『ゆりの花咲く』

segakiyui

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 さて。
 これをはたして公に書いていいものかどうか、私はまだ迷っています。
 なぜなら、それはまだ終わっていないのではないかと感じるからです。
 あの夜の相手に、いつかまた、この街のどこかで、あるいは全く知らない場所で、角を曲がった矢先に出会ってしまったなら、今度こそ、私自身が戦うしかないだろうと覚悟はしているのですが。
 でも、もし、これを書くことによって、起こさなくてもいい悪夢を呼び起こし、私の大事な人々にあれが出くわすことになってしまったら。
 けれど、あるいはまた、書くことによって、あらかじめ、彼らにもそれへの対処を考えさせられるかもしれない、そんな気もしています。
 覚悟。
 そう、要は、覚悟の問題なのでしょう。
 あれが目の前を走り続けていると知る覚悟。いつの間にか、その導くままに日々を生きてしまっているということを知って、そこから新しい道を探し、痛みを支払いながら生き抜いていこうとする覚悟。
 自らの破滅を自らが阻止するための覚悟。
 とりあえず、記憶を手探りしながら、あの夜のことを書き連ねていきましょうか。

「うーん、だめ、だなあ」
 朝からずっと私はPCの中の物語と格闘していました。
 素人作家。そう呼ばれるのさえ恥ずかしいような、ささやかな成果を右手に作家業を始めると宣言してから三日目のことです。
 作品を見せてください。そう言われてから、何度失敗したでしょう。
 何度書いても何かが足りない。その何かを確かめ、しっかり左手に握り締めるために、家事と育児を両肩に乗せながらの日々が続いていました。
「煮詰まった?」
 PCのイラストを弄っていた夫が、ひょいと顔を振り向けました。
「できそうにない?」
「うん…やっぱりまぐれだったのかなあ…下手さに涙が出そうよ」
 茶化してみながらも、私の胸は惨めさで一杯でした。
 すばらしい書き手は世の中に満ちていて、今更、自分は何をこの世界に付け加えたいと思っているのか、それさえもわからなくなりつつありました。
「気分転換に買い物でも行くか?」
 夫はスイッチを切りながら、側でゲームに熱中している息子達に声をかけました。
「買い物いくよ、一緒に行くか?」
「待ってるよ、ゲームしてるんだ」
 生意気盛りの長男が小学校五年の突き放した声で応じれば、
「遊んでるー、ゲームしてるもん」
 何事につけお兄ちゃん一番の次男が口をそろえました。
「じゃあ、留守番頼むな。ドアを開けるなよ」
「わかってる」
「わかってるー」
「誰が来ても、開けないでね」
「わかってるって」
 長男はちらっとうっとうしそうに私を見ました。
「ぶっそう、だからでしょ」
「うん」
 私は溜息をついて頷きました。
「じゃあ、行こう」
「そうね」
 PCを閉じ、髪を整え、口紅をつけ…それでも、この先の出来事の予感など、私にはまったく感じられなかったのです。
「平日の昼過ぎに夫婦で買い物っていうのも、おつだな」
 夫がくすぐったそうに笑いました。
「家で仕事ができるありがたさね」
 頷きながら、夫をのぞき込み、
「それとも、別の人との方がよかった?」
「返事はうんと考えてからにしよう」
 夫は肩をすくめて見せました。
 家を出たのは昼過ぎでしたが、一通りの買い物をすませると、もう早々と夕方の気配が漂っていました。
 そんなに長引く予定ではなかったのに、通れるはずの道が不意の道路工事に塞がれていたり、開いているはずの店が閉まっていたりして、手間取ってしまったのです。
「遅くなったな」
「うん、何だか、ね」
 買い物袋を後部座席にいれながら、私は家で留守番をしている二人の子どものことを考えていました。
 小学生二人で数時間の留守番。特に大きくなった長男は、自分のしたいこともあり、買い物に同行することが少なくなってきています。
 核家族では仕方のないときもあるとはいえ、子どもだけを家に残していくのは、やはり不安なものです。
「しかし、妙だよな」
 夫は車のエンジンをかけながら、眉をしかめていました。
「大通りが工事になるのは、明後日からじゃなかったのか?」
「それに『さかえや』が休みってのも変よね、休みません、売りつくすまで、が売り文句なのに」
 気になっていたことを先に口にしてもらえて、私はほっとして応じました。
「だよな」
 夫はバックミラーを確かめながら、スーパーマーケットの駐車場からゆっくりと車を出しました。
「それにここも変だよな、何だか、店がしーんとしてさ」
「あ、やっぱり?」
 店の前を右折するときに、私は入り口を横目で見ました。
 夏場でクーラーをいれているからとはいえ、何だかスモークがかかっているようなガラスの扉はぴっちりと閉まり、その向こうに人の気配がしない店。
 いつもの店が閉まっていたので、うろうろしている間に見つけた店ですが、店の名前の看板は何か手直しでもしているのか、シートがかけられていて読めなかったし、中でもらった白いビニール袋にも何の印刷もされていないものでした。
「何ていうお店なのかな」
 私は改めてシートの下をのぞき込もうとしましたが、中も壊れかけたような板やプラスチックの破片が引っ掛かっているようで、店名が読める状態ではありません。
「さあ。でも、次は来たくないな、ここは。品物、大丈夫だろうな」
「うん、それは大丈夫みたい」
 どうしても必要なものだけを見繕って、そそくさとレジに持ち込んだ私に対応したのは、五十そこそこの男の人でした。
 何も言わずに俯いたままレジを通し、表示された金額をちらっと横目で合図するように見ただけ、読み上げもしません。差し出したお金も黙って受け取って、機械的な動作でお釣りをよこしたのに、品物を出口近くのテーブルに運んで行こうとすると、粘りつくような妙な視線で見つめていて、気持ち悪い人でした。
「まあ、いいや、買い物もすんだし、あいつらも待ってるし。さっさと帰ろう」
「そうね」
 滑るように店の前を離れていく車に我知らずほっと息をついたのは、それから起こる出来事をどこか深いところで予感していたせいだったのでしょうか。
 いえ、ほんとうは。
 夫には黙っていたけど、私はあの店で奇妙なものを見てしまったのです。
 子どもの好きなおやつの棚をのぞき込んで探していて、ふいにその視界の端で、ふる、と震えたもの。
 何だろう、と目をやった瞬間に、体が強ばるのがわかりました。
 色鮮やかなパッケージの箱の間に、ぽとんと置かれている、白いぶよぶよした塊。
 子ども達と一緒にスライムを作ったことがあるでしょうか。
 ちょうど、そう、あんな感じの、ゼリーよりは固そうで半透明で、でも弾力のある揺れ方をしているものです。
 それが、まるで地震か何かに揺さぶられてでもいるように、ふよふよ、ふよふよ、と妙に頼りない動きで、けれども止まることもなく揺れているのです。
 どれぐらい、それを見つめていたのか、気がつくとじっとりと体に汗をかいていました。のぞき込みながら延ばしていた指を、そろそろと引っ込めるのが私には精一杯でした。
 あんまり急に動いては、それが何の前触れもなく、ふよん、と顔面に飛びかかってきそうな気がして、怖かったのです。
 じっとそれを見つめたまま、後じさりして、私はその棚から離れました。
 それが何かは、もうどうでもよくなっていました。
 でも、それがそこにいるなら、他の棚にもいるかも知れない。それどころか、今、自分が背中を向けている後ろの棚にもいるかもしれない。
 そう思うだけで、凍りつきそうな足を必死に動かして、向きを変え、回りの棚を絶対見ないようにして、一杯になったかごをさげ、レジの近くでのんびり待っていた夫の腕にすがるように駆け寄りました。
「何、どうしたの?」
「いいから、早く」
 不審がる夫をぐいぐいと押してレジを抜けようとしたら、そこにいたのがあの男。
 店全体が、何だかあのわけのわからぬ物で満ちている気がして、できるだけ急いで袋に品物を押し込み、夫を急き立てて出てきたのです。
 店から車が離れていくに従って、ようやく気持ちも頭もゆっくりとまともに動き出した気がしました。
 あれは一体何だったのだろう。
 何かおもちゃの一種だったのだろうか。
 でも、それならどうして、あんなところに、あんなふうに動いていたのだろう。
 私は何となく、後部座席の荷物を見ました。
 白い袋の塊。
 あの中身は確かに普通の品物だったけど、もしかして、ひょっとしたら、そのどこかに、あれが入っていなかっただろうか。
 ざわっと皮膚が粟立つ気がして、私は無理に発想を変えました。
 違う、違う。
 あれはきっとおもちゃだったのだ。
 子どもがいたずら心でおもちゃの棚から動かしていて、そうだ、それに店員は気づかなかったのかもしれない。あの奇妙な男がいるところだもの、そう、意外とあの男が人を驚かせる悪い趣味を持っていて、あんなところへ置いていたのかもしれない。そう言えば、物音で踊りだす花のおもちゃがあった。あれは、同じように音や人の動きなどで反応して動き出すおもちゃで、あの男はそれに驚く客を見て楽しんでいるのかもしれない。
 だから、あんなに人の顔をじろじろと見ていたのだ。
 私が、そう思いついて、肩から力を抜いたときです。
 ぐらん、といきなり世界が揺れた気がしました。続いて、胸を前後から押さえつけられるような圧迫感とお腹の真ん中ぐらいがかきまぜられるような不快感が襲ってきました。
 今にも吐きそうになって、激しいめまいを感じながら、私はお腹を強く押さえつけるように、助手席で指を固く組みました。
 何、これ?
 頭の隅でかすかに残った意識が呟いています。
 どうしたの、一体?
 その考えも見る見る強烈な吐き気に流されて、それを必死でこらえようとすると体が不安定にぐらぐらと揺れました。
 一体、何が起こってるの?
 薄目を開けて、隣の夫を盗み見ましたが、相手は別にいつもと同じように機嫌よく運転を続けています。
 おかしいのは私だけ…何か、私の体に起こっている変化に違いない。
 そうだ、これ、これは、あれに似ている。
 吐き気に抵抗しようとしながら、私は同じような目に合ったことを思い出しました。

 それは、離れて暮らしている私の祖母が急変し、緊急入院した時のことです。
 その日、突然襲った吐き気に、私は夜中に跳ね起きました。
 あわててトイレに走ったまでは、食あたりか貧血だと思っていました。
 けれど、吐きたくても吐けない、中身が出ない。なのに、足元からどこか深い穴にずるずると吸い込まれていくような危うさ、このまま体が床を突き抜けて落ちていってしまいそうな恐怖に見る見る突き落とされて、私は必死に夫を呼びました。
 死ぬかもしれない、このまま。
 呟いた私に夫もパニック寸前になったようです。けれど、脈はしっかりしていたし、顔色も戻ってきていたからと、そのままトイレの前で夫に抱えられて数十分、少しずつ気力が戻ってくれました。
 何かあったら大変だからと救急車を呼ぼうとする夫に、大丈夫だからとそのまま横になったのは、子ども達の心配もあったのですが、何だかふいに自分のことではないような気がしたからです。
 翌朝、母から電話が入り、祖母が夜中に急変し、緊急入院したことを告げられました。
 常識で考えれば奇妙なことでしょうが、そのときすとんと、ああ、あの衝撃は祖母のものだったのかと納得したのを覚えていました。
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