『ラズーン』第五部

segakiyui

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2.暗雲(4)

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「は、あっ!」「はいっ…はいっ!」
 ユカルと代わる代わる掛け声を掛け、ユーノは一路、ミダス公とアギャン公の分領地の境へと急ぐ。砂埃を上げて走る平原竜(タロ)の匂いに、懐かしい想いが甦る。
(また、アシャに怒られるな)
 引き締めた唇の奥で、微かに笑う。
(ごめんよ、アシャ)
 止められないのだ、自分でも。
 心のどこかで、いつも敵を捜している気がする。心が切なければ切ないほど、一人だと思い知らされれば思い知らされるほど、それらを一瞬にして燃え尽くしてしまえる戦いを求めている。
(剣の神…戦いの女神の祝福を一身に受けた、いつもそう言われてきた)
 それが、十二の時から甘えることを許されず、守ってもらえることを夢見ることもできず、ただ夜の静寂を引き裂いて戦い抜いて来た報償なのか、それとも生まれ持った天性の業なのかはわからなかった、が。
(戦士、と、そう人の呼ぶ…)
 死に場所を求めているのかも知れない。心の葛藤を噛み締めるのが嫌さに逃げ続けているだけかも知れない。けれど、いつも、戦いの中でこそ、自分の真実が掴み取れる気がする。
(それに…私が出れば、アシャの負担を少しでも軽くできる)
 一人屠れば一人分、二人屠れば二人分、アシャの身を守れることになる。
(こんな守り方しかできない)
 ごめんね、アシャ。
(でも、仲間だもんね)
 できることなら、レアナのように唯一の帰れる場所になりたかった。行き場のない想いを持て余してぶつける時、傷つき疲れた躯を休める時、ただどうしようもなく誰かの温もりが欲しい時、側に居て、その身を受け止め、抱き締め、慰められるような存在となりたかった。
 唯一の、魂の伴侶となりたかった。
「ふ…」
 ユーノは息を吐き、流れた汗を振り払って上空を見上げた。晴れ渡っていた空は、行く手の方から、今重苦しい灰色に澱み始めている。
(嵐になればいい)
 風が髪を巻き上げ始める。足下の地面が地響きと風で埃立つ。
(そうすれば、その間だけは)
 こんな切ない自分を忘れられる。
「ユーノ!」
「っ!」
 ユカルの声に我に返った。指差された先を見て、ごくりと唾を呑む。
 それはまるで、黄色の巨大な昆虫のようだった。
 馬に乗り、或いは歩き、ほぼ百人近くのモス兵の隊が、黄色のマントを翻しながら、ゆっくりと三角洲の方へ移動していっている。ラズーンの外壁からそれほど離れていない、モスとラズーンの境界を舐めるようにしてモス兵士の群れは動き続けている。
「こんな鼻先で!」
 ユカルが悔しがった。
「ユカル!」
 と、見る間に、その中の一隊が分岐して、ユーノとユカルを迎え撃つように広がり始めた。およそ三十騎、どの顔もしたたかそうな日に焼けたごつい顔立ちだ。
「畜生!」
「変だと思わないか、ユカル!」
 ユーノは叫んだ。
「どうして、あんなにすぐに『ボク』らを迎え撃てる? まるで知ってたみたいに……!」
 はっとした。ユカルが凄んだ笑みで振り向く。
「裏切り者が居たようだな、『ミダスの屋敷』に!」
「くっ…」
 ユーノの頭の中に、ミダス公の屋敷に居る人間が次々と浮かぶ。『銀の王族』は除外できる。ミダス公あたりはどうだ? いや、それにしてはやり方が露骨すぎる。こんな迎撃の仕方をすれば、自分が裏切り者だと叫んでいるようなものだ。とすると、客人として遇されている誰かか? 今ミダス公邸に居るのは、ユーノ達に数人の視察官(オペ)に『羽根』…。
(視察官(オペ)…?)
「来たぞ!」
「わかってる!」
 双方全力疾走で近づくのだから、ユーノ達とモス兵士がぶつかるのに時間がかからなかった。
「はぅっ!」「いえっ!」「ぎゃっ!」「うわあっ!」
 ジャキッ!! ガガガッッ!!
 鼓膜を無理矢理震わせるような剣戟の音が、たちまち周囲を圧する。切り込むユーノとユカル、交わる剣と剣が火花を散らす。
「覚悟しろっ!」「甘いっっ!」
 首を狙った剣を跳ね上げた。キンッ、と鋭い音がして、モス兵士の剣先が折れ飛ぶ、相手が怯む隙をついて一閃、一刀のもとに相手を倒して、なおまっしぐらにヒストを駆る。
(こんな所で足止めを食らってるわけにはいかない)
 残りのモス兵士は刻々と三角州へ向かっている。いかに戦い慣れている野戦部隊(シーガリオン)とはいえ、二人で残りの七十人前後を相手にしろと言う方が無茶だ。
「ユカル!」
 相手の剣が引いた僅かな隙をつき、ユカルの手が空いたのを視界の端で捉えたユーノは叫ぶ。
「ここはまかせて先へ! 知らせるんだ!!」「そうはいくか!」
 苛立ったユカルが負けじと叫び返す。
「いくらお前が『星の剣士』(ニスフェル)だって、一対二十で無事でいられるかよ! はいそうですかって放り出せると思ってるなら、見損なってるぜ!」
「ああ!」
 ガシュッ、と剣を一気に滑らせ革製の鍔を切り落とし、そのまま掲げたモス兵士の腕を斬り飛ばし、返り血から一瞬身を引いたユーノは、跳ね返るような次の一撃で相手を仕留めながら叫んだ。
「見損なってたよ!」
 次々と斬り掛かってくる剣を躱しながら続ける。
「計算もできない阿呆だとは思わなかった!」「何いっ!」
「考えろっ!」
 また一人、相手を倒して一瞬ユカルを振り返る。
「今、ユカルが見張りの二人に知らせて連れ帰れば、四対九十で済むけどなっ」
 隙だと見えたのか、あっさり突っ込んでくる兵士の薄ら笑みはユーノの剣先で二つに裂かれる。
「このままいけば、見張りは嬲り殺し、『ボク』らも疲れてきて、そのうち一対五十、いや、一対七十でやりあう羽目になる!!」
「うっ」
「その前に、アシャ達が来てくれるとは限らないんだぞ!」
 むしろ、全てが終るまで来れない可能性の方が遥かに多い。それほど、モス兵士達は均等にいい腕をしていた。新兵を含んでいない、言い換えれば、ある目的のため選りすぐられた一軍ということだ。
「く…そおおっ!」
 唸ったユカルは忌々しげに声を絞り出しながら、一人を蹴り倒して止めを刺した。
「わ、かった! 一人で大丈夫かっ?!」
「それこそ、見損なうなよ!」
 ユーノはにやりと唇を上げる。
「『星の剣士』(ニスフェル)の名前を誰がつけたと思ってる!」
 暗にシートスの眼力を疑うのかとほのめかせば、ユカルは目に見えて気持ちを固めた顔になった。だが。
(つっ)
 左肩が嫌な疼き方をした。閃光のように走った痛みはあまり時間がないと告げている。
(本当に冗談じゃない、早くケリをつけなくちゃ、左手が保たない)
「く、わかった! 後は頼むぞ!」「ああ!」
「待て!」
「おっとこっちだ!」
 隙をついて包囲を抜け出し、一気に速度を上げて離れていく平原竜(タロ)を追おうとしたモス兵士の前に立ちふさがる。
「追わせるわけには……いかなくってね」
「そこを退け!」
「力づくで、こいよ」
 くい、と顎を上げて挑発すれば、向かい合ったモス兵士の顔が見る見る赤らんで膨れ上がった。
「この……くそガキが!」
「……」
 見る見る相手に滾ってくる怒りの炎、それを見据えてゆっくりとユーノは息を吐き出し、呼吸を整える。両手を開き、静かに元の位置に戻して剣を構える。傍目には単に剣を持ち直しただけと見えるだろうが、指先まで張りつめた意志の力は、剣の速度を上げ、動きを精密にする。
 アシャに習っている剣法は完成していない。今使えば、左腕に負担がかかるのは必至、まずくすれば再び左手が使えなくなる。
(でも、生き残るには、これしかない)
 いつもそうだな、とユーノは微かに苦笑した。
 どう生きればいいか、ではなくて、どうしたら生きられるか。あれをするか、これをするか、ではなくて、これをするかしないか。
 選択肢はいつもうんと少なくて、天秤の片方には必ず屍が乗っている。
(左腕を、捨てる)
 息を溜めて覚悟を決めた。
(だって、生き残りたいから)
 もう一度、アシャの笑顔を見たいから。
「い、やあああっっ!」「たああああっっ!!」
 正面と別方向から同時に襲い掛かってくる敵、挟み撃ちに叩き込まれる寸前、すうっとユーノの躯が沈む。
「ぎゃっ!」「げえっ!」「ひいっ!」
 剣の軌跡が蒼白く光を跳ねた。襲い掛かった二人と、その背後からおこぼれに預かろうとした一人が、次々に手首と片腕、首を裂かれて血煙を上げ、馬から転がり落ちた三人に、周囲が一瞬怯む。前に出ようとしていた歩兵がじりじりと背後に下がるのを見て、ユーノは薄笑みを浮かべた。
「さあ…どうする?」
 自分が軽く肩で息をしていると気づいている。額に汗が滲んでいる。弾んだ呼吸が戻らない。左肩が重くてわずらわしい。
 同じことを対峙しているモス兵士達も見て取っている。互いに目配せをし合って、ユーノを取り囲む。
 確かに凄まじい遣い手だ。だが惜しいかな、体力不足は明らか、幾重にも攻撃をしかければ、消耗し切って落ちるのは目に見えている。
 そういう囁きが聞こえるようだ。
(ちぇっ……足りない、なあ)
 諦観に似た苦笑がユーノの唇を過った。ユカルに放ったはったりにもほど遠く、自分の力は圧倒的に足りない。だからといって、今更引けもしないのだ。
「……参る」
 モス兵士の一人が呟いて剣を掲げる、次の一呼吸を待たず、無言の気合いもろとも、折り重なってくるように五、六人のモス兵士がユーノの上に覆い被さってきた。

「くそっ……くそおっ!」
 ユカルは懸命に平原竜(タロ)を急がせた。さしもの平原竜(タロ)も喘ぎ、ほとんど限界にきていたが、焦燥はユカルを駆り立てて止まない。
(俺が、せめて、俺に隊長ほどの腕があれば!)
 そうであれば、ユーノ一人をあの修羅場に置き去ることなく戦い抜けた。最後は敵に刺し貫かれるしかなくとも、最後の最後まで互いの背中を守り合えた。
 だが、今は確かに、ユカルはこうして使者として走るしかない。あのまま残ったところで、今のユカルではユーノを助けるどころか、彼女の脚を引っ張りかねない、そう判断して三角州へと奔り続けている、が。
(俺は……俺は!)
 額帯(ネクト)は誇りの証、自信の源であって、それを負担や重荷に感じたことはこれまで一度もない。だが、ユカルはそれを剣技で受けたのではなかった。物見(ユカル)としての類稀なる才能に対して授かったものだ。
 モス兵士の侵攻を逸早く気づけたと、ついさっきまでは誇らしかったそのことが、今は無性に悔しかった。
(剣で受けていれば! 受けられるほどの剣技を持っていれば!)
 憤りを強く叫んで吐き出す。
「はあっ!!」
 それでも、今できることをするしかない。
 顔を歪め自身も喘ぎながら、ユカルはなおも平原竜(タロ)を猛らせ駆り立てる。まだか、まだ先か、仲間は、モス兵士は、そう苛立ちながら前方を透かし見たユカルは、ぎょっとして危うく平原竜(タロ)に急制動をかけるという無茶をしそうになった。
「な…にっ……?」
 前方から二騎駆けてくるのは馬ではなく、仲間の平原竜(タロ)だ。そして、その側に栗毛の馬を蹴立てている眩い姿、あれはきっとアシャだろう。だが。
「モ、モス兵士は…? どこに行った?」
 必死に周囲を見回すが、あれほどの大隊がどこにも見えない。ユカルやユーノの接近に警戒して速度を上げたとしても、歩兵も居た、人数も居た。あれほどの集団がこんなに見事に掻き消えてしまうわけもない。
(夢を見た、のか…?)
 いや違う。駆け寄ってくる平原竜(タロ)と馬の背後の景色は、今もまだ土煙と砂埃に霞み、今の今までかなりの集団が移動していたことを教えている。なのに、その本体が影も形もない。
「アシャ! アシャ・ラズーン!!」
 答えを知っているのはただ一人だろう。ユカルは大声で呼ばわりながら、平原竜(タロ)の速度を緩めることなく近づいていく。
「物見(ユカル)!」「『星の剣士』(ニスフェル)は?! 」
 口々に問いかけてくる仲間の問い、ユカルもようよう速度を落としつつ叫び返す。
「どうなってるんだ! 奴らは?!  モスの大隊はどうした!」
「っ」
 その一瞬に仲間の顔に過った奇妙な表情を、ユカルは長く忘れなかった。ちらりと視線を走らせた、その先には平然とした顔のアシャ・ラズーン、近づくユカルの問いに声を荒げることもなく、淡々と言い放つ。
「宙道(シノイ)だ」
「…は?」
 ことばの意味が掴めなかった。弾んだ呼吸を整えながら、同じように速度を落として合流した相手の顔をまじまじと見つめ返す。
「急いでいたからな」
 曇天の下、今にも降り出しそうな空模様を背景に、光を浴びてもいないのに鮮やかな金褐色の髪が、砂埃の風に舞う。
「宙道(シノイ)…?」
 繰り返して、何とかその意味に辿り着く。
(宙道(シノイ)に連れ込んだ、って?)
「で、でも」
 ユカルは思わず周囲をもう一度見回した。
「あれだけの大隊をどうやって」
「……ラズーンの外壁を調べると、巧妙に隠された宙道(シノイ)の出口があった。辿ってみると、思った通り、三角州に続いていた」
 アシャのことばは穏やかだ。穏やかで静かで、それだけに妙に凄みがあってぞくぞくする。
「後は簡単だ。宙道(シノイ)を辿って三角州に出、待機していた彼らに状況を話し、あのあたり一体に入り口だけの宙道(シノイ)を幾つか造った」
 ちらりと冷ややかな紫の瞳が背後を流し見る。いつもならば、誘惑されているのかと思えるほどの華、しかし、その花弁は今、凍りつくほど鋭く尖った刃だ。こちらを傷つける気負いさえない。触れれば切れてしまうだけ、それほどそっけない。
「入り口だけの、宙道(シノイ)?」
 そんなものがあるのか。ましてや、そんなものを人が造り出せるのか。
 疑問を込めて、側の仲間を見やったが、仲間二人はどこか蒼白い顔でアシャを見ているだけだ。
「宙道(シノイ)の使い方を知っているのは視察官(オペ)ぐらいだろう。奴らに出口があるかどうかの見分けはつくまいと踏んでね」
 色鮮やかな唇に、今微笑が過らなかったか。
「案の定、いつもの入り口が増えたぐらいにしか思わなかったんだろう。三々五々、素直に次々と入ってくれたから、最後の一人が入った後に宙道(シノイ)を閉じ、封じた」
「宙道(シノイ)を閉じ、封じる…」
 宙道(シノイ)を滅多に使うことがない野戦部隊(シーガリオン)とはいえ、それがどんなものであるかは見聞きしている。この世ならぬ世界の狭間を通って貫かれた闇の道、その中を通る時には馬は怯え、心弱い者は悪夢にうなされて眠れぬほどの不安を抱くという。
 いくら国策による侵攻とはいえ、そのような道を進むためには、強靭な精神とたじろがぬ気概が必要だろう。新兵を含めなかったのも納得出来る。心身とも強く逞しい者が選り抜かれ、闇の道を進軍したのだ。
 だが、今回の道には出口がなかった。どこまで進んでも、どこにも出られず、どこにも辿り着かない道を、ただひたすらにどこまでも歩き続ける。
「…」
 ユカルは思わずぞくりと体を竦めた。ただでさえ翳っている陽が、なお弱々しく光を失った気がする。
「でもアシャ、何かのきっかけでまた開くということは」
「無理だな」
 ぱさりと乾いた声音で言い放ち、アシャが冷笑した。
「俺の封印は俺にしか解けない。それに」
 またもや唇を掠める笑み。禍々しさなど一切ないのに、なぜだろう、人の笑みに見えないのは。
「宙道(シノイ)はそれほど丈夫なものではない。時々に補強しなければ、いずれ形を失って無に帰す。おまけに少なく見積もっても入ったのは五十人そこそこ、急ごしらえの宙道(シノイ)がそれだけの負荷に耐えられるとは思わない」
「……耐えられないとなったら、どうなりますか」
 聞かなくてもわかったが、聞かない方が怖かった。
「閉じた瞬間に、おそらくは崩壊しただろう」
「…崩壊…」
 茫然としたユカルの顔は、きっと側の二人の仲間と同じ表情を浮かべていただろう。
(この人は何を言ってるのか、わかってるのか)
 今、その手を血で汚しもせずに、五十人の命を一瞬で奪った、そう話している。
(いや、わかってる)
 アシャはわかっているのだ、自分が何をしたのか、十二分にわかっている。
 わかっているからこそ、これほど静かに冷静に話す事ができる。宙道(シノイ)を造った瞬間、いや造ろうと考えた瞬間に、彼らの命を握り潰す覚悟などできてしまっていたのだ。
(これが、『氷のアシャ』の本性…)
 多くの悲惨な戦いを勝ち抜き生き残ってきた隊長、野戦部隊(シーガリオン)のシートス・ツェイトスが頭を垂れるのは、アシャが上将だからではない。一か八かの決断を、ためらいなく容赦なく行って、確実に成功させるからだ。
(別人じゃないか)
 ユーノと居るときは、これほどの冷たさは感じなかった。むしろ、ユーノに振り回されている優男、そんな気配でさえあったのに、今目の前にいる男は、その優しげな面立ちからは想像もつかぬ非情さを見せて、周囲の緊張にたじろいだ様子もない。
(怖い…人だ)
 この刃が、もし自分に向けられたなら。
(俺は確実に殺されてる)
 思わずぶるっと体を震わせ、はっとする。
「そうだ! 『星の剣士』(ニスフェル)!」
 ユカルは今までのことを手早く話した。
「ということで、俺は『星の剣士』(ニスフェル)を残して……アシャ?」
 食い入るようにユカルを見つめていたアシャが、ふと何かに呼ばれたように目を逸らせる。釣られて、ユカルはアシャが視線を転じた先を見つめる。
「…」
 いつの間にか、背後の土煙はおさまっていた。
 一頭の馬が、累々と人の倒れている大地を後ろに、生き残った人間を乗せてこちらに並足で歩いてくる。馬の額には『白い星』(ヒスト)、乗り手の髪が、焦げ茶色のその色を滲ませるように、荒々しくきな臭い風に舞う。
「『星の剣士』(ニスフェル)!」「凄い! 無事だぞ!」
「いや…」
 歓声を上げる二人の見張りに、アシャは軽く首を振って馬の向きを変えた。流れるような動きでそのまま馬を駆けさせながら言い捨てる。
「あいつ、気を失ってる」
「え?!」
 言われてユカルも気づいた。ぼんやりとこちらを見つめているユーノの目は空ろ、ヒストが方向を外れても正そうとしない右手には、まだ剣が握られている。
「『星の剣士』(ニスフェル)!」
 平原竜(タロ)の向きを変え、ユーノの側に走り寄ろうとするユカルより一瞬早く、アシャが馬を飛び降りヒストに駆け寄る。それと同時に、ユーノの右手に張り付いていた剣が落ちて地に突き立ち、その勢いに引き寄せられたようにぐらりと揺れたユーノの体がヒストから崩れ落ちた。待っていたかのように、差し出されたアシャの腕がユーノをしっかり受け止める。
「『星の剣士』(ニスフェル)!」
 平原竜(タロ)から飛び降りたユカルの前で、アシャは両腕に抱えたユーノをどこか儚い優しい表情を浮かべて抱き締めた。頬をそっとすり寄せる、今にも消え失せる幻を抱くように。この上なく愛しい、この上なく貴重な存在、掠り傷だらけで埃に塗れていようと、これは至上の宝物なのだ、そういう顔で、苛立たしげに甘く呟く。
「ばかが…」
 凝視するユカルの胸でちりっと熱い痛みが弾ける。
(何て優しく、『星の剣士』(ニスフェル)を抱くんだ)
 敵にあれほど容赦なく振舞う男、その指先一つで世界を滅ぼしかねない男なのに、今見せているこの無防備さはどうだ。
(今襲われたら、きっとアシャは『星の剣士』(ニスフェル)を抱えたまま、刃を背中で受け止める)
 闘った方が生き延びられるとわかっている、けれど、今疲れ切って眠り続けているユーノを手放し驚かせるぐらいなら、半身裂かれても黙って眠らせておこうと考えるだろう。
 それは理想だ。
 守るべき相手に全てを捧げて跪けるのは強者の特権だ。
 それほどの犠牲を払っても立ち上がれる自分への信頼と、嘲られ踏みにじられても選んだ道に悔いなどなしと笑える誇りがいる。
(この人は、きっと『星の剣士』(ニスフェル)を守り切る)
 ぞわりと背中を駆け上がったのは、恐怖ではない、もっと熱く、もっと激しい、何かだ。
(だから王と呼ばれる、アシャ・ラズーン、と)
「行くぞ」
「あ、はいっ」
 アシャはユーノを馬上に乗せ、自分も跨がって再び彼女を抱え込んだ。くたりと崩れるユーノは目を覚まさない。アシャの懐で、まるで巣で安らぐ小鳥のように見える。
 慌てて平原竜(タロ)に戻って、静かに歩き出すアシャの後に続きながら、その速度さえもユーノを疲れさせないように制御されていると気づく。
(何もかも、全て、『星の剣士』(ニスフェル)のため…)
 横に並んでアシャの横顔を盗み見る。アシャはユカルを振り向かない。ユーノを見つめ、その呼吸一つ一つに気を張っているのがよくわかる。しかも、それはアシャにとって、密やかな喜びでしかないのだろう、薄く微笑んだ唇はまるで綻びかけた薔薇のように華やかだ。
(俺は…勝てない)
 ユカルは顔を歪めて目をそらせた。
(俺にはそこまで捨てられない)
 ユカルにはユーノだけではない、もっと違う世界があって、その世界の中に一杯失いたくないもの、大事なものがある。
 唇を噛んで額帯(ネクト)に触れる。
(まだ、この先へ進みたい。何があるのか、もっと探したい)
 だからきっと、ユカルはアシャには勝てない、たとえユーノを争ったとしても。
「……ふ、うっ」
 ユカルは強く息を吐き、空を見上げた。
 空は、地上の人々の策謀渦巻く世界を映すように、重い鉛色に澱んでいた。
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