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そう、あのときの感覚に似ている。
気づいたとたん、私は、その感覚が、あの時のように自分の内側からではなくて、どこか体の外から、ある方向から流れてくることを感じました。
そこに何か空気の噴き出し口のようなものがあって、それが近くなったり、遠くなったりしながら、まとわりつくように側にあるという感じ。
信号が赤になったのか、車が止まって、そのとたん、感覚は私の全てを覆い、叩きつけるような激しさになりました。
私は居てもたってもおられず、急いで閉じていた目を開けました。
視界に、一台の車が飛び込んで来ました。
斜め前に止まっているミニバンでした。
車の表面には手描きなのでしょうか、一面に大小のややくすんだ白いユリが描かれてあり、それは紺色の背景にとても見事な出来栄えでした。
窓ガラスは濃い色で、中の様子はうっすらとしか見えません。
運転席に小柄な茶髪の女性が一人、助手席には黒い髪の同い年ぐらいの若い女性が乗っていて、何やら楽しそうに笑い合っています。
けれど、その車を目で確認したとたん、吐き気と不快感は突き上げるようなひどさに変わりました。
だめだ、本当にもう、吐きそう。
夫に頼んで車を道路の横に止めてもらおうか。
そう思った瞬間に、信号が赤から青に変わり、車の列が動き始めました。
白いユリの自動車もぐい、と前へ走りだします。
そのとたん、ふ、と重しが取れたように体が軽くなるのがわかりました。
間違いない、あの車だ。
そう確信したものの、なぜ、あの車と私の不快感が関係があるのかわかりませんでした。
以前、そういうことの好きな友人が見せてくれたオカルト系の雑誌で、霊感の強い人が事故を起こした車に近づいて不快感を感じるという話を読んだことはありますが、私は今まで幽霊の類を見たことも、不思議な気配を感じたこともありません。
それとも、そういう物語が私の意識のどこか深いところに残っていて、体調が悪いのを勝手におかしな想像に結びつけているんだろうか。
そうも疑ってみました。
けれども、その後も、信号でその車に近づいて止まるたびに、吐き気も不快感もひどくなり、離れると少し楽になる、という繰り返しです。できれば、その車と違う方へ進んでほしいと思うのに、夫はまるで、その車を追いかけてでもいるように、同じ道、同じ角を曲がっていきます。
だんだん、体が苦しくなり、いつかのような、足元からゆっくりと引きずり込まれていくようなしんどさに変わり始めて、私はもう覚悟を決めました。
私が思いついたことが、理屈では合わないことも、常識で考えれば妙なこともわかっています。けれど、事実、あの車に近づくと吐き気が強くなり、意識を失いそうになり、それはどんどんひどくなる一方なのです。
「おい、大丈夫か?」
あんまり妙な気配だったのに気づいてくれたのか、隣の席から夫の声が聞こえました。
私はようよう目を開けました。
固く組んだ両手は、苦しさを逃れたいあまりでしょうか、膝の上で祈るように握りしめられていました。
何か、魔よけの呪文でも覚えておくんだった。
力を入れ過ぎて白くなった自分の手を見ながら、私は夫に訴えました。
「しんどいの」
「うん、どうしたんだ」
さすがにすぐに、目の前の車がおかしな感じだ、そのせいだとはいいかねました。
「…わかんないけど」
「昼食ったものがまずかったかな」
「ううん」
「寝不足か」
「じゃなくて……あのね、おかしな、ことだと思ってるけど……前の車ね」
「ああ、あのユリの奴な、すごいな、あれ」
夫も目にとめていたのでしょう、顔を歪めて頷きました。
「あの車から、離れてくれないかな」
私は思い切って頼みました。
「どうして」
夫が不審そうな顔を向けました。
無理もない、そう思いました。
「何かね、あの車」
私は強くなってきた吐き気をこらえました。
口にしようとしたことばを何かに邪魔された、そんな気がしました。それでも、我慢するには限界でした。
「だめなの」
私は吐き捨てました。
信号が赤になりました。
ユリの車が、先に行ってくれればよかったのに、赤に変わる前にちょこんと横断歩道の前で止まります。後ろからの車に流れに押されるように、私達の車がゆるゆるとそちらへ近づいていきます。それとともに、ぐう、と胃の中のものがせりあがり始めて、私は目を閉じました。
「吐き、そう」
「え?」
夫が車を止めました。ユリの車の真後ろです。
私は前の車から荒々しいものが吹きつけてくるような感じさえしました。目も開けられない、そう感じながらも、無理やりまぶたをあげてみると、視界で紺地の白いユリがざわめくように、何かを招くように揺れているように見えました。
それでも、見えている限りは普通の車です。心霊番組であるように、おどろおどろしい女の影や黒い霧のようなものは見えません。
きっとわかってくれないだろうな。
そう思いかけたとたん、
「ああ、やっぱり」
「やっぱり?」
夫の意外なことばに私は相手を振り向きました。
夫はハンドルをしっかり握りながら、じっとユリの車を見据えています。
「あの車、何かおかしいなと思ってたんだ。さっきから抜こうとしても妙に抜けないし、こっちの行く方向ばっかりに曲がるし」
夫は妙な笑みを浮かべました。
「落ち着かないんで、何度か振り切ろうとして、いつも通らない道を選んだんだけど、やっぱり前に来るんだよな、いつの間にか」
私はほっとしました。
自分だけが妙なものを感じていたわけじゃないんだ。夫も何かを感じていたんだ。
少し体が楽になったような気がして頷きました。
「そう、なんだ」
「それに」
夫は一人頷いて、今度はきつい目で前の車を睨みつけました。
「あんな店のおっさんが運転してるだけでも、気分悪いよな」
「え?」
今度は私があっけにとられる番でした。
「おっさん?」
吐き気を我慢しながら、もう一度、前の車の運転席を見つめましたが、そこにはやはり、茶色の髪の女性しか見えません。
「女の人だしょ?」
「違うだろ」
夫は訝しそうに私を振り向きました。
「さっきの店のレジにいたおっさんじゃないか。無愛想でありがとうございました、も言わなかった奴だ」
ゆら、と脳裏に粘り着くような男の視線が甦りました。
「さっきの店の人が? どうして?」
「知らないよ、気がついたら前にあんな派手な車で走ってやがるから」
夫は不快そうに顔を歪めました。
「違うよ」
私は首を振りました。
「女の人でしょ? 茶色の髪の人と、黒い髪の人でしょ?」
夫はびくっと眉を上げました。凍りついたような寒々とした顔で、用心するようにそっとことばを継ぎました。
「…一人しか乗ってないよ」
「だって」
信号が赤から青に変わりました。車が流れだし、夫もアクセルを踏みました。
一度楽になった体が再び勝手に絞り上げてくるような不安が、私の胸の中に広がってきました。
「だって、そんなこと、二人いるよ、二人でしょ?」
「一人だって」
「女の人でしょ」
「おっさんだろ」
私と夫はお互いの顔をちらちらとうかがいました。
あの店のようなしんとした沈黙が車の中に広がって、それが何かをゆっくりと壊していくような、冷え冷えとしたものに変わりつつありました。
「わかった」
夫がハンドルをしっかりと握り直しながらいいました。
「実はさっきから、もう一時間以上走ってるんだ」
「え」
私は改めてびっくりしました。
少なくとも、私達が走っていたのは、どう見ても家まで三十分もかからない場所だったはずだからです。
「とにかく、あの車に誰が乗っててもいいから、もう無視して帰ろう。あいつらはずっと二人っきりだし、ご飯待ってる」
「うん」
私も子どものことを思いました。
そうだ、あの子達が待っている。
夫はまた一つ強く頷いて、
「次の角で右に曲がって、横道を通って、で、大通りの工事の向こうに戻るから。それまで我慢しろ」
「わかった」
私は座席の下を探って、ゴミ袋を取り出しました。
いざとなったらこれに吐いて、吐きながらでも帰ってもらおう。
子どものことを思い出すと、少し気力が戻った気がして、私はしっかりとゴミ袋と座席のシートベルトを握りしめました。
ユリの車は、私の目にはやはり談笑する二人の女性を乗せて、するすると少し前を走っています。
もう少しで曲がり角、前の車はウィンカーを出していないし、私達が角を曲がればそれで離れられるはずでした。
けれども。
「え、ちょっと」
私はぎょっとして夫を振り返りました。
「どうして曲がらないの?」
夫は答えず、なぜか妙に目を大きく見開いて、前を凝視しています。
「ちょっとどうしたの」
私は不安になって声を強めました。
「ハンドルが動かないの?」
いやだ、そんなの。
体の表面がざわめくような震えに声を重ねると、
「動く」
呻くような夫の声が聞こえました。
「じゃあ、どうして、曲がらないのよ」
吐き気が増してくることより、逃れられたのに逃れようとしない夫への苛立たしさが募って、私は声を荒げました。
「帰ろう、っていったじゃない。あの角を曲がるって」
「わかってる」
「わかってないわよ、このままじゃ」
私はぞっとしました。
「家から離れていく一方なのよ…」
「わかってるんだ!」
夫はいきなり叫びました。
見開いた目が血走り、呼吸が荒くなっている夫に気づいて、私は体が強ばってくるのを感じました。
「どうしたの…?」
「おまえ、見えてないのか?」
夫がかすれた声で尋ねました。
「何が?」
「ほんとに、見えてないのか?」
「だから、何がよ」
「あれが、見えてないのかよ!」
夫が真っ白になった顔で、指さしたのは、前を走るユリの車でした。
「見えてるわよ、でも、おっさんじゃなくて」
「違う、違うんだ、もっと違うものだ」
「違うもの?」
私は瞬きして、ユリの車を見つめました。
ユリの車は通りをするすると走っていきます。
暮れかけていた日は落ち切ってしまい、ぽつぽつと街灯が照らすあまり見覚えのない街並の間を、奇妙に黒々と沈んでいるアスファルトの道を、どこか弾むように楽しげに、どこかを目指して突き進んでいくようです。
「何が、見えるの?」
「見えないのか?」
夫は唸るように呟きました。
「見えてたら、そうだよな、曲がれなんて言わないよな」
「見えてたら、曲がれなんて言わない?」
「おれにはできないよ、とても曲がれない」
「曲がれない? だって」
私は混乱してきました。
吐き気は既に消えているけれど、そうなったらそうなったで、今度は夫がおかしなことを口走り始めたのです。
「さっきも曲がったじゃない、あの車と同じ方向へ。ほら、今も」
「そうだ、そうなんだ、あの車の行くところには行けるんだ、けど、あの車から離れたら、轢いちゃうよ」
「轢いちゃう?」
「そうだ、轢いちゃうんだぞ!」
夫は脅えた声で怒鳴りました。
その夫のハンドルに操られて、私達の乗った車は右に左に危うく揺れました。何だか、少しずつスピードが上がっているようで、角を曲がるたびにタイヤが鳴る音がし始めていました。
「やめてよ、スピードを落としてよ」
「落とせないだろ!」
夫は噛みつくように言いました。
「止まったりしたら…囲まれる、そんなこと、耐えられないだろ!」
「どうしたのよ、一体!」
私が尋ねましたが、夫はひたすらハンドルにしがみつき、食い入るように前を見ているだけで、もう返事もしてくれません。
体を激しく揺さぶられて、別の不快感に耐えながら、私もまた、夫の見つめているものを見ようとして前のユリの車を凝視しました。
ユリの車は飛ぶように夜の道を走っています。暗闇に車体に描かれていたくすんだユリの花が、妙に白々と生き生きと光り、動きにつられて揺れているように見えます。
いや、違う。
実際に、車体のユリの花がわさわさと揺れ動いているようです。ちか、ちかと一瞬だけ当たる街灯の光のせいではなくて、それ自体が白く激しい光を放ちながら、車体の闇で風にあおられているように動いています。
と、あまりの風に激しさについに花びらの一枚が無理やりに花からもぎ取られたように、ふわりと車体を離れて空間に舞い上がりました。そのまま、ぽとりと道路にこぼれ落ちた、その不思議なほどの量感に目を吸いつけられたとたん、私の喉に意味をなさない声が突き上げました。
腕。
それも、落ちた後も、もぞもぞと、それだけでも生きているように蠢く、腕。
その腕はあっというまに流れる視界の背後に飛び去りました。
けれど、それに気づいた観客の存在が何かを刺激してしまったように、目の前を走る車のユリは、次々と花びらを乱れ飛ばし始めました。
そして、その一枚一枚が、ユリの車の両側に、そしてまた、真後ろを走る私達の車の両側に、巻き散らかさればらまかれ始めました。
夜闇の中を道を一本示すように、左右に散らばり転がってく白い花びら。けれど、それは道路に落ちたとたんに、血の気を失った、真っ白な人の体になって転がっていくばかりか、それら全てが、落ちた痛みに耐えかねるように、ごそごそ、ひくひく、ひきつけるように空中を掴み、かきむしるように動くのです。
手。腕。足。首。胴。胸。
そして、一瞬のことなのに、どうしてそこまで見えてしまったのか、きょろきょろと目を動かす頭…。
ばらばら。
ばらばら。
ばらばらばらら。
ユリの車からそれる道を全て塞いでいくように、その白くて生きている人の体の部分部分が、転々としていくのです。あまりなことに、その中には、細くて小さな、まるで子どもの物のようなのさえあるのです。
「轢けるわけがない」
私も思わず呟きました。
幼い子どもを持つ私達、子ども達をことのほか大事にしようとする夫に、たとえ、それが何者かが見せた幻想であったにせよ、自分達が家に帰るために曲がらなくてはならないからとはいえ、轢けるわけがないのです。
「どうしたらいいんだ」
ハンドルにしがみついている夫の頬には涙が流れていました。
「何で、こんなひどいものを見せるんだ」
ふ、と私の脳裏に、あの店で見た、白いふよふよとした塊が浮かびました。
「ひょっとしたら、人じゃないかもしれないよ」
私は呟きました。自分の声が掠れて滲んでいるのがわかりました。
「あの店で、変なものを見たの。もし、あなたが、あの車に、あの店の人を見たんなら、あれらは、人じゃないと思う」
言いながら、ぐったりとした疲れが襲ってきていました。
「子どものおやつの棚にあったの、スライムみたいで、白くて、ぶよぶよした塊で、何だか揺れてたのよ。気持ち悪かったし、ひょっとしたら、新しいおもちゃかもしれないと思ったし、ひょっとしたら、私の目がおかしいのかと思って…」
それでも。
夫の声に出さないことばが響いた気がしました。
たとえ、おもちゃで、スライムで、作り物だと思えたとしても。
「轢けないだろう…?」
「うん…」
私は頬に零れた涙をこすりました。
「あいつら、待ってるよ」
「待ってるね」
私は、子どもの顔を思い出しました。
おかあさん達、遅いね。おなか空いたな。
気に入りのテレビを見ていても、きっとそうやって心配しているに違いありません。
暗闇を機嫌よさそうに走るユリの車は、花びらを落としても落としても、次々新しい花びらをまきながら、どこへとも知らぬ場所へ私達を誘い込んでいくようです。
きっとこのまま限りなく、あの車はユリの花をまきながら、私達を遠くへ、もう子どものところへ帰れないほど遠くへ連れ去っていくつもりなのでしょう。
おかあさん、遅いな。
もう一度、胸の奥に子どもの声が響きました。
「車、止めてよ」
私はぐい、と奥歯に力を入れて噛みしめました。
「やだよ、あんなのが転がってる中に止まるのなんて」
「いいから止めてよ。怖いなら、目を閉じてて。でも」
シートベルトを外しながら、私は夫に言いました。
「その前に、場所、変わって」
夫は強ばった声になりました。
「どうする気だ、おまえ、運転できないだろ」
「でも、教えてくれたら、少しはできるよ」
夫は凍りついた顔で私を見ました。
「このまま、どこへ連れてかれるのかわかんないでしょ。でも、そうしたら、あの子達、ずっと家で待ってるんだもん」
私は零れる涙を放ったままで、夫のシートベルトを外しにかかりました。
「そんなの、いやだからね。だから、あなたができないなら、私が轢く。女の方が思い込みは強いんだよ。あれは、人じゃないの。あれは、花びらか、まあいいとこ、スライムか、宇宙人なの」
ぽかんと夫は口を開きました。アクセルを踏んでいた足からも力が抜けたようで、がくんとスピードが落ちました。
「私は、宇宙人より、あの子達を優先するの」
本当のところは、私にもできたかどうかはわかりません。
けれど、そのときは、何が何でも家に帰るつもりでしたし、それを遮るものは何であろうと押しのける覚悟でした。
「女は、強いな」
夫がふいに疲れたような苦笑いを浮かべました。
ゆっくり前に目を戻し、私達がスピードを落としたのを警戒するように、一層花びらを散らしながら、けれどわずかに速度を落としながら走るユリの車を見ました。
「わかった。おれがやる」
厳しい声で言って、夫は私を横目で見、また苦笑いをしました。
「おれだって、宇宙人よりあいつらを優先する。だめなら、あいつにぶつけてやる」
私は慌てて夫のシートベルトと自分のシートベルトを締め直しました。
「行くぞ」
ちょうど、もう少し先に広い交差点がありました。まるで勝利を確信しているように、ユリの車は、再び速度をあげてまっすぐその先の暗がりへ突っ込んでいきます。
あの暗闇はどこに続いているのでしょう。道があるはずなのに、その先には街灯の明かりがなく、塗りつぶされたように重苦しい黒が空間をべったりと覆う先には。
私は目を見開いて、まっすぐ前を見つめました。
「おれは帰るぞーっ!」
夫が大声を上げて、アクセルを目一杯踏み込もうとした、その矢先でした。
キイイイイイイイイーッ。
世界を斜めに引き裂くような音をたてて、一台の車が左から吹っ飛んできました。
白のセダン、交差点の真ん中を通り過ぎようとするユリの車を狙ったように、真横から一直線に突っ込み、ユリの車を跳ね飛ばします。
「うあっ!」
夫が床を踏み抜きそうな勢いでブレーキを踏み、私はシートベルトに体を分断されたように感じました。がっくんと激しく前に振られた頭にきん、と痛みが貫いて、一瞬何が起こったのかわかりません。
ごほっ、ごほごほんっ。
せき込む声が遠くで聞こえました。
体がちぎれそう。今きっと、一瞬心臓が止まったよね。
そんなことをぼんやりと思いました。
ふいに、あたりに音があふれました。
今の今まで、町中を走っているのは死体の花びらをまいているユリの車と私達の車しかなかったような妙な静けさに覆われていたのに、いきなり周囲が明々とした光に満たされ、蜂がうなるような騒音に囲まれて、私も夫も茫然としました。
「おい、大丈夫か!」
気がつくと、夫の側の窓ガラスを叩いて叫んでいる警察官の姿がありました。
「あ、ああ、はい、あの」
夫がのろのろした動作で窓を開けると、初老の警官は眉をしかめ、車の中をのぞき込みました。
「無事らしいな。とりあえず、免許証」
操られてでもいるように、いつもなら文句を言い返す夫が、ほうけた顔で胸元を探りました。差し出された警官の手に無言で免許証を乗せて、二度三度瞬きをしました。
ああ、生きている。
私はぼんやりとそう思いました。
「まったく、とんでもない奴がいたもんだよ」
警官は夫の免許証を見ながら、苛立たしげな疲れ切った顔で交差点を見やりました。
「こんな夜中に何を考えてんだか。交差点にあんなスピードで突っ込んでくるなんてな。あんたはよく止まれたもんだ」
夫と私はそろそろと前の方を見ました。
ユリの車の横腹で、白のセダンは巨大な蛇に突き立った刃物のように見えました。あれほど咲き狂っていたユリの花の絵はどこにもなくて、紺色の地にかすれしおれたような緑のうねりが書きなぐられているだけの車になっていました。
集まったパトカーや救急車の間で、よろよろと車から離されていくのはセダンに乗っていた男のようで、ユリの車の運転手らしい姿は見えません。
「あの…」
夫が不安そうに警官を見ました。
「うん? ああ、もう帰っていいよ、後でまた、話を聞くかもしれないが。あっちの」
警官はユリの車の方を顎で示しました。
「運転をしてた奴を見てないか? いないんだ」
私は夫と顔を見合わせました。
ああ、やっぱりいない、誰も。
そんな気が、しました。
夫が黙って首を振り、警官がため息をつきました。
「そうか。突っ込んだ奴も何だかわからないみたいだしな」
呟く警官の後ろで、両脇を警官に支えられてパトカーに乗り込む男が、泣きながら首を振っていました。ばさばさに乱れた髪の毛、血の気を失って虚ろな表情、何かの芝居のセリフのように、繰り返し訴えているのが切れ切れに聞こえてきました。
「本当、ほんとうですよ、何か、妙なのが走ってたんだ、ずっと俺の前を、ずっと走ってたんだ、死体をばらまいて、どこ行ってもいやがるんだ、だから、やるしかないって。ねえ、やるしかないでしょ、ねえ、あんただって、やるよ、きっと」
「錯乱してるんだな」
警官がいまいましそうに吐き捨てました。
けれど、私と夫には。
やるしかない、きっとあんただって、やるよ。
そう、そのとおりだったのです。
「じゃあ、子どもが待ってるんで」
夫が振り切るように言いました。
「うん? こんな夜中に子ども放ってるのか、ったく、最近の若い奴は」
不愉快そうにぼやく警官に夫は容赦なく窓を閉めました。エンジンをかけながら、そのエンジン音に紛れるように低く、
「やるしかない、きっとあんただって、やるよ」
そう、呟きました。
家に戻ったときは、もう真夜中でした。
子ども二人はソファの隅で泣き寝入りに眠っていました。
おなかが空いたのでしょう。おやつの箱があけてあって、ポテトチップスとゼリー、冷蔵庫のパンとハムがなくなっていました。
丸くなって眠っている二人に子どもが、かわいそうやら愛しいやら、夫とそれぞれに抱き上げて、ベッドの中へ入れてやりました。
それから、車から降ろしたあの店の商品を全部、中身も見ずに袋の口を堅く縛って、それからもう一度別の袋の押し込み、やはりきつく口を締めて、外のゴミ箱に捨てました。
「明日もう一度買い直しか」
「もったいないと思う?」
「いや、絶対に思わない」
夫は疲れた顔で首を振りました。
「それに、二度と、あの辺には行きたくない」
私は壊れかけた店名と、異様に静まり返った店を思い出しました。
「あの店、あるかな」
「確かめるのも嫌だ」
「そうね」
二人でその後、台所のテーブルに座り、小さなビールを開けました。
「結局、何だったんだろうな」
「あのままだったら、どこに行ったのか、よね」
「あいつも前にあの車があった、って言ってたよな。何台もあるってことか?」
「さあ」
紺色に白いユリの咲き乱れた、ミニバン。
「あの交差点、越えてたら」
私が呟いて、夫は首をすくめました。
今、こうして、あの夜の事を思い出して、改めて私は思います。
あのユリの車が何もので、あの散り落とされた花びらが何であるにしても、もし、もう一度あの車に会ったとしても、私はもう怯むことはないでしょう。
あの交差点に突っ込む直前の気持ち、この先何が起こるにしても、私は子ども達の元へ戻るんだという気持ちを思い出せば、怯むことなんてできないとわかったからです。
やるしかない、きっとあんただって、やるよ。
夫が呟いたあのことばは、私の決心そのものです。
そうして思い返したとき、あのユリの車は、人に最後の決意を迫るものなのかもしれないと思えます。
交差点の先に待っていたものに、全ての終わりのときまで、引きずられていくだけなのか、それとも自分で道を開いていくのかと、そう問われた気がするのです。
あのユリの車は、あるいはひょっとして、何かが足りないだけだ、いつかはすばらしいことが起こって窮地から逃れられるのだと自分をごまかしていた私自身が呼び出したものなのかもしれません。
そう、あの果てしない暗闇の彼方から。
気づいたとたん、私は、その感覚が、あの時のように自分の内側からではなくて、どこか体の外から、ある方向から流れてくることを感じました。
そこに何か空気の噴き出し口のようなものがあって、それが近くなったり、遠くなったりしながら、まとわりつくように側にあるという感じ。
信号が赤になったのか、車が止まって、そのとたん、感覚は私の全てを覆い、叩きつけるような激しさになりました。
私は居てもたってもおられず、急いで閉じていた目を開けました。
視界に、一台の車が飛び込んで来ました。
斜め前に止まっているミニバンでした。
車の表面には手描きなのでしょうか、一面に大小のややくすんだ白いユリが描かれてあり、それは紺色の背景にとても見事な出来栄えでした。
窓ガラスは濃い色で、中の様子はうっすらとしか見えません。
運転席に小柄な茶髪の女性が一人、助手席には黒い髪の同い年ぐらいの若い女性が乗っていて、何やら楽しそうに笑い合っています。
けれど、その車を目で確認したとたん、吐き気と不快感は突き上げるようなひどさに変わりました。
だめだ、本当にもう、吐きそう。
夫に頼んで車を道路の横に止めてもらおうか。
そう思った瞬間に、信号が赤から青に変わり、車の列が動き始めました。
白いユリの自動車もぐい、と前へ走りだします。
そのとたん、ふ、と重しが取れたように体が軽くなるのがわかりました。
間違いない、あの車だ。
そう確信したものの、なぜ、あの車と私の不快感が関係があるのかわかりませんでした。
以前、そういうことの好きな友人が見せてくれたオカルト系の雑誌で、霊感の強い人が事故を起こした車に近づいて不快感を感じるという話を読んだことはありますが、私は今まで幽霊の類を見たことも、不思議な気配を感じたこともありません。
それとも、そういう物語が私の意識のどこか深いところに残っていて、体調が悪いのを勝手におかしな想像に結びつけているんだろうか。
そうも疑ってみました。
けれども、その後も、信号でその車に近づいて止まるたびに、吐き気も不快感もひどくなり、離れると少し楽になる、という繰り返しです。できれば、その車と違う方へ進んでほしいと思うのに、夫はまるで、その車を追いかけてでもいるように、同じ道、同じ角を曲がっていきます。
だんだん、体が苦しくなり、いつかのような、足元からゆっくりと引きずり込まれていくようなしんどさに変わり始めて、私はもう覚悟を決めました。
私が思いついたことが、理屈では合わないことも、常識で考えれば妙なこともわかっています。けれど、事実、あの車に近づくと吐き気が強くなり、意識を失いそうになり、それはどんどんひどくなる一方なのです。
「おい、大丈夫か?」
あんまり妙な気配だったのに気づいてくれたのか、隣の席から夫の声が聞こえました。
私はようよう目を開けました。
固く組んだ両手は、苦しさを逃れたいあまりでしょうか、膝の上で祈るように握りしめられていました。
何か、魔よけの呪文でも覚えておくんだった。
力を入れ過ぎて白くなった自分の手を見ながら、私は夫に訴えました。
「しんどいの」
「うん、どうしたんだ」
さすがにすぐに、目の前の車がおかしな感じだ、そのせいだとはいいかねました。
「…わかんないけど」
「昼食ったものがまずかったかな」
「ううん」
「寝不足か」
「じゃなくて……あのね、おかしな、ことだと思ってるけど……前の車ね」
「ああ、あのユリの奴な、すごいな、あれ」
夫も目にとめていたのでしょう、顔を歪めて頷きました。
「あの車から、離れてくれないかな」
私は思い切って頼みました。
「どうして」
夫が不審そうな顔を向けました。
無理もない、そう思いました。
「何かね、あの車」
私は強くなってきた吐き気をこらえました。
口にしようとしたことばを何かに邪魔された、そんな気がしました。それでも、我慢するには限界でした。
「だめなの」
私は吐き捨てました。
信号が赤になりました。
ユリの車が、先に行ってくれればよかったのに、赤に変わる前にちょこんと横断歩道の前で止まります。後ろからの車に流れに押されるように、私達の車がゆるゆるとそちらへ近づいていきます。それとともに、ぐう、と胃の中のものがせりあがり始めて、私は目を閉じました。
「吐き、そう」
「え?」
夫が車を止めました。ユリの車の真後ろです。
私は前の車から荒々しいものが吹きつけてくるような感じさえしました。目も開けられない、そう感じながらも、無理やりまぶたをあげてみると、視界で紺地の白いユリがざわめくように、何かを招くように揺れているように見えました。
それでも、見えている限りは普通の車です。心霊番組であるように、おどろおどろしい女の影や黒い霧のようなものは見えません。
きっとわかってくれないだろうな。
そう思いかけたとたん、
「ああ、やっぱり」
「やっぱり?」
夫の意外なことばに私は相手を振り向きました。
夫はハンドルをしっかり握りながら、じっとユリの車を見据えています。
「あの車、何かおかしいなと思ってたんだ。さっきから抜こうとしても妙に抜けないし、こっちの行く方向ばっかりに曲がるし」
夫は妙な笑みを浮かべました。
「落ち着かないんで、何度か振り切ろうとして、いつも通らない道を選んだんだけど、やっぱり前に来るんだよな、いつの間にか」
私はほっとしました。
自分だけが妙なものを感じていたわけじゃないんだ。夫も何かを感じていたんだ。
少し体が楽になったような気がして頷きました。
「そう、なんだ」
「それに」
夫は一人頷いて、今度はきつい目で前の車を睨みつけました。
「あんな店のおっさんが運転してるだけでも、気分悪いよな」
「え?」
今度は私があっけにとられる番でした。
「おっさん?」
吐き気を我慢しながら、もう一度、前の車の運転席を見つめましたが、そこにはやはり、茶色の髪の女性しか見えません。
「女の人だしょ?」
「違うだろ」
夫は訝しそうに私を振り向きました。
「さっきの店のレジにいたおっさんじゃないか。無愛想でありがとうございました、も言わなかった奴だ」
ゆら、と脳裏に粘り着くような男の視線が甦りました。
「さっきの店の人が? どうして?」
「知らないよ、気がついたら前にあんな派手な車で走ってやがるから」
夫は不快そうに顔を歪めました。
「違うよ」
私は首を振りました。
「女の人でしょ? 茶色の髪の人と、黒い髪の人でしょ?」
夫はびくっと眉を上げました。凍りついたような寒々とした顔で、用心するようにそっとことばを継ぎました。
「…一人しか乗ってないよ」
「だって」
信号が赤から青に変わりました。車が流れだし、夫もアクセルを踏みました。
一度楽になった体が再び勝手に絞り上げてくるような不安が、私の胸の中に広がってきました。
「だって、そんなこと、二人いるよ、二人でしょ?」
「一人だって」
「女の人でしょ」
「おっさんだろ」
私と夫はお互いの顔をちらちらとうかがいました。
あの店のようなしんとした沈黙が車の中に広がって、それが何かをゆっくりと壊していくような、冷え冷えとしたものに変わりつつありました。
「わかった」
夫がハンドルをしっかりと握り直しながらいいました。
「実はさっきから、もう一時間以上走ってるんだ」
「え」
私は改めてびっくりしました。
少なくとも、私達が走っていたのは、どう見ても家まで三十分もかからない場所だったはずだからです。
「とにかく、あの車に誰が乗っててもいいから、もう無視して帰ろう。あいつらはずっと二人っきりだし、ご飯待ってる」
「うん」
私も子どものことを思いました。
そうだ、あの子達が待っている。
夫はまた一つ強く頷いて、
「次の角で右に曲がって、横道を通って、で、大通りの工事の向こうに戻るから。それまで我慢しろ」
「わかった」
私は座席の下を探って、ゴミ袋を取り出しました。
いざとなったらこれに吐いて、吐きながらでも帰ってもらおう。
子どものことを思い出すと、少し気力が戻った気がして、私はしっかりとゴミ袋と座席のシートベルトを握りしめました。
ユリの車は、私の目にはやはり談笑する二人の女性を乗せて、するすると少し前を走っています。
もう少しで曲がり角、前の車はウィンカーを出していないし、私達が角を曲がればそれで離れられるはずでした。
けれども。
「え、ちょっと」
私はぎょっとして夫を振り返りました。
「どうして曲がらないの?」
夫は答えず、なぜか妙に目を大きく見開いて、前を凝視しています。
「ちょっとどうしたの」
私は不安になって声を強めました。
「ハンドルが動かないの?」
いやだ、そんなの。
体の表面がざわめくような震えに声を重ねると、
「動く」
呻くような夫の声が聞こえました。
「じゃあ、どうして、曲がらないのよ」
吐き気が増してくることより、逃れられたのに逃れようとしない夫への苛立たしさが募って、私は声を荒げました。
「帰ろう、っていったじゃない。あの角を曲がるって」
「わかってる」
「わかってないわよ、このままじゃ」
私はぞっとしました。
「家から離れていく一方なのよ…」
「わかってるんだ!」
夫はいきなり叫びました。
見開いた目が血走り、呼吸が荒くなっている夫に気づいて、私は体が強ばってくるのを感じました。
「どうしたの…?」
「おまえ、見えてないのか?」
夫がかすれた声で尋ねました。
「何が?」
「ほんとに、見えてないのか?」
「だから、何がよ」
「あれが、見えてないのかよ!」
夫が真っ白になった顔で、指さしたのは、前を走るユリの車でした。
「見えてるわよ、でも、おっさんじゃなくて」
「違う、違うんだ、もっと違うものだ」
「違うもの?」
私は瞬きして、ユリの車を見つめました。
ユリの車は通りをするすると走っていきます。
暮れかけていた日は落ち切ってしまい、ぽつぽつと街灯が照らすあまり見覚えのない街並の間を、奇妙に黒々と沈んでいるアスファルトの道を、どこか弾むように楽しげに、どこかを目指して突き進んでいくようです。
「何が、見えるの?」
「見えないのか?」
夫は唸るように呟きました。
「見えてたら、そうだよな、曲がれなんて言わないよな」
「見えてたら、曲がれなんて言わない?」
「おれにはできないよ、とても曲がれない」
「曲がれない? だって」
私は混乱してきました。
吐き気は既に消えているけれど、そうなったらそうなったで、今度は夫がおかしなことを口走り始めたのです。
「さっきも曲がったじゃない、あの車と同じ方向へ。ほら、今も」
「そうだ、そうなんだ、あの車の行くところには行けるんだ、けど、あの車から離れたら、轢いちゃうよ」
「轢いちゃう?」
「そうだ、轢いちゃうんだぞ!」
夫は脅えた声で怒鳴りました。
その夫のハンドルに操られて、私達の乗った車は右に左に危うく揺れました。何だか、少しずつスピードが上がっているようで、角を曲がるたびにタイヤが鳴る音がし始めていました。
「やめてよ、スピードを落としてよ」
「落とせないだろ!」
夫は噛みつくように言いました。
「止まったりしたら…囲まれる、そんなこと、耐えられないだろ!」
「どうしたのよ、一体!」
私が尋ねましたが、夫はひたすらハンドルにしがみつき、食い入るように前を見ているだけで、もう返事もしてくれません。
体を激しく揺さぶられて、別の不快感に耐えながら、私もまた、夫の見つめているものを見ようとして前のユリの車を凝視しました。
ユリの車は飛ぶように夜の道を走っています。暗闇に車体に描かれていたくすんだユリの花が、妙に白々と生き生きと光り、動きにつられて揺れているように見えます。
いや、違う。
実際に、車体のユリの花がわさわさと揺れ動いているようです。ちか、ちかと一瞬だけ当たる街灯の光のせいではなくて、それ自体が白く激しい光を放ちながら、車体の闇で風にあおられているように動いています。
と、あまりの風に激しさについに花びらの一枚が無理やりに花からもぎ取られたように、ふわりと車体を離れて空間に舞い上がりました。そのまま、ぽとりと道路にこぼれ落ちた、その不思議なほどの量感に目を吸いつけられたとたん、私の喉に意味をなさない声が突き上げました。
腕。
それも、落ちた後も、もぞもぞと、それだけでも生きているように蠢く、腕。
その腕はあっというまに流れる視界の背後に飛び去りました。
けれど、それに気づいた観客の存在が何かを刺激してしまったように、目の前を走る車のユリは、次々と花びらを乱れ飛ばし始めました。
そして、その一枚一枚が、ユリの車の両側に、そしてまた、真後ろを走る私達の車の両側に、巻き散らかさればらまかれ始めました。
夜闇の中を道を一本示すように、左右に散らばり転がってく白い花びら。けれど、それは道路に落ちたとたんに、血の気を失った、真っ白な人の体になって転がっていくばかりか、それら全てが、落ちた痛みに耐えかねるように、ごそごそ、ひくひく、ひきつけるように空中を掴み、かきむしるように動くのです。
手。腕。足。首。胴。胸。
そして、一瞬のことなのに、どうしてそこまで見えてしまったのか、きょろきょろと目を動かす頭…。
ばらばら。
ばらばら。
ばらばらばらら。
ユリの車からそれる道を全て塞いでいくように、その白くて生きている人の体の部分部分が、転々としていくのです。あまりなことに、その中には、細くて小さな、まるで子どもの物のようなのさえあるのです。
「轢けるわけがない」
私も思わず呟きました。
幼い子どもを持つ私達、子ども達をことのほか大事にしようとする夫に、たとえ、それが何者かが見せた幻想であったにせよ、自分達が家に帰るために曲がらなくてはならないからとはいえ、轢けるわけがないのです。
「どうしたらいいんだ」
ハンドルにしがみついている夫の頬には涙が流れていました。
「何で、こんなひどいものを見せるんだ」
ふ、と私の脳裏に、あの店で見た、白いふよふよとした塊が浮かびました。
「ひょっとしたら、人じゃないかもしれないよ」
私は呟きました。自分の声が掠れて滲んでいるのがわかりました。
「あの店で、変なものを見たの。もし、あなたが、あの車に、あの店の人を見たんなら、あれらは、人じゃないと思う」
言いながら、ぐったりとした疲れが襲ってきていました。
「子どものおやつの棚にあったの、スライムみたいで、白くて、ぶよぶよした塊で、何だか揺れてたのよ。気持ち悪かったし、ひょっとしたら、新しいおもちゃかもしれないと思ったし、ひょっとしたら、私の目がおかしいのかと思って…」
それでも。
夫の声に出さないことばが響いた気がしました。
たとえ、おもちゃで、スライムで、作り物だと思えたとしても。
「轢けないだろう…?」
「うん…」
私は頬に零れた涙をこすりました。
「あいつら、待ってるよ」
「待ってるね」
私は、子どもの顔を思い出しました。
おかあさん達、遅いね。おなか空いたな。
気に入りのテレビを見ていても、きっとそうやって心配しているに違いありません。
暗闇を機嫌よさそうに走るユリの車は、花びらを落としても落としても、次々新しい花びらをまきながら、どこへとも知らぬ場所へ私達を誘い込んでいくようです。
きっとこのまま限りなく、あの車はユリの花をまきながら、私達を遠くへ、もう子どものところへ帰れないほど遠くへ連れ去っていくつもりなのでしょう。
おかあさん、遅いな。
もう一度、胸の奥に子どもの声が響きました。
「車、止めてよ」
私はぐい、と奥歯に力を入れて噛みしめました。
「やだよ、あんなのが転がってる中に止まるのなんて」
「いいから止めてよ。怖いなら、目を閉じてて。でも」
シートベルトを外しながら、私は夫に言いました。
「その前に、場所、変わって」
夫は強ばった声になりました。
「どうする気だ、おまえ、運転できないだろ」
「でも、教えてくれたら、少しはできるよ」
夫は凍りついた顔で私を見ました。
「このまま、どこへ連れてかれるのかわかんないでしょ。でも、そうしたら、あの子達、ずっと家で待ってるんだもん」
私は零れる涙を放ったままで、夫のシートベルトを外しにかかりました。
「そんなの、いやだからね。だから、あなたができないなら、私が轢く。女の方が思い込みは強いんだよ。あれは、人じゃないの。あれは、花びらか、まあいいとこ、スライムか、宇宙人なの」
ぽかんと夫は口を開きました。アクセルを踏んでいた足からも力が抜けたようで、がくんとスピードが落ちました。
「私は、宇宙人より、あの子達を優先するの」
本当のところは、私にもできたかどうかはわかりません。
けれど、そのときは、何が何でも家に帰るつもりでしたし、それを遮るものは何であろうと押しのける覚悟でした。
「女は、強いな」
夫がふいに疲れたような苦笑いを浮かべました。
ゆっくり前に目を戻し、私達がスピードを落としたのを警戒するように、一層花びらを散らしながら、けれどわずかに速度を落としながら走るユリの車を見ました。
「わかった。おれがやる」
厳しい声で言って、夫は私を横目で見、また苦笑いをしました。
「おれだって、宇宙人よりあいつらを優先する。だめなら、あいつにぶつけてやる」
私は慌てて夫のシートベルトと自分のシートベルトを締め直しました。
「行くぞ」
ちょうど、もう少し先に広い交差点がありました。まるで勝利を確信しているように、ユリの車は、再び速度をあげてまっすぐその先の暗がりへ突っ込んでいきます。
あの暗闇はどこに続いているのでしょう。道があるはずなのに、その先には街灯の明かりがなく、塗りつぶされたように重苦しい黒が空間をべったりと覆う先には。
私は目を見開いて、まっすぐ前を見つめました。
「おれは帰るぞーっ!」
夫が大声を上げて、アクセルを目一杯踏み込もうとした、その矢先でした。
キイイイイイイイイーッ。
世界を斜めに引き裂くような音をたてて、一台の車が左から吹っ飛んできました。
白のセダン、交差点の真ん中を通り過ぎようとするユリの車を狙ったように、真横から一直線に突っ込み、ユリの車を跳ね飛ばします。
「うあっ!」
夫が床を踏み抜きそうな勢いでブレーキを踏み、私はシートベルトに体を分断されたように感じました。がっくんと激しく前に振られた頭にきん、と痛みが貫いて、一瞬何が起こったのかわかりません。
ごほっ、ごほごほんっ。
せき込む声が遠くで聞こえました。
体がちぎれそう。今きっと、一瞬心臓が止まったよね。
そんなことをぼんやりと思いました。
ふいに、あたりに音があふれました。
今の今まで、町中を走っているのは死体の花びらをまいているユリの車と私達の車しかなかったような妙な静けさに覆われていたのに、いきなり周囲が明々とした光に満たされ、蜂がうなるような騒音に囲まれて、私も夫も茫然としました。
「おい、大丈夫か!」
気がつくと、夫の側の窓ガラスを叩いて叫んでいる警察官の姿がありました。
「あ、ああ、はい、あの」
夫がのろのろした動作で窓を開けると、初老の警官は眉をしかめ、車の中をのぞき込みました。
「無事らしいな。とりあえず、免許証」
操られてでもいるように、いつもなら文句を言い返す夫が、ほうけた顔で胸元を探りました。差し出された警官の手に無言で免許証を乗せて、二度三度瞬きをしました。
ああ、生きている。
私はぼんやりとそう思いました。
「まったく、とんでもない奴がいたもんだよ」
警官は夫の免許証を見ながら、苛立たしげな疲れ切った顔で交差点を見やりました。
「こんな夜中に何を考えてんだか。交差点にあんなスピードで突っ込んでくるなんてな。あんたはよく止まれたもんだ」
夫と私はそろそろと前の方を見ました。
ユリの車の横腹で、白のセダンは巨大な蛇に突き立った刃物のように見えました。あれほど咲き狂っていたユリの花の絵はどこにもなくて、紺色の地にかすれしおれたような緑のうねりが書きなぐられているだけの車になっていました。
集まったパトカーや救急車の間で、よろよろと車から離されていくのはセダンに乗っていた男のようで、ユリの車の運転手らしい姿は見えません。
「あの…」
夫が不安そうに警官を見ました。
「うん? ああ、もう帰っていいよ、後でまた、話を聞くかもしれないが。あっちの」
警官はユリの車の方を顎で示しました。
「運転をしてた奴を見てないか? いないんだ」
私は夫と顔を見合わせました。
ああ、やっぱりいない、誰も。
そんな気が、しました。
夫が黙って首を振り、警官がため息をつきました。
「そうか。突っ込んだ奴も何だかわからないみたいだしな」
呟く警官の後ろで、両脇を警官に支えられてパトカーに乗り込む男が、泣きながら首を振っていました。ばさばさに乱れた髪の毛、血の気を失って虚ろな表情、何かの芝居のセリフのように、繰り返し訴えているのが切れ切れに聞こえてきました。
「本当、ほんとうですよ、何か、妙なのが走ってたんだ、ずっと俺の前を、ずっと走ってたんだ、死体をばらまいて、どこ行ってもいやがるんだ、だから、やるしかないって。ねえ、やるしかないでしょ、ねえ、あんただって、やるよ、きっと」
「錯乱してるんだな」
警官がいまいましそうに吐き捨てました。
けれど、私と夫には。
やるしかない、きっとあんただって、やるよ。
そう、そのとおりだったのです。
「じゃあ、子どもが待ってるんで」
夫が振り切るように言いました。
「うん? こんな夜中に子ども放ってるのか、ったく、最近の若い奴は」
不愉快そうにぼやく警官に夫は容赦なく窓を閉めました。エンジンをかけながら、そのエンジン音に紛れるように低く、
「やるしかない、きっとあんただって、やるよ」
そう、呟きました。
家に戻ったときは、もう真夜中でした。
子ども二人はソファの隅で泣き寝入りに眠っていました。
おなかが空いたのでしょう。おやつの箱があけてあって、ポテトチップスとゼリー、冷蔵庫のパンとハムがなくなっていました。
丸くなって眠っている二人に子どもが、かわいそうやら愛しいやら、夫とそれぞれに抱き上げて、ベッドの中へ入れてやりました。
それから、車から降ろしたあの店の商品を全部、中身も見ずに袋の口を堅く縛って、それからもう一度別の袋の押し込み、やはりきつく口を締めて、外のゴミ箱に捨てました。
「明日もう一度買い直しか」
「もったいないと思う?」
「いや、絶対に思わない」
夫は疲れた顔で首を振りました。
「それに、二度と、あの辺には行きたくない」
私は壊れかけた店名と、異様に静まり返った店を思い出しました。
「あの店、あるかな」
「確かめるのも嫌だ」
「そうね」
二人でその後、台所のテーブルに座り、小さなビールを開けました。
「結局、何だったんだろうな」
「あのままだったら、どこに行ったのか、よね」
「あいつも前にあの車があった、って言ってたよな。何台もあるってことか?」
「さあ」
紺色に白いユリの咲き乱れた、ミニバン。
「あの交差点、越えてたら」
私が呟いて、夫は首をすくめました。
今、こうして、あの夜の事を思い出して、改めて私は思います。
あのユリの車が何もので、あの散り落とされた花びらが何であるにしても、もし、もう一度あの車に会ったとしても、私はもう怯むことはないでしょう。
あの交差点に突っ込む直前の気持ち、この先何が起こるにしても、私は子ども達の元へ戻るんだという気持ちを思い出せば、怯むことなんてできないとわかったからです。
やるしかない、きっとあんただって、やるよ。
夫が呟いたあのことばは、私の決心そのものです。
そうして思い返したとき、あのユリの車は、人に最後の決意を迫るものなのかもしれないと思えます。
交差点の先に待っていたものに、全ての終わりのときまで、引きずられていくだけなのか、それとも自分で道を開いていくのかと、そう問われた気がするのです。
あのユリの車は、あるいはひょっとして、何かが足りないだけだ、いつかはすばらしいことが起こって窮地から逃れられるのだと自分をごまかしていた私自身が呼び出したものなのかもしれません。
そう、あの果てしない暗闇の彼方から。
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