『ラズーン』第五部

segakiyui

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3.魔手(1)

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「ユーノ?!」「ユーノ!」
「ああ、大丈夫だ」
 ミダス公の屋敷に帰り着いたアシャは、わっと集まるレスファート達を軽くあしらい、その中から一人を見つけ出した。他の者に負けず劣らず蒼白い顔をして、アシャの腕のユーノを見つめているレアナの姿だ。
「レアナ姫」
「、はい」
 はっとしたようにレアナが緊張した声で答え、白いドレスを捌いて急ぎ足に進み出る。
「ユーノが怪我をしました。これから手当をせねばならない。その手当を手伝ってもらえませんか」
「は、はい」
 聞いていたシートスが、ほう、と驚いた顔になるのを目で制する。レアナが顔を強張らせて付き従うのを視界の端で見やり、それ以上は誰にも声をかけずに進むアシャに、
「兄さま、私も!」「ぼくも!」
 慌てたようにリディノとレスファートが声を上げる。
 だが、アシャはあっさりと首を振った。
「いや、レアナ姫だけでいい」
「っ」
 リディノがびくりと体を震わせて身を固め、強張った表情でアシャの腕に抱かれているユーノとレアナを見比べる。
「どうして?」
 レスファートがわけがわからないと言いたげに首を傾げた。邪気のないアクアマリンの淡い瞳を見張り、なお心配そうに眉を寄せる。
「…そんなに、ユーノのけが、ひどいの?」
 今までユーノが重い怪我をすればするほど、すぐに会わせてもらえなかったことを思い出したらしい。不安そうに唇を震わせ、ユーノを見つめ、アシャに目を戻し叫ぶ。
「じゃあ、ぼくもついてく!」
「レス」
「ぼくだって何かできるもん、ねえ、アシャ!」
「大丈夫だと言ったろ、レス」
 アシャは安心させるように微笑んだ。声を和らげて宥める。
「ほんの掠り傷だ。ただ、少しだけ手が欲しいだけだ。レスの手もいるようなら、すぐに呼ぶから」
「ほんと? ねえ、『ちゃんと』、ユーノが大丈夫だって言ったら、すぐ会わせてくれる?」
 レスファートは熱を込めて確約を求める。
(無理もない)
 アシャは苦笑する。
 レスファートが感知する心象は、ユーノの受けた傷が深ければ深いほど、ひどければひどいほど、レスファートにも傷みを与える。それをわかっていても乗り越えて近づこうとするレスファートと、それを案じて遠ざけようとするユーノは、この先も相容れないだろう。
(俺達はずっとそうだ)
 ユーノの陥った危機が大きければ大きいほど、ユーノ自身に遠ざけられ手を出すことさえ拒まれる。
(すぐ側で、お前が苦しみ傷ついていくのを、ただ見せられるだけで)
 ユーノにそんなつもりはないだろう。アシャやレスファートを思いやってのことだろう。だが、それはアシャ達をも傷つける、無力感と絶望で。
 それをユーノはどうしても理解しようとしてくれない。
(それほど、誰もお前を助けてやらなかった)
 誰にも助けは求められないと思い込んでしまうほど、ずっと一人で闘ってきた。
 モスの大隊に一人で向かえると思ったはずがない。相討ちにしても足りない、そう思っていたはずだ。それでも一人で飛び込んでいってしまう。
 そうやって死地に活路を見出すしか、生き延びる術がなかったのだ、ずっと。
(家族でさえ)
 ユーノがあれほど守ろうとしてきたセレド皇宮の家族は、ユーノの危機を全く気づかなかったのか? そんな事はあり得ないだろう。血の臭い、顔色の悪さ、側で暮らせば暮らすほど、『いつもと違う気配』はあからさまにわかったはずだ、旅を共にした程度の付き合いでしかないアシャ達でさえ『気づいた』のだから。
 なのに、誰もユーノの『その部分』に踏み込まなかったのは、『その部分』をユーノが背負わないとしたら、誰が背負うのか、そう無意識に考えていたからだろう。
 自分か、それとも、他の家族の誰かか。
(それぐらいなら、ユーノでいいだろう、と)
 強いから。何とかいつも、切り抜けるから。
 気を失っても剣を手放せず、へとへとになって夜闇を戻ってくる娘に、そんなことを求めたのだ。無意識に、目の前に転がされた傷だらけの体を見ないことにした、自分達の平穏と安定を手放さぬために。
(だからこそ)
 俺は、もう、放置しない。
(今度こそ本当にユーノの付き人になる)
 主が一人で闘うことしかできないのなら、付き人として、その戦いの負担をとことんまで減じてみせる。
(ユーノ・セレディスの、唯一人の護り手となる)
 ぐっと噛み締めた口を、深い息とともに開いた。
「レスファート」
 アシャは声を改めた。
「俺がユーノのためにならないことをしたことがあったか」
 いつも苛めるじゃないか、そういう混ぜっ返しは戻ってこなかった。問いかける瞳はアシャを通り越し、アシャの中身を、想いを、存在そのものを見据えてくる。その眼を、怯むことなく、動じることなく、アシャはまっすぐ見返した。
「俺は、ユーノを助けたいんだ」
 アシャの心象は、今レスファートの眼に何と映っているのか。
「……うん」
 レスファートは唐突に頷いた。
「わかった。ぼく、まってる。ね、リディ?」
 未だ納得のいかない顔で体を強張らせているリディノを、今度はレスファートが説得するように見上げた。
「まってるよね、リディ」
「…え…ええ」
 リディノがようよう頷き、同時に、アシャを一瞬鋭い瞳で射抜いた後、すぐに目をそらせた。
「アシャ兄さまのよろしいように」
「では、レアナ姫」
 アシャはくったりと腕に温みを預けているユーノをそっと抱き直した。
「こちらへ」
「はい」
(さぞかし恨まれるだろう)
 これからアシャがしようとしていることは、今までユーノが必死に積み上げてきたものを粉々にするようなことだ。誰に知られたくなかったと言えば、まさにレアナその人であっただろう、その願いを踏みにじることだ。
 それでも、それはきっとユーノを救うだろう。この先も、ユーノを救っていくだろう。
 ユーノの私室に入り、まだ目を覚まさないユーノをベッドに寝かせる。
(二度と心を許してもらえないだろう)
 あれほど求めた、その場所を、アシャは今捨てようとしている。
(俺は)
 脳裏に広がったのは暗闇の草原だ。渺々と広がる草波、忘れ果てられた遺跡の側でただ一人、風に穿たれるように立っていたのを思い出した。
(一人に戻る)
 湧き上がった切なさが、信じられないほど胸に詰まって苦しかった。
(人ではなく、『運命(リマイン)』でもなく、偶然に生み出された、ただの化物に)
 それが、ユーノの無事を願う代償だ。
 一瞬眼を閉じて堪え、すぐに何食わぬ顔でゆっくりとユーノの体から服を脱がせ始める。
「レアナ姫?」
「はい」
 部屋の隅でじっと待っていたレアナがそっと近づいてくる。
「灯を増やしてもらえますか。手元が暗い」
「はい…」
 訝しげな顔をしながら、レアナが部屋の灯を一つ、また一つと増やす。書物を読むには暗いだろうが、手元が見えないほどの暗さではなかったはず、そう思っているらしく、視界の端で、時々不安そうに振り返るのがわかる。
「その机の袋をこちらへ」
「これですね? はい、どう……っ」
 指示された袋を持ってベッドに近寄ってきたレアナがぎくりと立ち止まる。体を起こして振り返ったアシャ、ベッドの上にはユーノの裸身が晒されており、増やされた灯にその隅々が照らし出されている。
 レアナは細い指で、折れそうなほど強く袋を掴んでいた。その瞳は大きく見開かされてユーノの体を凝視している。見る見る青ざめていく顔、薄く開いた口が何かを呟きかけて、慌てたように閉じられる。
「…ありがとう、レアナ姫。こちらにもらえるかな」
「ア…シャ…」
 どさり、と袋がレアナの手から滑り落ちた。
「はい?」
 アシャは平然と歩み寄り、レアナの足下の袋を拾い上げる。紐を緩めて中身を取り出しながらベッドに戻る。
「アシャ……アシャ……」
 夢の中でうなされているように、レアナが立て続けに連呼するのを、アシャは暗い快感とともに背中で聞いた。
「これは……どういうことなのです……?」
「……」
 レアナはそれでも近づいてこない。アシャは答えずに歩みを待つ。
「アシャ……!」
 悲痛な声とともに、一歩、レアナが近寄ってきた。
「どうして……ユーノが……どうして……こんな傷を…」
 一瞬息を引き、数歩歩み寄ってきた、その後でレアナが呟く。
「それほど厳しい旅だったのですか……?」
 傷というものを見たことがないのだろうか。怪我をしたことがないのだろうか。治癒と回復にどれぐらいの時間が必要なのかを思えば、この傷では旅など続けられなかっただろうとわかる。それとも、旅の間の傷だと思い込めるほどに幸せなのだろうか。
 銀の王族。
 全ての災厄から守られてきた存在は、これほどまでに人の傷みに鈍い。
(俺は許さない)
 胸の底に燃える赤紫の炎をアシャは眺める。
(ユーノをこれ以上傷つける者を金輪際許さない)
 そのためなら、全てを屠る覚悟を決めた、自分自身さえも。
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