『ラズーン』第五部

segakiyui

文字の大きさ
48 / 73

8.暗躍(3)

しおりを挟む
 陽射しは幾分かは陰ってきていた。
 ミダス公の屋敷の一角、ユーノの私室では、ベッドで仲良くユーノとレスファートが軽い寝息を立てている。
 穏やかな夕暮れ、風が次第に冷たくなってくる。キィ、と音を立てて風が扉を動かした。ユーノは目覚めない。キィ…ィ、ともう一度、風が扉を押し開く。
「…」
 扉の向こうに一人の少年が立っていた。細すぎる手足と儚げな淡い色の髪、薄い色の瞳、ためらいがちに眠るユーノを見つめる。
 キィ、と今度は風が逆に押して閉じようとし、イリオールは思わず手で押さえた。
 何をしようというのでもない、ただ見ていたかった、ユーノ・セレディスという人間を。ギヌア以外で初めて自分を抱きしめてくれた人を。閉じた瞼や意志の強そうな口元などを、もう少し見ていたかった。
「っ」
 何が風と違ったのだろう。ふいにユーノはぱっちりと目を開けた。イリオールがたじろぐ間もなく、くるりとこちらを振り向く。
「あ」
「…やあ」
 逃げようとしたイリオールは、にこりと笑ったユーノに戸惑った。片頬を枕に埋めたまま笑いかけたユーノは、洞窟の時と別人のようだった。焦げ茶の髪の下で暖かそうな黒い瞳が見つめてくる。微笑んだ唇が暮れかけた日の中でも眩く、イリオールは宝物を見つけてしまった盗人のようにおどおどと辺りを見回した。
「もう大丈夫?」
 むくりと体を起こしたユーノが訝しげに続ける。
「どうしたの? 入っておいでよ」
「う…うん」
 くしゃりと髪を搔き上げる仕草に見惚れてしまいながら、イリオールは頷いた。
「いいの? 誰かいるんでしょう?」
「レスなら大丈夫だ、よく眠ってる」
「うん…」
 そろそろとイリオールは部屋に入った。誰かの寝所に入るということはそういうことのはずだと思い出して、二歩ほど入って立ち止まる。
「イリオール?」
 不審そうにユーノがベッドから滑り降りた。
 何かが違う。
 レスファートは穏やかに眠り続けている。ユーノの寝具にも衣類にも乱れたところも熱っぽい気配も見当たらない。
「どうしたの?」
 そういうことではない?
「な、なんでも、ない」
 戸惑いつつイリオールは首を振った。
 ただ優しいだけだ。
 思いついたことばになお戸惑う。思わず一歩後じさりしてしまった。
 イリオールは眩い陽射しには慣れていない。こんな風に無条件の優しさにも慣れていない。助けられて数日間、イリオールは怯え続けていた。
 自分がこんなところに居ていいはずがない。自分がこんなに優しくされていいはずがない。これはきっと何かの間違いだ。
 一人で夜を過ごすのも慣れていなかった。寝静まって穏やかな部屋も初めてだった。『穴の老人』(ディスティヤト)の洞窟で受けた傷よりも、一人でいることに耐えられなくて、イリオールは碌々眠っていなかった。
「イリオール? 顔が青いよ。どうしたの?」
「な、なんでもな…あっ」
「イリオール!」
 ベッドから降りて近づいて来たユーノに慌てて後じさりし、転がっていたクッションに躓いた。とっさに伸ばした手が棚に飾られていた水晶のグラスを叩きつけて砕く。破片が手を傷つけたが、それよりもイリオールは怒られることに怯えた。
(あ、あ、殴られる!)
「ひっ…」
 手を握り込んで身を縮こまらせて座り込む。
「イリオール!」
「ごめんなさい許してお願いお願いします許して…っ」
 強く手首を握られ引きずり上げられる。抵抗は虚しいと知っているから逃げなかったが、容赦無く窓際へ連れていかれてぞっとした。
(突き落とされる?!)
 このまま無防備に地面に叩きつけられれば、骨の数本は折れるだろう。折った場所次第では体の内側を傷つけ、苦しんで死んでいくしかない。
「た、すけ……っ……?」
 だが、ユーノはイリオールを窓際へ連れて行くと、手を開かせるや否や、水差しを掴み中身を一気に全部かけた。それから注意深く手を眺め、傷はほとんどなく、最初にぶつけたときのかすり傷だけだね、と呟いた。
「しみた?」
「…っ、」
 優しく微笑んで振り向かれ、イリオールは急いで首を振る。
「ああいう時は握り込んじゃだめだ、破片でもっと怪我をする」
「は…い」
「深く食い込むと後で爛れてきたり、ひどい傷になったりするから、絶対だめだよ」
 こっちへおいで、と促されたのは部屋の片隅で、傷ついた手を丁寧に拭き取ってもらったばかりか、どこからか取り出した塗り薬のようなものを塗ってもらい、包帯まで巻いてもらってイリオールは震えた。
(あったかい…)
 俯いた視界が潤んだ。手当されていく手がとても大事に扱われているように見え、事実、グラスを叩き割ったのに、そんなことを一言も責めないで、ただただ傷を案じてもらえる、そのことが信じられなかった。
(おんなじだ……ぼくを……助けてくれたときと……おんなじ…)
 不安で眠れなかった。慣れない場所のせいだと思った。知らない人ばかりだからだと思った。仕組まれて背負わされた仕事のせいだと思った、けれど。
(違う…きっと、この人が…)
 この温もりが、欲しかった。
「はい、これでもう大丈夫だと…」
「ひ…ぅ…」
「…? イリオール?」
 小さく息を引いたのは叫びたかったからだ。
 あなたの側に居たい。あなたと一緒に眠りたい。この寒くて凍えるような体を抱いて温めて欲しい。
「どうしたの、痛かった? やっぱりきつかったかな」
 おろおろと覗き込んでくれるユーノを見上げて笑おうとしたが失敗した。両手を伸ばし、首にしがみつき、力の限り抱きしめて声を上げる。
「う、わああっ!」
「い、イリオー…??」
「ああああああああっ」
「どうしたの…」
 戸惑うユーノがそれでもそうっと抱きしめてくれて、涙が止まらなくなった。
 泣き続ける、声を限りに。
 そうだ、ずっとこうして泣きたかった。ギヌアの元に送られて、生きるためにはそれしかなくて、それでも繰り返す夜伽にも安らぎはなく、いつも身体中が痛かった。ずっとどうしていいのかわからなかった。どうすれば、やるせなくて苦しくてしんどくて辛いだけの自分をなんとかできるのかわからなかった。
「ひっ……ひうっ、うっ、うぁっ…うっ…」
(哀しかったんだ)
 しゃくりあげながら、ユーノの胸に甘えながら理解する。
(ずっと、ずっと、哀しかった。ぼくは、ずっと、こんな風なんだって、どこまで行っても、ずっとこうなんだって)
「イリオール…?」
 抱きしめてくれているユーノが低く囁きながら頭を撫でてくれる。愛撫ではなくて、快感も引き出されなくて、けれど甘くて柔らかくて優しくて、なぜ笑ってしまうのだろう、嬉しくて嬉しくて。
「どうしたの」
「ん…」
「赤ん坊みたいだよ」
「…ん…」
「怖かったの?」
「……ん…」
「辛かったの?」
「……」
 耳に届く問いかけに答えようと思うのに、小さな溜め息しか出せなくて、体がとろとろと蕩けていってしまうみたいだ。しがみつこうと力を入れても、もうそんなこともどうでもいいような気がして。
(ユーノ)
 腕に抱えられる、こんな気持ちいい場所があったなんて。ああ、ここにずっと居られるなら、ぼくは何でもする。
 最後に思った気持ちの鋭さにちょっと不安になりながら、それでもイリオールは深い眠りにようやく入り込んでいった。

「イリオール?」
 抱えた体から力が抜け、くたくたと膝に崩れ落ち、そのまま眠りについてしまったイリオールを、ユーノはそっと揺さぶってみた。だが、よほど深く眠り込んだのだろう、身動きひとつしない。
「…っしょ、っと」
 そっと抱え上げて、ベッドへ運ぶ。かなり大きな泣き声だったはずだが、レスファートも目を覚ましていないのを確かめ、その隣に横たえる。このままで一晩起きそうにない。
(まあいいか)
 昼間私は寝たし。
 細い体に毛布をかけ、呟いてイリオールを見下ろした。
(何があったんだろう)
 普通の少年とはどこか違う。時々どきりとするほど艶かしい仕草をするのに、こんな風にまるっきり子どものようなところもある。
(こんなに泣きじゃくって……よっぽど辛いことがあったのかな)
 イリオールの頬を汚している涙の跡を指先で拭い取ってやる。眉を寄せることもない、安心しきって眠っている姿に、ふとユーノの胸が痛んだ。
(ねえ、イリオール)
 知っているかい。
 胸の中で静かに話しかける。
(そんな風に眠れる所が欲しかったのは、私なんだよ)
 剣の切っ先に怯えることも傷に呻くこともなく、ただひたすらに夢の国を旅する眠り。
 それが、ずっと欲しかった。
 哀しいかな、それを得る前に、ユーノはそんな夜に耐えられるようになってしまったし、一人で敵を待つことにも慣れた。
(きっと強すぎるんだろうな、そういうものを望むには)
 けれども時折、こんな無防備な光景に出くわすと、自分の強さがひどく悲しくなってしまう。
 まるで初めから一人で生きることを定められているような気がして。魂を裂いて、この世に送られたと言うもう一人の運命の人が、自分には最初からいない気がして。
(きっと私は一人で二人分合わせ持って生まれてきてしまったんだ)
 誰かに護られるよりは誰かを護るために。優しい眠りを与えられるよりは、安らかな眠りを与えるために。
 そう言う定めに生まれついているのだろう。
「…」
 小さく溜息をつく。
(護りたいのは……アシャ)
 できることなら、体に流れる全ての血を流し尽くしても。
 果てにユーノを待っているものはわかりすぎるほどわかりきっているのだが。
(姉さまとアシャの結婚式、カザディノの爪にギヌアの牙、『運命(リマイン)』の暗い操り糸の網…)
 ユーノは窓の外へ目を向けた。
 陽はいつしか暮れ切っている。レスファートの隣で手足を縮めて丸くなっているイリオールに気づき、そっと掛物をかけた。一瞬眉根を寄せたイリオールはすぐに再びくうくうと寝息を立て始める。
 二人の眠りが深くなっていくのを確かめて、ユーノは部屋の外へ忍び出た。香りに誘われて、夜に沈む花苑に踏み込む。
 『月光花』と異名を取りながら、夜の間は花弁を畳み眠りに落ちるラフレス、可憐な色を開き続けるライク、深い芳香があたりの空間を満たしている。天蓋の一辺、下縁に残った薄紫は頭上へ移るに従って濃さを増し、気の早い星々がぽつりぽつりと心細げに瞬いている。
「…神よ…」
 じっと宙天奥深い所を見つめていたユーノは微かに呟いた。
「ラズーンの神々よ」
 神はいない。
 伝説の星は去り、地には激動のみが残されている。
 それでもユーノは、何か、人智を超えた何かに祈りたかった。
 遠いセレドにいる父母にセアラ、ミダス公屋敷にいるリディノにレアナ、レスファートにイルファ、そしてただただ護りたい大切なアシャ。
 それら全ての人々を護り切るためには、ユーノの手はあまりにもか細く、ユーノの生命はあまりにもちっぽけなものに思えた。事実、これから正面切って『運命(リマイン)』とぶつかることになれば、ユーノの命なぞはいつ消し飛ぶか知れたものではない。
 だからこそ、『助け』が欲しかった。
「…哀れみをもって…」
 低く掠れた声が溢れる。泣いているような響きの声だと感じる。
「みんなを……アシャを………護り給え…」
 祈りを捧げる形式も知らない。ただ願う、一つのことを。
「成ろう事なら…」
 髪が吹き寄せた風に乱されて目元を覆う。滲みかけたものを散らす容赦のない冷たい空気、剣の柄にかけた手を固く握り締める。
「この命を代償に…」
 呟いて、ユーノは頼りなく笑った。
 もう一度、繰り返す。
「…成ろう事なら……この命だけを…代償に…」
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

妻からの手紙~18年の後悔を添えて~

Mio
ファンタジー
妻から手紙が来た。 妻が死んで18年目の今日。 息子の誕生日。 「お誕生日おめでとう、ルカ!愛してるわ。エミリア・シェラード」 息子は…17年前に死んだ。 手紙はもう一通あった。 俺はその手紙を読んで、一生分の後悔をした。 ------------------------------

冤罪で辺境に幽閉された第4王子

satomi
ファンタジー
主人公・アンドリュート=ラルラは冤罪で辺境に幽閉されることになったわけだが…。 「辺境に幽閉とは、辺境で生きている人間を何だと思っているんだ!辺境は不要な人間を送る場所じゃない!」と、辺境伯は怒っているし当然のことだろう。元から辺境で暮している方々は決して不要な方ではないし、‘辺境に幽閉’というのはなんとも辺境に暮らしている方々にしてみれば、喧嘩売ってんの?となる。 辺境伯の娘さんと婚約という話だから辺境伯の主人公へのあたりも結構なものだけど、娘さんは美人だから万事OK。

わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...

MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。 ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。 さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか? そのほかに外伝も綴りました。

無能妃候補は辞退したい

水綴(ミツヅリ)
ファンタジー
貴族の嗜み・教養がとにかく身に付かず、社交会にも出してもらえない無能侯爵令嬢メイヴィス・ラングラーは、死んだ姉の代わりに15歳で王太子妃候補として王宮へ迎え入れられる。 しかし王太子サイラスには周囲から正妃最有力候補と囁かれる公爵令嬢クリスタがおり、王太子妃候補とは名ばかりの茶番レース。 帰る場所のないメイヴィスは、サイラスとクリスタが正式に婚約を発表する3年後までひっそりと王宮で過ごすことに。 誰もが不出来な自分を見下す中、誰とも関わりたくないメイヴィスはサイラスとも他の王太子妃候補たちとも距離を取るが……。 果たしてメイヴィスは王宮を出られるのか? 誰にも愛されないひとりぼっちの無気力令嬢が愛を得るまでの話。 この作品は「小説家になろう」「カクヨム」にも掲載しています。

大ッ嫌いな英雄様達に告ぐ

鮭とば
ファンタジー
剣があって、魔法があって、けれども機械はない世界。妖魔族、俗に言う魔族と人間族の、原因は最早誰にもわからない、終わらない小競り合いに、いつからあらわれたのかは皆わからないが、一旦の終止符をねじ込んだ聖女様と、それを守る5人の英雄様。 それが約50年前。 聖女様はそれから2回代替わりをし、数年前に3回目の代替わりをしたばかりで、英雄様は数え切れないぐらい替わってる。 英雄の座は常に5つで、基本的にどこから英雄を選ぶかは決まってる。 俺は、なんとしても、聖女様のすぐ隣に居たい。 でも…英雄は5人もいらないな。

あなたの片想いを聞いてしまった夜

柴田はつみ
恋愛
「『好きな人がいる』——その一言で、私の世界は音を失った。」 公爵令嬢リリアーヌの初恋は、隣家の若き公爵アレクシスだった。 政務や領地行事で顔を合わせるたび、言葉少なな彼の沈黙さえ、彼女には優しさに聞こえた。——毎日会える。それだけで十分幸せだと信じていた。 しかしある日、回廊の陰で聞いてしまう。 「好きな人がいる。……片想いなんだ」 名前は出ない。だから、リリアーヌの胸は残酷に結論を作る。自分ではないのだ、と。

処理中です...