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14.ダノマの赤い華(3)
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「はははは…」
「もう…笑いごとじゃないわよ、兄さん!」
アオクの妹ラセナは、膨れっ面で夕食の席を片付けながらぼやいた。
「とんだことだったな」
上品に微笑むアシャに親しげに笑いかける。多くの人々の例に漏れず、アオクもすぐにアシャを古くからの知己のように扱いつつあった。
「びっくりしたよ。美しい御婦人が入って来たかと思ったら、たちまち悲鳴だ」
卒なく応じて、アシャはラセナににっこり笑みを向ける。
「だって……誰もいないと思ってたんですもの」
そりゃ、兄さんが守ってるこの街は安全だと信じてるからだけど、と唇を尖らせ、まだ食卓についているイルファが皿から肉の最後の一切れを摘まみ上げるのを待つ。
「ふうー、食った食った。うまかったですよ、ラセナさん」
「ありがとうございます」
イルファの開けっ放しの賛辞に嬉しそうに笑み返し、これだけお皿が綺麗になったのは初めてかも、とくすくす笑った。
「ところで、ずいぶん長い旅をしているようだな」
アオクが食後の酒をのんびり含みながら尋ねてくる。
「うむ、実はラズーンまで行く」
どこから、ということばを巧みに逸らせてアシャは頷いた。セレドからここまで、既にかなりの距離がある。かかった日にちを考えれば驚くほど早く移動しているのは、ユーノ達の旅慣れもあるが、アシャの選ぶ道筋が並外れた正確さでラズーンへの道を辿っているからに他ならない。
それだけの道をなぜそれほど無駄なく選んで進んで来れたのか。
それを質問されるのを避けたのだ。
だが、返ってきたことばはアシャの警戒を軽く越えていた。
「おまえ達もか!」
「?」
「この国からもハイラカという少年がラズーンへ向かって旅立った。話によれば、ラズーンからの使者が来たとのことだ」
「そいつも王族なのか?」
イルファが興味を引かれたように尋ねる。
「いや、違う。だが、あちらこちらの国からラズーンへ向かっているようだな。ダヤン、オグトラからもラズーンへ発った者がいると聞く」
(やはり、そうか)
『銀の王族』は地位の高いものとは限らない。安全で幸福で安定した暮らしを保証できるとあれば、民の間にまぎれさせることもある。だが、民の間においては完全に保護できないのも確かで、言い換えれば、それはハイラカの重要度がそれほど大きなものではなかったと言える。
(なのに、そんなところまで『銀の王族』を集めるとは……かなり酷い状態なんだな)
自分の表情が険しくなるのを感じて、アシャは意識的に目を細め笑みを作って、渡された杯を唇に当てた。数々の女性や男性をも魅了した表情で相手を親しげに見遣り、初めて聞いたように無邪気に頷いて見せる。
「なるほど…」
「おまえ達もラズーンの使者に呼ばれたのか?」
「いや、気紛れな旅だ」
さらりと流す。
「世界の中心、ラズーンを見てみたいと、あの跳ねっ返りがごねてな」
「ついでに可愛い娘や旨い食い物にありつければいいと」
イルファが付け加え豪快に笑う。つられたようにアオクも、男の夢だよな、と笑いながら、
「そういえば、あの気の強い弟はどこへ行った」
「はい、どうぞ」
イルファの前に酒の杯を置いたラセナが一瞬動きを止めたのに気付く。うっすらと赤くなった頬、同じく染まった耳が、アオクのことば1つ1つを聞き取ろうとするように緊張している。
「ああ、レスの手当てだ」
「大丈夫なのか、あんな子供にまかせて」
「大丈夫だ、あいつはそういうことにも長けているし」
頷きながら、ラセナの耳がどんどん赤みを増していくのを眺めた。
「子供扱いしてるとやられるぞ」
「あんな子が?」
アオクは心底不思議そうに首を傾げる。
「線が細すぎて神経質すぎるように思えたぞ。あの馬だって、気の荒らそうなのをよく乗りこなしていると思ったぐらいだ」
「ところがだ!」
ぐいとイルファが身を起こし、膨れ上がった腹に、う、と妙な顔で唸る。
「お前は知らないだろうが、俺達の国の近くにカザドという性の悪い国があってな。兵士とは名ばかりのごろつきどもだが、そいつらをたった1人で20数人倒したことがあるのだ」
「ほう…?」
アオクが面白そうに瞬きした。
「あの細腕で? 腰も、抱え込めるほどに細いようだったが」
「…」
なぜそこで『腰を抱え込める』表現がでてくる、とアシャはねじ曲げかけた口で急いで酒を含む。唇に滲んだ温もりに、自分がなぜ苛立っているのか理解してうんざりした。
「とにかくあいつは強いんだ。今に俺のような立派な剣士になる!」
「へ、え」
イルファが誇らしげに胸を張り、弟バカは可愛いなと言いたげなアオクにアシャは苦笑した。
「すまない」
「いや…あんたが長兄なのだろうな?」
アオクはちらりと視線をよこす。
「苦労してそうだ」
「わかるか」
「わかる」
跳ねっ返りの身内は困ったものだ、と続けたアオクが、皿を運んでいくラセナの後ろ姿を見遣り、何となくほっとした。
(そうか、妹と重ねたのか)
「身内もそうだが、気の強い女は困る……が」
だが、すぐにアオクが柔らかな口調で続けた。
「時にひどく愛おしい」
「………」
それはどういう意味なのだ。
ユーノを弟と紹介しているのを一瞬忘れかけて尋ねそうになったアシャを、いきなり激しく戸を叩く音が遮る。
「失礼…こんな時間に珍しい」
アオクが険しく眉を寄せ、椅子から立ち上がって戸口へ向かった。
「誰だ」
低く重い誰何に若い声が叫ぶ。
「エナムです! エキオラ様のことで!」
「エキオラ?!」
はっとしたように叫び返したアオクが急いで戸を開け放つ。髪をくしゃくしゃにした、まだ幼さの抜けきらぬ少年兵がのめるように家の中に転がり込んできた。マントはどこかで落としてきたのか、はあはあと肩を揺らせる上半身に鎧しかつけていない。
「エキオラがどうかしたのか!」
「は、はい」
エナムは息を喘がせながら、必死にことばを継いだ。
「先程、第三王子、クノーラス殿下が突然昏倒され、意識不明のまま未だお目覚めになりません。明日の式典は王子の意識が戻られるまで急遽延期となりました!」
「原因は」
「わかりません。医術師も手の施しようがなく、ただ占者が一言『影が見える』と申したきり、その者もまもなく意識を失い死に至った模様です」
(影)
アシャは目を細めて静かに杯を傾ける。
(『運命(リマイン)』か?)
しかし、なぜクノーラスなどに手を出すのか、相手の意図がわからない。ましてや、この時において婚儀1つを遮ったところで、何の意味があるのか。
(それとも何か別の意味があるのか?)
「エキオラ様にはいたく御不安の様子、隊長においでを願ってほしいとのこと、伝言承りました」
「畜生!」
だんっ、と激しい音を立てて戸を殴りつけたアオクは、激情を押さえかねたように俯いたが、やがて低い声でエナムに命じた。
「すぐに行く。エキオラに伝えてくれ、案ずることはない、と」
「はっ!」
エナムが一礼して、身を翻して夜闇に飛び出していく。
しばらく戸口で動かなかったアオクがのろのろとアシャ達を振り向いた。苦い笑みを広げて溜め息をつき、部屋の隅にかけてあったマントと鎧を身につける。
「すまないが急用ができた。用はラセナに言い付けてくれ。ラセナ、客人を頼むぞ」
「ええ、兄さん」
「では」
軽く頷いて、アオクもまた緊張した顔で夜気の中に溶け込んでいく。
見送ってゆっくりと扉を閉めたラセナが、背中で扉を押しながら、そっと呟いた。
「馬鹿な兄さん」
訝しく見返すアシャに目を伏せたまま、
「早く申し込んでおけば、エキオラを盗られないですんだのに」
「アオクが?」
問いに何度か頷く。
「ずっと小さい頃から好きだったのに、自分ではとても釣り合わないって。まごまごしてるうちにクノーラス様に……でも、見初められたのはエキオラが受け継ぐ財産だと言う人もいる」
第三王子ともなると、いろいろ事情があるものだしな、とイルファがわかったように唸った。
「………それでも諦めきれないんだから……馬鹿よねえ」
切なげな溜め息をつくラセナに、特別な日と言ったアオクの顔が浮かんだ。
愛してやまない相手が、他の男のものになる。他の男の腕で憩い眠り、甘い睦言を囁く。
それでもいいと諦めて、見守り幸福を祈った矢先、恋に微かな未来をもたらすかもしれない出来事が起こる。
だがしかし、それは愛しい相手を哀しませるような代物で。
アオクの心中の複雑さは思ってもあまりある。
「お風呂の御用意をしてきますね」
ラセナが気を取り直したように顔を上げて部屋を出て行く。待っていたように、
「……アシャ?」
イルファが声をかけてきた。
「……ああ」
「そうじゃないかと思ったぜ」
どさりとイルファが巨体を椅子にふんぞり返らせる。瞳が鋭く光っている。伊達や酔狂でアシャと『三人衆』など組めたわけではない。占者のことばを聞き逃すはずもなかった。
「影、というのはおそらく『運命(リマイン)』…」
アシャの呟きにイルファが肩を竦める。
「あの薄気味悪い奴らだな」
イルファも気付いている。カザドだけではなく、執拗に自分達を狙ってくる一派がいること、それがラズーンへ近付くに従って、じわじわと増えていること。
「俺達がラズーンに向かうのがお気に召さないらしい。なぜだ?」
「……」
「……知ってるのかよ」
「………多少はな」
「なんでだ?」
「………奴らの意図を阻むからだろう」
「答えになってねえが、わかってるよな?」
「そうかな」
「そうだぞ」
「俺にはなぜクノーラスを狙ったのかがわからん」
イルファの誘導をするりと躱して眉を寄せる。
(ひょっとしたら、俺達をここで足留めする罠か? 俺達、というより、ユーノ、を?)
しかしなぜ数ある『銀の王族』の中で、これほどユーノに対して繰り返し攻撃をしかけてくるのかがわからない。
それともアシャが知らないだけで、今回の200年祭はそれほど特別なものなのだろうか。
「……」
思わずぞくりと体を震わせた。
それは世界の動乱だけではなく、ラズーンの破滅を示す。アシャの運命を闇に呑み込み、恐れている最悪の結果、アシャ自らが世界の闇を統べる存在になるより他に道がないことをほのめかせる。
(まさか)
それならば、『太皇(スーグ)』が警告なしに放置するはずがない。この前の連絡でもそのような知らせは入っていない。
それとも。
(俺の崩壊と離脱も、『星』の計画のうち、なのか?)
「どうする」
「…待ってみるしかない」
「……なるほど」
アシャのむっつりした声音に今度はイルファも突っ込まない。異変の存在を感じ取っているのだろう。
「アシャさん、イルファさん!」
ラセナがにこやかに戻ってくる。
「御用意できましたよ!」
「ああ、それは俺が運ぼう」
ラセナは両手一杯にシーツを抱えている。どうやら寝床を整えてくれようとしているらしい。珍しくイルファが立ち上がり、大手を広げて引き取った。
「旨い飯を食わせてもらった、ちょっとは働いておかぬとな」
「ありがとうございます」
「ユーノやアシャだけではない、俺だっていい男なんだぞ」
「はい」
「本当に本当にいい男はここぞという時に役に立つのだ」
「はいはい」
軽口を叩きながら2人が出ていくのに、アシャは苦笑して席を立つ。
(それなら俺はいい男ではないな)
肝心な時にラズーンに居ない。
世界が崩壊する序曲が奏でられているかもしれない、この時に、『ラズーンのアシャ』は行方不明だ。
(だがそれも)
計画の1つであったとしたら。
ふいに別室で休むユーノのことが頭を掠めた。
闘いの中で生きてきた『銀の王族』。
その意味は、この奇妙な200年祭の動きを構築する貴重な破片ということではないのか。
(もし、そうならば)
アシャがここに居る意味は。
アシャがユーノに出会った意味は。
アシャがユーノを愛しく思ってしまう意味は。
「………そうだとしたら」
俺は世界を呪ってやる。
掠れた暗い呟きは、アシャの胸の中で尖った針になって体中に飛び散った。
「つっ!」
「痛い?」
「い…いたくないもん、これ…っぐらい…っ」
答えながらレスファートの目は涙で歪んでいる。今にも溢れて零れ落ちそうだ。
「無理しなくていいから」
「むり…じゃな…いっ」
整えられた客用のベッドに腰をかけ、ユーノの手当てに泣くまいとしているが、駆け上がってくる痛みはどんどん強くなってくる。体が勝手に震えてくる。
「もう少しで終わるから」
案じてくれるユーノに、大丈夫だよと笑い返したい。けれど、痛み止めが切れていて、我慢するので精一杯だ。
(こんなの、痛くない)
ユーノの負った傷に比べれば。
真っ青になって今にも死にそうになっていたユーノを思い出しながら、レスファートは歯を食いしばる。
(ユーノの方がもっと痛かった)
胸の中で繰り返す。視界の陽炎は消えない。声が漏れそうになる。
(痛い…いたい…よ)
堪え切れなくて、心の中で弱々しく声を上げたとたん、狙ったように鋭い痛みが脳天まで駆け上がって、レスファートは思わず飛び上がった。
「ひ」
「大丈夫?」
ユーノが手を止め、跪いた姿勢からレスファートを見上げてくれる。
「…っ…」
無言で頷いて、レスファートは大きく首を振り目を見開いた。今にも涙が落ちそうだ。
(いたくないいたくないいたくない)
呪文のように繰り返しながら、ユーノの指が再び動き始めるのを見守る。
薬を塗った布が押し当てられ、じりっと焼かれたような気がした。脚を震わせると、ユーノが手早く包帯を巻いてくれる。冷たい薬の感触がほてった脚にようやく気持ちよくなってきた。
(早くしてよ……早く……ぼく…)
ユーノが包帯の端を裂いて結んだ。そっとレスファートに笑いかける。
「よし。よく我慢したね」
その一言で堰が切れた。
「ユーノぉ!」
首にしがみついて泣き出すのを優しく抱きとめて、ユーノが囁いてくれる。
「ほら、せっかく頑張ったのに」
「いた……いたか…っ……かったん……だも…」
泣きじゃくってレスファートは訴えた。
ユーノの胸は温かい。父の温かさではなく、イルファの温かさでもなく、何もかもを投げ出して自分の弱味も全部さらけて甘えていいような温かさだ。
この温かさに受け止めてもらえるなら、何度怪我をしてもいい。こうしていつでもユーノが抱き締めてくれるなら、どこへ行っても何があっても、レスファートは還ってこれる。
心を近く、ユーノの心に擦り寄せる。魂の色さえ写し取るほど近く、なお近く、より近く。
「男の子だろ? 泣き止むの。ほら、そんなに泣いてると女の子になるぞ」
(女の子は泣くものなの?)
ユーノのことばにレスファートは考える。
(なら、どうしてユーノは泣かないの?)
心の疑問を素直に口に出した。
「ど…して……ユーノは……泣か……泣かないの……?」
「んー?」
体を起こしてユーノの顔を覗き込むと、びしょ濡れになった頬を指先で拭ってくれながら、ユーノは淡い笑みを浮かべた。
「さあ……どうしてだろうね」
終わってしまったお伽話の続きをせがまれたように一瞬ためらって、やがてぽおんと柔らかくことばを放り投げる。
「きっと、女の子じゃないんだよ、ボクは」
「……?」
よくわからない答えだった。レスファートにしてみれば、ユーノほど綺麗な女性は見たことがないし、ユーノほど大切な女の子はいなかった。きょとんとしていると、頬にそっとキスしてもらった。
「さて、泣き虫さん」
甘い声で誘われる。
「一緒にお風呂に入ろう。傷に触らないようにきれいにしてあげるから」
「うん…」
(どうして?)
心をひどく近くに寄せていたから、レスファートはユーノが放り投げたことばの裏に波立ったものを感じ取ってしまった。
切ない寂しい、ずっと1人で誰とも一緒に居られない、それを諦め受け入れて、けれど唇を噛みながら俯いている心の底に、誰か、を求める激しい想い。
(どうしてそんなふうに、いうの?)
抱えられて手を引かれ、ユーノが笑ってくれるから笑い返してはみたものの、レスファートにはどうしても納得できなかった。
(どうして……泣かないの、か)
それとわからぬほどの溜め息をついて、ユーノは脱いだ服を一纏めにした。
ラセナの心配りか、3人分の着替えと小さな服が置いてある。この家に子供がいる気配はなかったから、どこからか調達してくれたのだろう。
「迷惑、かけちゃったな」
「え、なに?」
「いや」
「ユーノ…」
傷に触れないようにそっと服を脱いでいたレスファートは、目の前のユーノを見上げて息を呑んだ。
「その……けが…」
「ああ、昔のだ」
こともなげに答えて、ユーノはレスファートを見下ろした。
「気味が悪い?」
レスファートは激しく首を振り、半泣きになりながらも唇を噛んでユーノの手にしがみつく。少年が何を思ったのか、薄々はわかる。ユーノは穏やかにその肩を撫でて、浴場へ続く隅々まで磨かれた木製の扉を押し開け、
「っ」
固まった。
(まずい)
正面に湯舟にのんびりつかっているイルファの背中があった。
(イルファが入ってたのか)
扉の開いた気配に気付いたのか、
「? ……よう、ユーノ、お前もきたのか」
半身振り向き、のんびりとイルファは笑った。
「早く戸を閉めろ、湯が冷める」
「あ、うん」
浴場を霞ませる湯気のせいで、ユーノの姿がはっきりとは見えないのだろう、ざぶりと再び背中を向けながら唸られて、慌てて戸を閉めた。
(ここで逃げちゃ、かえってややこしくなる)
「ユーノ…」
レスファートがどうしようかと言いたげに見上げてくるのに頷いて、壁から突き出した棚の布を取り、さりげなく前で抱えて湯舟の端の洗い場に向かう。
「いい湯だぞ……入らんのか?」
湯舟に背中を向けてしゃがみこんだとたんにイルファが話し掛けてきてぎくりとした。
「うん、レスを洗ってから」
「そうか」
人の気も知らずにふわわわあ、と間抜けたあくびを続けたイルファをレスファートが緊張した顔で見ている。凝った細工をほどこした木の椅子を引き寄せ、レスファートを促して座らせた。
「……だいじょうぶ…?」
「何とかなる」
心配そうなレスファートの体を、湯で濡らした布で手早く擦りにかかる。
「腕、かして」
「はい」
突き出すレスファートの腕は日に焼けて、旅立った頃よりうんと太くしなやかになった。ぎゅ、ぎゅと擦ってやると嬉しそうに笑う。
「こっちはぼくやる」
「怪我人はじっとしてな」
「やれるよぉ」
布の端を使ってレスファートがもう片腕を擦り出し、残った端でユーノは少年の背中を擦った。
「痛くない?」
「うん、きもちいい」
「……まるで母親と子どもの会話だな」
ざぶりとイルファが振り向いた気配に、さり気なく腰を落として床につける。跳ね上がった心臓の鼓動を必死に引き戻し、ことさらそっけなくユーノは言い返す。
「こんなところでやりあう気? ボクが細いってからかってるなら、腹のあたりを削いで同じぐらいにしてやるけど?」
「ぬかせ」
イルファが呆れたようにぼやく。
「これはたるんでるんじゃない、筋肉そのものだぞ」
「ああ、そっか、頭の中まで筋肉だもんな」
「そうとも俺は全身筋肉……ん?」
イルファがことばをとぎらせて考え込んでる間に、さっさとレスファートを擦りあげる。
「おい、筋肉は考えるのか?」
「考えないと思う」
「…俺が馬鹿だって言ってないか?」
「イルファのきんにくはとくべつせいなんだよね」
「ああ、なるほど」
そういう考え方もあるなあ、と続けたイルファが、ふと口調を変える。
「しかし、凄い傷だな」
「……」
ユーノは手を止めた。
背中に当る視線を感じる。無遠慮に眺めている視線ではあるが、嘲るような気配はない。
「お前幾つだった?」
「17」
「17の時に、俺はそんなに怪我をしてなかったぞ」
前もそうなのか、と尋ねられてああ、と曖昧に答える。振り向いて見せてみろ、そう言われたらそれこそどう言い逃れるかと緊張していると、
「それだけ実戦ばかりってことか」
ざぶざぶと湯の音が響いて、レスファートがこそりと、あっち向いた、と教えてくれた。
「嫌でも強くなるわな……それだけ怪我しても、まだ無鉄砲なんだから救いようがねえ」
「ほっとけ」
「無茶ばかりするなよ、命は1つだからな」
「わかってる」
ぶっきらぼうに応じたが、傷を見てすぐに実戦で傷ついたのだろうとわかってくれたこと、しかも逃げ回っていたのではなく闘っての傷なのだと察してくれたことに、胸の奥が温かくなった。イルファなりにユーノのことを評価してくれているのだ。
髪に湯を浴びてごしごし擦ったレスファートが、濡れた動物のように頭を振って雫を撒く。布を固く絞って、壁の緑青色の光を跳ねるほど輝きを取り戻したプラチナブロンドから水気を拭いてやりながら、小さく囁く。
「アシャに伝えてきて。このままじゃ出られなくなる」
「わかった」
「何だ?」
ざぶ、とまたイルファが振り向く。
「何でもない」
「いいからさっさと入れ。細いのが震えてるのはむしった鳥みたいで見栄えがよくねえ」
さっさと入って、男同士、戦いを語ろうぜ。
「ほらこい」
「ちょっと体洗ってから」
「女みたいに細けえな」
「洗わずに飛び込んだの?」
「あ、いや、そのまあ」
「………ラセナに怒られるよ」
「う…」
男がそういうことに神経を使えるもんじゃないってことぐらい、わかるだろ、それは。
ぶつぶつ言いながらイルファがまた向きを変える。
じゃあぼくは出てくるね。
立ち上がったレスファートが片足を引きずりながら扉から出て、ユーノに目配せして急いで扉を閉める。頷き返し肩越しにそっと振り向いて、イルファが向こうをむいているのを確かめ、手近な場所からすばやく湯に滑り込んだ。
香料か薬草でも解かしてあるのか、独特な柔らかな香りが漂う湯は薄緑色に濁っていて、肩までつかると体がほとんど見えなくなる。
(助かった)
ほっとユーノが息をついたとたん、間一髪でイルファがゆらりとこちらを向いて話し掛けてきた。
「なあ、いつから剣を持ってた?」
「いつからって」
近付いてくるイルファに深く湯に沈みながら、
「7つぐらい、かな?」
「そんなに早く剣を始めるのか、お前の国じゃ」
「まさか」
ユーノは苦笑した。
「ボクの場合は特別。勉学を教えてくれていた教師が剣士でもあったんだ」
「ふうん……」
じゃあ、そのせいかな。
「え?」
「お前、妙な癖があるだろ」
「癖?」
興味をそそられて湯気の向こうの顔を透かし見ると、珍しく生真面目な表情になったイルファがまっすぐこちらを向いている。首まで湯に浸っているから体は見えないだろうが、これでは出るに出られない。
「ああ、癖だ。気付いてるかどうか知らんが、やりあってる時にほんの一瞬、だが1度は必ず、無防備なままで敵の前に飛び出すぞ」
「え」
ユーノは呆気にとられた。
「もう…笑いごとじゃないわよ、兄さん!」
アオクの妹ラセナは、膨れっ面で夕食の席を片付けながらぼやいた。
「とんだことだったな」
上品に微笑むアシャに親しげに笑いかける。多くの人々の例に漏れず、アオクもすぐにアシャを古くからの知己のように扱いつつあった。
「びっくりしたよ。美しい御婦人が入って来たかと思ったら、たちまち悲鳴だ」
卒なく応じて、アシャはラセナににっこり笑みを向ける。
「だって……誰もいないと思ってたんですもの」
そりゃ、兄さんが守ってるこの街は安全だと信じてるからだけど、と唇を尖らせ、まだ食卓についているイルファが皿から肉の最後の一切れを摘まみ上げるのを待つ。
「ふうー、食った食った。うまかったですよ、ラセナさん」
「ありがとうございます」
イルファの開けっ放しの賛辞に嬉しそうに笑み返し、これだけお皿が綺麗になったのは初めてかも、とくすくす笑った。
「ところで、ずいぶん長い旅をしているようだな」
アオクが食後の酒をのんびり含みながら尋ねてくる。
「うむ、実はラズーンまで行く」
どこから、ということばを巧みに逸らせてアシャは頷いた。セレドからここまで、既にかなりの距離がある。かかった日にちを考えれば驚くほど早く移動しているのは、ユーノ達の旅慣れもあるが、アシャの選ぶ道筋が並外れた正確さでラズーンへの道を辿っているからに他ならない。
それだけの道をなぜそれほど無駄なく選んで進んで来れたのか。
それを質問されるのを避けたのだ。
だが、返ってきたことばはアシャの警戒を軽く越えていた。
「おまえ達もか!」
「?」
「この国からもハイラカという少年がラズーンへ向かって旅立った。話によれば、ラズーンからの使者が来たとのことだ」
「そいつも王族なのか?」
イルファが興味を引かれたように尋ねる。
「いや、違う。だが、あちらこちらの国からラズーンへ向かっているようだな。ダヤン、オグトラからもラズーンへ発った者がいると聞く」
(やはり、そうか)
『銀の王族』は地位の高いものとは限らない。安全で幸福で安定した暮らしを保証できるとあれば、民の間にまぎれさせることもある。だが、民の間においては完全に保護できないのも確かで、言い換えれば、それはハイラカの重要度がそれほど大きなものではなかったと言える。
(なのに、そんなところまで『銀の王族』を集めるとは……かなり酷い状態なんだな)
自分の表情が険しくなるのを感じて、アシャは意識的に目を細め笑みを作って、渡された杯を唇に当てた。数々の女性や男性をも魅了した表情で相手を親しげに見遣り、初めて聞いたように無邪気に頷いて見せる。
「なるほど…」
「おまえ達もラズーンの使者に呼ばれたのか?」
「いや、気紛れな旅だ」
さらりと流す。
「世界の中心、ラズーンを見てみたいと、あの跳ねっ返りがごねてな」
「ついでに可愛い娘や旨い食い物にありつければいいと」
イルファが付け加え豪快に笑う。つられたようにアオクも、男の夢だよな、と笑いながら、
「そういえば、あの気の強い弟はどこへ行った」
「はい、どうぞ」
イルファの前に酒の杯を置いたラセナが一瞬動きを止めたのに気付く。うっすらと赤くなった頬、同じく染まった耳が、アオクのことば1つ1つを聞き取ろうとするように緊張している。
「ああ、レスの手当てだ」
「大丈夫なのか、あんな子供にまかせて」
「大丈夫だ、あいつはそういうことにも長けているし」
頷きながら、ラセナの耳がどんどん赤みを増していくのを眺めた。
「子供扱いしてるとやられるぞ」
「あんな子が?」
アオクは心底不思議そうに首を傾げる。
「線が細すぎて神経質すぎるように思えたぞ。あの馬だって、気の荒らそうなのをよく乗りこなしていると思ったぐらいだ」
「ところがだ!」
ぐいとイルファが身を起こし、膨れ上がった腹に、う、と妙な顔で唸る。
「お前は知らないだろうが、俺達の国の近くにカザドという性の悪い国があってな。兵士とは名ばかりのごろつきどもだが、そいつらをたった1人で20数人倒したことがあるのだ」
「ほう…?」
アオクが面白そうに瞬きした。
「あの細腕で? 腰も、抱え込めるほどに細いようだったが」
「…」
なぜそこで『腰を抱え込める』表現がでてくる、とアシャはねじ曲げかけた口で急いで酒を含む。唇に滲んだ温もりに、自分がなぜ苛立っているのか理解してうんざりした。
「とにかくあいつは強いんだ。今に俺のような立派な剣士になる!」
「へ、え」
イルファが誇らしげに胸を張り、弟バカは可愛いなと言いたげなアオクにアシャは苦笑した。
「すまない」
「いや…あんたが長兄なのだろうな?」
アオクはちらりと視線をよこす。
「苦労してそうだ」
「わかるか」
「わかる」
跳ねっ返りの身内は困ったものだ、と続けたアオクが、皿を運んでいくラセナの後ろ姿を見遣り、何となくほっとした。
(そうか、妹と重ねたのか)
「身内もそうだが、気の強い女は困る……が」
だが、すぐにアオクが柔らかな口調で続けた。
「時にひどく愛おしい」
「………」
それはどういう意味なのだ。
ユーノを弟と紹介しているのを一瞬忘れかけて尋ねそうになったアシャを、いきなり激しく戸を叩く音が遮る。
「失礼…こんな時間に珍しい」
アオクが険しく眉を寄せ、椅子から立ち上がって戸口へ向かった。
「誰だ」
低く重い誰何に若い声が叫ぶ。
「エナムです! エキオラ様のことで!」
「エキオラ?!」
はっとしたように叫び返したアオクが急いで戸を開け放つ。髪をくしゃくしゃにした、まだ幼さの抜けきらぬ少年兵がのめるように家の中に転がり込んできた。マントはどこかで落としてきたのか、はあはあと肩を揺らせる上半身に鎧しかつけていない。
「エキオラがどうかしたのか!」
「は、はい」
エナムは息を喘がせながら、必死にことばを継いだ。
「先程、第三王子、クノーラス殿下が突然昏倒され、意識不明のまま未だお目覚めになりません。明日の式典は王子の意識が戻られるまで急遽延期となりました!」
「原因は」
「わかりません。医術師も手の施しようがなく、ただ占者が一言『影が見える』と申したきり、その者もまもなく意識を失い死に至った模様です」
(影)
アシャは目を細めて静かに杯を傾ける。
(『運命(リマイン)』か?)
しかし、なぜクノーラスなどに手を出すのか、相手の意図がわからない。ましてや、この時において婚儀1つを遮ったところで、何の意味があるのか。
(それとも何か別の意味があるのか?)
「エキオラ様にはいたく御不安の様子、隊長においでを願ってほしいとのこと、伝言承りました」
「畜生!」
だんっ、と激しい音を立てて戸を殴りつけたアオクは、激情を押さえかねたように俯いたが、やがて低い声でエナムに命じた。
「すぐに行く。エキオラに伝えてくれ、案ずることはない、と」
「はっ!」
エナムが一礼して、身を翻して夜闇に飛び出していく。
しばらく戸口で動かなかったアオクがのろのろとアシャ達を振り向いた。苦い笑みを広げて溜め息をつき、部屋の隅にかけてあったマントと鎧を身につける。
「すまないが急用ができた。用はラセナに言い付けてくれ。ラセナ、客人を頼むぞ」
「ええ、兄さん」
「では」
軽く頷いて、アオクもまた緊張した顔で夜気の中に溶け込んでいく。
見送ってゆっくりと扉を閉めたラセナが、背中で扉を押しながら、そっと呟いた。
「馬鹿な兄さん」
訝しく見返すアシャに目を伏せたまま、
「早く申し込んでおけば、エキオラを盗られないですんだのに」
「アオクが?」
問いに何度か頷く。
「ずっと小さい頃から好きだったのに、自分ではとても釣り合わないって。まごまごしてるうちにクノーラス様に……でも、見初められたのはエキオラが受け継ぐ財産だと言う人もいる」
第三王子ともなると、いろいろ事情があるものだしな、とイルファがわかったように唸った。
「………それでも諦めきれないんだから……馬鹿よねえ」
切なげな溜め息をつくラセナに、特別な日と言ったアオクの顔が浮かんだ。
愛してやまない相手が、他の男のものになる。他の男の腕で憩い眠り、甘い睦言を囁く。
それでもいいと諦めて、見守り幸福を祈った矢先、恋に微かな未来をもたらすかもしれない出来事が起こる。
だがしかし、それは愛しい相手を哀しませるような代物で。
アオクの心中の複雑さは思ってもあまりある。
「お風呂の御用意をしてきますね」
ラセナが気を取り直したように顔を上げて部屋を出て行く。待っていたように、
「……アシャ?」
イルファが声をかけてきた。
「……ああ」
「そうじゃないかと思ったぜ」
どさりとイルファが巨体を椅子にふんぞり返らせる。瞳が鋭く光っている。伊達や酔狂でアシャと『三人衆』など組めたわけではない。占者のことばを聞き逃すはずもなかった。
「影、というのはおそらく『運命(リマイン)』…」
アシャの呟きにイルファが肩を竦める。
「あの薄気味悪い奴らだな」
イルファも気付いている。カザドだけではなく、執拗に自分達を狙ってくる一派がいること、それがラズーンへ近付くに従って、じわじわと増えていること。
「俺達がラズーンに向かうのがお気に召さないらしい。なぜだ?」
「……」
「……知ってるのかよ」
「………多少はな」
「なんでだ?」
「………奴らの意図を阻むからだろう」
「答えになってねえが、わかってるよな?」
「そうかな」
「そうだぞ」
「俺にはなぜクノーラスを狙ったのかがわからん」
イルファの誘導をするりと躱して眉を寄せる。
(ひょっとしたら、俺達をここで足留めする罠か? 俺達、というより、ユーノ、を?)
しかしなぜ数ある『銀の王族』の中で、これほどユーノに対して繰り返し攻撃をしかけてくるのかがわからない。
それともアシャが知らないだけで、今回の200年祭はそれほど特別なものなのだろうか。
「……」
思わずぞくりと体を震わせた。
それは世界の動乱だけではなく、ラズーンの破滅を示す。アシャの運命を闇に呑み込み、恐れている最悪の結果、アシャ自らが世界の闇を統べる存在になるより他に道がないことをほのめかせる。
(まさか)
それならば、『太皇(スーグ)』が警告なしに放置するはずがない。この前の連絡でもそのような知らせは入っていない。
それとも。
(俺の崩壊と離脱も、『星』の計画のうち、なのか?)
「どうする」
「…待ってみるしかない」
「……なるほど」
アシャのむっつりした声音に今度はイルファも突っ込まない。異変の存在を感じ取っているのだろう。
「アシャさん、イルファさん!」
ラセナがにこやかに戻ってくる。
「御用意できましたよ!」
「ああ、それは俺が運ぼう」
ラセナは両手一杯にシーツを抱えている。どうやら寝床を整えてくれようとしているらしい。珍しくイルファが立ち上がり、大手を広げて引き取った。
「旨い飯を食わせてもらった、ちょっとは働いておかぬとな」
「ありがとうございます」
「ユーノやアシャだけではない、俺だっていい男なんだぞ」
「はい」
「本当に本当にいい男はここぞという時に役に立つのだ」
「はいはい」
軽口を叩きながら2人が出ていくのに、アシャは苦笑して席を立つ。
(それなら俺はいい男ではないな)
肝心な時にラズーンに居ない。
世界が崩壊する序曲が奏でられているかもしれない、この時に、『ラズーンのアシャ』は行方不明だ。
(だがそれも)
計画の1つであったとしたら。
ふいに別室で休むユーノのことが頭を掠めた。
闘いの中で生きてきた『銀の王族』。
その意味は、この奇妙な200年祭の動きを構築する貴重な破片ということではないのか。
(もし、そうならば)
アシャがここに居る意味は。
アシャがユーノに出会った意味は。
アシャがユーノを愛しく思ってしまう意味は。
「………そうだとしたら」
俺は世界を呪ってやる。
掠れた暗い呟きは、アシャの胸の中で尖った針になって体中に飛び散った。
「つっ!」
「痛い?」
「い…いたくないもん、これ…っぐらい…っ」
答えながらレスファートの目は涙で歪んでいる。今にも溢れて零れ落ちそうだ。
「無理しなくていいから」
「むり…じゃな…いっ」
整えられた客用のベッドに腰をかけ、ユーノの手当てに泣くまいとしているが、駆け上がってくる痛みはどんどん強くなってくる。体が勝手に震えてくる。
「もう少しで終わるから」
案じてくれるユーノに、大丈夫だよと笑い返したい。けれど、痛み止めが切れていて、我慢するので精一杯だ。
(こんなの、痛くない)
ユーノの負った傷に比べれば。
真っ青になって今にも死にそうになっていたユーノを思い出しながら、レスファートは歯を食いしばる。
(ユーノの方がもっと痛かった)
胸の中で繰り返す。視界の陽炎は消えない。声が漏れそうになる。
(痛い…いたい…よ)
堪え切れなくて、心の中で弱々しく声を上げたとたん、狙ったように鋭い痛みが脳天まで駆け上がって、レスファートは思わず飛び上がった。
「ひ」
「大丈夫?」
ユーノが手を止め、跪いた姿勢からレスファートを見上げてくれる。
「…っ…」
無言で頷いて、レスファートは大きく首を振り目を見開いた。今にも涙が落ちそうだ。
(いたくないいたくないいたくない)
呪文のように繰り返しながら、ユーノの指が再び動き始めるのを見守る。
薬を塗った布が押し当てられ、じりっと焼かれたような気がした。脚を震わせると、ユーノが手早く包帯を巻いてくれる。冷たい薬の感触がほてった脚にようやく気持ちよくなってきた。
(早くしてよ……早く……ぼく…)
ユーノが包帯の端を裂いて結んだ。そっとレスファートに笑いかける。
「よし。よく我慢したね」
その一言で堰が切れた。
「ユーノぉ!」
首にしがみついて泣き出すのを優しく抱きとめて、ユーノが囁いてくれる。
「ほら、せっかく頑張ったのに」
「いた……いたか…っ……かったん……だも…」
泣きじゃくってレスファートは訴えた。
ユーノの胸は温かい。父の温かさではなく、イルファの温かさでもなく、何もかもを投げ出して自分の弱味も全部さらけて甘えていいような温かさだ。
この温かさに受け止めてもらえるなら、何度怪我をしてもいい。こうしていつでもユーノが抱き締めてくれるなら、どこへ行っても何があっても、レスファートは還ってこれる。
心を近く、ユーノの心に擦り寄せる。魂の色さえ写し取るほど近く、なお近く、より近く。
「男の子だろ? 泣き止むの。ほら、そんなに泣いてると女の子になるぞ」
(女の子は泣くものなの?)
ユーノのことばにレスファートは考える。
(なら、どうしてユーノは泣かないの?)
心の疑問を素直に口に出した。
「ど…して……ユーノは……泣か……泣かないの……?」
「んー?」
体を起こしてユーノの顔を覗き込むと、びしょ濡れになった頬を指先で拭ってくれながら、ユーノは淡い笑みを浮かべた。
「さあ……どうしてだろうね」
終わってしまったお伽話の続きをせがまれたように一瞬ためらって、やがてぽおんと柔らかくことばを放り投げる。
「きっと、女の子じゃないんだよ、ボクは」
「……?」
よくわからない答えだった。レスファートにしてみれば、ユーノほど綺麗な女性は見たことがないし、ユーノほど大切な女の子はいなかった。きょとんとしていると、頬にそっとキスしてもらった。
「さて、泣き虫さん」
甘い声で誘われる。
「一緒にお風呂に入ろう。傷に触らないようにきれいにしてあげるから」
「うん…」
(どうして?)
心をひどく近くに寄せていたから、レスファートはユーノが放り投げたことばの裏に波立ったものを感じ取ってしまった。
切ない寂しい、ずっと1人で誰とも一緒に居られない、それを諦め受け入れて、けれど唇を噛みながら俯いている心の底に、誰か、を求める激しい想い。
(どうしてそんなふうに、いうの?)
抱えられて手を引かれ、ユーノが笑ってくれるから笑い返してはみたものの、レスファートにはどうしても納得できなかった。
(どうして……泣かないの、か)
それとわからぬほどの溜め息をついて、ユーノは脱いだ服を一纏めにした。
ラセナの心配りか、3人分の着替えと小さな服が置いてある。この家に子供がいる気配はなかったから、どこからか調達してくれたのだろう。
「迷惑、かけちゃったな」
「え、なに?」
「いや」
「ユーノ…」
傷に触れないようにそっと服を脱いでいたレスファートは、目の前のユーノを見上げて息を呑んだ。
「その……けが…」
「ああ、昔のだ」
こともなげに答えて、ユーノはレスファートを見下ろした。
「気味が悪い?」
レスファートは激しく首を振り、半泣きになりながらも唇を噛んでユーノの手にしがみつく。少年が何を思ったのか、薄々はわかる。ユーノは穏やかにその肩を撫でて、浴場へ続く隅々まで磨かれた木製の扉を押し開け、
「っ」
固まった。
(まずい)
正面に湯舟にのんびりつかっているイルファの背中があった。
(イルファが入ってたのか)
扉の開いた気配に気付いたのか、
「? ……よう、ユーノ、お前もきたのか」
半身振り向き、のんびりとイルファは笑った。
「早く戸を閉めろ、湯が冷める」
「あ、うん」
浴場を霞ませる湯気のせいで、ユーノの姿がはっきりとは見えないのだろう、ざぶりと再び背中を向けながら唸られて、慌てて戸を閉めた。
(ここで逃げちゃ、かえってややこしくなる)
「ユーノ…」
レスファートがどうしようかと言いたげに見上げてくるのに頷いて、壁から突き出した棚の布を取り、さりげなく前で抱えて湯舟の端の洗い場に向かう。
「いい湯だぞ……入らんのか?」
湯舟に背中を向けてしゃがみこんだとたんにイルファが話し掛けてきてぎくりとした。
「うん、レスを洗ってから」
「そうか」
人の気も知らずにふわわわあ、と間抜けたあくびを続けたイルファをレスファートが緊張した顔で見ている。凝った細工をほどこした木の椅子を引き寄せ、レスファートを促して座らせた。
「……だいじょうぶ…?」
「何とかなる」
心配そうなレスファートの体を、湯で濡らした布で手早く擦りにかかる。
「腕、かして」
「はい」
突き出すレスファートの腕は日に焼けて、旅立った頃よりうんと太くしなやかになった。ぎゅ、ぎゅと擦ってやると嬉しそうに笑う。
「こっちはぼくやる」
「怪我人はじっとしてな」
「やれるよぉ」
布の端を使ってレスファートがもう片腕を擦り出し、残った端でユーノは少年の背中を擦った。
「痛くない?」
「うん、きもちいい」
「……まるで母親と子どもの会話だな」
ざぶりとイルファが振り向いた気配に、さり気なく腰を落として床につける。跳ね上がった心臓の鼓動を必死に引き戻し、ことさらそっけなくユーノは言い返す。
「こんなところでやりあう気? ボクが細いってからかってるなら、腹のあたりを削いで同じぐらいにしてやるけど?」
「ぬかせ」
イルファが呆れたようにぼやく。
「これはたるんでるんじゃない、筋肉そのものだぞ」
「ああ、そっか、頭の中まで筋肉だもんな」
「そうとも俺は全身筋肉……ん?」
イルファがことばをとぎらせて考え込んでる間に、さっさとレスファートを擦りあげる。
「おい、筋肉は考えるのか?」
「考えないと思う」
「…俺が馬鹿だって言ってないか?」
「イルファのきんにくはとくべつせいなんだよね」
「ああ、なるほど」
そういう考え方もあるなあ、と続けたイルファが、ふと口調を変える。
「しかし、凄い傷だな」
「……」
ユーノは手を止めた。
背中に当る視線を感じる。無遠慮に眺めている視線ではあるが、嘲るような気配はない。
「お前幾つだった?」
「17」
「17の時に、俺はそんなに怪我をしてなかったぞ」
前もそうなのか、と尋ねられてああ、と曖昧に答える。振り向いて見せてみろ、そう言われたらそれこそどう言い逃れるかと緊張していると、
「それだけ実戦ばかりってことか」
ざぶざぶと湯の音が響いて、レスファートがこそりと、あっち向いた、と教えてくれた。
「嫌でも強くなるわな……それだけ怪我しても、まだ無鉄砲なんだから救いようがねえ」
「ほっとけ」
「無茶ばかりするなよ、命は1つだからな」
「わかってる」
ぶっきらぼうに応じたが、傷を見てすぐに実戦で傷ついたのだろうとわかってくれたこと、しかも逃げ回っていたのではなく闘っての傷なのだと察してくれたことに、胸の奥が温かくなった。イルファなりにユーノのことを評価してくれているのだ。
髪に湯を浴びてごしごし擦ったレスファートが、濡れた動物のように頭を振って雫を撒く。布を固く絞って、壁の緑青色の光を跳ねるほど輝きを取り戻したプラチナブロンドから水気を拭いてやりながら、小さく囁く。
「アシャに伝えてきて。このままじゃ出られなくなる」
「わかった」
「何だ?」
ざぶ、とまたイルファが振り向く。
「何でもない」
「いいからさっさと入れ。細いのが震えてるのはむしった鳥みたいで見栄えがよくねえ」
さっさと入って、男同士、戦いを語ろうぜ。
「ほらこい」
「ちょっと体洗ってから」
「女みたいに細けえな」
「洗わずに飛び込んだの?」
「あ、いや、そのまあ」
「………ラセナに怒られるよ」
「う…」
男がそういうことに神経を使えるもんじゃないってことぐらい、わかるだろ、それは。
ぶつぶつ言いながらイルファがまた向きを変える。
じゃあぼくは出てくるね。
立ち上がったレスファートが片足を引きずりながら扉から出て、ユーノに目配せして急いで扉を閉める。頷き返し肩越しにそっと振り向いて、イルファが向こうをむいているのを確かめ、手近な場所からすばやく湯に滑り込んだ。
香料か薬草でも解かしてあるのか、独特な柔らかな香りが漂う湯は薄緑色に濁っていて、肩までつかると体がほとんど見えなくなる。
(助かった)
ほっとユーノが息をついたとたん、間一髪でイルファがゆらりとこちらを向いて話し掛けてきた。
「なあ、いつから剣を持ってた?」
「いつからって」
近付いてくるイルファに深く湯に沈みながら、
「7つぐらい、かな?」
「そんなに早く剣を始めるのか、お前の国じゃ」
「まさか」
ユーノは苦笑した。
「ボクの場合は特別。勉学を教えてくれていた教師が剣士でもあったんだ」
「ふうん……」
じゃあ、そのせいかな。
「え?」
「お前、妙な癖があるだろ」
「癖?」
興味をそそられて湯気の向こうの顔を透かし見ると、珍しく生真面目な表情になったイルファがまっすぐこちらを向いている。首まで湯に浸っているから体は見えないだろうが、これでは出るに出られない。
「ああ、癖だ。気付いてるかどうか知らんが、やりあってる時にほんの一瞬、だが1度は必ず、無防備なままで敵の前に飛び出すぞ」
「え」
ユーノは呆気にとられた。
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