『ラズーン』第五部

segakiyui

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3.魔手(3)

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「う…」
 静まり返った部屋、灯一つない夜闇の中、ユーノは低い呻きを漏らす。
「ふ、っ」
 苦しげに息を吐く。ベッドに横たわったまま、唇を噛み締め、眉をしかめて身もがきする。
「く…、う……は、あっ!」
 声を上げて飛び起きたユーノは、荒く乱れた呼吸を整えながら右手で額を拭った。
(夢…)
 モス兵士とぶつかって三日目、左手はまだ、白い三角巾で首から吊ったまま、使う事はアシャから許されていない。
(…首…)
 額から頬、首へと、べっとりとした汗を擦り取っていた手を止めた。夢の感触を確かめるように、喉元へ自分の手を広げて押し付け、軽く掴んでみる。
「………」
 それは禍々しい夢だった。
 ユーノはベッドで横になっている。左手は仕方ないとしても、どうしたことか、右手も両足も動かず、棒のように仰臥しながら、現実と同じような暗がりからゆっくりと、白くぬめぬめとした得体の知れない手が近づいてくるのを、じっと見つめている。
 その手はぼんやりとした輪郭にしては不思議なほどの量感を備え、ひたりとユーノの首に巻き付くと、やがて、ぐいぐいと容赦なく締め上げ始めた。首を左右に振り、逃れようとしたがままならず、喉は次第に締め付けられ、頭に血が昇ってくる。
 呻いたユーノの声に誘われるように、白い手の向こうからすうっと近づいてきたのは、他ならぬ『運命(リマイン)』の首領ギヌアの無感情に端整な顔、と、見る間に眼前に広がった顔の口がカッと裂け、赤い舌が薄っぺらくへらへらと躍った。
 声なき声が告げる、待っているがいい、お前の命を喰らいにいく……。
 飛び起きてみれば、ミダス公の屋敷は森閑と静まり返り、何の物音もせぬ平穏な夜だった。
「ふ…」
 短く吐息をつき、ユーノは汗ばんだ体にまとわりつく掛け物を払いのけた。
 静かすぎる夜のせいか、ここ二、三日、あまりぐっすり眠れていない。少しヒストでも駆けさせて、偵察を兼ね一運動してくれば、多少は眠りを得られるかも知れない。
(消えたモス兵士も気になるし)
 ベッドの側にたてかけていた『泉の狩人』(オーミノ)から譲り受けた剣を片手で器用に腰に帯びる。
 あれから消えたモス兵士の大群の行方は杳として知れず、アシャ他軍事の専門家の間では、ラズーン内のどこかに潜伏しているのだろうとまでは推測できていたが、潜むとなると食糧も水も必要なはず、それらを誰がどんなふうに人知れず提供しているのか、また、さてそれからの動きはとなると、何を企んでいるのかわからないだけに、推測にも限度があった。
 実は、それもユーノの不眠の原因の一つになっている。
(私が狙われるなら、まだいい)
 厳しい表情でゆっくりと剣を抜き放つ。闇の中で、一体どこからそれだけの光を集めてくるのか、剣はきらきらと眩く光を放ち、ユーノを照らす。血曇りも汚れも見当たらず、刃は初めて手にした時同様に鋭い。それを確認した後、再び茶色の革鞘に戻しながら考える。
(もし、姉さまやレスやリディが狙われたらと思うとぞっとする)
 幸いなことに、今あたりを包んでいる静けさは、優しい眠りの成就を告げるものらしい。
 部屋を抜け出、回廊を巡り、表の戸口へ繋がる中庭へ出る。
(似てるな)
 不穏な気配は満ちつつある。ラズーン至上であった世界は、今や大きく変わろうとしている。すぐ側まで『運命(リマイン)』に組する国の兵士が迫っていたと聞かぬはずはなかっただろうに、この屋敷は今深く眠り込んでいる、戸締まりもせず、番兵も置かず。
(この安寧が脅かされるはずはないと信じている)
 そうしてユーノはまた一人、怪我を抱えつつ闇へ向かう、故国セレドのあの夜のように。
 だが。
「っ」
 それほど気配を押さえることもなく、厩の方へ抜けようとしたユーノは、人の気配にぎくりと立ち止まった。
 折しも、隠れていた月が雲間から顔を出し、馬の側に立っている、つい今しがた、どこかから戻ってきたところらしい相手の黄金の髪を光らせた。
「ユーノ…」
 声をかけてきたのは向こうの方が早かった。
 黒とまごう深い紺の短衣とズボン、腰に視察官(オペ)の役職を示す金の短剣一つという軽装、アシャは無造作に髪を掻きあげながら訝しそうに問いかけてくる。
「どうしたんだ、こんな夜更けに」
「…それはこっちの訊くことだろ」
 この間、アシャはユーノが気を失っている間にレアナに傷を見せたと言う。
 目が覚めた時に、泣きじゃくるレアナからそう伝えられて、ユーノは血の気が引いた。恐怖というより怒り、一体何のためにこれまで、そう思った気持ちにことばを失ったユーノに、レアナが繰り返し「アシャを叱ってはなりませんよ」と諌めた。
『私が愚かでした。もっとよく考えるべきだったのです』
 零れ落ちる涙を拭きもせずに訴えられ、堪えようとしても次々溢れる涙に顔を覆うレアナを慰めるのに、どれほど時間がかかったか。
『許して下さい、いえ、許さなくても構いません。あなたが何と言おうと、私はもう、あなたの受けた傷のことを忘れません』
 どれだけ訴えられ窘められようとも絶対一発は殴ってやる、そう固く決めていたが、避けているのか、それとも忙しすぎるのか、アシャはほとんど屋敷に落ち着かず、姿を見ることがなかった。
 あげくに、レスファートからも生真面目にこう告げられた。
『ぼくは、アシャがただしいとおもう』
 きららかに澄んだアクアマリンの瞳は、たじろぎもせずに困惑するユーノを見返し、少年は奇妙に大人びた口調で言い放ったものだ。
『見えるものまで、かくさなくていいよ』
 とは言え、納得しきれているわけではない。
「どこに行ってたんだ?」
 どうしてもアシャに対してつっけんどんな口調になる。
「『氷の双宮』にな」
 馬をねぎらい、アシャはゆっくりとこちらへ歩いてくる。
「『氷の双宮』?」
「この間のモス兵士が気になる。狙うとすれば、まず『太皇』(スーグ)かと思ったが、見当違いだったようだ」
 アシャの声は深く柔らかい。
(久しぶりだ)
 こんな風に二人で話すのは。
 胸が緩んだ。
 ラズーンの中枢の無事を確かめて少しはほっとしたのだろう、アシャの唇が安堵に綻ぶ。優しい微笑を浮かべたまま、問いかけてきた。
「お前は?」
「……ちょっと、眠れなくて」
 思わず見とれて、我に返る。うっとりした馬鹿な顔を晒していたかと、慌てて顔を背けながら、照れ隠しでなおさらぶっきらぼうに応じた。
「ヒストでも飛ばしてくるかと思って。偵察代わりに」
「………]
 てっきり止められるかと思ったのに、アシャは無言だ。しばらく待っても何も答えず、かと言って立ち去るわけでもない相手を思わず振り仰ぐ。
(アシャ…)
 なんて瞳だ。
 月光は背後から斜めに差し込んでいる。光輪のように輝く髪に縁取られた顔が、影と光に照らされる。少し開いた唇も十分に色をたたえているが、長い睫毛に伏せられた瞳は、まるで紫の泉だ。瞳の底に光が揺れる。きらきらと、今にも消えそうな微かな瞬きは月光を弾いている水面のようだ。
(泣いてる…?)
 捉えられる。身動き出来ない。
 セレドで初めてアシャから見上げられた時も、その瞳の色の見事さに息を呑んだが、今はもっと、艶やかで濡れている。
 この瞳をユーノは見たことがある。
 セレド皇宮で、レアナに向けられた数々の視線、自分の手が決して届かない遥かな高みの美貌を見守る目、もし一瞬だけでもいい、レアナの視線が自分に留まったなら、その一瞬に全てを奪おうと欲する目。
「…あ…」
(掴まる…)
 違う。
 そんなことはあり得ない。
 これはきっと、月が見せている幻だ。
 しばらくアシャに会えなかった、その淋しさが見せた幻影だ。
「っ」
 唇を噛んで目を閉じ、顔を背けた。初めて気づく、胸の鼓動が鳴り止まない、強く激しい拍動が体を轟かせている。
(ばかな)
 性懲りもなく、一体何を考えてる。
「……俺を恨んでいるのか」
「え?」
 低い声が突然尋ねて振り向いた。
「お前に断りもせず、レアナに傷を見せたことを?」
 アシャの瞳がなお伏せられていた。瞳の光が一気に消えた。
「…そんな」
 言い澱む。腹が立ったのは確かだ。レアナが身を揉んでユーノの傷を憐れみ嘆くのも苦しい。
 だが、レスファートだけではない、シートスもまた、アシャの真意を語ってくれていた。アシャがどんな気持ちで傷を見せたのか、どれほどユーノのことを思いやってくれたのか。
『お前はきっと遅かれ早かれ、姉に傷を見せることになっただろう』
 シートスが言い残したことばを何度も考えた。確かにきっとそうだろう。この先動乱が続くなら、いずれレアナの前で怪我をすることも避けられないだろう。
『今この時に知っておく方がいい、そうは思わないか』
 そうなんだろう。
 きっと、それは正しいんだろう。
 でも、双手を挙げて歓迎できることじゃなかった。もっと他に方法があったかも知れない、そうも思っている。
 ただ、アシャの気持ちは受け止められる。
(きっと、私のことを考えに考えて決めてくれた)
 それぐらいの信頼は、旅の間に培っている。
「そんなことはないよ」
 に、と無理に笑ってみせる。
「アシャはボクのことを考えて、やってくれたんだし」
(それに)
 たとえ、それが偶然の産物でしかないとしても、アシャを恨めるはずもない。
(私があなたを憎めるはずがない)
 たとえこの先、レアナと手を取り合って、ユーノ一人を戦場に残して行ったとしても。
 まだどこか落ち込んだ気配のアシャに、急いで付け加える。
「ただ、ちょっとさ…うん、変な感じだったんだ。その、今まで、アシャ以外に見られたことなかったし……」
 言いながら、自分がベッドに寝転がって裸を晒しているのを、アシャとレアナの二人が見下ろしているのを想像し、見る見る顔が熱くなった。
「結構傷も派手だし、レアナ姉さまって、ほんと、そういうのは知らないし…」
 レアナの肌は乳のように白くてまろやかだ。昔、湯浴みをしていて、その裸身が湯の熱で見る見る薄紅に上気していくのを、無数の白い花が開いて赤い花心を見せていくようだと思って見守ったことがある。
 こんなに綺麗なものがあるんだ、そう幼心に感じたものだ。
(私は、きっと)
 傷ついた丸太のようだっただろう。刮げ干涸び引き攣れた無数の傷が覆う体を、アシャはすぐ側に居たレアナと比較しなかっただろうか。
(みっともなかった)
 改めて意識してみれば、同じ娘の体とは思えないぐらいに。側に佇むレアナがいれば、なおさらきっと。
(嫌だ)
 顔だけではない、体全部が熱くなる。どれだけことばを重ねても、アシャの中でユーノの裸体がレアナのそれと比べられていく気がする。
(これ以上、アシャの側に居たくない)
「だ、だから、気にしないでいい、むしろ、うん、感謝してる、シートスにも聞いたし、ボクのこと考えてくれたんだし、あのそれじゃボク、ヒストでちょっと駆けてくるからっ」
 あの綺麗な瞳で、もう比べられたくない、頭の中だけでさえ。
(そんなこと、わかってるから)
 泣きそうになったのをごまかそうと身を翻した手首を、はっとしたアシャが掴んだ。
「ユーノ!」「やだっ!」
 ぱんっ!
 掴まれて引き寄せられそうになった気がして、とっさに払った手がアシャの手を叩き落とした。思わず振り向くユーノの目と、アシャの目がまっすぐぶつかる。
「…あ……」
 アシャの目が煙っていた。
「ちが…」
 首を振って言い訳しかけたユーノに、アシャは微かに笑む。
「……ユーノ、俺は…」
 瞳の色が暗かった。隠れた月のせいばかりではない、澄んだ泉に汚物を投げ込まれたような気配を急いで覆うように目を伏せる。
「……すま…」
 掠れた声がひび割れて謝りかけた、その矢先、屋敷の中から悲鳴が上がった。
「うっ…わああーっ!」
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