『ラズーン』第四部

segakiyui

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5.ダイン要城(4)

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(なるほど、これでは攻めようがない)
 ドーヤル老師の、のろのろした歩みに合わせて歩いていきながら、ユーノは思った。
 城壁の裏には兵士の寝起きする建物と少しばかりの土地がある。二区画行くか行かないかで、それは唐突に掘に遮られる。水面は地面より遥か下、水面から地面に上がるための足がかりは何一つなく、次の城壁となっている。
 同じ構造が三重に中央の城を囲み、間を繋ぐのは木の跳ね橋一つ、そこで一々入る者出る者を調べており、たとえ外の城壁内に忍び込めた所で、城主の居る所へ辿り着くまでには、後二つの関門を潜らなければならない。跳ね橋が降ろされるのも、どちら側かの門番が怪しい者ではないと相手側に合図を送った時のみだ。
 ぎっ……ぎっ……と不気味な音をたてて降りてくる最後の跳ね橋に、ユーノはじっとその向こうへ眼を据えた。
(確かに守りは堅い………だが、内からはどうだ?)
 得た情報を素早く攻撃に生かそうと考える。
(内側からなら崩せないか?)
「ここが最後の壁じゃよ、ユーノ姫」
 ドーヤル老師は細い顎で指し示し、ゆっくりと跳ね橋を渡った。後からユーノは落ち着いた足取りでついていく。
「そして、ダイン要城じゃ…」
 渡り切るや否や、再び鎖をきしませて上がっていく跳ね橋を背に、ユーノはドーヤル老師の向こうにそびえ立つ『黒の城』を見上げた。四角い箱をごちゃりと固め寄せたような基部、それと対照的なまでにほっそりと優美に伸び上がった尖塔。
「っ!」
 ふいに、がしりと両側から腕を捕まえられ、ユーノは体を強張らせた。いつの間に距離を縮めていたのか、質量高さともにユーノの軽く二倍はありそうな体躯の男達が、剣へ滑らせていたユーノの手と肩を押さえつける。中の一人が腰の剣を取り上げ、ユーノの目の前でめきっ、と音をたてて二つに折り畳んでみせ、薄笑いした。
「さて、ユーノ姫」
 ドーヤル老師が芝居気たっぷりに体を振り返らせた。嗄れた笑い声を上げながら、異様に丁寧な口調で続ける。
「儂のご案内もこの辺りまでじゃ。姉の姿を一目見せてやろうとも思ったが、レアナ姫は中央塔の主の部屋においででな、この老体を運ぶには少々堪える」
「うっ」
 腕を捻り上げて縛られ、ユーノは眉をしかめた。動かそうにも指先にまで痺れが走って、すぐに感覚がなくなってくる。
「ついでじゃ、そなたには面白い趣向をご用意いたそう。中央塔の下には小さな部屋があってな、人によっては生きて出られぬ者もおる。そこへお連れしようかの、ユーノ姫。何、感謝には及ばぬよ、そなたの誇りに礼を払ってのことじゃからな。ほっほっほっほっ……」
 ずん、と鳩尾に拳を突き込まれ、ユーノは体を二つに折った。込み上げたものを吐き捨てる。目の前が暗くなり、意識が暗黒の彼方へなだれ込む。
(く…そ…っ)
 レアナの居場所はわかったが、もう少し奥まで入り込みたかった、そう思いつつ、ユーノは気を失った。


 ダイン要城の手前で途切れているはずの地下道は、近くにあった隠し戸から容易に先を辿ることができた。
 もっとも常人では、そこから先の『正しい道』を辿ることは困難だったに違いない。これまでより数段複雑な枝道が交差しており、たとえ、リヒャルティが正確にセシ公の地図を覚え込んでいたとしても、長い間踏まれなかった道は、幾つかが崩れ落ち、幾つかが他の道と繋がり、とてもではないがダイン要城へ抜けられるようには思えなかった。
「く…そおっ!」
 リヒャルティなぞ一度ならずも叫んでいる。
「道なら道らしくしろよな!!」
 これが、一度『金羽根』を率いれば『羽根』の長にその人ありと謳われる、『緋のリヒャルティ』の二つ名があるのだから、人というのはわからない。
 年月を隔てたために造られてしまった迷路を、リヒャルティ一行が何とか抜けられたのは、アシャという類稀な視察官(オペ)が居たからに他ならない。
 どれほど長く地下道を彷徨っていたのか、アシャはやがて一つの枝道で立ち止まった。
「アシャ?」
「そこか!」
 訝しげなリヒャルティ、意気込んだ声のイルファをアシャは振り返った。額に滲んだ汗を押さえて、笑みを浮かべる。微かに上がる息を知られまいと声を張る。
「着いたようだ」
「は? 着いた?」
 リヒャルティがアシャの側を通り抜け、立ち止まった周囲を不審そうに見回した。出口らしい出口はない、扉も、抜け出られそうな凹みもない。
「どっから出るんだ? ここから掘るのか、道具もなしで? 何か扉でも隠されてるってんなら別だがよ!」
 アシャに喧嘩を売るように振り返り、平手でドン、と苛立った様子で突き当たりの壁を殴る。と、ミシッ、とどこかで何か、薄い板が圧力に耐えかねて剥がれていくような音が響いた。
「へ?」
 驚いて振り返るリヒャルティの背後で壁が緩やかに向こう側に倒れていく。
「わ、わ…」
 ドンッ!!
 リヒャルティが差し伸べた手で無論止まることもなく、薄っぺらな板に土がこびりついたような造りの壁が倒れて土埃が舞った。直後、開いた明るい空間の向こうで、周囲の建物を震わせて、慌ただしい足音と人の声が入り乱れ始める。
「あらら、リヒャルティ」
「完全にみっかりましたね」
 バルカとギャティがからかい口調で声をかける。密かに侵入するはずだった計画がぶちこわしだが、それにうろたえた風はなく、むしろ早々に一戦やりあえることを楽しんでいる声だ。
「リヒャルティ?」
 だが、リヒャルティの耳には二人の声が入っていないようだった。彼の眼は今、部屋の隅のベッドに腰かけていた娘に引きつけられている。
 殺風景な城に不似合いな娘だった。質素な目の荒い長衣を纏っているものの、見え隠れする肌は淡い光を放つような白さ、滑らかな腕から視線を這わせれば、肩から背中へと雪崩落ちる艶やかな栗色の髪が目に止まる。柔らかく波打った髪が包んでいるのは、卵形の白い面立ち、見張った瞳は極上の宝石を思わせる深みのある赤茶色、微かに開いた唇は震えながらもその輝きを失わず、どんな果実にもその膨らみの妙を例えられまい。
「あなた達は……誰ですか?」
 一瞬戸惑ったようだが、娘は静かにしっとりと問いかけた。ぽかんと口を開いて見つめているバルカ、ギャティ、何だ何だと近寄ってきたものの、同じく茫然と突っ立ってしまうイルファ、リヒャルティがごくりと唾を呑み、慌てて問いに答えようとするが、さすがの彼も自分の無作法さに気持ちが向いたのか、見る見る薄赤くなってもぐもぐと口を動かすだけ、ことばは喉に詰まったらしい。
 離れていた年月の間、その美貌はより大人びた優しさと甘さを増したようだ。
(無理もない)
 自分だって初めてレアナを見た時は、似たような反応をユーノにからかわれた。
「レアナ様」
 苦笑しながら、アシャは突っ立った仲間の横を擦り抜け、声をかけながら歩み寄った。
「ま…あ……アシャ! アシャですね!」
 レアナはあどけないと形容したほうがいいような邪気のない笑みを浮かべて立ち上がり、進み出たアシャに飛びついてきた。細い腕が素直に自分を抱き締め、乱れる柔らかな髪から花の香りがする。細身には豊かな胸ごと抱きとめ、ふと、レアナの手首に赤い痣がついているのを見咎める。
「これは」
「ああ……少しの間縛られていたのです。でも、大丈夫ですわ」
 手首を見遣って眉を潜め、けれどすぐにレアナは笑み返した。
「それよりも」
 また不安げな顔になる。移り変わる表情の豊かさに相変わらず魅せられる。
「あなた達の方が危ないのではありませんか? ここはガデロと言う国だと聞いていますが……」
 はっとしたように顔を強張らせる。
「ユーノは? アシャ、あなたがここに居るということは、あの子も居るのですか? どうしているのです?」
「あいつ、いや、ユーノなら大丈夫ですよ!」
 ようやく我に返ったらしいイルファが、陽気な声を張り上げる。
「あなたは…」
 訝しそうに見るレアナに、満面喜色をたたえ、
「俺、いや私はレクスファの剣士、イルファ。どうぞお見知りおきを!」
「イルファ、ですね」
 レアナは繰り返して、ほ、と小さく息を吐き、アシャから離れた。にっこり笑いながらことばを継ぐ。
「私はセレド皇国、第一皇女、レアナ・セレディスです。ユーナ・セレディスは愛しい妹です」
「あ、お、俺は!」
 バルカが咳き込みながら声を上げた。
「セシ公配下、『金羽根』のバルカで…」
「ぼくは『金羽根』のギャティ…」
 同時に名乗りを上げたギャティの声が被る。
「バルカにギャティ…」
 一人ずつ眩げに見やるレアナ、でろりと崩れる双子の顔に、
「俺はリヒャルティ、それはいいが、お姫さん」
 割って入って、リヒャルティはくい、と部屋の扉の向こうを顎でしゃくった。
「詳しいことは後にしようぜ、うるさくなりそうだ」
「気づいてたのか」
 アシャは笑いながら、レアナを扉から庇う。
「あたぼうよ。いくら別嬪だからって、ここで抜けてちゃ、『緋のリヒャルティ』の名が泣くぜ」
「レアナ姫は俺に任せとけ!」
 イルファが叫ぶ。
 同時に扉がきしんで叩きつけられるように開かれた。


 暗い夜道だった。
 冷え冷えとした夜気は剥き出しにした肌に牙をたてるほど凄まじく吹きつけてくる。凍てついてくる体を抱き締めようにも、左手は誰かが縋っている、右手は抜き身の剣を下げている。
 そしてユーノは、ただ一人、黙々と漆黒の闇の中を歩き続けている。
(寒いな)
 心のどこかが疲れた調子で呟くのを、ユーノは首を振って振り払った。
 いっそこのまま果ててしまおうとする気持ちを、掴まれた手が引き止める。振り返れば、縋ってくる相手はセアラの幼い顔に、レアナの憂い顔に、母の涙顔に、父の心配そうな顔に、次々と変わっていった。
 ずくりと心の傷が鈍痛を訴える。
(泣かないでよ)
 小さく呟く。
(私のために泣かないで)
 わかっているんだ、と声にならない呟きを続ける。
 このまま夢も見ずに眠り込めば、この寒さだ、すぐに凍死するだろう。それは、或いはこうして、指先の感覚を奪っていく冷風に身を晒して歩き続けるより、楽なことかも知れない。いや、数段苦痛はましだろう。
 だが、そうした時に、ユーノの左手に縋って歩き続ける人々が、どれほど悲しむかもよくわかっていた。
 父母の保護は諦めている。誰からも守ってはもらえないことも、嫌になるほど悟っている。けれど、もしユーノが死んだら、父母は嘆くだろう。姉は悲しむだろう。妹は泣きじゃくるだろう。自分が倒れることより、そんな想いを家族にさせることの方がやるせなくて辛い。
 だからユーノは暗い夜を歩き続けている。
 左手に絡む指は重く、右手の剣はなお重くユーノを縛り、そして風は真っ向から吹きつけてくる。
 と、その風が一瞬止み、ユーノはぎょっとして立ち止まり、目を見開いた。
(誰…?)
 近くに人の気配、どこだ? 
(前?)
 叩きつけてくる嵐からユーノを庇うように立つ、人の影がある。
(誰なんだ……?)
 警戒するように問いかけたユーノに、影は一歩近づいてきた。ふっと温かなものがユーノを包む。手を回し、ユーノの体を背後に抱いてくれる。
(守って……くれる…?)
 呆然と、信じられぬ想いで立ち竦む。
(私…を? ユーノ、を……?)
 そうだ、と影は低く囁いた。肩越しにくぐもった声が答える。万感の想いを込めるように熱く、けれども穏やかに。
 お前を、お前だけを護ってやる、俺の命かけて。
(金のひと…?)
 それは『氷の双宮』で死にかけた時に、ユーノを果てのない夜から引きずり上げてくれた彼の人に似ていた。ユーノを抱き締めた腕に、その囁きを聞いた気がする。受け止められた腕に、その想いを読み取った覚えがある。
 誰何したユーノのことばに反応したのか、影の肩あたりできらりと光るものがあった。振り返る影、突然閃いた光芒を受け、輝く黄金の髪、透けてなお悩ましく妖しい紫青の瞳。
(アシャ?!)
「!」
 びくっ、と体を震わせてユーノは目を開けた。
 眼前に広がる、黒っぽい岩天井、薄暗く澱んだ四方の壁、体の下の床の冷たさに、自分の現状を悟る。
(地下牢…)
 咄嗟に浮かせてしまった頭をそろそろと横たえながら、ユーノは油断なく辺りを見回した。
 放り込まれてどれぐらいたったのだろう。ぎっちりと後ろで縛り直された手首足首、その感覚のなさからいって、決して短い時間ではないだろう。体は地下の湿気で冷えきり、灯一つない部屋の、備品の一つと化したようだ。
「……」
 ユーノは無言のまま、身動きせずに目だけを動かしていった。
 それほど大きな部屋ではない。窓らしいものは一つもない。黒い岩石造りの四角い箱のような部屋、何かが絡みついた彫工を施した柱様のものが、部屋の四隅とその各間に一本ずつ、ユーノはその中の一本の前に転がされている。頭側にぽっかりと口を開けた入り口、そこから階段が地上へと繋がっている様子だ。
 正面の壁には吊るされたり立てかけられたりした様々の武器が並べられているが、それが尋常一般に使われるものでないらしいことはすぐにわかる。手鎖足輪首輪は言うに及ばず、棘の巻きついたムチ、どす黒い色に染まってぎらぎらと正視に耐えない妙な形の剣に鎌、太い棘が全面に突き立つ寝台。鋭利な刃を数枚重ね合わせたような半円形の刃は、振り子のように鎖で寝台の上に吊り下げられている。
(拷問……てなもんじゃないな)
 ゆっくりと目を細めた。
(いたぶり、殺すための武器……)
 殺気だってくる心の隅に、ふわりと金の髪の印象が舞った。
「ふ…ぅ」
 小さく息を吐く。その印象が与えてくれる暖かさに、少しの間心を休ませる。
(拷問部屋で見るにしては)
 切なさを一瞬に振り切る。
(いい夢だった)
 目を見開いて気合いを入れた。
 見張りはいない。あのしたたかなドーヤル老師が、せっかく捕まえた捕虜の相手もせず、張り番一人も置かず、バール将軍とやらにご注進に行くはずはない。
 なのに、現実、ユーノは一人で放っておかれている。ということは、ユーノ如きに構っていられない事態が生じたということに違いない。
 耳を澄ませると、遥か遠くの高みで何かのざわめきが響いている。
(アシャ達がやったな)
「つ…」
 にや、と笑って手を動かそうとして、腕に痛みを感じて眉を寄せた。感覚の鈍った手にもわかる、温かなものが伝い降りる。そろそろと振り向くと、こちら側の壁にも異様な武具は並べられていて、その中の一つの刃が腕を切り落としかけたのだとわかった。
「ちっ…」
 舌打ちして左に転がった。前方にあるのは木製の机と、酷使に耐えかねたのだろう、ひび割ればらばらになる寸前になった毛皮のみ、その辺りへ二回、三回と転がっていく。何とかもぞもぞと足を動かしながら感覚の戻るのを期待したが、無駄だった。溜め息をついて止まり、しばらく岩天井を見上げる。まだ誰も降りてくる気配はない。だからと言って、ずっと誰も降りてこないわけでもないだろう。遅かれ早かれ、誰かが降りてきて命じられた通りにユーノの始末にかかるに違いない。
「……」
 一瞬唇を噛んで考え、ユーノは再び壁に立てかけた刃物群の方へ転がっていった。ごつごつとした床に体のあちこちをぶつけながら、よく切れそうな刃の側に辿りつき、重い体を曲げ伸ばししつつ、立てかけられた武器の間に何とか入り込む。
 目の前にはぞくぞくするような、磨き抜かれた棘をまとった棒がある。背後は棒の三方に刃を取り付けた、細長い槍のような武具だ。
 その刃の一つを背中にするような形で、ユーノはじりじりと壁に体を押し付けてずり上がっていった。不安定な体勢、痺れて感覚が鈍い手足を引きずり上げ、引き寄せる。肩から腕を壁に押しつけ、縛られた両脚でゆっくりと床を蹴る。ぐにゃりとした感触に絶望しそうになるのを堪え、何度か繰り返していく。
 前に倒れれば光る棘に串刺しになり、背後に倒れれば刃で背中を断ち割られる。焦って速まる呼吸を、途中で一つ、目を閉じ静かに吐いて吸う、再びじりじりと武具の間を這い上がって、二つの武具の間に何とか体を入り込ませて座る。
 軽く弾んだ息を少しずつ整えながら考える。
 今のままではユーノは居なくてもいい人質だ。アシャ達がうまくレアナを助け出してくれたとしても、ユーノを盾にされては身動きとれなくなる。ユーノを見捨ててくれればいいが、アシャはきっとそうしないだろう。仲間を捨てるような男じゃない、だからなおさら、ユーノはここから自力で抜け出さなくてはならない。
「ふ…」
 息を吐き、肚を据える。背後の刃の位置を見計らいつつ、体を寄せていく。後ろの武器の金属臭、それともこれは、目の前の棘が吸ったことのある血の匂いだろうか。ぎらつく棘の光から目を閉じ、世界の全てが自分の背中にあるように意識を集中させる。
「っ」
 じりっ、と手首を縛った縛めが小さな音をたてた。刃が当たっている。だが、少しずれている。間近にある金属に、皮膚がちりちりと細かな波を走らせるのがわかる。少し腕を動かして刃に当て直し、そのまま上下させていく。じり、じり、と縛めの繊維一本一本が切られていく音が体に響く、それだけを聞く。
「は…」
 流れた冷や汗にもう一度息を逃がした。
 苛立ってはいけない。急ぎ過ぎてはいけない。気負い込んで倒れれば、よくて手首を切り落とし、悪くすれば、そのまま背中から二つに裂かれてしまう。だが、遅過ぎても、見張りかドーヤル老師が帰って来てしまうだろう。
「!」
 手首に焼かれたような痛みが走り、思わずぎくりと身を震わせた。下になっていた左手の感覚の戻りが遅くて、肉まで多少刃が食い込んでしまった。流れ出すぬめり、だが幸いにも左手の縛めは完全に切れた。少し体を揺すると、両手がだらりと背後に落ちる。腕で手を引き寄せ、口許に持ち上げて傷を含みながら、何度か指を曲げ伸ばしする。急速に戻ってきた動きにほっとした。左手首と右腕からたらたらと流れている血に構わず、もう少し安定した姿勢で壁にもたれ、転がっていた剣で足の縛めも切った。足先を動かし、足首の感覚が戻る間に、チュニックの端を剣で裂いて、両腕の傷に縛りつける。
「ふぅ」
 とりあえず、少しは自由になった。後はこの自由を十分に生かせる力だ。
 手首足首を屈伸しながら、周囲の武具を物色する。軽くてなかなか切れ味が落ちない類のものが欲しい。多勢に無勢、血路を切り開く途中で交換は望めないだろう。だが、この部屋にはあまりよさそうなものがなかった。たまたま手にしているこの剣が一番扱いやすそうだ。
 感覚が戻ったのを確認して、武具の隙間から起き上がった。部屋の真ん中で代わる代わる両脚を踏みしめてみる。腹部に鈍痛があるのは当て身のせいだろう。二度三度剣を振ってみる。やや重いが、結構使い込まれている。すぐに手になじむ。
「…?」
 と、その時、壁の向こうで妙な物音が響いて、ユーノは振り返った。
(何だ?)
 何とも言い表しにくい音、あえて言うなら、濡れそぼった革袋に石を詰めて引きずっていくような音。水が滴る音と一緒に、細い通路を途轍もなく太いものが、壁を擦り天井を擦りながら無理矢理通り抜けていくような音もしていた。
 しばらく耳を澄ませてみたが、音はもう聞こえない。
「何だろう……ん?」
 とっさに構えた剣に答えを求めて目を落とし、ふと、その柄の紋章に気づいた。
 三角形に、緑の貴石をはめ込み、その中央に白く輝く宝石の棒、黒玉の棒を斜め十字に交差させたものを金で固めて食い込ませてある。
(緑に白と黒のぶっちがい……バール将軍の紋章?)
 思わず眉をひそめる。
 ダイン要城の主であるバール将軍の紋章入りの剣が、どうしてこんな拷問部屋なぞに捨て置かれているのだろう。
「わああっ!!」「うぉおおっ!!」
「!!」
 突然、上の方で悲鳴とも怒号ともつかぬどよめきが起こって、はっとした。閧の声にしてはおかしい。何か怯えたような泣き叫ぶような響きだ。 
(アシャ! レアナ姉さま!)
 ユーノは身を翻して、地上へと続く階段を駆け上り始めた。
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