『ラズーン』第五部

segakiyui

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6.洞窟(6)

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「きゃ…あ……ああ……あ……!!」
 洞窟の角を曲がった途端、三度、悲鳴が切れ切れにアシャとユーノを呼んだ。
「っ!」
 飛び込んだ視界にユーノが息を呑む。
 壁に取り付けられた松明が少ない空気にいぶっている。妖しく蠢く光の中、一人の少年がこけつまろびつ逃げ惑っている。細い手足、十三、四歳と見える幼い、けれども整った顔立ちは恐怖に強張り、乱れた淡色の髪の下の瞳は、どこかに救いの手がやってこないかと必死にあちらこちらを探している。着ている青色のチュニックは引き裂かれ、剥き出しになった四肢にも体にも無数の擦り傷があり、薄赤く血が滲み汚れている。
 その背後からじわじわと迫っているのは、言わずと知れた『穴の老人』(ディスティヤト)、汚れた飾りのように棒ぐいの体に巻き付けた茶色や黒のマントは、夢の中でのし歩く樹々の化物に着せた方がまだ様になろうという代物、全部で五体、そのどれもがぬめぬめと赤黒い根をくねらせ広げ、今にも囲い込もうとするように少年を追い回している。
「た…すっ」
 ひいひいと声を掠れさせて涙に溢れた淡青の瞳は絶望に暗い。幾度となく食いしばったのか血の滲んだ唇を開いて、空気を貪りながら手前の岩の間を駆け抜けようとする。と、突然ひゅるっと不気味な、どこか啜り上げるような音を上げて背後から根が伸び、少年の細い足首に容赦なく巻き付き引き倒した。
「ひっ…あぅっ!!」
 激しく叩きつけられた少年は傷みに身を縮こまらせる。その小さな姿めがけて、ここぞとばかりに数本の根が次々と伸びる。
「ちっ!」「ユーノっ!」
 止める暇なぞなかった。ユーノが一気に飛び出していく。たった一人、それも未分化の『穴の老人』(ディスティヤト)相手にあれほど手こずったばかりだというのに。一陣の涼風のように、ためらう気配さえなく少年と『穴の老人』(ディスティヤト)の間に割って入る。抜く手も見せずに閃かせた剣の光条がたちまち始めの一本の根を断ったものの、その後はわらわらと飛んでくる根に対し切れず、少年を我が身で守るように覆いかぶさる。
「…馬鹿!」
 アシャも岩を蹴った。目の前で、少年を覆ったユーノの背中を、飛んで来た根の一本が距離を誤ったのかあえての攻撃なのか、ぴしりと音を立てて打ち据える。
「くぅっ!」
 次々と飛びかかってくる根に、もう片方の手で少年を抱え込んで、ユーノはごつごつした固い岩場の隙間に転がり落ちた。少年はしがみつきながらも、恐ろしさに半分気を失っているような様子、ユーノに半端に絡ませた手足が彼女の自由を奪ってしまい、それ以上逃げられそうにない。
「くそおっ!」「無茶するな、と言わなかったか!」
 悔しげに吠えたユーノの前、彼女らに一気に向かった根と二人の間に滑り込み、アシャは根を弾いた。間近に迫った数本を切り落とす。
「こっちへ来い! 細切れにしてやる!」
 派手な叫びはもちろんこちらへ『穴の老人』(ディスティヤト)の注意を向けさせるため、一瞬動きを止めた敵を油断なく見据えるアシャの背中で、ユーノが少年に尋ねている声が聞こえる。
「大丈夫? 名前は?」
「い……イリオール…」
「わかった。じゃ、イリオール、ちょっとこの隙間に入ってて? いいね?」
「う…うん…」
「ほらほらそっちに気を取られると、やられるぞ!」
 か細い声が応じたのが合図ででもあったように、一斉に背後へ向けて根を伸ばした『穴の老人』(ディスティヤト)に、アシャは前へ踏み込みながら斬り掛かる。視界の端に必ず五体を捉えるようにしているが、洞窟は中途半端に広い、背後に回られてしまえば進退窮まる。伸ばされた数本をたちまち切り飛ばし、正面の『穴の老人』(ディスティヤト)の動きを止め、すぐに右の一体の根を弾く。左からかかる二体、右奥から一体が飛びかかってこようとしているのを視野に入れたまま、息を吸った途端、隣に駆け寄ってきたユーノが距離を詰めて左の二体と交戦に入った。
「アシャ!」「後ろに行ってろ!」「一人で殺れっこないよ!」「怪我人なんざ、足手まといだ!」
 言い放ったのは冗談でもなんでもなく、『穴の老人』(ディスティヤト)五体はアシャでも同時に仕留めきれるかどうか、動きが落ちているユーノを標的にしてくるのは想定内にしても、ユーノを囮にするほど非道なつもりがないアシャにとって、条件は不利に傾く。
(早々に決着をつける!)
「っ!」
 だが、通常ならばそれぞれ好き勝手に攻撃を仕掛けてくるはずの『穴の老人』(ディスティヤト)は、戦法を変えていた。目の前のアシャだけではない、ユーノも追いかけて来た少年ももろとも全て片付けようとでも考えているように、互いに連係し合っている。右側からの二体が互いを盾にするように交互に動きながら攻撃を仕掛けてくるのを防ぐ間に、ユーノが応戦していない左の一体に背中に回られたのが見えた。剣が間に合わない、左手一本くれてやる羽目になるかと思った瞬間、ユーノの剣が走って根を防ぐ。ぼとぼとと音をたてて転がる根を蹴り飛ばして駆け寄ってきたユーノが、ぴたりと背中に背中を合わせてくるのを感じた。
「怪我人に……助けられてちゃ世話ないよなあ…っ?」
「ちっ」
 微かに乱れた呼吸で皮肉られても、悔しいが舌を巻かざるを得ない。
(よくまあ、あんな体で)
 ユーノの回復度はよくわかっている。こんな連日の戦闘に耐えられるほど治っていないことも。けれども、背中に寄せられた小柄な体からは、溢れ出すような覇気が広がってきた。一歩も退かない、ここを凌ぎ切る、そういう気概に満ちた気配が、どれほど味方を力づけるのか、不利な戦いにおいてどれほど心を鼓舞してくれるのか、アシャは今初めて感じた気がする。
(お前は)
 繰り返し襲い掛かる根の攻撃を防ぎながら、アシャは無意識に唇を綻ばせる。背中を預けられる安堵など、今まで感じた相手などほとんどいない。
(人を立ち上がらせる)
 昏迷の闇から。逡巡の海から。もうとても辿れないと思った道を見つけさせ、二度と叶わないと思い知った夢に可能性を吹き込んでくる。
(だから俺は)
 だから、俺でも、もう一度歩けるかも知れないと。
(人、として)
 ふいに『穴の老人』(ディスティヤト)の動きが止まった。五体がぐるりと二人を取り囲む、いささか少なくなったかも知れないが、まだまだ致命的な攻撃を与えられる十分な数の根をゆらゆらと揺らめかせながら。黄金の虹彩、真紅の瞳孔がゆっくりと大きくなり、小さくなる。油紙と肉塊、樹皮を寄り合わせたような皮膚の上、肩と同じ幅のぶよぶよとした毛の一筋もない頭、顔の端から端まで裂けた口から出た、細く長い舌がちろちろと口の周囲を舐め回している。
「聖女王(シグラトル)だ」
 ふいに五つの声が同時に呟いた。
「我らの定められた獲物だ」
 すぐに一人が続け、
「我らの獲物だ」
 残りが唱和する。
 べろべろと舌が唾液を散らしながら空中にうねった。
「我らの餌だ」「我らの」「旨いぞ」「血を滴らせる」「我らの生き餌だ」
「勝手に決めてもらっちゃ困る」
 ユーノが冷ややかに吐き捨てる。
「私はユーノ・セレディス、確かに聖女王(シグラトル)とも呼ばれるが…」
 息を吸い込む背中の体が一層強い熱を放つ。その熱に蕩けそうな気がしたアシャは、次の瞬間、凍りつく思いを味わった。
「お前達にむざむざ喰われる気はない!」
(おいおい)
 ユーノは『穴の老人』(ディスティヤト)の話は知っていても、彼らが肉食、特に人間の肉を好むということは知らないはずだ。知っていれば、さきほど少年を庇ったような助け方をしなかっただろう。あのまま少年もろとも根にくるりと巻き付かれ抱え込まれて引きずられ、『穴の老人』(ディスティヤト)の全てを溶かしそうな胃に呑み込まれていたかも知れないのだ。
(それとも気づいてたのか?)
 『穴の老人』(ディスティヤト)が少年を追いかけていたのは、少ない食糧を互いに取り合っていたからだろうし、今少年に見向きもしないのは、聖女王(シグラトル)、仇敵の女王という至上の獲物が差し出されているからだ。
(こういう勘はいいんだが………護る相手がいると数段強さが違うしな)
 練習ではお目にかからない、この、次々と燃え上がる炎のような闘気、体を越えて周囲の空間まで温度を上げていくような感覚に、煽られる、体が……本能が。
(いい…剣士だ)
 腹の底に動き出しかけた熱をアシャは別の方向に向けた。
(俺が教えた中でも飛び切りの、おそらくは天才と言われる類の……ただ、それが『女』であった、ということが…)
 伏せた瞼を薄く開く。視界に動きを止めている『穴の老人』(ディスティヤト)が浮かび上がる。休戦ではない、ましてや攻撃を諦めたわけではない。よく見ていればわかる、彼らの薄汚れたマントの下の体が波打ち脈打ち、失った根を再生しつつあるのが。切り落とされた根は岩場のあちこちに点在し、さきほどまでぴくぴくと引き攣っていた動きを止め、見る見る変色して干涸びていきつつある。まるで、そこに溜められていたエネルギーを回収し、自らに取り込んで新たな根の源としているように、『穴の老人』(ディスティヤト)の瞳は妖しく輝きを増している。
(俺にとって……致命的、か?)
 わかっている。下手な戦い方だと。アシャともあろうものが、敵の本拠地に飛び込んで、圧倒的に敵に有利な場所で怪我をしている大事な女と得体の知れない子どもを一人抱え込んでいるなど。『氷のアシャ』ならきっとしなかっただろう戦いだと。
「ミネルバあたりがいてくれるとな」
 思わず零れたことばは、何が何でもユーノを無傷で守りたいと思ったからに過ぎない。だが、ユーノがぴくりと体を震わせた。
「ミネルバ?」
「ああ。『穴の老人』(ディスティヤト)の天敵、『泉の狩人』(オーミノ)の異端者……『穴の老人』(ディスティヤト)を屠れるとなれば大喜びして出てくるだろうが…ユーノ!」
「わかってる!」
 身動きしていないと見せかけて、いつの間にか近づいていた根が突然中空に躍り上がった。真下から振り上がった攻撃、とっさに避けて剣を構えるユーノの間合いが遠い。その隙をもう一体が狙いにかかる。意識が逸れたアシャには、残り三体が襲い掛かってくる。
「あ、ぐっ」「ユーノ! えい、くそっ!」
 人ならまだしも、太古生物三体の同時攻撃、両手両腕を捉えられ足蹴りを喰らわせかけたのも封じられたアシャの耳に、嘲笑うような声が響き渡る。
「アシャは殺すな」
「なに…っ」
 振りほどこうとした四肢には力が入らなかった。『穴の老人』(ディスティヤト)が根に毒を含ませるなどとは聞いたことがない。アシャの脳裏にこれまでにない、連携した『穴の老人』(ディスティヤト)の攻撃が甦る。
 太古生物が新たな攻撃方法を会得することはない。古い世界で命を受けた彼らの攻撃は、生まれ持った形に応じて一つの型から外れない。それが一番自らの特性を生かし、同時に相手に一番酷い傷を与えられるからだ。
 だが、この洞窟に潜んでいた『穴の老人』(ディスティヤト)は、個別に動き回るのではなく、まるで狩りをする『人』のように少年を追い込んでいた。そればかりか、自分達の攻撃を、これまでよりも致命的なものに変化させている。
 ならばそれは明らかなことだ、別の知性、別の存在が『穴の老人』(ディスティヤト)の攻撃に潜んでいる。誰かが彼らに知恵をつけ、その破壊力をより増そうと考えたに違いない。
 その名は、おそらく。
「ユーノ…聖女王(シグラトル)だけを狙え」
 『穴の老人』(ディスティヤト)の一人が仲間に命じて、アシャはぞっとした。
「ギヌア様のお達しだ」
「、ユーノ!!」
 荒々しく叫んだアシャの目の前で、彼の援護を失い、左手を十分に使えないユーノがあっという間に根に絡めとられる。アシャを必死に振り返る、黒い瞳に浮かぶのは不安ではなく心配、だが次の一瞬には手足を締め上げる根に激痛に変わる。
「あ、く、ぅっっ!」
(あれは)
 アシャははっとした。呻いて片目を閉じたユーノ、根に絡まれているのは華奢な銅に両脚、そしてなぜか右腕のみ。剣を掲げていないためか、左手はまだ絡まれていない、それを好機と考えたユーノが、根に絡まれた右手を渾身の力で支えながら左手に剣を持ち替えようとする。
「いけない、ユーノ!」
「は…!」
 罠だ、とアシャの叫びが届くのは遅過ぎた。今の今までユーノの力を試すかのようにひっぱり続けていた『穴の老人』(ディスティヤト)が、ユーノの手が震えるほど力を込めた矢先、ふいに右手を解放する。
 ざくりっ。
「!!」「ユーノっ!!」
 波をも切り分ける水晶の刃は、容赦なくユーノの左肩に食い込んだ。飛び散る紅の飛沫、声もなく仰け反りながら離したユーノの手から、煌めき澄んだ音をたてて剣が転がる。朱色の染みに身を汚した長剣は、すぐにその紅を吸い込むように消し、刃は微かに桜色を帯びたようだ。
「アシャよ……愚かな男よ」
 『穴の老人』(ディスティヤト)は嗤い続けた。
「これがお前がギヌア様に支払う代償……見るがいい、この娘はお前の愚かさで屠られるのだ」
 衝撃にぐったりしているユーノの左腕に肉の樹根が絡み付く。その意図を察したアシャの全身から音をたてて血の気が引く。
「やめ…っ」「う、あああっ!!」
 根は、加え得る限りの荒々しさと力を込めて、ユーノの左腕を捻り上げた。悲鳴を上げて体を凍らせたユーノが、さすがに意識を飛ばして崩れ落ちる。肩からべったりと輝く紅のぬめりが滴り落ちる、まるでアシャの視界を覆うように。
「よくも」
 どこからか淡々とした声が聞こえた。
「そこまで残忍なことがやれたものだな」
 静かで、どこかからかうような響きさえあるその声が、自分のものだと気づくのに少し時間がかかった。
 苦い塊が湧き上がってくる、胃の腑を押し上げ、肺を満たし、心臓を蒸発させて。
 人であることを焼き尽くして。
「ギヌアの命と言ったな」
 四肢の痺れは急速に消えた。ぴしっと鋭い音が鳴って、『穴の老人』(ディスティヤト)の一体がぎょっとしたようにアシャを捉えていた己が根を見る。ぴしっ、とまた空間を裂くような音が響いて、先と同じように一瞬にして炭化した根が、ざらざらと岩場に零れ落ちた。
「俺の目の前で、屠れとの命か」
 弾けるような、何かが割れ砕けるような音は響き続け、アシャを捉えていたはずの根が次々瞬時に黒く焦げた塊と化して崩壊していく。
 アシャは何もしていない。穏やかに静かに尋ねているだけだ。だが、その体の表面からは、目に見えないほどの薄い金の膜が少しずつ浮き上がり、次第に厚みを増して濃密な金色の霧となって周囲を煙らせ始めている。
「う…う…う」
「俺の……アシャ・ラズーンの前で……ユーノを屠れとの、命か」
 炭化は根ばかりではなかった。アシャが放つ金色の霧に入ったものは悉く、マントも岩も何もかもが鋭い音をたてて弾けたかと思うと、次の瞬間には黒く細かな埃と化して空中に雲散霧消していく。
「い…や……」
 イリオールが岩場の隅で頭を抱えて縮こまった。さすがの『穴の老人』(ディスティヤト)もじりじりと後ずさる、周囲の岩場が金霧の侵蝕に削られ崩れ、洞窟のあちこちが揺らぎ始める。だがアシャは周囲にもたらしている被害にもはや関心がない。
「もう……お前達の滅亡などで釣り合いが取れるものでもないな」
 ばらばらと砕け落ちる岩場を優雅に歩みながら、アシャは薄く微笑んだ。
「ギヌアの居場所など教えなくともいい……全世界を…滅ぼせばいい……そうすれば、ギヌアもどこかできっと死ぬだろう…?」
 小首を傾げて優しく問いかける。
 両手を広げる。腕にまとわりつく、特別に濃い金の光が空中に黄金の円弧を描く。
「ぐ…あああっっ!」
 近づき過ぎた『穴の老人』(ディスティヤト)の一体が金の光にまとわりつかれた。金色に光る根を振り回しながら、それらに見る見る体幹を喰い散らかされ、真っ黒な消し炭となってのたうち、それでも死に切れずに身悶えながら岩場に転がり、次第次第に動きを止めて、やがて黒い砂となって姿を消す。
「さあ…離してくれ……それは『俺のもの』だ……返してくれれば、温情を持って、お前達の死は惨くないものにしてやろう…」
 アシャは笑みを深めた。
 真紅に彩られたユーノをもう少しでこの手に抱ける。
 喜びに過熱した体が震えた。
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