『ラズーン』第五部

segakiyui

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3.魔手(2)

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「ユーノは……優れた剣士です」
「……ええ、そうです」
「無事にラズーンへ来れたのも、その才能あってのことだ」
「…はい…?」
「これらの傷の大半は、もっと前のものですよ、レアナ姫」
「………前…?」
 訝る声は本心だ。本当に、レアナは一つも知らないでいるのだ。
 アシャは小さく息をついて、ユーノの体の汚れを少しずつ濡らした布で拭ってやる。左肩の傷が熱を持っている。また悪化しかねない。傷の一つ一つを拭い、改め、処置を施していく。寒くなったのだろう、ユーノが少し体を震わせたが、まだ目覚めない。
「カザディノ、という男をご存知ですね?」
「…はい」
 ようやくレアナはベッドまで辿り着いていた。たおやかな手がふらついた足下を支えるようにベッドボードを握りしめる。力で関節が真っ白になっている。
「どのような男でしょうか」
「どのような…?」
 問われたことばの意味を量りかねている、そういう顔でレアナが眉を寄せる。それでも、記憶の中から拾い出した印象は決して楽しいものではなかったようだ。
「…一国の主とは思えないほど、残忍で狭量な男性、と聞いていますが」
「一度狙った獲物は決して諦めない、とは聞いたことがありませんか」
「一度狙った獲物……あ…」
 訝しく呟きかけて、途中でレアナは声を上げた。さすがに自分のことと気づいたらしい。
「…いいえ、でも」
 が、すぐにレアナは小さく首を振って続けた。
「確かに、かつてカザディノ王は私を望まれたと聞きました。けれど、丁重にお断りしてからは何も言ってこられていないはず……お父さま達も私にそれと話されたことはありません」
「……セレディス皇もミアナ妃もご存知なかった」
 尖りそうになる声を、アシャはかろうじて押さえつけた。眠り続けるユーノに目を落とす。
「そればかりか、セレド皇宮の誰一人として知らなかった」
「……?」
 レアナは小首を傾げる。
「…カザディノは、一度これと目をつけた相手を諦める男ではない。むしろ、一層執拗に狙い続け、どんな手段を使ってでも手に入れる男……あなたのように美しい方を、そう易々と諦めるはずがない」
 薄く頬を染めたレアナは、戸惑った声で尋ねる。
「では…どうして」
「ユーノが……その矢面に立っていたんです」
「…え…?」
「繰り返された幾度もの攻撃から、あなた方に知らせることなく、一人であなた方を、いえ、セレドそのものを守り続けていたんです」
 唐突に胸を貫いた傷みは、ユーノが背負った重さを今更のように感じたせいだ。
 甦る思い出、夜の闇、剣を閃かせて奔る少女、知らせまい気づかせまいとするが故に、気を失うほどの傷に悲鳴も上げず、ただ一人で傷みに耐え死と対峙し続ける。大事な人々の安らぎを護ろうとする、そのためだけに。
 命を背負うには覚悟が要る。国を背負うには決断が要る。そして、それを誰にも気づかせまいとするならば、慟哭を呑み込む器が要る。
「でも……でも……『あの時』は…」
 レアナは首を微かに振った。
「ユーノはまだ十二歳です…」
 そんなことができるはずない。
 無言のレアナの抗議にアシャは瞳を上げる。
「剣を習っていたのは七歳からだ。五年もあれば、ユーノほどの才能は容易く花開く」
「でも……でも……っ」
 そんなことは、ありえない、はずなのです。
 両手の拳を握りしめ、アシャに今にも食ってかかりそうに見上げるレアナの顔は紅潮し、苛立ち、怒りをたたえている。
「私が……私が……?」
 あの子が傷ついていたのにずっと気づかなかった、と?
 声にならない問いかけに、アシャは無言で見つめ返す。
 そんなことはあり得ない。そんなことはなし得ない。
 だから、何もないはずだと。
 人は簡単に己を欺く。
 己の理解を越えた瞬間、『それ』を現実から閉め出してしまう。
 いつかユーノもこんな瞳でアシャを見るのだろうか。
 アシャの出自を知った瞬間、明かされた真実を幻にすり替えようともがくのだろうか。
「レアナ…」
 気づかなかったのはあなただけではないのだ。気づかなかったのは俺もなのだ。俺もまた、ユーノが抱えている闇の重さを薄々感じながら、今日今この時まで、そこへ踏み込もうとしなかったのだ。
 胸深く響く声に、アシャは打ちのめされつつ、レアナを見つめ続ける。
「では……あの時から…?」
 掠れた声は震えている。零れ始めた大粒の涙は清らかで、その瞳を曇らせることなく次々と溢れ落ちる。
「あの時から、私は、あの子を……」
 見捨ててきたと言うのですか。
 ついに真実に辿り着いた声音に絶望を感じて、アシャは眼を背けた。同じ絶望を、今アシャも感じている。
(そうだ、俺もお前を見捨てていたんだ)
 こんなに近く、こんなに側に居ながら。
 横たわるユーノの体をそっと包み直し、掛け物をかけてやる。
(すまない)
 今はもう、謝罪のキスさえ贈れぬ自分に歯を食いしばりつつ、身を翻した。戸口に向かい、立ち竦むレアナとすれ違う。
「……手当は終りました。後はおまかせします」
 低く囁いて部屋を出る。扉を閉めたが、室内では物音一つ聞こえない。レアナはまだ身動きできないでいるのだろう、開かれた真実に恐れ戦いて。
「……ふぅ」
 深い溜め息を一つつき、アシャは振り切るように歩き出した。一歩進む毎にユーノと距離が開いていく。それがこの先の自分の未来そっくりで、体を削がれるように苦しい。それでも無理に歩き続けて、ようやく自分の部屋に戻ると、妙に心得顔のシートスが居た。
「…居たのか」
「お邪魔ですか」
「…いや」
 どこか眩そうに振り仰いだシートスの視線を避け、アシャは長椅子に腰を降ろした。テーブルに酒の満たされた盃があるのに気づいて思わず苦笑する。
「気が利くな」
「…」
 薄い笑みで応じて、シートスが盃を取り上げる。互いに一口二口酒を含む間の沈黙を、シートスが見ようによっては酷薄に輝く黄色の瞳に笑みをたたえて破った。
「……ずいぶんと思い切ったことをなさったものですな」
「………」
 アシャはこくり、と酒を呑み下す。舌の上でとろりと広がる、ラクシュの実さえ必要としないほど芳醇な味の上物だ。先を促すようにシートスが新たな酒を注ぎ足す。吐息をついて口を開く。
「……左肩の傷で気がついた」
「シズミィにやられた傷ですな?」
 もう一口、酒を含んで呑み下した。今度は香気を苦く感じた。
「普段のユーノなら、あの傷がどれほど重要な意味を持っているか、わからぬわけがない。今のような状況で、しかもラズーン内部への『運命(リマイン)』の侵攻も疑われる中、片腕使えないということは、死に一歩踏み込んでいるのと同じだなんて、百も承知のはずだ」
「それはわかっているでしょう」
 シートスは静かに取りなす。そこには己の配下であった者への信頼がある。
「ああ、わかっている、わかっているくせに無茶をする」
 苛立ったように、アシャはことばを重ねた。
「ユーノの無鉄砲は、今に始まったことじゃない、そう言われていたんじゃないですか?」
 窘めるようなシートスの口調は、その実、心情の吐露を煽る。
 アシャはそれに甘えた。
「確かに、あいつの無茶は今に始まったことじゃない、だが、ユーノは無茶であっても馬鹿じゃないんだ」
(もっと早くに気づくべきだった)
「今までだって生死を決めてしまうような傷はあったさ。だが、多少なりとも、あいつなりに、治そうと努力はしていたんだ。痛みを堪えて訴えてこなくても、傷そのものが悪化するようなことまではしなかった。それが……他に助けを求められない、あいつの……ユーノなりの知恵だったはずだ」
 一旦ことばを切り、唇を噛む。思い直して口を開く。
「……だが、あの傷で気がついた」
 アシャは始めのことばを繰り返した。
「本当ならとっくに治っていい傷だ。今回は『珍しく』無茶もしていなかったし、十分に休養を取れる場所も時間もあった。なのに、あの分じゃ中身まで治り切るのに、まだ時間がかかる。治癒力が落ちたわけじゃない、手当がまずいわけでもない、けれど、治るのにきっと今までの数倍時間がかかる。………それをあいつは『わかっていた』し、隠していた」
「…わかっていた?」
 訝しげなシートスの顔に、舌打ちしそうになるのをかろうじてやり過ごした。想像できたはずだった、ユーノの性格を思えば。それに気づかなかった己の不甲斐なさに歯噛みしたくなる。
「…『レアナがここにいる』んだよ」
「レアナ姫…」
「あのばかは、レアナに気づかせまい心配させまいとして、無意識に無理をしてるんだ」
 は、と溜め息を吐いて、アシャは後ろにもたれ込んだ。
「きっと、始めの頃、レアナがつきっきりで看病していたあたりから、もう無理してたんだ」
 無茶ではない、微かで僅かな緊張。けれど、そんな些細なことでも四六時中続けば,十分に負担となる。それは、旅の空の下、治ることに専念するしかなくて、心を許した仲間の元で深く眠り込めていた時とは雲泥の差を生み出す。
 呼ばれれば元気そうに笑う。レアナが困っている気配があれば手を貸す。うとうとと休みたくとも、レアナが側に居れば目を覚ましていて話に付き合う。看病されているのに、常にレアナの動きに気を配り、言動に配慮し、気持ちを砕く。
「ということは」
「レアナが『そういうこと』に疎いわけじゃない。レアナにとって、それが『あたりまえ』だったから、ユーノが無理をしてるなんて思ってもみない」
 それはユーノにとってどれほど過酷な状況だっただろう。
 休みたくとも休めない。
 傷つき疲れ切っているのだから、なりふり構わず唸ったり苦しんだり傷みにもがいたりして当然のところを、レアナ一人が居ることでそれらが全て暗黙のうちに封じられる。そればかりか、無意識に強いられる、笑顔で居ること、大丈夫だと確約すること、レアナを不安や心配から護り続けること、を。
「……レアナはおそらくこれからもずっと、ユーノの側に居るだろう。ユーノを心配して。何かしてやりたくて。ユーノとレアナの関係がすぐに変わるわけもないし、ユーノの性分が急に変わるわけでもない。この先も、あいつは傷を受けても知らぬふりで笑い続けてるさ、ぶっ倒れるまで」
 言い切ってアシャは背もたれに仰け反った顔を片手で覆った。
(そして、俺はそれをどうにもできない)
 何が悪かったのかと言えば、現実を明らかにしてこなかったことなのは間違いない。ユーノの負担に意識的にせよ無意識的にせよ、甘えてきた周囲と受け止めてきたユーノに問題がある。
『でも、他にどうしたらよかった?』
 問い返すユーノの顔が容易く想像出来る。
 危険を訴えても理解しようとしない周囲。おそらくは無言の傷みを伝えていただろう出来事も無視され、すがりつこうとしても背中を向けられ、それとなく一人押しやられた強大な敵に向かおうとする時、諦めて、笑って、歯を食いしばって剣を掲げる以外、何ができる。死にたくないのだから、仕方ないだろう、そんなことは簡単なことだと言い聞かせて、圧倒的な力に無謀な刃を向けるしかない。
 ユーノの死を織り込み済みの平和。
 けれど、逃げられない、護りたくて。
『他に、私に何が出来た?』
 両手の拳を握りしめ、胸に浮かぶユーノは尋ねてくる。
『どうしたら傷つかずに済んだ?』
 ユーノも、家族も、周囲の皆も。
『どうしたら、誰も泣かずに済んだ?』
 犠牲になる以外、何ができた?
(けど、それは間違ってるんだ)
 アシャは目を閉じたまま、胸のユーノに答える。
(それはお前を殺していく)
 本来の力を歪め、本来の喜びを圧殺し、受け取るべき未来を封じている。
(俺が居れば)
 もっと早くラズーンを離れ、もっと早く諸国へ出て、ユーノに出逢っていれば、気づけたかも知れない、何か出来たかも知れない。
(いや、違う)
 きっとそれだけでは足りなかった、ラズーンから、未来の責務から逃げ出したアシャでは、きっとユーノをどうにもできなかった。自分の持つ力と在り方を自覚した今だからこそ、アシャはユーノに踏み込めた。
(ああ、そうだ)
 アシャが積み重ねて来た全てがあってこそ、今のユーノに踏み込める。レアナやセレド皇宮の無責任さも、ユーノが孤独に一人抱える傷みも、今のアシャにはよくわかる。
「……そうか」
 アシャは目を開いた。顔を覆っていた手を外す。
 視界がきらきらと眩いもので満ちている。目に飛び込む全てのものが、ふいに鮮やかで見事に美しく見えた。
(俺はようやく見つけたのか)
 アシャがアシャとして全てを注いで悔いない場所を。
「……それで、レアナ姫にわざと傷を見せたんですね」
 シートスの声が響く。
「そうすれば、ユーノはレアナ姫に怪我をしたのを隠す必要がなくなる」
 この先の戦況は厳しくなる。ユーノの力がなくては進まない状況もあるだろう。どれほど無理をさせるとしても、ユーノなしでは世界が救えない時が、ひょっとするとあるのかも知れない。
「レアナ姫は聡明だ。これから先の戦いを見届けようとするでしょう、『星の剣士(ニスフェル)』の存在を通して」
 直接戦いに出かけなくとも、ユーノの傷が負担が姿が、世界をレアナに開いていく。
「…忘れさせんさ」
 アシャはちらりとシートスを横目で見た。
「あいつが何を支払っているのか、俺が突きつけ続けるさ」
 シートスが戸惑ったように一瞬目をそらせた。だから、そういう顔はするもんじゃないですよ、とぼそりと呟くのに、アシャは苦笑した。
「もっとも」
 口調を切り替え、体を起こす。乱れた髪を掻きあげ、これみよがしに溜め息をついた。
「あいつが目を覚まして知ったら大騒ぎだがな」
「相手はしたくありませんな」
 シートスはおどけた様子で肩を竦めた。
「あれだけの気性、平原竜(タロ)を怒らせた方がまだましだ」
「無茶を言う」
 アシャはにやにや笑った。一度怒れば一都をも灰燼に帰すという平原竜(タロ)と比べられる少女など、あってたまるか。だが。
「その『相手』をする俺の身になってみろ」
「だから、思い切ったことをなさった、と言ったんです」
「ああ、だが、それでも」
 ふっとアシャは口を噤んだ。続けかけたことばを遮るように酒を含む。
 誰が聞いているわけでもない、それでも。
(あいつが苦しむよりはずっといい)
 屠られるなら本望だろう、命を賭ける相手なのだから。
 揺らいだ視界を伏せて、アシャは無言で盃を空けた。
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