『ラズーン』第五部

segakiyui

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8.暗躍(2)

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「ジーフォ公が動きました!」
 駆け込んできた部下の報告を、ギヌアは満足げに頷いて聞いた。
 スォーガとクェトロムトの境にある『運命(リマイン)』本拠、側にはガデロの主ネハルール、クェトロムトのシーラ・クェトロムト、ベシャム・テ・ラのベシャオト二世、モスのモディスン・ゲルン、グルセトのシダルナン・グルセト、レトリア・ル・レのレトラデス、カザドのカザディノなど、『運命(リマイン)』に組する主な面々が揃っている。
 黒と紫紺の布、毛皮が敷き詰められ、キャサラン金糸を織り込んだ煌めくソクーラ織が冷たい石壁に張り巡らされた広間は、薄く淡い靄に煙っていた。
 中央正面の玉座についたギヌアは、素肌に羽織った黒衣のためか、いつもより青白い顔で白髪を掻きあげたが、髪は白く光を放っているように艶やかで紅の瞳は鋭気に溢れ、使いのことばを一言一句聞き逃すまいとするかのように輝いている。その姿は、闇夜に獲物を見定める『死の女神』(イラークトル)の御子とも見えた。
「どう動いた?」
「はっ、テッツェを連れ、行き先も告げずに屋敷から姿を消したそうです。何でもひどく慌ててアシャの名を口走り、アリオのことも口にしていたとか。屋敷も『鉄羽根』も、突然の主の出奔に混乱し切っております!」
 使いの声も興奮し、意気揚々と報告する。
「よし」
 にっ、とギヌアは唇を綻ばせた。血を啜ったような赤みを帯びた口が、にんまりと左右に引かれ、やがて重々しく周囲に控えた各国の王に話しかける。
「聞かれたな、方々」
「確かに…」
 死んだ平原竜(タロ)を思わせるどんよりと曇った目のネハルールが頷いた。
「これでダイン要城の恨みも晴れよう」
「まこと」
 モディスンが痩けた頬を、顔に似合いの骨ばった指で撫でながら同意する。
「やっとアシャに一泡吹かせられる」
 のっぺりした鈍重な魚を思わせる顔に異様に大きな目をぎょろつかせ、その実自分では誰よりも色男だと言い放つシーラ・クェトロムトが、くすくす笑った。
「彼には恋人を奪われた恨みがあるからな」
 まさかその『恋人』が、中身が空っぽので抱いている女を傷つけるしかできない色好みの自分と離れるために、名高いアシャの名前を出したとは露ほど思ってもいない。
「常々、不愉快な男だと思っていたんだ」
 これは小太りで鼻も口も丸くて小さいベシャオト二世のことば、顔そっくりに気持ちも心も小さい彼にとって、世界には劣等感を刺激するものばかりしかない。最近では家来からも疎まれ始めているのを気づいてはいるが、今度のことさえうまくやれば、昔の通り女も金も思いのままだと信じている。近くに居た裸に薄物一枚しか羽織っていない女の尻を撫で回しながら、眠っているように虚ろな膜が張った瞳が、いつ正気に返るのかとどきどきしている。
「ふっ、どうせお前は、自分よりはしこい男が全て嫌なんだろう」
 皮肉屋のシダルナン・グルセトがすぐにからかった。
「そうでしょうね、きっと」
 容赦なく切り捨てたのは紅一点のレトラデス、腕に抱え込んだ朱色の薄物を着た少年の口からようやく顔を上げて冷ややかに嗤う。レトリア・ル・レの女主人はそのまま少年の胸を弄り、相手がびくびくと震えるのを楽しみながら、下半身へと尖った爪の指先を伸ばす。
「おいおい、大概にしておけよ、レトラデス」
 モディスンが呆れたように声をかけた。
「『坊や』を可愛がり過ぎるな、この間一人、この世に戻ってこれなくなったのが居ただろう」
「あら」
 レトラデスは赤い唇を歪めて笑った。息を乱し、目を閉じて眉を寄せている少年の耳に唇を這わせ、
「本人も楽しんでいるんだからいいじゃないの、ほうら、ね」
「、あ…っ」
 小さな悲鳴を上げて少年が仰け反った。拒むようにレトラデスの腕を掴もうとするが、四肢に力は入らないらしく、苦しそうにもがきながら声を上げる。
「ひ…い…っ」
「レトラデス、しばし待て」
 ギヌアは低く声をかけた。
「後で存分に楽しませてやる」
「…はい、ギヌア様」
 レトラデスは頷いて手を休めた。震えながら体を竦めていた少年が、ずるずるとレトラデスの膝から崩れ落ちる。薄物がはだけられて全裸に近い状態だが、それを隠す様子もない。おそらくは部屋に立ちこめる靄が彼から意志を奪い取ってしまっているのだろう。床に転がった一瞬、もがくような瞳が揺れた。周囲に助けを請うように見回す、だが、集まった者はそんな懇願には目もくれない。
「ジーフォが動き、ラズーンの守りには大きな穴が開いた。この機を逃す訳にはいかぬ」
 重々しく宣言し、ギヌアは自分を見つめる七対の貪欲な眼差しに微笑んだ。
「ネハルール、レトラデス」
「うむ」「はい」
「そなた達はジーフォの領地より入り、セシ公を討て」
「承った」「わかりました」
「カザディノ、シーラ、そなた達はミダス公領地にてユーノを討て」
「無論」「お任せあれ」
「モディスン、ベシャオト、シダルナン、お前達は『泥土』にてアシャを襲え」
「存分に」「わかった」「一人でも構わぬがな」
「俺は『氷の双宮』…『泉の狩人』(オーミノ)を討つ……『穴の老人』(ディスティヤト)を率いてな」
 笑みを深めたギヌアは、猛々しく唇を歪めた。
「覚えておけ、世を握るのは『運命(リマイン)』だ。世の基礎と成るのは『運命(リマイン)』だ。それ以外のものは容赦なく潰せ……ただし」
 突然微笑を消したギヌアは、静かに囁くような声になった。
「ユーノとアシャは別だ」
 欲望に塗れ呻きと喘ぎに満ちる広間、掠れたようなその声が掠れ途切れることもなく隅々まで響くのは、凍りつくような殺意のためか。
「殺すだけでは飽き足らぬ」
「そうとも」
 カザディノが間髪入れず応じた。
「あの小娘めにどれほど煮え湯を飲まされたか。どれほどの苦難を強いられたか。憎んでも憎んでも、如何に憎んでも憎み足らぬ! 屠るのだ、手足の一本一本を引き千切り、体も心も粉々に砕いてしまうのだ!」
「おおそうとも」
 重く昏い微笑にギヌアは唇を綻ばせた。あやすようにことばを続ける。
「あやつらのために、我らの願いが幾度挫かれたか、忘れるではないぞ。一刃のものとに殺すのではない。何としても生かして連れ帰れ」
 もう一度ゆっくりと周囲を見回す。
 いつの間にか、広間の面々はギヌアの方を仰ぎ見るように見上げていた。期待と興奮、今まさに彼らの時代がやってこようとしている。
「ユーノとアシャを…新しい世界の幕開けの祭壇に強く楔で打ち込むのだ!」
 響き渡る声に、耳を塞ぐほどの歓声が応じた。うぉああああああ、と声を上げて拳を振り上げる一群、『運命(リマイン)』と『運命(リマイン)』に組する者達は互いの肩を叩き合い、笑い合い、再び拳を突き上げる。
「ギヌア様!! 我らが王!」
「我らが救い! 我らが標!」
 頷くギヌアの前で、兵士達は喚き叫び、酒杯を干しなお注ぎ、広間に立ちこめる煙に巻かれて酩酊状態となっていく。カザディノが準備した、緋色の丹の紅の、様々な色みの、けれども等しく赤色の薄物一枚を身につけた男女をそれぞれに抱いて、床に転がり縺れあい、或いは広間を出て別室へと入り込んでいく。
 カザディノは両手に少女と少年を、レトラデスは先ほどの少年を、ネハルールは緑の目の青年の肩を抱き、シーラは手足の伸びやかな女を押えつけ、ベシャオトは大皿の肉を抱え込み、モディスンとシダルナンは運ばれる銘酒を巨大な盃で次々と味わっている。
 欲望のあらゆる形を想像出来る限りの手法で満たしていく人々の中、ただ一人、石の玉座に身を沈め、ギヌアは醒めた視線で周囲の酒池肉林を眺めていた。
 さきほど広間を煽った興奮はどこにも見られない。体の熱さえ消え失せたように身動きせずにいるギヌアに、密やかな足取りで『運命(リマイン)』が一人、近づいてくる。
「盃を」
「うむ」
 渡された盃は武骨な木の器だ。注がれた酒は深く輝く赤、中ほどまで注いだ『運命(リマイン)』に独り言のようにギヌアは呟く。
「世を手にするのは」
「『運命(リマイン)』のみ」
 静かに応じた『運命(リマイン)』はちらりとギヌアを見上げて微かに唇の両端を上げた。
「…見ろ」
 盃を含みながら、ギヌアは囁く。
「愚かなものだ」
「…確かに」
 振り返ることもなく、『運命(リマイン)』は目を伏せる。
 少しでも正気の者がいれば気づいたはずだ。広間で乱れ狂っていくのは人間のみ、今の今まで一緒に肩を抱き騒いでいた『運命(リマイン)』達は、嬌声や喘ぎ声が満ちる中で次第に身を引き、のたうつ人間達を冷ややかに眺めているだけだと。
「…お前は楽しまぬのか?」
 わかっていながらギヌアは誘う。
「…我ら『運命(リマイン)』の望みはただ一つ……我らがこの世に王として君臨すること、あやふやな命の営みを晒し、我らの宿命を終らせること」
 唐突ににやりと『運命(リマイン)』は笑み崩れた。男とも女ともつかぬ顔に光る二つの紅の瞳が、暗い熱情を込めてギヌアを凝視する。
「そのためにあなたを求めたのだ、ギヌア・ラズーン…正統なラズーンの後継者であり、我らが王である、あなたを」
 ギヌアが見つめ返す。その瞳に命じられたように、『運命(リマイン)』は突然唇をギヌアに押し付けてきた。受け止めるが応じないギヌアに口を離して囁く。
「だが、あなたは人間でもある。求められれば相手を務めよう」
「…イリオールの行方はわかったのか、シリオン」
 誘いを退けられたことに動じることもなく、シリオンは眉を上げる。
「面白いことになっている。ミダス公の屋敷にいる」
「ミダス公の?」
「ユーノが助けたようだ。ジュナの話では『穴の老人』(ディスティヤト)から身を呈して庇ったとか」
「…く、くくっ」
 ギヌアは喉の奥で嗤った。
「そうか……思わぬところに伏兵が配置できたな」
「…惨いことだ、あの子も駒とされるのか」
 口調ほどには惨いと思っていない様子でシリオンが肩を竦める。
「もしお前を駒に使ったら、お前は俺を殺すか?」
「殺すはずもない」
 シリオンは不思議そうに瞬きする。
「私が駒として役立つならば、それもよい。言ったはずだ、我らは『運命(リマイン)』、世界をこの手に取り戻すことが望みの全てだ。我らはあなたの野望に賭けた。願いが叶うならば犠牲などどこにもない」
「……よかろう」
 再び盃を満たそうとした相手を、ギヌアは遮った。
「…相手をするのか?」
「…そうだな。『人間』らしく振舞ってみるか」
「では」
「お前ではない」
 ギヌアはシリオンを押しのけた。
「俺は部下を対象にはしない」
 広間を見渡し、今新たに連れてこられた伽の中に、輝くような金髪と紫の瞳の少女を見つける。顔の造りの平坦さ、体つきの凡庸さ、それらを補ってもあまりある見事な色味で、おそらくはそのために目立って狩られてしまったのだろう。
「…なるほど、あれか」
 シリオンはすぐにギヌアの望みを察した。
 歳の頃は十七、八歳、やはり薬を飲まされるか嗅がされるかして、意思を奪われているのだろう。ギヌアの合図で間近に連れてこられても、見開いた二つの水晶の瞳はぼんやりと焦点を結ばず、遠い所を見つめている。その細い顎を掴んで持ち上げ、ギヌアは相手を覗き込んだ。
「…」
 華奢な体、細いうなじ、何より目を奪う陽光を思わせる豪奢な金髪、霞みながらも煌めく瞳は、遠い過去、永遠に同じ方向を見つめることはないと知った相手を思い出させる。
「…来い」
 ギヌアは玉座から立ち上がり、少女を玉座の裏にある小部屋、いつか毎日のようにイリオールを相手にしていた部屋へ連れ込んだ。ベッドに突き飛ばすと、細い身体が軽々と舞って倒れこむ。追ってすらりと剣を抜き放ち、のしかかって剣を少女の喉元に突きつけた。
「ひ…」
 ちくりと剣に突かれた喉の痛みで一瞬我に返ったのか、少女はふっと目を大きく見開き、掠れた悲鳴を上げた。紫の瞳がみるみる恐怖に曇っていく。
(違う)
 ギヌアは胸の中で呟いた。
(あの瞳はこんなふうに怯えはしない。もっと不敵な、もっと艶やかな笑みに綻んで殺気を浮かべて煌めくだけだ)
 我に返ったのは瞬間だったらしい。再び朦朧と煙った少女の瞳に、ギヌアは顔を歪め、剣を捨てて紅の薄物を剥ぎ取った。細く筋を作って鮮血が流れ落ちる首筋に口を寄せ、舌で舐め取る。傷口に唇を当ててきつく吸う。
「う」
 痛みに少女が体を強張らせ呻いた。ギヌアは、すぐに胸へと唇を這わせ、少女にのしかかっていきながら掠れた声で呟いた。
「……アシャ」
 誰かが耳を澄ませて聞いていたなら、随分妙な時に憎い敵の名前を思い出したものだと思っただろう。低く聞こえぬほど微かな声は、張り巡らされた布の闇に、続く荒く乱れた激しい息遣いに、飲み込まれて消えて行った。
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