16 / 74
8
しおりを挟む
『彼女』の舞台は『アイスを買ってあげる』というアニメの歌で始まって、子ども達をどんどんのせながら進んでいた。
途中から子ども達のリクエストに従って、ちょっと掠れた優しい声で次々と歌っていって、一体何曲覚えてるんだろうと言うほど、どんなリクエストにもすぐに応じた。
子ども達は『タロン隊長』を見つけてはしゃぎ、無伴奏で何でも歌ってくれる『彼女』に夢中になり、興奮して顔を紅潮させて『彼女』を囲んでいる。
消灯時間までもう10分もなかったけれど、それでもまだ『彼女』はリクエストを受け、子ども達の誰も部屋からでていかない。
その『彼女』を部屋の一番後ろで壁にもたれて腕組みしながら見ている正志の耳には、曲よりも何よりも『彼女』のことばが繰り返し響いている。
『正志くん、婚約者のこと、そこまで大事に考えたことあったの?』
考えたよ。
大事に考えたから婚約して。
大事に考えたから婚約破棄も受け入れた。
僕だって辛かったんだ。けど、駄目だって言うから。僕じゃ駄目だって言うから。
唇を噛んでちょっと熱くなった目を慌てて瞬きして熱を逃がした。
それをなんで名前も知らない女なんかに。
なんで三上なんかと比較されて。
そりゃさっきは何も言えなかったけど。
僕だって。僕だって。
「はい、じゃあ、次のリクエストは」
『彼女』が軽く息を弾ませながらにこにことプレイルームを見渡す。汗に濡れた金髪が少しほやんと額に垂れ下がってきていて、その影が小さな額に柔らかく落ちている。
「はぁい、あの、あのね、『一輪……」
「何も歌うなっ!」
「っ!」
ふいにきつい叫びがプレイルームの入り口から響いて、正志はぎょっとして振り向いた。はっとしたように振り返る『彼女』と静まり返った部屋の中にもう一度、
「今、何も歌うなっ!」
今にも泣きそうな叫びが響く。
「伊藤くん」
田中主任が急いで立ち上がって駆け寄る。伊藤と呼ばれた小学校の5、6年に見える男の子は、両手のこぶしを握りしめて、田中主任の方を見もせず、まっすぐ『彼女』を睨みつけて怒鳴った。
「晶子がしんどいんだから、今は歌うなっっ!!」
伊藤という名前は確か吐血したという子どもだ。男の子は兄か弟か、どっちかっていうと兄貴の方か。じゃあ、今その子が苦しくて、ここにも来れないのか。
正志は緊張したまま『彼女』を見た。
どうするんだろう。
凍りついた子ども達の顔に怯えが走っている。
一瞬は忘れていたけれど、誰もが思っているのだ、いつ同じ状況が自分に降り掛かるかわからない、と。
近くに居た母親に身を擦り寄せた子どもがいる。不安そうに看護師の手を握った子どもが居る。
ふと急に近づいた温もりに気づいて目を降ろすと、ピンクのパジャマの女の子が固まったまま、正志のセーターの袖口を掴んで側に寄ってきていた。
はっとしてしゃがみ込み、正志は相手の肩を引き寄せた。細くて小さくて震えている、その温かみが掌から染み通ってくる。
「大丈夫だよ」
思わず口を突いたことばに女の子は首を振り、呟いた。
「晶子ちゃん、しんどいの」
途中から子ども達のリクエストに従って、ちょっと掠れた優しい声で次々と歌っていって、一体何曲覚えてるんだろうと言うほど、どんなリクエストにもすぐに応じた。
子ども達は『タロン隊長』を見つけてはしゃぎ、無伴奏で何でも歌ってくれる『彼女』に夢中になり、興奮して顔を紅潮させて『彼女』を囲んでいる。
消灯時間までもう10分もなかったけれど、それでもまだ『彼女』はリクエストを受け、子ども達の誰も部屋からでていかない。
その『彼女』を部屋の一番後ろで壁にもたれて腕組みしながら見ている正志の耳には、曲よりも何よりも『彼女』のことばが繰り返し響いている。
『正志くん、婚約者のこと、そこまで大事に考えたことあったの?』
考えたよ。
大事に考えたから婚約して。
大事に考えたから婚約破棄も受け入れた。
僕だって辛かったんだ。けど、駄目だって言うから。僕じゃ駄目だって言うから。
唇を噛んでちょっと熱くなった目を慌てて瞬きして熱を逃がした。
それをなんで名前も知らない女なんかに。
なんで三上なんかと比較されて。
そりゃさっきは何も言えなかったけど。
僕だって。僕だって。
「はい、じゃあ、次のリクエストは」
『彼女』が軽く息を弾ませながらにこにことプレイルームを見渡す。汗に濡れた金髪が少しほやんと額に垂れ下がってきていて、その影が小さな額に柔らかく落ちている。
「はぁい、あの、あのね、『一輪……」
「何も歌うなっ!」
「っ!」
ふいにきつい叫びがプレイルームの入り口から響いて、正志はぎょっとして振り向いた。はっとしたように振り返る『彼女』と静まり返った部屋の中にもう一度、
「今、何も歌うなっ!」
今にも泣きそうな叫びが響く。
「伊藤くん」
田中主任が急いで立ち上がって駆け寄る。伊藤と呼ばれた小学校の5、6年に見える男の子は、両手のこぶしを握りしめて、田中主任の方を見もせず、まっすぐ『彼女』を睨みつけて怒鳴った。
「晶子がしんどいんだから、今は歌うなっっ!!」
伊藤という名前は確か吐血したという子どもだ。男の子は兄か弟か、どっちかっていうと兄貴の方か。じゃあ、今その子が苦しくて、ここにも来れないのか。
正志は緊張したまま『彼女』を見た。
どうするんだろう。
凍りついた子ども達の顔に怯えが走っている。
一瞬は忘れていたけれど、誰もが思っているのだ、いつ同じ状況が自分に降り掛かるかわからない、と。
近くに居た母親に身を擦り寄せた子どもがいる。不安そうに看護師の手を握った子どもが居る。
ふと急に近づいた温もりに気づいて目を降ろすと、ピンクのパジャマの女の子が固まったまま、正志のセーターの袖口を掴んで側に寄ってきていた。
はっとしてしゃがみ込み、正志は相手の肩を引き寄せた。細くて小さくて震えている、その温かみが掌から染み通ってくる。
「大丈夫だよ」
思わず口を突いたことばに女の子は首を振り、呟いた。
「晶子ちゃん、しんどいの」
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
大丈夫のその先は…
水姫
恋愛
実来はシングルマザーの母が再婚すると聞いた。母が嬉しそうにしているのを見るとこれまで苦労かけた分幸せになって欲しいと思う。
新しくできた父はよりにもよって医者だった。新しくできた兄たちも同様で…。
バレないように、バレないように。
「大丈夫だよ」
すいません。ゆっくりお待ち下さい。m(_ _)m
あるフィギュアスケーターの性事情
蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。
しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。
何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。
この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。
そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。
この物語はフィクションです。
実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。
旧校舎の地下室
守 秀斗
恋愛
高校のクラスでハブられている俺。この高校に友人はいない。そして、俺はクラスの美人女子高生の京野弘美に興味を持っていた。と言うか好きなんだけどな。でも、京野は美人なのに人気が無く、俺と同様ハブられていた。そして、ある日の放課後、京野に俺の恥ずかしい行為を見られてしまった。すると、京野はその事をバラさないかわりに、俺を旧校舎の地下室へ連れて行く。そこで、おかしなことを始めるのだったのだが……。
【完結】乙女ゲーム開始前に消える病弱モブ令嬢に転生しました
佐倉穂波
恋愛
転生したルイシャは、自分が若くして死んでしまう乙女ゲームのモブ令嬢で事を知る。
確かに、まともに起き上がることすら困難なこの体は、いつ死んでもおかしくない状態だった。
(そんな……死にたくないっ!)
乙女ゲームの記憶が正しければ、あと数年で死んでしまうルイシャは、「生きる」ために努力することにした。
2023.9.3 投稿分の改稿終了。
2023.9.4 表紙を作ってみました。
2023.9.15 完結。
2023.9.23 後日談を投稿しました。
断る――――前にもそう言ったはずだ
鈴宮(すずみや)
恋愛
「寝室を分けませんか?」
結婚して三年。王太子エルネストと妃モニカの間にはまだ子供が居ない。
周囲からは『そろそろ側妃を』という声が上がっているものの、彼はモニカと寝室を分けることを拒んでいる。
けれど、エルネストはいつだって、モニカにだけ冷たかった。
他の人々に向けられる優しい言葉、笑顔が彼女に向けられることない。
(わたくし以外の女性が妃ならば、エルネスト様はもっと幸せだろうに……)
そんな時、侍女のコゼットが『エルネストから想いを寄せられている』ことをモニカに打ち明ける。
ようやく側妃を娶る気になったのか――――エルネストがコゼットと過ごせるよう、私室で休むことにしたモニカ。
そんな彼女の元に、護衛騎士であるヴィクトルがやってきて――――?
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる