みつく草を引きちぎるように無理矢理1歩、草猫達の方に歩み出す。はっとしてユーノの側へ歩み寄ろうとする、同時にレスファートが片手を上げて無造作に振り降ろした。
「ユーノ!」
「、つっ!」
さきほどからの光球が、またひとしきりユーノの周囲に降り注ぐ。
とっさに伸ばした指先を掠め、ユーノの髪の毛を焼きそうな近さに落ちたそれに、ざわりと体の内側が身震いした。ぎょっとして目を見開き、動きを止める。
コロシテヤル。
(馬鹿、な)
身内に走ったのはいつか味わった凶暴な衝動、ユーノを傷つけようとした相手に容赦なく牙を剥きそうな野獣の気配。歯を食いしばり踏み止まる。
(なぜ、これぐらいで)
今にも目覚めそうな状態になってしまうのか。
「ユ、ーノ!」
守りたいのに近付けない、その苛立ちに叫ぶと、
「大、丈夫…っ」
火球に焼かれる恐怖よりもレスファートが心配なのだろう、体を前にのめらせながらユーノが草猫達を睨んでいる。
普段なら考えもしない、むしろそんなことを考えた自分を責め苛むだろうに、ユーノを光球で狙わせたということに何も感じていないらしいレスファートが、夢現のようににっこり笑う。側の草猫が、ほくそ笑むように目を細める。
「!」
そうか。アシャは気付く。
「『運命(リマイン)』だ」
「『運命(リマイン)』?」
怪訝そうにアシャを振り返ったユーノに、舌打ちしながら唸る。
「ラズーン支配下(ロダ)から外れているとわかった時に、考えておくべきだった」
草猫達の不安と滅亡への恐怖に付け込んで、『運命(リマイン)』があの先頭の草猫を乗っ取り、周囲を煽ったのだ。
ただでさえ、ユーノの安全が脅かされていることで落ち着かなくなっているところに、その『運命(リマイン)』の攻撃が『銀の王族』に向かった、それを感じてアシャの視察官(オペ)の感覚が臨戦体勢になっているのだろう。
(だが、これは)
まずい。
この二重の不安、ユーノが危険に晒されているだけでなく、相手がユーノの守りたい相手であるという状況は、否応なくアシャにゼランがもたらした傷みを思い起こさせる。また同じように手の出せない部分でこの腕をすり抜けて死に至るような怪我を受け入れてしまうのではないかという恐怖を。
(だから、俺は)
今にも限界を破りそうな怒りに冒されているのか。
「ふ、ぅ」
落ち着け、まだ力を放つな。
言い聞かせながら堪えるアシャの目の前で、降り注いだ光球がおさまる。こちらを傷つけようというのではなく、あくまで手出しをさせないための脅しだ。
「ユーノ」
打って変わって柔らかな優しい声で、瞳を潤ませながらレスファートが呼び掛けてきた。
「もういいよ……ぼくをおいてって」
「レス!」
「ぼくは……ぼくはここで草猫達といっしょにいる……だって……ぼくは」
先頭の草猫の背中にすがるように小さな手を乗せて、レスファートは儚く笑う。
「ぼくは……ユーノのやくにたたない…」
「……っ」
その手の白い包帯、それを見たとたん、ユーノがぐっと唇を噛み締めた。ためらいを振り切るように、いきなりユーノが差し伸べた両手にレスファートがびくりとする。
「レス!」
それは求愛、大切な相手を求める激しい動作、レスファートが体を硬直させて笑みを強ばらせる。
「レス!」
「…こないで、ぼくは草猫達の王になる、んだ」
「でも、レス!」
「こな、い」
「私が、嫌い?」
「!」
突然の問いかけにレスファートが目を見開く。
「私なんか、嫌い?」
「あ…ぅ」
ゆらゆらと首を横に振ったレスファートが1歩引き下がる。ユーノがもっと強く両手を差し出して1歩詰め寄る。光球は飛んでこない。レスファートの隣に居た草猫が叱咤するようにレスファートを見上げる。
「私が嫌いだから、旅を続けたくないから、側に居たくないから、離れるの?」
「ち、がう…」
レスファートはまた1歩後ずさり、ユーノはまた1歩前へ進む。苛立ったように体を捩る草猫をアシャは凝視する、視線で心臓を貫ければいいと願いつつ。
「怪我するから? 怖いことばっかりだから? 楽しいことなんて1つもないから?」
「ちが…う……っ」
ユーノはわかっていて追い詰める。何が何でもレスファートを取り返す、その強い意志が空気を満たし、闇を駆けて、少年の眠る心の奥底に届いていくのがわかる。
「レス…?」
絶妙の間合いでユーノは立ち止まった。両手を広げたまま、そっと静かに呼び掛ける。
「戻ってきて」
「ゆー…の…」
ふらりと引き寄せられるようにレスファートがユーノの方へ歩み寄る。見咎めて、草猫が回り込み、尾を震わせ、レスファートに話しかける。
『王よ、我らが王よ、どうして、あんな者の言うことに耳を貸される?』
「……」
ぼんやりと見下ろすレスファートにここぞとばかりに意志を伝える。
『あんなみっともない、傷だらけで粗忽で不作法な女のたわごとに』
「っ」
びくりとレスファートが固まった。
やりやがった。
アシャは体の力を抜いた。薄笑みを零す。
知らないとはいえ、一番踏んではいけないものを踏みにじった。
(そんなことをあいつが許すはずが)
アシャに張り合い、ユーノの唯一無二の騎士を名乗る誇り高い少年が、守るべき姫にそんな罵倒を向けさせたままにするはずがないものを。
レスファートが、おもむろに包帯の巻かれた手で草色の仮面をむしり取る。
『王よ!』
「なんていった?」
冷やかな声が響く。
草猫達の致命的な間違い、それはレスファートがなぜ自分達の王となろうとしたのか、理解していなかったことにある。
(もう、大丈夫だな)
レスファートが草猫に降りようと決心したのは、おそらくは自分がユーノにとって足手纏いにしかならない、それぐらいならばという切ない祈りだったのだろうから。
「ユーノのことを、ひどく言ったね」
ぱさりと草原に落とされた草色の仮面を見下ろしたレスファートの顔が、それこそ王者以外の何ものでもない傲慢な意志に引き締まる。
「ぼくの、ユーノを」
『しかし、王……王!』
「どうしてぼくをとめるの?」
ことばは一気に幼くなったが、内容は格段にしたたかになった。草猫をじろりと睨み返したアクアマリンの目は、次の瞬間、歓喜に満ちてユーノに向けられる。
「ユーノ!」
『、王……っ』
「レス!」
脚を傷つける草も何のその、草波を押し分けながらレスファートがあっという間に走り寄ってきて、ユーノの広げた腕の中に飛び込み、しがみつく。
「ユーノ! ごめん……ぼく…ユーノぉ!」
「レス!」
まるで引き離されていた恋人同士のようにお互いを強く抱き締めあう2人に、草猫達は茫然と竦んで見守っている。
「……いい性格してるよな、さすが王子様育ち」
ぼやきながら、アシャは2人を庇う位置に立ち塞がった。
レスファートを失うと気付いてざわめきながらじりじりと近寄ってくる草猫達、砦のあちこちから次々に姿を現し数が増えていく。
「おい、いい加減にして早く行け!」
「アシャっ」
「大人には大人の」
始末があるんだ。
ぼそりと唸ると、微妙な顔になったユーノがきょとんとしたレスファートを抱えて急いで馬に跨がる。
「でも、『運命(リマイン)』相手ならっ」
不安そうに叫ぶユーノを肩越しに見上げる。胸に抱えられたレスファートも、今回は突っ込みもなく大人しくしている。
「アシャ1人じゃまずいよ!」
アシャの正体を知ってしまえば、こんな状況で心配するはずがない。こんな無害な連中に何ができるとあっさり離れていくのだろうが。
「……それまでは甘えるか」
「え?」
「ユーノ」
見下ろす相手の黒い瞳の優しさに満足している自分が馬鹿馬鹿しくなるほど甘い、が。
「無事を祈ってくれ?」
「祈るより、私は!」
「レスファートをちゃんと連れ帰るのが先だろ」
「っ」
軽く目をつぶって見せるとぎくりとした相手に笑って付け加える。
「大丈夫だ、すぐに戻る」
「う、ん、わかった!」
泣きそうな顔になったユーノが一気に身を翻して駆け去っていくのを惚れ惚れと眺めた。
「…いいものだな」
心配されて案じられて、自分の無事を願ってくれる熱くて柔らかな心の味は極上。
「レスの気持ちがわかる」
俺もずいぶんお子さまだ、と苦笑したところで背後から陰鬱な声が響いた。
『ジャマ………ヲ……シテ…』
「どちらがだ」
片手を上げると、既に粉のような密度を持った金の靄がそれを取り巻きつつあった。
「草猫達の想いを利用したくせに」
掌から手首、腕、肩、胸から腹、やがて全身へと金色の光がまとわりつきながら広がっていくのに、草猫達が一斉に尾を震わせた。
『オ…ペだ…』
『オぺ』
先頭に立っていた草猫がじりじりと下がっていく。『運命(リマイン)』本体ならまだしも、操りの影だけを宿した骸ではアシャに対して抵抗にもならないとわかっている。がく、がくがく、と不安定に脚を崩れさせつつ後退するのに歩み寄っていくと、周囲の草猫達が逆に歓迎するように取り囲んでくる。
『「運命(リマイン)」は封じられない……視察官(オペ)に権限はない………「統合者」ではない』
「どうかな」
アシャは、『統合者』ということばに鬱陶しく眉を寄せた。
「俺は……特別製だからな」
『視察官(オペ)に、運命(リマイン)を裁く権利はない……』
「だが、『銀の王族』を守る義務はある」
黄金色の光が満ちた掌を差し上げていく。見上げた草猫達が次々と尾を震わせる。
『では、オペよ、ラズーンは我らを見捨てていないと』
『では何ゆえ、ここに「運命(リマイン)」が至る』
『何ゆえ、見捨てられ荒れ果てていく』
『支配下(ロダ)は選別されているのか、繁栄を得るものと、闇に呑まれ滅びるものと』
『オペよ、我らはただ』
生きたかっただけだ。
『それほど不相応な望みなのか』
アシャは静かに目を閉じる。
指先から掌から溢れ出す光がどれほどの力を持つものか、知っている者はもう皆この世界にはいない。
ぎゃはぁ、と掠れた悲鳴を上げ、『運命(リマイン)』の影となった草猫がぞぶぞぶ崩れる音がした。だが、大半の草猫は逃げもしない、怯えもしない、ただ草原を満たし、溢れ、広がっていく金色の海の中に浸っていく我が身に従容と声を潜めていく。
「視察官(オペ)の任として、この地を留める………アシャの名のもとに」
自分の声が重くうねる。祈りのように言えればいいと思いながら、それはいつも死の宣告にしか過ぎないのだが。
アシャ。
アシャだ。
あの、ラズーンの御方、アシャ……だ。
アシャが我らの地におられたのか。
そしてアシャの手で我らは封じられるのか。
ならば。
ざわめく草猫達が喜ぶ声にアシャは目を開けて顔を歪める。
今や草原は黄金の空間と化し波打ち煌めいている。沈む草猫達の姿が溶けていき、海と一つとなり、やがて緩やかに波は高さを減らし、地面に水が吸われていくようにアシャの掌の内側へ消えていく。
微かに響く、吐息のような優しい囁き。
『ラズーンよ……』
永遠なれ。
りぃん、と遠く小さな鈴が転がるように。
「………そうであれば、よかったのに、な」
掌の中で零れた掠れた声に囁き返し、アシャはそれさえも封じるように強くきつく手を握り締める。
「永遠であれば……よかったんだ」
呟いて、俯き、歯を食いしばる。
「みんな、そう望んでいたんだ」
自分の声が幼いのに気付いている。
「でも」
それは、間違った道だ。
吐き捨てたことばの本当の意味を知るのは、ただ『太皇(スーグ)』のみ。
ラズーンを統べ、世界を制御する、唯一の王のみ。
もう、ネークで草猫が噂になることはないだろう。
静まり返り、生き物の気配1つしなくなった草の中で、アシャは俯いたまま立ち竦んだ。
「ユーノ! レスファート!」
蹄の音を聞き付けて、イルファが火の側から立ち上がった。
軽く息を切らせながら、ユーノは馬から降りてレスファートを抱え降ろす。
「え…レス?」
ぎょっとした顔でイルファが焚き火の側の少年を振り返ると、まさに陽炎のように揺らめきながら消えていくところ、やがて薄緑色のしなやかな体躯を持った獣に変わる。
「な、何だ?」
イルファが身を引きながら声を上げた。
「何だよ、こいつは!」
「草猫だよ。レスに化けていたんだ」
「眠っているのか? いや……凍りついているようだぞ」
ユーノの声におそるおそる近寄ってみる。
「ぼく、わかるよ」
ユーノの腕から離れたレスファートが草猫に近寄り、いとしむようにそっと触れた。優しい手付きでぴくりとも動かない体を頭から背中へ向けて撫でて摩る。
「長い……長いゆめを見てたの。草猫たちの王国がさかえて、やがてほろびたの。金色の波がよせてきて、みんなぜんぶ……流していってしまったの」
レスファートの瞳に涙の粒が膨れ上がる。
「それでもこの世界にいたくて、へっていくなかまを、もう、うしないたくなくて」
少年の姿を模していた草猫が、レスファートの掌の下からみるみる輪郭をぼやけさせて、草の中へ溶け落ちていく。行き場をなくしたレスファートの指先が空に浮いて、ついには何も触れなくなる。
「かなしくて…それで…ぼくをよんだ…」
レスファートは指を止める。ユーノを振り仰いだ瞳から、きらきらと焚き火の光を跳ねて涙が零れ落ちた。
「でもぼく………王様にはなれなかった……だって…ユーノが……すきで」
頬を伝う涙を堪えようとするように、小さな唇が噛み締められる。
「レス…」
「草猫たちより、ユーノをえらんだ……ぼく……」
首を傾げる。
「悪いこと…したんでしょ…?」
「そ、そんなことはない」
イルファがおろおろした声で否定する。
「そんな身勝手な願いなど、叶える必要は」
「でも……ぼくがこたえなければ……」
草猫たち、ちゃんとあきらめ、ついたよね?
「レス」
ユーノはそっと腕を広げて背中から少年を抱きかかえる。
「レスはまだ小さいんだ」
深く頭を下げて震える髪に唇を当て、慰める。
「誰かの運命を背負うことは、大人にだって難しいよ」
「でも…」
レスファートはしゃくりあげながら、ユーノの腕を抱えて背中を強く押し付けてきた。
「ぼく」
できると思ったんだ。
できると思ったのに、できなかった。
「………ぼく……」
なんで、こんなに小さいんだろう。
「おおきく、なりたい」
だれかのうんめいをせおえるぐらいに。
「レス」
胸が詰まってユーノはレスファートを抱く腕に力を込める。
「十分だよ」
囁いたことばが自分の胸の奥に響く。
「十分頑張ってるから」
きっとユーノだってそう言って欲しかった、自分の無力に竦むたび。
「十分にボクを助けてくれてる」
「……ユーノを?」
「うん」
レスファートが居てくれて、ボクはどれだけ諦めないでいられるだろう、とユーノは続けた。
「もうだめだと思っても、レスが居ると思うと、まだ大丈夫だって思えるよ?」
「だいじょうぶって?」
「そうだよ」
だからレスはボクの最後の砦みたいなものだよ。
ユーノは静かにレスファートの体を揺すった。宥めるように慰めるように。
「最後の砦を失ったら、ボクは大怪我しちゃうんだけど?」
「……いや」
ぞっとしたようにレスファートが体を震わせる。
「そんなのいやだ」
「ボクもいやだ」
だから、レス、ボクをちゃんと支えていてね?
「…うん……」
ほっとしたように頷いて、レスファートがぎゅっとユーノの腕を抱き直したとたん、イルファがひょいと顔を上げた。
「アシャ!」
「……終わったぞ」
はっとして振り返ったユーノの目に、闇の中から唐突にアシャが姿を現す。
「無事だったのか!」
「当たり前だ」
いそいそと近付くイルファに苦笑する顔は心なしか青い。
「もう、草猫達が悪さをすることはない」
「んなことはどうでもいい!」
イルファががばりと両腕を広げ、今にも抱き締めてきそうに近付くのに、アシャがぎくりと立ち止まる。
「俺はお前に何かあったかと心配で心配で!」
「嘘つけ」
「嘘などついてないぞ、今ほら、気持ちを行動で証明」
「しなくていい」
引きつった顔でイルファの腕を押し退けるようにユーノに近付いてきたアシャがレスファートの涙に気付き、瞳を和らげる。
「レス? 大丈夫か?」
「草猫……やっつけちゃったの?」
「……いや」
一瞬暗い影がアシャの顔を掠めた。
「当分大人しくしていてほしいと説得してきた」
「なるほど、旅人というものは動物とも話せるようになるのか」
「…ならない」
わかったように頷くイルファにアシャが溜め息まじりに応じる。
「ああ、でも」
ユーノはその場の雰囲気を巧みに逸らせようとするイルファの配慮を感じた。
「アシャならできそうだよね」
「だろ?」
「俺は何者だ」
突っ込み返して、なのに一瞬それはなぜかアシャにとって痛いところを突いたらしい。ぴくりと顔を引きつらせて、ああ、腹が減った、何か残ってるか、と火の側に腰を降ろした。
「あるぞ、ほら、ペク焼きの肉」
「……食わん」
「じゃあぼくがたべる」
レスファートがユーノの腕から離れて手を伸ばした。
「じゃあ、俺ももうちょっと一緒に食うかあ」
心配したら腹が減ったからなあ。
笑うイルファに、イルファ、はたらいていないのに、とレスファートが突っ込み、まあまあと2人で火の側で食事を始める。
それをどこか虚ろな顔で眺めていたアシャはしばらく黙って水を呑んでいたが、やがてイルファとレスがたらふく食べて、お互いくっつきあって眠りについてしまうと、深く重い溜め息をついた。
「……アシャ?」
呼び掛けると、ん、と顔を上げたが、いつもは煌めくような紫に輝く瞳が、今は炎の光を吸い込む闇のように暗くて深い色に沈んでいる。
「何があったの」
「……いや」
ひさびさに集団戦だったから疲れたんだろう。
つぶやく声が掠れて気怠そうだ。
「火の番、ボクがしてるから、ちょっと眠った方がいいよ」
「……そうだな」
そうさせてもらおうか。
のそりと体を倒しかけたアシャがふいに動きを止めてユーノを見る。
「何?」
「……もし、俺が」
「え…?」
「…………何でもない」
一瞬、幼い表情がアシャの顔を覆ってどきりとする。けれどそれは幻のように消え去ってしまい、こちらをじっと見つめるアシャが何を思い付いたのか、くすりと悪戯っぽい笑みを零した。
「膝を貸してくれないか」
「は?」
「膝」
「ひざ……って、ひざ、まくらしろってこと?」
「そうだ」
目一杯働いてきたからな、それぐらいは報いてくれてもいいだろう。
「う」
「それとも何か」
このまま俺が疲労困憊した上、冷たい地面に独りで眠って、なお疲弊して体調を崩して、そういうところにカザドや『運命(リマイン)』や太古生物の襲撃があって。
「わかった」
つまり勇者を労れ、ということだな?
ユーノが確かめると、にやりと笑ってそうだ、と応じる。
「結構性格悪いよね?」
「まあいろいろあったからな」
拗ねたくもなる。
ぼそりと呟いたアシャが、脚を揃える間もなく頭を載せてきて、慌てて脚の位置を定めた。
(うわ……柔らかい)
膝に乱れる髪の感触、広がってくる重みと温かみ、このまままっすぐ見上げられたら、とても落ち着いて座ってはいられないだろう。そう思ったのが届いたのか、目を閉じたアシャはそれほど待つまでもなく寝息を立て始めて呆気に取られる。
「そんなに気持ちいいか?」
レアナの膝枕は経験している。いい匂いがして、ふんわりしてて温かで、確かにすぐに眠くなる。
けれどユーノの脚は固いし張り詰めてるしついでにでこぼこしてるしで、眠り心地がいいとはとても思えないのだけれど。考えつつアシャの寝顔を見下ろしていて切なくなる。
誰の夢を見るんだろう?
旅の夢? 今まであった美しい人の夢? それとも、大切で遠いレアナの夢?
「……匂い、か」
自分の腕を差し上げてくん、と嗅いでみたが、汗と埃と青臭い草や薪や焼いた肉の匂いぐらいしかしていない。もっと何かいい匂いがしていたら、アシャの夢の中に欠片でも入ることができただろうか、そう思った矢先、
「ん…」
「っ、わ」
微かに唸ったアシャがいきなり向きを変え、腰を抱えるように腕を回してきて、あやうく殴りつけるところだったのを必死に堪えた。
「こ…のぉ…」
満足そうに薄く唇を開いた間抜け顔に怒る気力が失せる。
「……誰だと……思ってるんだ?」
返ってくるのは寝息だけ。
「………私じゃ……ないよな…?」
その腕に抱いているつもりでいる相手の幻に、今だけ擦り変わっているのなら。
「……いい、か…」
微笑んで、それでも視界がぼやりと滲んで慌てて空を見上げる。
「…あ…」
満天の星空。
静まり返った草原の上、深い紺のビロードの上に細かな銀砂、大粒の宝石がばらまかれて光っている。じっと見上げていると、膝を包む温かな感触と優しい吐息に、まるで自分がただ独りの愛しい人と寝床で夜空を見ているようにも思える。
「……なんだよ、子供みたいに」
膝枕で寝たがって。
「何だよ、一体誰の身代わりに」
本当は。
本当は。
(私だからと)
もとめて、ほしかった。
(でもそれは)
「無理、だよな」
へへ、と小さく笑って落ちてきた熱いものを飲み下す。
それからそっとアシャの頭を撫でかけて。
「、っ」
ぎゅっと手を握りしめ、唇を強く引き結んで、ユーノは身動きせずに夜空を見上げ続けた。
「ちっ」
(何を甘えている)
自分の温さに気付いて舌打ちしたが、
「ユーノ!」
「ああ!」
鋭い声が前方を見るよう促して視線を前に向ける。
2人の目の前に、青白い篝火を数カ所灯らせた石造りの砦が見え始めていた。平原からやや奥まった岩と岩が互いの肩を寄せあうような窪地、焦茶色に湿った岩盤を基底部として黒い岩を積み上げてある。
だが、小高い物見台は既に崩れ、外壁は形もない土塊と化している。薄暗い口をあちこち開けた砦は、かつての熱気溢れる人間達の代わりに、不思議な気配で満たされている。
(!)
突如殺気を感じて手綱を引き絞ったユーノは、棒立ちになったヒストにかろうじてしがみついた。ほぼ同時に地響きがして、少し先の地面に青白い炎が降り落ちる。
それは燃える岩の塊だった。
ぼふぼふっと煙と火を吐きながら岩は草の間で光り輝いている。きな臭いにおいが広がり、ヒストが不愉快そうに嘶く。
すぐに続いてもう1つ、空気を切る重い気配が降ってきた。真側に落ちて白煙を上げ、ユーノの側に駆け込んできたアシャも馬を操り、落ちてきた岩から後退せざるを得ない。
続いてもう1つ、今度はもっと間近に降ってきた。直接こちらは狙っていないようだが怯えてて飛び出してしまえば、燃える岩の下敷きになるのは必至、荒い鼻息になっていきりたつヒストを宥めて静まらせ、距離をとって背後に引きながら、ユーノはじっと砦を注視した。
当たれば確実に致命傷を与えるだろう攻撃を、相手はユーノ達に向けてこない。
(近付くな、か)
警告なのだ。
砦とこちらの間に、いつの間にか幾匹かの獣の姿が浮かび上がっていた。
見ている間に1匹2匹と、青白い篝火に影を波打たせながら、数が増えていく。
子どもなら軽々と背中に乗せて運べそうな薄緑色の体躯の四つ足、猫のようにしなやかな動きで砦のあちこちから忍び出てきて、こちらを輝く緑の瞳で見つめてくる。体の表面は指の幅ぐらいの剣型になった平らな皮のようなものが重なりあい、くねらせて攻撃的に上げた尻尾まで滑らかに覆っている。
やがてその中から、一際明るく輝く瞳の獣が1匹、ゆっくりと尾を中空に翻らせた。緊張を走らせた尾が一瞬ぴんと伸びたかと思うと、微かに震え出し、音とも振動ともつかぬ響きが空間を伝わってきた。
『ワレ……ラハ……オウヲヒ……ツヨ……ウトシ……テイル』
強くなったり弱くなったりするうねりで、ことばがよく聞き取れない。
「アシャ」
「草猫だ」
相手を見つめながら問いかけたユーノに、アシャが低く応じた。頷き、ユーノは指示する。
「……馬を降りよう」
「なぜだ」
「確信はない、けど」
答えながらユーノは草猫達を刺激しないようにゆっくりとヒストから滑り降りる。
「レスファートが攫われる夢で、草に触れていると誰かの声が聞こえた」
「……確かに草猫達は草原を通じて意志を伝えることができるとは聞く」
溜め息まじりにアシャが呟き、するりと同じように馬から降りるのがわかった。
「だが、逆に捕われる可能性もあるぞ?」
「でも、このままじゃ、レスを返してくれそうにない」
言い切ると、そうだな、とアシャが苦笑しながら近寄ってきた。体温は空気を介して伝わるのか、気持ちが強くなるのを感じる。
(側にアシャが居る)
一瞬目を伏せ、ヒストを待機させて、ゆっくりと草猫達の方へ歩み出した。すぐにアシャが背中を守るように寄り添ってくる。草猫達の尾が急に激しくうねり出す。緑の瞳は明滅する星のよう、警戒心がきりきりと大気を絞り上げていく。
ごうっ………どすっ。
「!」
摩擦音を響かせ、青白い光球がユーノの耳元を掠めて背後に落ちた。アシャが巻き込まれたかとひやりとするが、軽く避けた気配、続いて幾つも流星群のように注ぎ始めた光球に身動き取れなくなって、思わずアシャを振り返る。
草原の緑と夜空の濃紺、ちらつく蒼炎になお暗く深い黒の砦、世界が寒色のみで構成されている中、周囲を裂く光球の間を縫うように歩を進めたアシャが真横に並んでくる。整った横顔には煌めく紫の瞳と薄紅に染まった唇、僅かに紅潮した頬には乱れる黄金色の髪、艶やかさに命を感じ取って、ユーノは息をつく。
(1人じゃない)
そうだ、夢の中のように、たった1人、屠られる瞬間を従容と待たなくていい。
(ならば)
何を竦むことがある、何を恐れることがある。
倒れても今ならアシャの側だ。
ユーノは光球の途切れた隙に足を踏み出した。ぎくりとしたようにアシャが振り向くのに薄く笑って、なおも前へと進む。
「ユーノ…っ」
焦れた声でアシャが呻いた。掠れた響きが切なげで妖しい。
「…待て」
引き止める声をもっと聞きたい。
闇の魔性に煽られたかと自嘲しながら、ユーノはくすりと笑ってなお1歩足を伸ばす。
ごうっ……ひゅうっ……どすっ、どすどすっ。
見る見るあたりは昼間のように燃え上がる光球で明るく輝く。がしかし、次の瞬間、周囲の草がざわめいて、まるで2人を絡め取るかのように両足に倒れ押し寄せてきた。足を抱え込みまとわりつき、密度を増しながら固定しようとするようだ。
「んっ」
さすがにこのまま狙われるとまともに光球の餌食になる。
ユーノが緊張した矢先、さきほどの草猫が再びこちらを見据えながら、立てた尾を激しく震わせた。
『我らは王を必要としている』
「アシャ」
「ああ」
草猫の尾の震えが強まるに従って、共振するように腰から下を包み込んだ剣型の草が、鋭い傷みとともに波立ち突き立ちながら蠢く。同時に朗々とした声が脳の奥底から響き渡ってきた。
『我らはネークの草猫として、我らの王を欲している』
光球が降り注ぐのが止まった。
静まり返った草原に、燃え盛っていた炎も、1つまた1つと草原の露に濡らされたように消えていく。
「王はラズーンではないのか」
アシャの問いに、草猫は深い哀しみの色を瞳にたたえた。鮮やかに光を放っていた眼が曇るように色を薄めて、淡い黄緑色に滲んでいく。
『ラズーンは我らを見放した』
色を薄めて逆になお大きく見開いた瞳で、草猫は訴えた。
『ラズーンの視察官(オペ)の存在も感じぬ。ラズーンは我らを治めるのを放棄したのだ。よって、我らは新たなる王を必要とする』
「誰がそんなことを」
アシャが尋ねた。
「ラズーンは統治を放棄などしていない」
「…」
ユーノはちらりとアシャを見遣る。
ときどきそうだ、アシャはまるでラズーンを知っているかのように振る舞う。
(それもこの世界を治める存在とごく身近に居たように)
確かにアシャは旅人だ。けれど、ラズーンを旅してセレドまで来たような旅人の話は聞いたことがない。世界はそれほど狭いものではないはず、ましてやアシャのような若さでラズーンのことを語れるなど。
(希代の詐欺師か、誇大妄想の愚かな男か)
だが、アシャはそのどちらでもない。
(だとしたら)
ありえない、けれど全く別の1つの可能性は。
ラズーンの神、とは如何なる存在か。
それはひょっとすると、人離れした美しさを持ち、数々の才能と経験を貯え、しかも不老不死、だったりする、のか?
(そうであってほしくない)
万が一アシャがそんな存在だとしたら、レアナの想いなど意味がなくなってしまう。セレドを託すことなど、不敬でしかない。
「違うよ」
「!」
ふいに聞き覚えのある幼い声が、聞いたことのない不遜な調子で響いてユーノは我に返った。
「レス!」
ユーノの低くて鋭い声が草原を渡る。
群れをなしてアシャ達を見つめる草猫達の後ろから、小柄な姿が浮かび上がって前に立つ草猫の隣に並んだ。
まるで夢を見ているように、熱に浮かされた表情をたたえたアクアマリンの瞳がぎらついている。いつも聡明な気配で引き締まっていた唇が半端に弛んで、年齢に不似合いな蠱惑的な微笑が浮かんでいる。
「彼らは孤独なんだ」
幼いレスファートには決して出せない、深々と響く自信に満ちた声音。
「彼らは迷っているの。ぼくの心に話しかけたの。寂しいって。主人がいなくなったって。ぼくなら、彼らの心を読める。彼らの気持ちがわかる。だから彼らの王にふさわしい」
平板ではっきりとした、なのに舌足らずなことば遣い、自分の意志ではない何かに操られているのに気付かない熱に輝く瞳に、ユーノがレス、と呟いて身を竦めた。
「心を読めるのを逆に使われたんだ」
ユーノが怯えた顔で振り向くのをアシャはまっすぐ見返す。
「ラズーン支配が届かなくとも、統治を放棄したわけじゃない。草猫達にはわかっていない」
ことばに含めた謎を読み取ったのだろう、何か問いたげに開いたユーノの唇、だが続くはずの問いは無理矢理逸らされ置き換えられる。
「このままだと……レスはどうなる?」
単純な問いかけの形をとったそれを、アシャは苦笑で迎えた。
人間に知られていないはずの草猫の生態をわかっていなければ応えられぬ問い、それに答えを持つことはアシャが特殊な立場にあること、単なる旅人ではないことを証明すると知っている。
(頭がいい)
苦笑いを広げながら、アシャは答える。
そうだ、もちろん、アシャはその知識を備えている。
「………草猫は草を常食にしている。しかし、レスが草以外の食事を必要としているのはわかっていないに違いない」
「じゃあ、レスは」
それでもユーノはアシャに追及を向けなかった。気遣わしげに見やる視線の先には、草色の仮面をつけたままプラチナブロンドを風になびかせ不安定に揺れているレスファートの体、寄り添うような若い草猫を睨みつけたまま、問いかけて、口を噤む。
「あの興奮状態が続いている限り、体力の衰えはわからないだろう。倒れるまで草猫達の熱に魅せられたままネークの草原を歩み続けることになる」
答えに、唇を引き締めたユーノが絡みつく草を引きちぎるように無理矢理1歩、草猫達の方に歩み出す。はっとしてユーノの側へ歩み寄ろうとする、同時にレスファートが片手を上げて無造作に振り降ろした。
「ユーノ!」
「、つっ!」
さきほどからの光球が、またひとしきりユーノの周囲に降り注ぐ。
とっさに伸ばした指先を掠め、ユーノの髪の毛を焼きそうな近さに落ちたそれに、ざわりと体の内側が身震いした。ぎょっとして目を見開き、動きを止める。
コロシテヤル。
(馬鹿、な)
身内に走ったのはいつか味わった凶暴な衝動、ユーノを傷つけようとした相手に容赦なく牙を剥きそうな野獣の気配。歯を食いしばり踏み止まる。
(なぜ、これぐらいで)
今にも目覚めそうな状態になってしまうのか。
「ユ、ーノ!」
守りたいのに近付けない、その苛立ちに叫ぶと、
「大、丈夫…っ」
火球に焼かれる恐怖よりもレスファートが心配なのだろう、体を前にのめらせながらユーノが草猫達を睨んでいる。
普段なら考えもしない、むしろそんなことを考えた自分を責め苛むだろうに、ユーノを光球で狙わせたということに何も感じていないらしいレスファートが、夢現のようににっこり笑う。側の草猫が、ほくそ笑むように目を細める。
「!」
そうか。アシャは気付く。
「『運命(リマイン)』だ」
「『運命(リマイン)』?」
怪訝そうにアシャを振り返ったユーノに、舌打ちしながら唸る。
「ラズーン支配下(ロダ)から外れているとわかった時に、考えておくべきだった」
草猫達の不安と滅亡への恐怖に付け込んで、『運命(リマイン)』があの先頭の草猫を乗っ取り、周囲を煽ったのだ。
ただでさえ、ユーノの安全が脅かされていることで落ち着かなくなっているところに、その『運命(リマイン)』の攻撃が『銀の王族』に向かった、それを感じてアシャの視察官(オペ)の感覚が臨戦体勢になっているのだろう。
(だが、これは)
まずい。
この二重の不安、ユーノが危険に晒されているだけでなく、相手がユーノの守りたい相手であるという状況は、否応なくアシャにゼランがもたらした傷みを思い起こさせる。また同じように手の出せない部分でこの腕をすり抜けて死に至るような怪我を受け入れてしまうのではないかという恐怖を。
(だから、俺は)
今にも限界を破りそうな怒りに冒されているのか。
「ふ、ぅ」
落ち着け、まだ力を放つな。
言い聞かせながら堪えるアシャの目の前で、降り注いだ光球がおさまる。こちらを傷つけようというのではなく、あくまで手出しをさせないための脅しだ。
「ユーノ」
打って変わって柔らかな優しい声で、瞳を潤ませながらレスファートが呼び掛けてきた。
「もういいよ……ぼくをおいてって」
「レス!」
「ぼくは……ぼくはここで草猫達といっしょにいる……だって……ぼくは」
先頭の草猫の背中にすがるように小さな手を乗せて、レスファートは儚く笑う。
「ぼくは……ユーノのやくにたたない…」
「……っ」
その手の白い包帯、それを見たとたん、ユーノがぐっと唇を噛み締めた。ためらいを振り切るように、いきなりユーノが差し伸べた両手にレスファートがびくりとする。
「レス!」
それは求愛、大切な相手を求める激しい動作、レスファートが体を硬直させて笑みを強ばらせる。
「レス!」
「…こないで、ぼくは草猫達の王になる、んだ」
「でも、レス!」
「こな、い」
「私が、嫌い?」
「!」
突然の問いかけにレスファートが目を見開く。
「私なんか、嫌い?」
「あ…ぅ」
ゆらゆらと首を横に振ったレスファートが1歩引き下がる。ユーノがもっと強く両手を差し出して1歩詰め寄る。光球は飛んでこない。レスファートの隣に居た草猫が叱咤するようにレスファートを見上げる。
「私が嫌いだから、旅を続けたくないから、側に居たくないから、離れるの?」
「ち、がう…」
レスファートはまた1歩後ずさり、ユーノはまた1歩前へ進む。苛立ったように体を捩る草猫をアシャは凝視する、視線で心臓を貫ければいいと願いつつ。
「怪我するから? 怖いことばっかりだから? 楽しいことなんて1つもないから?」
「ちが…う……っ」
ユーノはわかっていて追い詰める。何が何でもレスファートを取り返す、その強い意志が空気を満たし、闇を駆けて、少年の眠る心の奥底に届いていくのがわかる。
「レス…?」
絶妙の間合いでユーノは立ち止まった。両手を広げたまま、そっと静かに呼び掛ける。
「戻ってきて」
「ゆー…の…」
ふらりと引き寄せられるようにレスファートがユーノの方へ歩み寄る。見咎めて、草猫が回り込み、尾を震わせ、レスファートに話しかける。
『王よ、我らが王よ、どうして、あんな者の言うことに耳を貸される?』
「……」
ぼんやりと見下ろすレスファートにここぞとばかりに意志を伝える。
『あんなみっともない、傷だらけで粗忽で不作法な女のたわごとに』
「っ」
びくりとレスファートが固まった。
やりやがった。
アシャは体の力を抜いた。薄笑みを零す。
知らないとはいえ、一番踏んではいけないものを踏みにじった。
(そんなことをあいつが許すはずが)
アシャに張り合い、ユーノの唯一無二の騎士を名乗る誇り高い少年が、守るべき姫にそんな罵倒を向けさせたままにするはずがないものを。
レスファートが、おもむろに包帯の巻かれた手で草色の仮面をむしり取る。
『王よ!』
「なんていった?」
冷やかな声が響く。
草猫達の致命的な間違い、それはレスファートがなぜ自分達の王となろうとしたのか、理解していなかったことにある。
(もう、大丈夫だな)
レスファートが草猫に降りようと決心したのは、おそらくは自分がユーノにとって足手纏いにしかならない、それぐらいならばという切ない祈りだったのだろうから。
「ユーノのことを、ひどく言ったね」
ぱさりと草原に落とされた草色の仮面を見下ろしたレスファートの顔が、それこそ王者以外の何ものでもない傲慢な意志に引き締まる。
「ぼくの、ユーノを」
『しかし、王……王!』
「どうしてぼくをとめるの?」
ことばは一気に幼くなったが、内容は格段にしたたかになった。草猫をじろりと睨み返したアクアマリンの目は、次の瞬間、歓喜に満ちてユーノに向けられる。
「ユーノ!」
『、王……っ』
「レス!」
脚を傷つける草も何のその、草波を押し分けながらレスファートがあっという間に走り寄ってきて、ユーノの広げた腕の中に飛び込み、しがみつく。
「ユーノ! ごめん……ぼく…ユーノぉ!」
「レス!」
まるで引き離されていた恋人同士のようにお互いを強く抱き締めあう2人に、草猫達は茫然と竦んで見守っている。
「……いい性格してるよな、さすが王子様育ち」
ぼやきながら、アシャは2人を庇う位置に立ち塞がった。
レスファートを失うと気付いてざわめきながらじりじりと近寄ってくる草猫達、砦のあちこちから次々に姿を現し数が増えていく。
「おい、いい加減にして早く行け!」
「アシャっ」
「大人には大人の」
始末があるんだ。
ぼそりと唸ると、微妙な顔になったユーノがきょとんとしたレスファートを抱えて急いで馬に跨がる。
「でも、『運命(リマイン)』相手ならっ」
不安そうに叫ぶユーノを肩越しに見上げる。胸に抱えられたレスファートも、今回は突っ込みもなく大人しくしている。
「アシャ1人じゃまずいよ!」
アシャの正体を知ってしまえば、こんな状況で心配するはずがない。こんな無害な連中に何ができるとあっさり離れていくのだろうが。
「……それまでは甘えるか」
「え?」
「ユーノ」
見下ろす相手の黒い瞳の優しさに満足している自分が馬鹿馬鹿しくなるほど甘い、が。
「無事を祈ってくれ?」
「祈るより、私は!」
「レスファートをちゃんと連れ帰るのが先だろ」
「っ」
軽く目をつぶって見せるとぎくりとした相手に笑って付け加える。
「大丈夫だ、すぐに戻る」
「う、ん、わかった!」
泣きそうな顔になったユーノが一気に身を翻して駆け去っていくのを惚れ惚れと眺めた。
「…いいものだな」
心配されて案じられて、自分の無事を願ってくれる熱くて柔らかな心の味は極上。
「レスの気持ちがわかる」
俺もずいぶんお子さまだ、と苦笑したところで背後から陰鬱な声が響いた。
『ジャマ………ヲ……シテ…』
「どちらがだ」
片手を上げると、既に粉のような密度を持った金の靄がそれを取り巻きつつあった。
「草猫達の想いを利用したくせに」
掌から手首、腕、肩、胸から腹、やがて全身へと金色の光がまとわりつきながら広がっていくのに、草猫達が一斉に尾を震わせた。
『オ…ペだ…』
『オぺ』
先頭に立っていた草猫がじりじりと下がっていく。『運命(リマイン)』本体ならまだしも、操りの影だけを宿した骸ではアシャに対して抵抗にもならないとわかっている。がく、がくがく、と不安定に脚を崩れさせつつ後退するのに歩み寄っていくと、周囲の草猫達が逆に歓迎するように取り囲んでくる。
『「運命(リマイン)」は封じられない……視察官(オペ)に権限はない………「統合者」ではない』
「どうかな」
アシャは、『統合者』ということばに鬱陶しく眉を寄せた。
「俺は……特別製だからな」
『視察官(オペ)に、運命(リマイン)を裁く権利はない……』
「だが、『銀の王族』を守る義務はある」
黄金色の光が満ちた掌を差し上げていく。見上げた草猫達が次々と尾を震わせる。
『では、オペよ、ラズーンは我らを見捨てていないと』
『では何ゆえ、ここに「運命(リマイン)」が至る』
『何ゆえ、見捨てられ荒れ果てていく』
『支配下(ロダ)は選別されているのか、繁栄を得るものと、闇に呑まれ滅びるものと』
『オペよ、我らはただ』
生きたかっただけだ。
『それほど不相応な望みなのか』
アシャは静かに目を閉じる。
指先から掌から溢れ出す光がどれほどの力を持つものか、知っている者はもう皆この世界にはいない。
ぎゃはぁ、と掠れた悲鳴を上げ、『運命(リマイン)』の影となった草猫がぞぶぞぶ崩れる音がした。だが、大半の草猫は逃げもしない、怯えもしない、ただ草原を満たし、溢れ、広がっていく金色の海の中に浸っていく我が身に従容と声を潜めていく。
「視察官(オペ)の任として、この地を留める………アシャの名のもとに」
自分の声が重くうねる。祈りのように言えればいいと思いながら、それはいつも死の宣告にしか過ぎないのだが。
アシャ。
アシャだ。
あの、ラズーンの御方、アシャ……だ。
アシャが我らの地におられたのか。
そしてアシャの手で我らは封じられるのか。
ならば。
ざわめく草猫達が喜ぶ声にアシャは目を開けて顔を歪める。
今や草原は黄金の空間と化し波打ち煌めいている。沈む草猫達の姿が溶けていき、海と一つとなり、やがて緩やかに波は高さを減らし、地面に水が吸われていくようにアシャの掌の内側へ消えていく。
微かに響く、吐息のような優しい囁き。
『ラズーンよ……』
永遠なれ。
りぃん、と遠く小さな鈴が転がるように。
「………そうであれば、よかったのに、な」
掌の中で零れた掠れた声に囁き返し、アシャはそれさえも封じるように強くきつく手を握り締める。
「永遠であれば……よかったんだ」
呟いて、俯き、歯を食いしばる。
「みんな、そう望んでいたんだ」
自分の声が幼いのに気付いている。
「でも」
それは、間違った道だ。
吐き捨てたことばの本当の意味を知るのは、ただ『太皇(スーグ)』のみ。
ラズーンを統べ、世界を制御する、唯一の王のみ。
もう、ネークで草猫が噂になることはないだろう。
静まり返り、生き物の気配1つしなくなった草の中で、アシャは俯いたまま立ち竦んだ。
「ユーノ! レスファート!」
蹄の音を聞き付けて、イルファが火の側から立ち上がった。
軽く息を切らせながら、ユーノは馬から降りてレスファートを抱え降ろす。
「え…レス?」
ぎょっとした顔でイルファが焚き火の側の少年を振り返ると、まさに陽炎のように揺らめきながら消えていくところ、やがて薄緑色のしなやかな体躯を持った獣に変わる。
「な、何だ?」
イルファが身を引きながら声を上げた。
「何だよ、こいつは!」
「草猫だよ。レスに化けていたんだ」
「眠っているのか? いや……凍りついているようだぞ」
ユーノの声におそるおそる近寄ってみる。
「ぼく、わかるよ」
ユーノの腕から離れたレスファートが草猫に近寄り、いとしむようにそっと触れた。優しい手付きでぴくりとも動かない体を頭から背中へ向けて撫でて摩る。
「長い……長いゆめを見てたの。草猫たちの王国がさかえて、やがてほろびたの。金色の波がよせてきて、みんなぜんぶ……流していってしまったの」
レスファートの瞳に涙の粒が膨れ上がる。
「それでもこの世界にいたくて、へっていくなかまを、もう、うしないたくなくて」
少年の姿を模していた草猫が、レスファートの掌の下からみるみる輪郭をぼやけさせて、草の中へ溶け落ちていく。行き場をなくしたレスファートの指先が空に浮いて、ついには何も触れなくなる。
「かなしくて…それで…ぼくをよんだ…」
レスファートは指を止める。ユーノを振り仰いだ瞳から、きらきらと焚き火の光を跳ねて涙が零れ落ちた。
「でもぼく………王様にはなれなかった……だって…ユーノが……すきで」
頬を伝う涙を堪えようとするように、小さな唇が噛み締められる。
「レス…」
「草猫たちより、ユーノをえらんだ……ぼく……」
首を傾げる。
「悪いこと…したんでしょ…?」
「そ、そんなことはない」
イルファがおろおろした声で否定する。
「そんな身勝手な願いなど、叶える必要は」
「でも……ぼくがこたえなければ……」
草猫たち、ちゃんとあきらめ、ついたよね?
「レス」
ユーノはそっと腕を広げて背中から少年を抱きかかえる。
「レスはまだ小さいんだ」
深く頭を下げて震える髪に唇を当て、慰める。
「誰かの運命を背負うことは、大人にだって難しいよ」
「でも…」
レスファートはしゃくりあげながら、ユーノの腕を抱えて背中を強く押し付けてきた。
「ぼく」
できると思ったんだ。
できると思ったのに、できなかった。
「………ぼく……」
なんで、こんなに小さいんだろう。
「おおきく、なりたい」
だれかのうんめいをせおえるぐらいに。
「レス」
胸が詰まってユーノはレスファートを抱く腕に力を込める。
「十分だよ」
囁いたことばが自分の胸の奥に響く。
「十分頑張ってるから」
きっとユーノだってそう言って欲しかった、自分の無力に竦むたび。
「十分にボクを助けてくれてる」
「……ユーノを?」
「うん」
レスファートが居てくれて、ボクはどれだけ諦めないでいられるだろう、とユーノは続けた。
「もうだめだと思っても、レスが居ると思うと、まだ大丈夫だって思えるよ?」
「だいじょうぶって?」
「そうだよ」
だからレスはボクの最後の砦みたいなものだよ。
ユーノは静かにレスファートの体を揺すった。宥めるように慰めるように。
「最後の砦を失ったら、ボクは大怪我しちゃうんだけど?」
「……いや」
ぞっとしたようにレスファートが体を震わせる。
「そんなのいやだ」
「ボクもいやだ」
だから、レス、ボクをちゃんと支えていてね?
「…うん……」
ほっとしたように頷いて、レスファートがぎゅっとユーノの腕を抱き直したとたん、イルファがひょいと顔を上げた。
「アシャ!」
「……終わったぞ」
はっとして振り返ったユーノの目に、闇の中から唐突にアシャが姿を現す。
「無事だったのか!」
「当たり前だ」
いそいそと近付くイルファに苦笑する顔は心なしか青い。
「もう、草猫達が悪さをすることはない」
「んなことはどうでもいい!」
イルファががばりと両腕を広げ、今にも抱き締めてきそうに近付くのに、アシャがぎくりと立ち止まる。
「俺はお前に何かあったかと心配で心配で!」
「嘘つけ」
「嘘などついてないぞ、今ほら、気持ちを行動で証明」
「しなくていい」
引きつった顔でイルファの腕を押し退けるようにユーノに近付いてきたアシャがレスファートの涙に気付き、瞳を和らげる。
「レス? 大丈夫か?」
「草猫……やっつけちゃったの?」
「……いや」
一瞬暗い影がアシャの顔を掠めた。
「当分大人しくしていてほしいと説得してきた」
「なるほど、旅人というものは動物とも話せるようになるのか」
「…ならない」
わかったように頷くイルファにアシャが溜め息まじりに応じる。
「ああ、でも」
ユーノはその場の雰囲気を巧みに逸らせようとするイルファの配慮を感じた。
「アシャならできそうだよね」
「だろ?」
「俺は何者だ」
突っ込み返して、なのに一瞬それはなぜかアシャにとって痛いところを突いたらしい。ぴくりと顔を引きつらせて、ああ、腹が減った、何か残ってるか、と火の側に腰を降ろした。
「あるぞ、ほら、ペク焼きの肉」
「……食わん」
「じゃあぼくがたべる」
レスファートがユーノの腕から離れて手を伸ばした。
「じゃあ、俺ももうちょっと一緒に食うかあ」
心配したら腹が減ったからなあ。
笑うイルファに、イルファ、はたらいていないのに、とレスファートが突っ込み、まあまあと2人で火の側で食事を始める。
それをどこか虚ろな顔で眺めていたアシャはしばらく黙って水を呑んでいたが、やがてイルファとレスがたらふく食べて、お互いくっつきあって眠りについてしまうと、深く重い溜め息をついた。
「……アシャ?」
呼び掛けると、ん、と顔を上げたが、いつもは煌めくような紫に輝く瞳が、今は炎の光を吸い込む闇のように暗くて深い色に沈んでいる。
「何があったの」
「……いや」
ひさびさに集団戦だったから疲れたんだろう。
つぶやく声が掠れて気怠そうだ。
「火の番、ボクがしてるから、ちょっと眠った方がいいよ」
「……そうだな」
そうさせてもらおうか。
のそりと体を倒しかけたアシャがふいに動きを止めてユーノを見る。
「何?」
「……もし、俺が」
「え…?」
「…………何でもない」
一瞬、幼い表情がアシャの顔を覆ってどきりとする。けれどそれは幻のように消え去ってしまい、こちらをじっと見つめるアシャが何を思い付いたのか、くすりと悪戯っぽい笑みを零した。
「膝を貸してくれないか」
「は?」
「膝」
「ひざ……って、ひざ、まくらしろってこと?」
「そうだ」
目一杯働いてきたからな、それぐらいは報いてくれてもいいだろう。
「う」
「それとも何か」
このまま俺が疲労困憊した上、冷たい地面に独りで眠って、なお疲弊して体調を崩して、そういうところにカザドや『運命(リマイン)』や太古生物の襲撃があって。
「わかった」
つまり勇者を労れ、ということだな?
ユーノが確かめると、にやりと笑ってそうだ、と応じる。
「結構性格悪いよね?」
「まあいろいろあったからな」
拗ねたくもなる。
ぼそりと呟いたアシャが、脚を揃える間もなく頭を載せてきて、慌てて脚の位置を定めた。
(うわ……柔らかい)
膝に乱れる髪の感触、広がってくる重みと温かみ、このまままっすぐ見上げられたら、とても落ち着いて座ってはいられないだろう。そう思ったのが届いたのか、目を閉じたアシャはそれほど待つまでもなく寝息を立て始めて呆気に取られる。
「そんなに気持ちいいか?」
レアナの膝枕は経験している。いい匂いがして、ふんわりしてて温かで、確かにすぐに眠くなる。
けれどユーノの脚は固いし張り詰めてるしついでにでこぼこしてるしで、眠り心地がいいとはとても思えないのだけれど。考えつつアシャの寝顔を見下ろしていて切なくなる。
誰の夢を見るんだろう?
旅の夢? 今まであった美しい人の夢? それとも、大切で遠いレアナの夢?
「……匂い、か」
自分の腕を差し上げてくん、と嗅いでみたが、汗と埃と青臭い草や薪や焼いた肉の匂いぐらいしかしていない。もっと何かいい匂いがしていたら、アシャの夢の中に欠片でも入ることができただろうか、そう思った矢先、
「ん…」
「っ、わ」
微かに唸ったアシャがいきなり向きを変え、腰を抱えるように腕を回してきて、あやうく殴りつけるところだったのを必死に堪えた。
「こ…のぉ…」
満足そうに薄く唇を開いた間抜け顔に怒る気力が失せる。
「……誰だと……思ってるんだ?」
返ってくるのは寝息だけ。
「………私じゃ……ないよな…?」
その腕に抱いているつもりでいる相手の幻に、今だけ擦り変わっているのなら。
「……いい、か…」
微笑んで、それでも視界がぼやりと滲んで慌てて空を見上げる。
「…あ…」
満天の星空。
静まり返った草原の上、深い紺のビロードの上に細かな銀砂、大粒の宝石がばらまかれて光っている。じっと見上げていると、膝を包む温かな感触と優しい吐息に、まるで自分がただ独りの愛しい人と寝床で夜空を見ているようにも思える。
「……なんだよ、子供みたいに」
膝枕で寝たがって。
「何だよ、一体誰の身代わりに」
本当は。
本当は。
(私だからと)
もとめて、ほしかった。
(でもそれは)
「無理、だよな」
へへ、と小さく笑って落ちてきた熱いものを飲み下す。
それからそっとアシャの頭を撫でかけて。
「、っ」
ぎゅっと手を握りしめ、唇を強く引き結んで、ユーノは身動きせずに夜空を見上げ続けた。
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