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考えちゃ、いなかったんじゃないだろうか。
最終の郵便を届けて、理学療法の部屋に向かって歩きながら、正志は耳鳴りがするような気持ちで思わず自分の白衣を掴んだ。
看護師になって。涼子と結婚して。いつか子どもが生まれて。家とか持てればいいな、ぐらい?
『どんなふうに一緒に生きていくのかぐらい、考えただろう?』
少なくとも三上ほどは真剣に、どうやって涼子と生きていこうなんて、話し合ったこともないし考えたこともなかった、と思う。
だってさ、当たり前じゃん。
男と女が結婚してえっちして子どもできて、仕事持って家庭あって。
けど、母さんだって、そういう意味じゃ当たり前、じゃなかったんだよな。早くに相手が死んで、そっから一人で子ども育てるなんて、きっと考えてもいなかっただろう。
「こんにちはぁ」
「お、早かったね」
理学療法の押田先生が笑いかけてくるのに、何とか笑い返す。
「井上さん、歩行訓練なんだ、バー、見ててくれる?」
「あ、はい」
「あ、高岳さんだー」
部屋に居た井上がはしゃいだ声で迎えた。
「あたし随分歩けるようになったんだよー」
「そう、凄いや、見せてくれる?」
「ん!」
井上和美は今年中学生になる。生まれてすぐに不幸な事故があって、ずっと車椅子生活だったのだが、去年義足をつけて自力歩行できる見通しがついて、それからずっと歩行訓練を続けている。
本当は地元の中学へ通いたかったんだよね、けどダメなんだ、充分な設備がないからって断られちゃった。
そうあっけらかんと話した和美が、一瞬ひどく切ない顔になったのを、正志は覚えている。
なんで地元に通いたかったの、とその時無遠慮に聞いたものだ。聞いてすぐ、自分の質問の無神経さに恥ずかしくなってうろたえた正志に、少し黙って和美は静かに笑った。
ずっと好きな子がいて、その子と一緒にいたかったんだ。
「………僕って間抜けなやつ、だ……」
今さらながらに、和美のことばが胸に堪えた。
「え? 何?」
バーに掴まって、体を揺らせていた和美がきょとんと顔を上
げる。
「あ、ううん、こっちのこと……いいよ」
「いっきまーす!」
よいしょ、と義足のバランスを確かめながら一歩ずつ歩いてくる和美を、正志はじっと見つめた。
和美は両足義足を付けている。今は自由に歩いたり走ったり跳ねたり飛んだりできない。
訓練すれば随分いろんなことができて、いろんな所へいけて、いろんな人に会えるだろう。
そしていつか好きな相手がまたできたとき、和美はきっと考えるのだろう、『どんなふうに一緒に生きていくのか』を。
少し顔を上げて、正志は周囲を見回す。いろんな訓練をする、様々な人。それを一緒に見守る人。笑顔もあれば、苛立った顔、不愉快そうな顔、泣きそうな顔もある。
けど、みんなどこかで考えている、どうやって相手と一緒に生きていこうか、と。気持ちや体や心に、こだわりや不具合やしんどさや辛さや、そんなこんなを詰め込みながら。
「あ!」
「っ!」
ぐら、と和美が体を崩れさせて、慌てて正志は手を差し伸べた。がしっ、と重い音がして、腕に倒れ込んだ和美が、赤くなりながら顔を上げる。
「あてて、焦っちゃった…」
「大丈夫?」
「ん、あたしは大丈夫、高岳さんは?」
「僕は」
ふいに、ぼろぼろ吹き零れてきた涙に和美がぎょっとした顔になった。
「高岳さんっ?」
僕は大丈夫、大丈夫じゃないのは君じゃないか、そう言いかけた自分に寸前で歯止めをかけた。
大丈夫じゃない?
大丈夫じゃないのは、彼女じゃなくて僕じゃないか。
正志には何かとんでもないものが欠けてしまってる。
だから、猛や和美や三上みたいに誰かと一緒に生きることができなくて、どうすればいいのかわからないんじゃないだろうか。
ふいに強烈にさゆの顔を思い出した。
さゆに、会いたい。
最終の郵便を届けて、理学療法の部屋に向かって歩きながら、正志は耳鳴りがするような気持ちで思わず自分の白衣を掴んだ。
看護師になって。涼子と結婚して。いつか子どもが生まれて。家とか持てればいいな、ぐらい?
『どんなふうに一緒に生きていくのかぐらい、考えただろう?』
少なくとも三上ほどは真剣に、どうやって涼子と生きていこうなんて、話し合ったこともないし考えたこともなかった、と思う。
だってさ、当たり前じゃん。
男と女が結婚してえっちして子どもできて、仕事持って家庭あって。
けど、母さんだって、そういう意味じゃ当たり前、じゃなかったんだよな。早くに相手が死んで、そっから一人で子ども育てるなんて、きっと考えてもいなかっただろう。
「こんにちはぁ」
「お、早かったね」
理学療法の押田先生が笑いかけてくるのに、何とか笑い返す。
「井上さん、歩行訓練なんだ、バー、見ててくれる?」
「あ、はい」
「あ、高岳さんだー」
部屋に居た井上がはしゃいだ声で迎えた。
「あたし随分歩けるようになったんだよー」
「そう、凄いや、見せてくれる?」
「ん!」
井上和美は今年中学生になる。生まれてすぐに不幸な事故があって、ずっと車椅子生活だったのだが、去年義足をつけて自力歩行できる見通しがついて、それからずっと歩行訓練を続けている。
本当は地元の中学へ通いたかったんだよね、けどダメなんだ、充分な設備がないからって断られちゃった。
そうあっけらかんと話した和美が、一瞬ひどく切ない顔になったのを、正志は覚えている。
なんで地元に通いたかったの、とその時無遠慮に聞いたものだ。聞いてすぐ、自分の質問の無神経さに恥ずかしくなってうろたえた正志に、少し黙って和美は静かに笑った。
ずっと好きな子がいて、その子と一緒にいたかったんだ。
「………僕って間抜けなやつ、だ……」
今さらながらに、和美のことばが胸に堪えた。
「え? 何?」
バーに掴まって、体を揺らせていた和美がきょとんと顔を上
げる。
「あ、ううん、こっちのこと……いいよ」
「いっきまーす!」
よいしょ、と義足のバランスを確かめながら一歩ずつ歩いてくる和美を、正志はじっと見つめた。
和美は両足義足を付けている。今は自由に歩いたり走ったり跳ねたり飛んだりできない。
訓練すれば随分いろんなことができて、いろんな所へいけて、いろんな人に会えるだろう。
そしていつか好きな相手がまたできたとき、和美はきっと考えるのだろう、『どんなふうに一緒に生きていくのか』を。
少し顔を上げて、正志は周囲を見回す。いろんな訓練をする、様々な人。それを一緒に見守る人。笑顔もあれば、苛立った顔、不愉快そうな顔、泣きそうな顔もある。
けど、みんなどこかで考えている、どうやって相手と一緒に生きていこうか、と。気持ちや体や心に、こだわりや不具合やしんどさや辛さや、そんなこんなを詰め込みながら。
「あ!」
「っ!」
ぐら、と和美が体を崩れさせて、慌てて正志は手を差し伸べた。がしっ、と重い音がして、腕に倒れ込んだ和美が、赤くなりながら顔を上げる。
「あてて、焦っちゃった…」
「大丈夫?」
「ん、あたしは大丈夫、高岳さんは?」
「僕は」
ふいに、ぼろぼろ吹き零れてきた涙に和美がぎょっとした顔になった。
「高岳さんっ?」
僕は大丈夫、大丈夫じゃないのは君じゃないか、そう言いかけた自分に寸前で歯止めをかけた。
大丈夫じゃない?
大丈夫じゃないのは、彼女じゃなくて僕じゃないか。
正志には何かとんでもないものが欠けてしまってる。
だから、猛や和美や三上みたいに誰かと一緒に生きることができなくて、どうすればいいのかわからないんじゃないだろうか。
ふいに強烈にさゆの顔を思い出した。
さゆに、会いたい。
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