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6.洞窟(8)
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(!)
どさりと固いものの上に投げ出され、鋭い痛みが左肩を貫いて、ユーノは我に返った。
薄目を開ける。揺らめく視界は陽炎の海のようで、目眩がして再び眼を閉じる。
左肩が炎になったように熱かった。肩それ自身が、灯火をともすための油脂の塊のようにじりじりと溶け崩れて焼け、焦げ爛れているようだ。
とろり、と額を生温くて重みのある粘っこい汗が流れ落ちていき、それでまだ自分が気を失っていないとわかった。
(どうして…こんなに……肩が…痛い……?)
ゆっくり意識して息を吐き、吸う。慣れたものだ、痛みの緩め方はよく知っている。緊張し強張った心は、傷みをより酷く激しくする。循環を滞らせ、必要な気力と体力を巡らせるのを妨げる。
けれども、いつもと違って痛みは少しも和らいでくれなかった。そればかりか、呼吸を繰り返し意識をはっきりさせればさせるほど、強く深く、まるで見えない手で肉を掴まれじわじわ裂かれていっているような気さえする。
(おかしい…な……イズミーの……傷は……アシャが……ちゃんと……手当……してくれた…のに……)
たったそれだけを考えるのに、呆れるほど気持ちを張りつめなくてはならなかった。ことば一つを絞り出すたびに、一気に力を奪われて眠気が襲ってくる。体がぐったりしていて、言うことを聞いてくれない。だが、アシャ、ということばに伴う温かさは、緩めても緩めても凍てついていた体の一部分を、ほんの少しほぐしてくれた。
(夢…なのかな)
そうだ、これはいつもの、ひどく現実的な、傷ついて倒れてしまった夢なのだろう。でないと、あり得ない、ユーノが、ユーノ・セレディスともあろうものが、しかもアシャと同行していてこれほど身動き出来ないほどの状態になるはずがない。四肢の堪え難い無力感、これではまるで、死が目の前に躍り出してきたようではないか。
「は…ふ…」
自分の息の音、ひどく弱々しくて、しかも遠くで聞こえる。再び気を失ってしまうのだろうか。気を失って、これほど重苦しい夢からようやく醒めるのだろうか。
だが、それを待って澄ませていた心に届いたのは、もっと違う音だった。
一つは怯えたように荒々しく繰り返されている呼吸。ひっ、ひっ、と引きつけるように忙しく吸われて瞬間に吐き出される吐息は恐怖を知らせる。それと重なり合うようにぴしっ、ぴしっ、と何かが弾け飛ぶような音が響く。いや、逆か。ぴしぴしと鳴る音に怯えた誰かが、恐ろしさに詰まってしまいそうな呼吸を何とか取り戻そうと足掻いているのだ。
もう一つはもっと重くて猛々しい音、岩を叩きつけ砕いていたならこんな音が響き渡るか。そう言えば、その合間にざりざりぎりぎりと非常な力が互いを競い合ってぶつかる、身を揉みたくなるような音がしている。
(この音は……どこかで…聞いて…)
がらっ、と耐えかねたように片方が崩れ激しい音をたてて地面に散った。振動が体に届く。全身を揺さぶるような衝撃、きっとユーノを砕くほどの大きさの岩塊だ。けれど、その音はどこか籠っている。開け放った場所での岩山の倒壊ではない、もっと狭い、くぐもった、奥深い場所、そう、まるで洞窟のような。
(洞窟!)
はっとして思わず目を開けた。
(これ…は)
霞んだ視界は数回の瞬きですぐに明らかになった、だが、視野を埋めた光景に、今度は見開いた目をもっと剥くしかなかった。
三つの塊がある。
一つの塊は黄金の炎だ。燃え上がっている。岩屋の天井を舐め焼き尽くすほどの業火、しかも鮮やかな金色の光を放っている中央に人がいる。わらわらと巻き上がる白金に輝く髪、聡明そうな額に滑らかな頬の青年は薄笑みを浮かべている。艶やかな微笑だ、まるで恋人を前にしているような、至上の愛撫を受けているような蕩けるような笑みに細められた瞳は、炎を受けてきらきらと光っている。だが、その姿には一切の隙がなかった。『人』が持つどんな緩みもためらいも、迷い一つない。全てが炎の中で満たされ完結していて、それがたとえようもなく恐ろしい。彼は彼以外何も必要としないとわかる。彼が全て、彼が始まりであり終わりであり、彼以外の何者も存在を許されない。
もう一つは、その黄金の光に追い立てられ押し付けられるように後じさりしていく赤黒い塊。絡み合い縛り合うような肉がところどころでぶよぶよと膨らみ息づいている。薄黒く濁った色合いの木の根のようなものが、その肉の中に埋まりくねり、時に中から外へ、外から中へ粘りのある汁を滴らせながら貫き刺し通り、けれどそれで傷ついている様子ではなく、むしろ樹根に絡みつき締め上げて自らを作り上げているような姿だ。塊は黄金の炎に身を削られている。撤退が遅く、身を引き損ねた部分が炎に炙られ焦がされ、一瞬にして炭化する際に呻くように身悶えしつつ、それでも一気に逃げ去らず、隙があれば痛みに耐えて炎を呑み込み、我が身に同化させる機会を狙っているようだ。
三つ目の塊は黄金の炎の青年を軸に、肉塊と対照的な位置で岩場に身を縮こめる少年。振り乱した髪、泣きじゃくりながら少しでも小さく小さく、岩の隙間に自分を埋めて消してしまいたいと願っているかのように、四肢を引き寄せがたがたと震えている。掠れた細い悲鳴のような泣き声が、黄金の炎の光が発する非常な高音と肉塊が発する重低音の間を、今にも消えそうなほど哀れな気配で響いては消え消えては響き、必死に助けを求めている。誰か助けて、誰かここから離して、誰か僕をここから救い出して。
(あれ…は……)
イリオール。
「っ…」
名前が浮かんだとたんに、ユーノは強く息を吸った。
目の前に繰り広げられている神話時代のような光景が、一瞬にして現実の、よく見知った世界に戻る。
ここは『穴の老人』(ディスティヤト)の洞窟だ。ユーノ達は入り込み、追い立てられて窮地に飛び込み、逃げ惑う少年を庇おうとして策に嵌まった。少年の身代わりに掴まって、自分の剣で肩を裂き、しかもその肩を捻り上げられ気を失った。おそらくはそれを見たアシャが敵を責め立て、放り出されたユーノやイリオールにも構わず、今まさに最後の一撃にかかろうとしているのだろう。
(く、そ…)
必死にそこまで考えたユーノだったが、体が予想以上に疲れ切っている。ぶり返してきた痛みに再び頭に靄が掛かり始めてくる。
(だめだ……アシャ…)
アシャは今まで見たことがないほどの怒りに囚われている。『穴の老人』(ディスティヤト)を追い詰める、いや屠ることしか考えていないように見える。自分の状態はもちろん、周囲のことも眼に入っていない。転がっているイリオールのことも、ひょっとするとユーノのことも。
今も、遠く彼方の壁伝いにイリオールに伸ばされた樹根を、振り返りもしないアシャの黄金のオーラの一端が巨大な蛇のように空中を走って飛びかかり、一気に焼き尽くして灰にした。だが、炭化させたのは樹根だけではない。あまりの強く激しい光のためだろう、イリオールのすぐ側の岩まで焦がして黒く煤けさせたばかりか、その一部を崩しさえした。
そればかりではない、『穴の老人』(ディスティヤト)の迎撃に解放された光の舌は、アシャの制御を離れたことを喜び躍るように、アシャに戻ることなく周囲の壁を駆け上がり、壁の隙間や天井の岩盤の割れ目に飛び込んで、洞窟そのものを大きく高く広げようとするかのようにぎしぎしときしませる。確かに洞窟は古くからのものであり、頑丈で年月を耐え抜いてきた安定したものであっただろうが、今アシャの光に押しのけられ撥ねつけられて、体を震わせながら揺れ動き始めており、天井や壁からばらばらと細かな岩の欠片が零れ落ち始めている。
だが、それらにアシャは全く気づいていない。
「あ…しゃ……っ…」
必死に絞り出した声は掠れて呻き声にしかならなかった。紡いだ名前を聞き取ろうとする気配はアシャにはない。彼は敵を屠るのに夢中だ。だが、
「あ……しゃ……ぁ…っ」
咳き込み、喘ぎ、ユーノはもう一度呼んだ。
届かない、けど、呼ばずにはおられない。
(駄目だ……アシャ……それ以上……追い詰めるな……それ以上進んだら…)
何もかもが崩れ落ちる。
「…っ、あ」
何とか少しでも近くに寄ろうとして鈍い手足を動かそうとし、左手がぴくりと反応して視界が眩んだ。灼熱の痛み、食いしばった歯の間から呻きが漏れるほどの激痛、震えて閉じた眼の奥に無数の火花が飛び散って脳髄を焼く。
(はやく…知らせ…ないと……危ない……あの子もろとも……殺しちゃう…)
きっとアシャはそんなことは望んでいない。
きっとアシャは全てを助けたいはずだ。
けれど今は見えなくなっている、怒りに思考を封じられて、ただそれだけで、アシャが絶対望んでいなかった破壊を呼び込んでしまう。
それはどれほどアシャを苦しめることだろう。
「い…りお……」
あなただけでも逃げて。
願いはことばにさえならない。
(私が…ヘマをした…から…)
まんまと相手の策に嵌まって、自分を傷つけるようなことをしたから、アシャにしたくもない人殺しをさせてしまう。
悔しくて苦しくて、それでも身動き出来なくて、苦い涙を呑み下す、その瞬間。
『アシャ殿!』
突然一つの声が洞窟を貫いた。
『聖女王(シグラトル)もろもと殺される気か?!』
アシャの怒りに負けず劣らず、いや破壊神という存在ならば、アシャに対抗出来る唯一の存在、独特の陰々とした響きは『泉の狩人』(オーミノ)の叫びだ。
(せー……る……?)
僅かに聞き覚えがある、そう思ったとたん、滑らかな、けれど力強く優しい腕がそっとユーノを抱き起こした。激痛に悲鳴を漏らすユーノの体を宥めるように、けれどもためらうことなく抱きかかえる。
『我が、聖女王(シグラトル)』
柔らかな温かな胸がユーノを抱き取った。傷をそっと包み支える、痛みが少し和らいで、思わず小さく安堵の息をつく、その耳に静かな声が囁きかける。
『どうぞご安心を。このセールが、命にかえて……お護りします』
いつもならば暗く陰鬱な声音が、どこか苦しげな、そのくせ甘い切なさをうねらせた。同時に左肩の激痛がみるみる薄れていく。
幼子を抱く母親のように、セールはユーノをすっぽりと抱えている。鼓動が体を通して伝わってくる。
『我らが……聖女王(シグラトル)……ユーノ…』
安堵と解放に急速に意識が落ちていく。
助けに来てくれたの。
私のために来てくれたの。
どうしたの。
大丈夫なの。
セール何だか、ひどく優しい、ひどく…怖いよ。
ユーノの声にならぬ問いを聞き取ったかのように、セールが微かに笑った。笑ったのに、まるで泣いているように聞こえた。
やがて、そっと、何もかもが止まった穏やかな空間に、ことばがそっと置かれた。
『「死の女神」(イラークトル)の……恵みの……もとに…』
どさりと固いものの上に投げ出され、鋭い痛みが左肩を貫いて、ユーノは我に返った。
薄目を開ける。揺らめく視界は陽炎の海のようで、目眩がして再び眼を閉じる。
左肩が炎になったように熱かった。肩それ自身が、灯火をともすための油脂の塊のようにじりじりと溶け崩れて焼け、焦げ爛れているようだ。
とろり、と額を生温くて重みのある粘っこい汗が流れ落ちていき、それでまだ自分が気を失っていないとわかった。
(どうして…こんなに……肩が…痛い……?)
ゆっくり意識して息を吐き、吸う。慣れたものだ、痛みの緩め方はよく知っている。緊張し強張った心は、傷みをより酷く激しくする。循環を滞らせ、必要な気力と体力を巡らせるのを妨げる。
けれども、いつもと違って痛みは少しも和らいでくれなかった。そればかりか、呼吸を繰り返し意識をはっきりさせればさせるほど、強く深く、まるで見えない手で肉を掴まれじわじわ裂かれていっているような気さえする。
(おかしい…な……イズミーの……傷は……アシャが……ちゃんと……手当……してくれた…のに……)
たったそれだけを考えるのに、呆れるほど気持ちを張りつめなくてはならなかった。ことば一つを絞り出すたびに、一気に力を奪われて眠気が襲ってくる。体がぐったりしていて、言うことを聞いてくれない。だが、アシャ、ということばに伴う温かさは、緩めても緩めても凍てついていた体の一部分を、ほんの少しほぐしてくれた。
(夢…なのかな)
そうだ、これはいつもの、ひどく現実的な、傷ついて倒れてしまった夢なのだろう。でないと、あり得ない、ユーノが、ユーノ・セレディスともあろうものが、しかもアシャと同行していてこれほど身動き出来ないほどの状態になるはずがない。四肢の堪え難い無力感、これではまるで、死が目の前に躍り出してきたようではないか。
「は…ふ…」
自分の息の音、ひどく弱々しくて、しかも遠くで聞こえる。再び気を失ってしまうのだろうか。気を失って、これほど重苦しい夢からようやく醒めるのだろうか。
だが、それを待って澄ませていた心に届いたのは、もっと違う音だった。
一つは怯えたように荒々しく繰り返されている呼吸。ひっ、ひっ、と引きつけるように忙しく吸われて瞬間に吐き出される吐息は恐怖を知らせる。それと重なり合うようにぴしっ、ぴしっ、と何かが弾け飛ぶような音が響く。いや、逆か。ぴしぴしと鳴る音に怯えた誰かが、恐ろしさに詰まってしまいそうな呼吸を何とか取り戻そうと足掻いているのだ。
もう一つはもっと重くて猛々しい音、岩を叩きつけ砕いていたならこんな音が響き渡るか。そう言えば、その合間にざりざりぎりぎりと非常な力が互いを競い合ってぶつかる、身を揉みたくなるような音がしている。
(この音は……どこかで…聞いて…)
がらっ、と耐えかねたように片方が崩れ激しい音をたてて地面に散った。振動が体に届く。全身を揺さぶるような衝撃、きっとユーノを砕くほどの大きさの岩塊だ。けれど、その音はどこか籠っている。開け放った場所での岩山の倒壊ではない、もっと狭い、くぐもった、奥深い場所、そう、まるで洞窟のような。
(洞窟!)
はっとして思わず目を開けた。
(これ…は)
霞んだ視界は数回の瞬きですぐに明らかになった、だが、視野を埋めた光景に、今度は見開いた目をもっと剥くしかなかった。
三つの塊がある。
一つの塊は黄金の炎だ。燃え上がっている。岩屋の天井を舐め焼き尽くすほどの業火、しかも鮮やかな金色の光を放っている中央に人がいる。わらわらと巻き上がる白金に輝く髪、聡明そうな額に滑らかな頬の青年は薄笑みを浮かべている。艶やかな微笑だ、まるで恋人を前にしているような、至上の愛撫を受けているような蕩けるような笑みに細められた瞳は、炎を受けてきらきらと光っている。だが、その姿には一切の隙がなかった。『人』が持つどんな緩みもためらいも、迷い一つない。全てが炎の中で満たされ完結していて、それがたとえようもなく恐ろしい。彼は彼以外何も必要としないとわかる。彼が全て、彼が始まりであり終わりであり、彼以外の何者も存在を許されない。
もう一つは、その黄金の光に追い立てられ押し付けられるように後じさりしていく赤黒い塊。絡み合い縛り合うような肉がところどころでぶよぶよと膨らみ息づいている。薄黒く濁った色合いの木の根のようなものが、その肉の中に埋まりくねり、時に中から外へ、外から中へ粘りのある汁を滴らせながら貫き刺し通り、けれどそれで傷ついている様子ではなく、むしろ樹根に絡みつき締め上げて自らを作り上げているような姿だ。塊は黄金の炎に身を削られている。撤退が遅く、身を引き損ねた部分が炎に炙られ焦がされ、一瞬にして炭化する際に呻くように身悶えしつつ、それでも一気に逃げ去らず、隙があれば痛みに耐えて炎を呑み込み、我が身に同化させる機会を狙っているようだ。
三つ目の塊は黄金の炎の青年を軸に、肉塊と対照的な位置で岩場に身を縮こめる少年。振り乱した髪、泣きじゃくりながら少しでも小さく小さく、岩の隙間に自分を埋めて消してしまいたいと願っているかのように、四肢を引き寄せがたがたと震えている。掠れた細い悲鳴のような泣き声が、黄金の炎の光が発する非常な高音と肉塊が発する重低音の間を、今にも消えそうなほど哀れな気配で響いては消え消えては響き、必死に助けを求めている。誰か助けて、誰かここから離して、誰か僕をここから救い出して。
(あれ…は……)
イリオール。
「っ…」
名前が浮かんだとたんに、ユーノは強く息を吸った。
目の前に繰り広げられている神話時代のような光景が、一瞬にして現実の、よく見知った世界に戻る。
ここは『穴の老人』(ディスティヤト)の洞窟だ。ユーノ達は入り込み、追い立てられて窮地に飛び込み、逃げ惑う少年を庇おうとして策に嵌まった。少年の身代わりに掴まって、自分の剣で肩を裂き、しかもその肩を捻り上げられ気を失った。おそらくはそれを見たアシャが敵を責め立て、放り出されたユーノやイリオールにも構わず、今まさに最後の一撃にかかろうとしているのだろう。
(く、そ…)
必死にそこまで考えたユーノだったが、体が予想以上に疲れ切っている。ぶり返してきた痛みに再び頭に靄が掛かり始めてくる。
(だめだ……アシャ…)
アシャは今まで見たことがないほどの怒りに囚われている。『穴の老人』(ディスティヤト)を追い詰める、いや屠ることしか考えていないように見える。自分の状態はもちろん、周囲のことも眼に入っていない。転がっているイリオールのことも、ひょっとするとユーノのことも。
今も、遠く彼方の壁伝いにイリオールに伸ばされた樹根を、振り返りもしないアシャの黄金のオーラの一端が巨大な蛇のように空中を走って飛びかかり、一気に焼き尽くして灰にした。だが、炭化させたのは樹根だけではない。あまりの強く激しい光のためだろう、イリオールのすぐ側の岩まで焦がして黒く煤けさせたばかりか、その一部を崩しさえした。
そればかりではない、『穴の老人』(ディスティヤト)の迎撃に解放された光の舌は、アシャの制御を離れたことを喜び躍るように、アシャに戻ることなく周囲の壁を駆け上がり、壁の隙間や天井の岩盤の割れ目に飛び込んで、洞窟そのものを大きく高く広げようとするかのようにぎしぎしときしませる。確かに洞窟は古くからのものであり、頑丈で年月を耐え抜いてきた安定したものであっただろうが、今アシャの光に押しのけられ撥ねつけられて、体を震わせながら揺れ動き始めており、天井や壁からばらばらと細かな岩の欠片が零れ落ち始めている。
だが、それらにアシャは全く気づいていない。
「あ…しゃ……っ…」
必死に絞り出した声は掠れて呻き声にしかならなかった。紡いだ名前を聞き取ろうとする気配はアシャにはない。彼は敵を屠るのに夢中だ。だが、
「あ……しゃ……ぁ…っ」
咳き込み、喘ぎ、ユーノはもう一度呼んだ。
届かない、けど、呼ばずにはおられない。
(駄目だ……アシャ……それ以上……追い詰めるな……それ以上進んだら…)
何もかもが崩れ落ちる。
「…っ、あ」
何とか少しでも近くに寄ろうとして鈍い手足を動かそうとし、左手がぴくりと反応して視界が眩んだ。灼熱の痛み、食いしばった歯の間から呻きが漏れるほどの激痛、震えて閉じた眼の奥に無数の火花が飛び散って脳髄を焼く。
(はやく…知らせ…ないと……危ない……あの子もろとも……殺しちゃう…)
きっとアシャはそんなことは望んでいない。
きっとアシャは全てを助けたいはずだ。
けれど今は見えなくなっている、怒りに思考を封じられて、ただそれだけで、アシャが絶対望んでいなかった破壊を呼び込んでしまう。
それはどれほどアシャを苦しめることだろう。
「い…りお……」
あなただけでも逃げて。
願いはことばにさえならない。
(私が…ヘマをした…から…)
まんまと相手の策に嵌まって、自分を傷つけるようなことをしたから、アシャにしたくもない人殺しをさせてしまう。
悔しくて苦しくて、それでも身動き出来なくて、苦い涙を呑み下す、その瞬間。
『アシャ殿!』
突然一つの声が洞窟を貫いた。
『聖女王(シグラトル)もろもと殺される気か?!』
アシャの怒りに負けず劣らず、いや破壊神という存在ならば、アシャに対抗出来る唯一の存在、独特の陰々とした響きは『泉の狩人』(オーミノ)の叫びだ。
(せー……る……?)
僅かに聞き覚えがある、そう思ったとたん、滑らかな、けれど力強く優しい腕がそっとユーノを抱き起こした。激痛に悲鳴を漏らすユーノの体を宥めるように、けれどもためらうことなく抱きかかえる。
『我が、聖女王(シグラトル)』
柔らかな温かな胸がユーノを抱き取った。傷をそっと包み支える、痛みが少し和らいで、思わず小さく安堵の息をつく、その耳に静かな声が囁きかける。
『どうぞご安心を。このセールが、命にかえて……お護りします』
いつもならば暗く陰鬱な声音が、どこか苦しげな、そのくせ甘い切なさをうねらせた。同時に左肩の激痛がみるみる薄れていく。
幼子を抱く母親のように、セールはユーノをすっぽりと抱えている。鼓動が体を通して伝わってくる。
『我らが……聖女王(シグラトル)……ユーノ…』
安堵と解放に急速に意識が落ちていく。
助けに来てくれたの。
私のために来てくれたの。
どうしたの。
大丈夫なの。
セール何だか、ひどく優しい、ひどく…怖いよ。
ユーノの声にならぬ問いを聞き取ったかのように、セールが微かに笑った。笑ったのに、まるで泣いているように聞こえた。
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