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さゆの住所は駅を三つばかり離れた場所だった。
葵が電話番号を教えてくれなかったのは、止めても今日中に正志がさゆを訪ねると思ってのことだったのか。
住所を書き留めたメモをポケットにねじ込んで、正志は住宅街の中を歩く。日はもう落ちて、薄闇の中にぽつぽつと街灯が白い光を放っている。
「北白坂……3の……2」
街角に打ち付けられた古い金属板に書かれた住所を頼りに一つ一つ角を曲がっていって、掲示板で場所を確認して、ようやく辿り着いたのは小さな古い平家だった。
部屋数は4つもないだろう。古びた木の玄関があって、その隣に少し大きな部屋があるらしく、小さな庭に降りられるようになっている窓にレースのカーテンが揺れている。家の中から黄色みがかった灯りが漏れて、中で人が動くのが見え、正志はゆっくり立ち止まった。
家の回りを囲む生け垣は低い。正志の腰までだけど幅は広くて一気に飛び越えることはできない。
「あ」
ふいに窓のレースが揺れて、小さな顔が覗いた。何か気づかわしげに外を見上げる。釣られて正志も見上げて、頭上にいつの間にか上った月を見つけた。
淡くぼんやりと蕩けそうな甘い月。
「………」
なんだかふいと、張り詰めた気持ちが弛んだ気がした。
しばらく月を眺めていて、ふと気づいて窓に目を戻すと、もうそこにさゆはいなくて、ただ少しレースのカーテンが開いて部屋の中が見える。
奥の方の木の椅子に片膝をたてるように座って、さゆはイーゼルに立て掛けた絵を見ていた。今描き上げたばかりなのか、それともこれからどうしようかと迷っているのか。眼鏡は外されていて、まっすぐで強い視線がじっと絵に注がれている。白い半袖シャツに七分丈の水色ジーパン、カーキのエプロンにはあちこち色が飛んでいる。髪の毛は後ろでハンカチで括ってあって、ほつれた幾筋かが細い首に落ちている。
「描いてるときは眼鏡してないんだ……」
そりゃそうだよね、と一人呟く。
絵は眼鏡をかけてようとかけてまいと、『本音』を晒したりしない。さゆの顔は緊張はしているけれど、それでもどこか安心して満足そうで。
こういう顔であいつを見てたのかな。
こういう顔であいつと一緒に居たのかな。
ならば正志の入る隙なんてない、けれどこれじゃ会ったことにもならない。
遠くでじっと見てるだけ。涼子のときみたいに、桃花のときみたいに、周囲が勝手に憶測して思い込んで、それに口一つ挟めないまま流されてしまうだけ。
せっかくここまで来たのに。
葵が何を考えているのかはわからない、さゆを手に入れている男の余裕なのかもしれない、けれどそれでもきっと最初で最後のチャンスになる今、正志はどうして生け垣の外で立ち竦んでいる?
「……」
うん、と一つ頷いて、玄関に回ろうとした瞬間、ふいとさゆが部屋の中からこちらを見た。驚いたように目を見開く、その顔に正志もまたぎょっとして立ち止まると、さゆはうろたえた顔で慌てて手元を探って眼鏡を取り出し、かけながら部屋を横切って窓を開けた。
「……高岳、さん?」
「……こんばんは」
一瞬逃げ出したくなったけれど、それでも堪えて動かなかった自分を褒めてやりたい、正志はそう思った。窓から身を乗り出したさゆが、からからと窓を開いて縁側から庭へ、急ぎ足に近寄ってくるのをじっと見つめる。
きれいだな、と思った。
淡い月光、背後から家のオレンジの灯りに照らされて、ほつれた髪がきらきら舞う。小さな姿がどんどん近づいて、生け垣を挟んで見上げてきたその瞬間、泣きたいような気持ちになった。
よかった。
会えた。
君に、会えた。
葵が電話番号を教えてくれなかったのは、止めても今日中に正志がさゆを訪ねると思ってのことだったのか。
住所を書き留めたメモをポケットにねじ込んで、正志は住宅街の中を歩く。日はもう落ちて、薄闇の中にぽつぽつと街灯が白い光を放っている。
「北白坂……3の……2」
街角に打ち付けられた古い金属板に書かれた住所を頼りに一つ一つ角を曲がっていって、掲示板で場所を確認して、ようやく辿り着いたのは小さな古い平家だった。
部屋数は4つもないだろう。古びた木の玄関があって、その隣に少し大きな部屋があるらしく、小さな庭に降りられるようになっている窓にレースのカーテンが揺れている。家の中から黄色みがかった灯りが漏れて、中で人が動くのが見え、正志はゆっくり立ち止まった。
家の回りを囲む生け垣は低い。正志の腰までだけど幅は広くて一気に飛び越えることはできない。
「あ」
ふいに窓のレースが揺れて、小さな顔が覗いた。何か気づかわしげに外を見上げる。釣られて正志も見上げて、頭上にいつの間にか上った月を見つけた。
淡くぼんやりと蕩けそうな甘い月。
「………」
なんだかふいと、張り詰めた気持ちが弛んだ気がした。
しばらく月を眺めていて、ふと気づいて窓に目を戻すと、もうそこにさゆはいなくて、ただ少しレースのカーテンが開いて部屋の中が見える。
奥の方の木の椅子に片膝をたてるように座って、さゆはイーゼルに立て掛けた絵を見ていた。今描き上げたばかりなのか、それともこれからどうしようかと迷っているのか。眼鏡は外されていて、まっすぐで強い視線がじっと絵に注がれている。白い半袖シャツに七分丈の水色ジーパン、カーキのエプロンにはあちこち色が飛んでいる。髪の毛は後ろでハンカチで括ってあって、ほつれた幾筋かが細い首に落ちている。
「描いてるときは眼鏡してないんだ……」
そりゃそうだよね、と一人呟く。
絵は眼鏡をかけてようとかけてまいと、『本音』を晒したりしない。さゆの顔は緊張はしているけれど、それでもどこか安心して満足そうで。
こういう顔であいつを見てたのかな。
こういう顔であいつと一緒に居たのかな。
ならば正志の入る隙なんてない、けれどこれじゃ会ったことにもならない。
遠くでじっと見てるだけ。涼子のときみたいに、桃花のときみたいに、周囲が勝手に憶測して思い込んで、それに口一つ挟めないまま流されてしまうだけ。
せっかくここまで来たのに。
葵が何を考えているのかはわからない、さゆを手に入れている男の余裕なのかもしれない、けれどそれでもきっと最初で最後のチャンスになる今、正志はどうして生け垣の外で立ち竦んでいる?
「……」
うん、と一つ頷いて、玄関に回ろうとした瞬間、ふいとさゆが部屋の中からこちらを見た。驚いたように目を見開く、その顔に正志もまたぎょっとして立ち止まると、さゆはうろたえた顔で慌てて手元を探って眼鏡を取り出し、かけながら部屋を横切って窓を開けた。
「……高岳、さん?」
「……こんばんは」
一瞬逃げ出したくなったけれど、それでも堪えて動かなかった自分を褒めてやりたい、正志はそう思った。窓から身を乗り出したさゆが、からからと窓を開いて縁側から庭へ、急ぎ足に近寄ってくるのをじっと見つめる。
きれいだな、と思った。
淡い月光、背後から家のオレンジの灯りに照らされて、ほつれた髪がきらきら舞う。小さな姿がどんどん近づいて、生け垣を挟んで見上げてきたその瞬間、泣きたいような気持ちになった。
よかった。
会えた。
君に、会えた。
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