『ラズーン』第五部

segakiyui

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6.洞窟(7)

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「……そうか……伝説の聖女王(シグラトル)に…な」
 『氷の双宮』の奥まった一隅、小さな一室で窓辺に立っていた『太皇』(スーグ)はゆっくりと振り返った。その視線の先には、これまでの長の年月に渡っても『狩人の山』(オムニド)を降りたことのない、青衣を纏ったラフィンニが座している。
 今ラフィンニは、骸骨の顔に、白いなめし革とも織り目の細かな布とも見える材質の面をつけていた。面はほっそりとした美女の顔だ。見開かれた二つの瞳、伸びた鼻筋、柔らかく膨らんだ唇。施された銀色の紋様は、僅かに輝きながら目元を彩りこめかみへ流れていく。
 しばらくの沈黙の後、ラフィンニは低く応じた。
『はい』
 薄く切れ目の入った白い唇が微かに上下に動いた。二つの瞳を見せるはずの穴は覗き込むのも恐ろしいような空洞に繋がっている。ぽかりと開いただけでは、それほど真っ黒な空間にはならないだろう、その眼窩の奥が一瞬霞むような光に揺れた。振り向いた『太皇』(スーグ)の静かな視線に耐えられないと言いたげな、どこかためらうような気配を漂わせて面が少し伏せられる。
「……そうか」
 低く呟き、『太皇』(スーグ)は眉根を寄せ、もう一度外へ視線を移す。
「わしでは、駄目か」
『…』
「……そなた達には、やはり聖女王(シグラトル)が必要か」
『「泉の狩人」(オーミノ)皆ではない……私が、このラフィンニこそが必要としていたのです!』
 深く響いた『太皇』(スーグ)の声に、ラフィンニは少女のような叫びを返した。涙に滲んでいるように幼い声、その声に『太皇』(スーグ)はもう一度問いを返す。
「『偽りの』女王でも、か」
『「偽りの」伝説でも』
「……惨いな」
(あなたには、わからない)
 『太皇』(スーグ)のことばに、ラフィンニは胸の中で叫び返す。
(この世界の役目を負うている、あなたには)
 自分の吐いたことばが抱え切れないほど重く胸の中で沈み込む。
(『偽りの』、伝説)
 彼ら『泉の狩人』(オーミノ)が荒廃の世に命を受けたものであるのは偽りではない。また、彼らの聖なる女王が『狩人』達の陥った危機に際して我が身を犠牲にし、ようよう一族の十数人を救い得たのも偽りではない。
 偽りは、その後にこそあった。
(聖女王(シグラトル)は帰らぬ)
 凍りつくようなそのことばを、ラフィンニは何度胸の中で繰り返してきたことか。
(我らが聖なる女王は、二度と我らの元に帰っては来られぬ)
 その昔、血気に逸った『狩人』の幾人かが、彼らの女王を死に追いやった。女王を失い醜い躯で生き長らえる一族は『死を司る長』(ラフィンニ)を得て、ラズーンのもたらした太平の世の裏側でひっそりと身を潜めて生きて来た、いつか彼らの元に聖女王(シグラトル)が帰り、女王の残して行った剣と意志を引き継ぎ、彼らのおぞましい運命をーー呪わしい生の鎖をーー断ち切ってくれることだけを夢見て。
 だが、ただの一人も疑ったことがなかっただろう、その聖女王(シグラトル)の帰還こそがラフィンニが造り出した絵空事、女王の残した水晶の剣を勝手に継承の証としたこと、『大いなる沈黙』という条件もラフィンニがなかなか叶うことのない資質として考え出したものであることを。
(二度と、帰っては下さらぬ)
『……あの時、私は一時の勝利しか見なかった』
 ラフィンニは、背中を向けたまま静かに聞いている『太皇』(スーグ)に呟いた。
『我らが女王を喜ばせたいと………ただ、あの方の微笑まれる顔を見たいと、それだけを考えて「穴の老人」(ディスティヤト)を襲った』
 窓から入る風は柔らかく穏やかだ。ラフィンニの長い髪が揺れ、仮面に当たり、さらさらと音をたてた。
『挙げ句の果てがこの有様…』
 指先で白い仮面に触れる。
『女王は帰らず、我らはただ生きるのみ……虚しい命を…何にも役立たぬ、闇にも属さぬ、時を貪り存在するだけの……』
 ただ生きるためには、年月の歩みはあまりにも遅かった。
『……私は耐えられなかった……女王を失ったのが私のせいだとわかっているからこそ、耐えられなかった』
「……だから、造ったのじゃな……聖女王(シグラトル)の帰還を」
 『太皇』(スーグ)は何かを探すように、一瞬遠い彼方の空を見上げた。
『造った時は、女王を求めていたのではなかった』
 ラフィンニは微かな声で続けた。
『あの方以外……女王などおらぬ…そう考えていた』
 声はより沈む。空気に紛れるほど微かに、今にも消え去りそうな弱々しさで。けれども、続いたことばは僅かに熱を取り戻していた。
『生きていく拠り所が欲しかっただけのこと……長として不死の命に倦む仲間を苦しませたくなかっただけのこと……幻でもいい、先を示す標が欲しかった……だが』
 私はあの娘に出逢ってしまった。
「……ユーナ・セレディス」
 『太皇』(スーグ)が応じた。
『はい』
 ラフィンニは強く頷いた。
『聖女王(シグラトル)ではない、そんなことはわかっている。けれど、皆は、私は、もう十分待った、待ち過ぎるほどに待った! そこにあの娘は現れた、あまりにも聖女王(シグラトル)に似た魂を持って……』
 私はもう、待てなかった。
「……」
 『太皇』(スーグ)が視線を降ろす。まっすぐに見つめるのは地に満ちる繁栄、それと何を比較したのか、少し首を振り、静かに大きく息をついた。
「……アシャは……ユーノを求めておる」
 ラフィンニは俯く。脳裏をユーノを『沈黙の扉』に閉じ込めた時のことが過っていく。
 アシャの身代わりに、死の山と恐れられる場所へただ一人で乗り込んで来てイズミーと渡り合い、深い傷を負っても家族を想い仲間を想い、打ち捨てられる運命を受け入れようとした娘。自己憐憫は甘かろう、そこへ追い込まれたことを恨むことは容易かろうに、従容と死につこうとした。
 ユーノの強さがどこから来たものかはわからない、だが、ラフィンニはこの娘ならと望みを抱いた。
(この娘ならば、我らを永遠の生の軛から解放してくれるやも知れぬ、我らは『死の女神』(イラークトル)の元に辿り着き、再び聖女王(シグラトル)を戴き無敵の軍としてお仕えできるやも知れぬ、と)
「……アシャは……愛しておる」
『存じております』
 くすり、と思わず笑みを漏らした。おお、おお、そうであろうとも、たとえあのアシャであろうと、あれほどの誇り高い魂に魅かれぬはずがなかろう。
『「氷のアシャ」ともあろうものが、我が身を切り刻みかねない想いで惚れ込んでおりますとも』
「……ユーノもアシャを望んでおる」
『…存じております』
 ラフィンニは声を低めた。
『………待てないのです、「太皇」(スーグ)』
 『太皇』(スーグ)がゆっくり振り返る。その顔を正面から見据えながら、
『これ以上「狩人」を率いていくのは耐えられないのです』
 口に出してしまえば、想いは一層はっきりした。
『私はもう休みたい』
 痛ましそうに眉をひそめる『太皇』(スーグ)に訴える。
『我らが聖女王(シグラトル)は「死の女神」(イラークトル)の衣の下で待っておられる、そこへ少しでも早く馳せ参じたい………そのためには、ユーノをアシャに渡すわけには行かぬのです、例えどれほどあやつが望もうとも』
「……もし、心が呼び合ったとしたらどうする?」
 『太皇』(スーグ)が静かに問いかけた。
「どれほど遮り、どれほど隔てたとしても、互いを求め合い、その絆が誰にも断てぬとわかったなら?」
『呼び合うことはありますまい』
 ラフィンニは嘲笑を込めて言い放った。
『あなたの気に入りのアシャは激しい男、ユーノのために自らの身を削るのも厭わぬほどに。ならば、己の為したことがユーノを傷つけると知ったなら、決してそこへは踏み込みますまい? アシャはユーノに己の想いを気づかせぬと誓った。おそらく、その約束が破られることはない』
「……万が一」
 『太皇』(スーグ)は目を細めた。
「アシャが語らずとも、その想いがユーノに伝わったなら?」
 一瞬口を噤み眼を閉じる。もう一度見開いた『太皇』(スーグ)の目には憐れみが漂っている。
「あの二人を引き離すことが、そなたにできるか?」
『……なれば、心を通わせる前に引き裂くまで』
 くく、とラフィンニは小さく嗤った。『太皇』(スーグ)の思いやり深げな応対が、生温く愚かに感じられて仕方がなかった。
『ユーノは我らが聖女王(シグラトル)。偽りとはいえ、かの女王の後、我ら「狩人」が初めて認めた、ただ一人の女王。たとえ、ラズーンの第一正統後継者、名高きアシャ・ラズーンとは言え、人間如きに渡すわけにはいきませぬ、いや、「人」ではないとの弁も聞きませぬ』
 アシャ・ラズーンが何者なのか、『人間』は知らなくとも、太古生物に属する者は気づくだろう、同じ香りのする血の臭いを訝しく嗅ぎながら思うだろう、なぜこやつは『そちら』側に居るのかと。
『それぐらいなら、ユーノもろとも「死の女神」(イラークトル)の元へと参りましょう。いや、我らは不死ゆえ、あの娘のみが死出の旅路を歩みましょうな』
 その時のアシャの顔こそ、一見の価値がある。
『もっとも、それぐらいはアシャの方も気づいてはいることでしょう? そして、今度こそ、聖女王(シグラトル)を我が手にかけた我らは、もはやこの世界に未練なぞない、闇に跳梁する魔となって、あなたさえ耳を塞ぐ所行を楽しむことになる……ふ……ふふふっ……ほほっ………ほほほほほほほ……』
 自嘲を満たしたラフィンニの笑い声は、『氷の双宮』に陰々と谺した。と、その時ふいに、近くの空間が丸く光を弾くと同時に内側を黒く崩れさせた。ラフィンニが振り返ると同時に、『太皇』(スーグ)が険しい表情になる。
 それは『宙道』(シノイ)の開道の印、それも『氷の双宮』に直接開く『宙道』(シノイ)と言えば、遥か太古に繋がれていたルートのみ、現存しているのは他ならぬ『狩人の山』(オムニド)からのものしかない。
 黒く色を落とした円周内の空間は、次の瞬間、深い穴と化した。
 そこから一人の『泉の狩人』(オーミノ)が、流れる栗色の髪を疎ましげに振り払いつつ駆け出してくる。足元には銀のイズミーが寄り添い、息を切らせてラフィンニの前に膝を突いた主人の側で、赤い舌を吐き、色違いの二つの瞳でラフィンニを見上げた。
『申し上げます!』
『何用か。「太皇」(スーグ)との謁見中、無礼であろう』
『お許し下さい、一刻を争うこと、私では対応しかねました』
 ラフィンニの叱責にウォーグは白骨の顔を振り仰ぐ。
『セールが「狩人の山」(オムニド)を降りました!』
『何っ…』
 さすがのラフィンニも驚愕にことばを失った。
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