強欲な王様と恋を食う魔術師

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 うちの王様は強欲だ。
 欲しい物は何だって手に入れる。一度は死にかけ盗賊にまで身を窶したというのに、結局は国を丸ごと手にしてしまった。

「フェルノ。国家魔術師になれ」

 絢爛豪華な王宮で王様直々に命令されるが、僕は迷うことなく首を横に振った。それは名誉な事だし潤沢な資金援助だってうけられるが、そんなもの僕には別に必要ない。

「ならば、俺の物になれ」
「丁重にお断りします」

 今度は言葉でキッパリ断ると、王様の眉間がグッと寄せられた。この場で首を刎ねられたって仕方ないレベルの不敬だけれど、まぁ大丈夫だろう。だってこの王様は手に入らない物が何より嫌いなのだ。

「ーーわかった。十日後にまた来い」

 王様が吐き捨てるように言う。周りで傅いていた臣下達が揃って苦虫を噛み潰したような顔をしているなか、僕はひょこっと頭だけ下げて承知を示した。次が十日後ならそんなに猶予はない。そうと決まれば些細なことには構っていられず、王様への辞去もそこそこに王宮を出て街へと急いだ。



 うちは古くから魔術師の家系で、歴史に名を残すような偉大な魔術師も多く輩出している。国全体を覆う防壁すら我が家に管理させるほど重宝されてはいるけれど、国家魔術師になる者はそう居ない。あれは特別な功績を残した個人が選ばれるものだから。

 僕の場合は避妊の魔術だろう。

 小さな小さな防壁で子宮と子種を遮る魔術は、娼館だけでなく貴族の愛人や火遊びしたい奥方にも需要があった。これまで使われてきた堕胎薬などより遥かに安全で確実だと、時には他国からこの国に来たり手紙でお呼びがかかったりもする。

「……て訳で、しばらく不在になりそうなんです」
「そうか。じゃあ急ぎの依頼だけ仕分けしとくから、また明日来てくれ。フェルノも苦労するな」

 得意先の娼館の主人達に断りをいれ、やっと家路につく。幸いにも仕事の方は何とかなりそうだったので後は……と広くはない家を見渡し、本棚から一冊の本を手に取った。見た目はただの古本だが、我が家に伝わる防御術式をこれでもかと詰め込んだ渾身の一品だ。表紙を開ければ数少ない僕の宝物が詰まっている。

 大丈夫。僕にはこれだけあればいい。

 いつだって夜は本を抱き締めて眠る。これがないと僕はうまく眠れない。でも逆を言えば、これさえあればどこでだって眠れるってことだ。だから大丈夫。



 十日間ぎっちぎちに詰め込んだ仕事を片付けて、秘密の本と数冊の普通の本だけ持って、約束の日に王城を訪れた。

「フェルノ。気は変わったか?」
「はい、王様」
「……国家魔術師になると?」
「いいえ、貴方の物にしてください」

 今日も今日とて輝く宝石をいくつも散りばめて、キラッキラ輝く王様は至極退屈そうに頬杖をついていた。玉座を自力で奪い取った王様はまだ年若く、盗賊時代の名残のような鋭い眼光や威圧感さえ除けば金髪碧眼の見目麗しい王子様にも見える。望まれて嫌と言える者などそうは居ないだろう。

「何故だ、つまらん。もっと抗ってみせろ」
「実家や娼館に迷惑をかける訳にはいきませんので」

 王様は大層不服そうだった。即位から六年が経ち、望む物は勝手に転がりこんで来る様な生活に食傷気味らしい。せっかく承諾したというのに嘆息されてしまった。

 目を付けられた時点で僕はとっくに詰んでいるのだ。どうせ王様にあの手この手で圧力をかけられて、最終的には承諾する他なくなるんだろうから拒絶するだけ時間の無駄というもの。こういうのは諦めが肝心だ。

「まぁいい。俺の所有物になるというなら、もっと俺を楽しませる努力をしろ。価値のない人間など要らない」
「善処いたします」
「頭が悪くないのは美点かーー案内してやれ」

 案内されたのは王宮の一角。たぶん王様が僕の為にとこの十日の間に用意させた部屋だった。初めから手に入る事を前提に動いているのはどうかと思うが、そのお陰で既に過ごしやすい環境が整っているから良しとしよう。

 空きの目立つ本棚に、大人一人眠れそうなほど大きな机。調薬に必要な道具も一通り揃っていた。魔術師飼育セットが販売されていたならこんな感じのラインナップなんだろう。煌びやかな王宮にしては地味だが、ベージュやグレーで統一された室内は落ち着く空間だった。

 自分が持ち込んだ本をそっと本棚に並べると、僕は寝心地を確かめるべくやたらと大きなベッドに飛び乗る。どの位になるかは分からないが、しばらくはここで過ごす事になるんだろう……いずれは出ていくにしても。

「なんだこの部屋は。住み処というより巣穴だな、魔術師という生き物はこんな部屋を好むのか?」
「王様の生態がみんなキラキラした物を好むと断言できるなら、そうなのかもしれません」
「ふむ。少なくともお前が気に入ってるなら良しとしよう」

 夜更けに王様が訪れた。噛み合ってないようで噛み合った会話をしながら我が物顔でベッドに腰かけたのは王様で、僕はその正面に立つ。昼に拝謁した時とまだ同じ姿の王様がゆるりと片胡座をかいて、試すようにこちらを見遣れば身につけたたくさんの装飾品のどれかがシャラリと軽やかな音をたてた。

「脱げ、フェルノ。俺に全てを見せてみろ」

 近いうちに検分に来るだろうとは思っていた。魔術師として呼ばれたんじゃないのかと焦って見せた方が王様としては楽しめるんだろうが、ここで僕の下手くそな演技を披露しても恥をかくだけな気がする。

 間を置かずローブを脱ぎ捨て、一枚一枚服を淡々と床に落としていく僕を黙って眺めていただけの王様は下着まで残らず取り去ってからようやく口を開いた。

「その腹の刻印は……避妊の魔術か? 何の為に?」
「これは失敗作です。制御もできず自分でも解けない魔術になってしまったので、呪いのような物ですね」

 臍を取り囲む輪になった刻印を撫でながら答える。僕が構築した避妊の魔術も似たように極小の文字が連なり輪を描いて刻印されるが、これとは文字が微妙に違う。僕のは世界でただ一つだけの試作品であり失敗作。

 退屈そうな王様の眼が少しばかり輝くのが見てとれた。感触を確かめるように指先で輪を辿られると、抗う気はなくとも意図せず身体がビクリと震えてしまう。

「どういう呪いだ? 男に避妊もないだろう」
「……大した呪いではありません。後孔に何も挿入出来ないだけで、入れなければ特に問題もないですし」
「はは、不可侵の処女か。中々楽しませてくれる」

 王様は至極楽しそうに笑っていた。

 自分で言うのも何だが、僕の魔術には利用価値がある。自国では既に孤児が減り少なくはない費用も浮いているし上手くすれば他国に恩を売る事も出来る為、国外に流れられては困る。国としては何らかの枷をつけておきたい……程度だったのだろうが、生憎と王様は僕個人に興味を持ってしまった。

 掌中にあって掌中にない。僕の呪いは王様を魅了した。

 解く為に自国他国問わず何人もの高名な魔術師を呼び寄せ、それでも無理だと分かると王様は何としても僕自身に解かせようとした。

「フェルノ? よく考えてみろ」
「っあ、むりっ、あっ無理なんっで、す」
「いや出来る。俺の魔術師なんだろう?」
「あああっ……だめ、イかせて」

 胸の尖りに歯を立てられ、必死に身を捩るが王様に難なく抑えられた上に陰茎を握り込まれる。根元をベルトで拘束した状態で擦るものだから、快感がぐるぐると身体の内を廻るばかりで辛い。泣いて縋っても王様は赦してくれなかった。

「出したければ俺を受け入れろ。自分から受け入れたいと望め。防壁などお前が壊せば良いだけだ。なぁ?」

 全裸の僕を膝に乗せ、王様は閉ざされた後孔を指で何度もなぞる。無理だ出来ないなんて言葉は耳に入らないらしい。本来ならば奉仕される側だというのに毎夜毎夜飽きもせずに僕を快楽に酔わせる。

 陰茎を縛り、献身的なほど全身を愛撫された。快感でグズグズになると尻に王様の陰茎を擦り付け、挿れてくださいと叫ぶまで責め立てられるのだ。そうして僕がどんなに願おうと侵入を拒む後孔に舌打ちを溢し、王様は僕の双丘で自身を挟み吐精する。その繰り返し。

 僕は出す事を赦されないままに何度もイかされた。行為が終わっても陰茎は解放されず、燻り続ける熱が自然と冷めるまではそのまま一夜を過ごさなくてはならない。解放された昼間のうちに擦って出してみても、毎夜の狂うような瞬間に出せないと意味がないようで虚しいばかりだった。

 自分で解ける物ならとっくに解いている。何度も説明しているというのに王様は知らん振りだ。

「望む物を言え。何でも与えてやるぞ」
「何も欲しくないので与えようとしないで下さい」

 昼間は昼間で懐柔しようと攻めてくる。気づけば王家秘蔵の魔術書が本棚に無造作に並んでいたり、あらゆる国の稀少な美食が食卓に食べきれないほど並べられたり。魔術に使える高価な薬草は元より、魔術に使える宝石も使えない宝石も日増しに部屋に増えていく。

 夜は時々思い通りにならない苛立ちを垣間見る事もあるが、昼に会う王様はどこか楽しそうに見えた。

「ふむ。この巣穴も随分とマシになってきたな」
「王様の私物が増え過ぎて、僕は落ち着かなくなる一方ですけどね」
「気にするな、お前も俺の私物の一つだろう?」
「まぁそうですけど」

 いつの間にか僕の部屋は王様の落ち着ける場所になってしまったようで、執務の合間に顔を出す事もあった。もてなしに欠ける僕はこれといって構う事もせずに王様を放置するのだが、フラリとやって来てはお茶を飲んでロクに会話もせずに出て行く。

 そのうち、食卓には口に出してもないのに僕が美味しいと思った料理が食べ切れる分だけ出てくるようになり、宝石や薬草は増えずに僕がこっそり触れていた王様の服と同じ素材で仕立てた着心地の良い衣類が増えていた。

 家臣や王宮の使用人達は僕に構わない。王様も望んでなければ彼ら自身も望まないからだ。王様と食事を同席していても職務を全うするだけで、後は居ない物として扱われる。偶然目が合ってしまうと苦々しげに顔を背けられるから出来るだけ部屋の外では俯いている。

 段々と胸が痛む事が多くなっていく。苦しくて耐えられなくなった時だけ本棚から秘密の本を出して抱き抱えると、少しだけ痛みはマシになってくれた。

「俺を拒むな。言え、何が足りない?」
「あああっ、あっ、んんやっ」

 一方で夜は激しさを増していく。苛立ちというより必死な様子で、触れる事の出来る部分は余すことなく撫でられ吸われ噛まれた。連日の情事の痕が積み重なって、痛くて痒くて快感ばかり増していく気がする。

「フェルノ、俺の名を呼べ」
「っあ、あっお、おうさまっ」
「違うだろう」
「し、シリウスっ……んああ」

 呼べば性急に唇を奪われる。余裕だったはずの王様が剥がれてただのシリウスになり、咥内を弄られ舌をきつく吸われて奥深くまで交わってくる。口付けをされるようになったのがいつなのかは分からないけれど、貪られていると感じるようになって、僕が自ら口淫する事を望んだのは覚えている。シリウスを少しでも宥めてあげたかった。

「俺は王になったんだ……望めば何でもこの手に出来るはずだろう? 何故だ? その為に王になったのに」

 情事を終えると王様は僕を抱き締めて眠った。僕が秘密の本を抱いて眠る時のように、大事に大事に誰にも奪われないように抱き込んで丸まって眠るのだ。


 ーーそして、その夜は訪れた。


 その夜、王様は僕に初めて面と向かって贈り物をくれた。綺麗な装飾の小箱の中には、金に宝石のついた小粒のピアスが収まっていた。夕焼けに似た赤橙と碧が混ざり合った色の宝石はとても綺麗で、僕の瞳の赤橙と王様の碧眼を模しているのはすぐに分かった。

「すごく……綺麗ですね」
「だろう? 俺も気に入っている」

 飾る穴のない僕の耳朶に、針を刺してまでピアスを自らの手で装着させた王様は蕩けそうな笑顔でその宝石を撫でる。痛かったかと問われ、首をふるふる振った。

「ーーフェルノ、愛している。俺は強欲だがお前が傍に居る限り、他の何かを求める事はないのだろう」

 王様は笑っていた。退屈そうでもここ最近のどこか焦燥したような顔でもなく、諦めたような……それでもスッキリとした表情で。とても強欲には見えない王様だった。

 穏やかに身体を重ねた。その日の王様は嘘みたいに優しくて、消えない痕にそっと口付けその一つ一つを謝った。感じる所に手を這わせ、僕が身体を震わせる度に蕩けるようなキスをして愛してると囁く。

 胸がいっぱいで涙が溢れた。言葉がまともに出てこないけれど、王様は眦を舐めるだけで僕には何も求めない。

「王様っ……シリウス……っ」

 名前を呼んでその身体に縋る。自分の身体に染み付いた感覚で、きっともう……そうなるのだろうと思っていた。泣き続ける僕の後孔に王様の指が触れる。

 くぷっ、と。

 指先がほんの僅か固く拒み続けていた後孔に埋まり、抱き合っていた王様の肩が震えるのを感じた。フェルノ……と小さな小さな呟きが落ちた。

「ああ……そうか。やっとお前に触れられるのだな」

 王様の、シリウスの声は感慨深く部屋に響いた。

 それ以上は何も言わずに、潤滑油を手にしてどこか怖々と指を滑らせる。そこは解けるように柔らかくシリウスの指先を咥え、内へ内へと誘っていた。

「あっシリウス、っそこ」
「ああ、気持ち良さそうだ」
「っちが……あっ、んんんだめ」

 二人とも横向きでピッタリ背後にくっつくようにしてシリウスがじっくりと後孔を探る。耳に当たる荒い息遣いにも快感を煽られ、拘束されてもないのに自分の陰茎をギュッと握る。今ここで射精してしまうのをもったいないと思ってしまう。従順に受け入れられる事が堪らなく嬉しいのだろう。シリウスは慣らしているというには不必要ほど時間をかけ、ぱっくりと綻ぶまで指で弄び、僕を啼かせた。

「入っていく……分かるか? フェルノ」
「んっ、入って、っんんん」
「蕩けそうだ。あまり締めてくれるな、持たん」
「あっもういっぱいで、」

 うつ伏せに転がされ、腹にぐるりと回された腕で腰を上げられ後背位で繋がる。焦れったい程の時間をかけて奥に進んでくるシリウスに自分から腰を動かす。硬い屹立に中を擦られると指で弄られた部分が堪らなく疼いた。

「やっと……やっとだ」
「う、シリウス?」
「やっと満ち足りた気がするのだ。常に何かが欠けているような気がしていた。この感覚をずっと求め続けていたように思う」

 シリウスに息も出来ないほど抱き締められ、僕はまた涙を溢した。望む全てを手にしているというのに満たされない王様が可哀想で、彼がようやく得られたという満足感さえ長くは続かない事を僕だけは知っていたから。

 無意識に腹の刻印を撫でていたのだろう。王様が僕の手を取り、二つ重ねてそっと臍に当てた。

「……解けた訳ではないのだな」
「はい……」
「これまで誰かを受け入れた事があったか? 俺が初めてなのか?」
「シリウスだけです」
「そうか……なら良い」

 正確ではないが嘘ではない僕の答えにシリウスは満足げに頷いてみせ、多くを語ろうとしない僕を問い詰めようとはしなかった。

 ゆるゆると腰を動かし、内から腹の刻印を撫でる。うっすらとその感触が掌から伝わってきた。繋がり、ここにシリウスが居る事を意識してしまうと後孔が勝手にシリウスを食い締めた。

「そう急かすな、フェルノ。夜はまだ長い。ゆるりと楽しませろ。俺は今最高に気分が良いのだ」

 咎めるように贈ったピアスをかじって耳に直に吹き込まれるシリウスの声は甘く背筋を戦慄かせる。その宣言通り交わりは長かった。何度も達してしまうがそれでも終わりにはならずにシリウスが何度射精そうと夜通し交わった。

 後孔から陰茎から精液が止めどなく溢れ落ち、嬌声に喉が嗄れてもどちらともなく交わり続けていたけれど、達するたびに意識を飛ばしていた僕がハッと目覚めた時にはもう空が白み始めていた。

 もう終わる時が来てしまったのだ。

 シリウスを見れば、繋がりをほどかないままに眠っていた。王様とは思えないあどけない寝顔に笑いが漏れる。痛む喉で控えめに名前を呼んだけれど、反応はない。

「ーーシリウス。大好きです」

 起きている彼にはどうしても言えなかった。

「僕も愛しています。貴方が僕を忘れてしまっても、次は愛してくれなくても、僕はシリウスだけを愛してる」

 眠っているのを良い事に思いの丈をぶちまけて、シリウスの綺麗な顔にキスをした。秀でた額に、彫りの深い目蓋に、ツンと尖った鼻先に、温かな頬に。そして愛していると言ってくれた唇に。未練たらしく何度も何度も口付けて、そっと身を離す。繋がりが解けて、立ち上がれば白濁が脚を伝った。

「ーーさようなら、僕の王様」

 ここに来た時に着ていた服を身に纏い、本棚から持ち込んだ本だけ持って、扉の外に待機している護衛に声をかける。

 静かに部屋を出れば王宮の使用人頭や護衛の騎士達に恭しく頭を下げられた。そんなのは不要だといつも言うけれど、彼らは頑ななのでこれは儀式だと諦めるしかないのかもしれない。本心はどうあれ、事情を知る家臣や使用人たちも終われば形だけでも労ってくれる。それに少しだけ救われる。

「終わりました。後のことはよろしくお願いします」
「承知致しました。フェルノ様、お疲れ様でした」

 また、とは言えず頭だけ下げて王宮を出た。身体もきつかったが心はもっとズタボロだった。耳朶に填まったままのピアスに触れ、本に詰まった宝物を強く強く抱き抱えて歩く。

 家に着くとベッドに崩れ落ちて、大声で泣いた。喚きながら秘密の本を開き、中身を全てベッドにぶちまけたその上に顔を伏せた。そうしないと自分がバラバラに壊れてしまいそうで胸いっぱいに宝物を抱えて涙を流す。

 僕の宝物は、全て夕焼けの宝石だ。

 ピアスを貰った。その前はブローチを貰った。その前はネックレスで、一番最初は指輪だった。全部全部シリウスに貰ったけれど彼はどれも覚えていない。僕だけの思い出で僕だけの宝物だ。

「シリウス、シリウスーーっ、もう無理だよ」

 目覚めた時、彼はもう僕の事すら覚えていない。それが僕を苛む呪いの魔術だ。幾度繰り返そうとも別れが辛くて堪らない。けれど、これは僕の罪なのだ。僕だけ逃げるなんて赦される訳がなかった。



 最初に出会った時、シリウスは盗賊だった。

 王の血筋にあって世継ぎ争いで命を狙われ、瀕死の所を盗賊に救われたのだと聞いたことがある。そこで育ち、十三になって同じような子供を集めて一人立ちをしたらしい。

 盗賊の頭領として始めての仕事に選ばれたのが僕の家だった。うちは魔術師で代々守りを得意とする家柄だ。敢えて難関に挑み箔をつけたかった彼は本当に防壁を突破してしまい、家の中にまで潜り込んで僕の部屋までやって来たのだ。

「来るの大変だったのに! 金目の物がねえ!」

 僕につかみかかって涙目で怒鳴ってきたのを覚えている。三つ下の僕は十才で訳もわからず目の前の少年を不憫に思い、魔術師にとっては意味のあるお宝をいくつかシリウスに渡してやった。後で親には死ぬほど叱られたけれど。

 彼は僕を覚えていたようで、町に出た僕を見つけ人目を盗んでは話しかけてくれた。僕の渡したお宝を上手く捌けたようでお礼だと会うたびにお菓子をくれた。

 シリウスが十六になる頃には幼いながらも想い合うようになり、十七の時に指輪をくれた。育った彼は精悍で拙かった盗賊の頭領にも貫禄がつき盗賊団もかなり大きくなっていた。

「俺は盗賊で終わるつもりはない。仲間を連れて隣の国との争いに参加する。武功を挙げれば盗賊よりはマシな仕事にありつけるだろ」

 彼は一人で決めてしまって、必ず役に立つからと付いて行こうとする僕を決して受け入れてはくれなかった。自分だって置いていくのが不安な癖に、絶対戻ってくる約束だと指輪を渡して安心させようとしてくるのだ。その気持ちが嬉しくて僕も何とか彼に応えたいと思ってしまった。それが間違いだったのだろう。

 貞操を守る魔術になるはずだった。
 錠と鍵のように。

 彼以外には解けない魔術で、彼だけに鍵を渡す。それなら帰って来るまで彼が少しでも安心していられると思った。僕が彼に捧げる純潔の誓いのような魔術をシリウスも受け入れ喜んでくれた。

 当時、魔術師として優秀だと持て囃されていた僕は驕っていたのだろう。完成して間もない未熟な魔術を彼と二人で使用した。僕の身に防壁を刻むのは上手くいったけれど、彼という存在を認識する為の魔術式に不具合が生じた。

 彼を鍵と認識し、錠は開く。
 その代償に彼の心の一部を喰って。

 魔術式は彼の中に居る僕を吸い上げ、その記憶を残らず奪ってしまった。術の解除にはシリウスが必要だが、記憶を奪われたシリウスは彼であって既に彼ではない。僕一人ではどうやったって無理だった。

 そして永遠に解けない呪いの魔術が生まれ、シリウスは僕を忘れたまま、隣国との争いに行ってしまった。武功を挙げたはいいが後見の貴族達にその才気を買われ、今度は王位争いに参加する事になるとは彼もさすがに予期していなかったと思う。

 だが彼は十八で王になった。

 そして再び邂逅した時、やはり彼は僕を覚えてはいなかった。愛したシリウスを失い、自分にかけた魔術を自棄になって研究した僕は避妊という形で魔術を完成させ、国に讃えられたのだ。

 シリウスにとっては初めての出会いだったが、彼の心を食うなんて二度と御免だと逃げ惑う僕にシリウスは逆に興味を引かれてしまい、深く関わり、また性懲りもなく恋に落ちた。

 最初に魔術をかけた時と同じ熱量の想いをシリウスが僕に抱くと、彼を鍵だと認識してしまうらしい。錠は開き、彼に抱かれ、彼の記憶は再び奪われてしまった。

 僕と出会わない彼は立派な王様で、長年暮らした盗賊の血が騒ぐのか自由に生きて欲しい物を手にした。どこぞの令嬢と一夜を過ごしたなんていう噂を耳にした時ばかりは平常心でもいられないけれど、僕も僕で何とか暮らしてはいける。

 ただし彼が僕の事を一度でも耳にすれば、どう転んでも僕らは同じ過ちを繰り返す事になるらしい。彼が王になってから六年経ち、今回でもう三度目だった。

 僕に纏わる記憶だけを失われるという事情は王宮の人々には話してあった。事が終われば、僕が過ごした痕跡は跡形もなく消され、僕にとっては大切な夜も彼が目覚めれば「誰と過ごし何をした」と疑問を抱くことさえないようなただの夜になるのだ。

 他国に隠れてしまおうかと思った事もある。けれどあの王様は一度でも僕という存在に気づいてしまえば、逃げれば逃げるほど追ってくる。その分だけ周囲に迷惑をかけてしまうのが分かってからは抗うのは止めた。

「ご迷惑をお掛けしてすみません」
「あーいいよ、そんなのは。アンタがまた仕事さえしてくれんなら、こっちは気にしなくて良いんだよ」

 過去に迷惑をかけた事もある娼館の主人にはぼかして事情を伝えていた。憔悴して見えたのだろう僕の肩を励ますように強く叩かれ、地味にこたえる痛みに苦笑する。

 大丈夫、まだ笑える。

 落ちて落ちて限界まで落ちたら少し浮上して、僕はシリウスの居ない日常に戻った。自分の為の魔術の副産物に過ぎない避妊の魔術でも、かける時は安心したように笑いかけられ解く時は幸せそうに笑いかけられて、誰かの役に立っている実感のようなものに支えられている。


 一月も経てば、笑っても強ばることなく自然になってきた。相変わらず秘密の本を抱えていないと眠れないし、貰ったピアスは着けたままでいるけれど。

 次にいつ王宮に呼ばれるかは分からない。呼ばれる事があるのかも分からない。王様にまた出会っても向こうが興味を持ってくれる保証もない。また傷つくのが怖い……けれど心待ちにもしてしまう。バカだ、僕は。

「ーーえ、父上? なんで?」

 仕事帰りに町で父を見かけた。離れて暮らす父が王都に居るのは珍しくて、止まった馬車に急いで駆け寄った。

「なんだフェルノ、こっちに居たのか。お前の所に寄りたかったんだが時間がなくてな、丁度良かった」

 聞けば王宮との連絡役をしている叔父が腰を痛めたので急遽代理で来たのだと言う。久しぶりに父に会えて嬉しくなったが同じ王都だからと叔父とばかり連絡を取っていると小言を言われ始めたのには困った。

「ち、父上、あまり時間がないのでは……」
「ーー父? ならばお前が噂の息子か!」

 放っとけば無限に小言が沸いてきそうで、父の袖を引いた時だった。馬車から降りてきた人に声を掛けられ、反射的に父と一緒にその人物に顔を向ける。

 そこに、王様が居た。

 我が目を疑い硬直している間にもこちらに近寄って来る。王宮で見る時よりは幾分質素な姿だが、歩くたびシャラシャラと貴金属の音を響かせていた。人違いでも何でもない。本物の王様だ。

「お前がフェルノだろう? 違うのか?」
「っ……あ、合ってます。王様」
「だろう。馬車の中でお前の話を延々と聞かされてうんざりしていた所だ、良い所に来てくれた」

 ジジイに似てなくて良かったなと僕に笑って言う王様に父が「このクソガキが」なんて怒鳴っているが、不敬だとか気にしている場合ではない。どういう状況なんだ、これは。まだ一月しか経っていないのに、王様は僕を認識してしまっている。おそらく父によって。いつも王宮に上がるのは叔父だったから……ああ失敗した。父にも事情を打ち明けておくべきだった。

「まったく……一国の王になろうが悪たれのままではないか。護衛も連れずに王宮を抜け出しおって」
「ああ、うるさいジジイだ。お前の親父はいつもこうなのか? 馬車からずっと怒鳴ってばかりだぞ」

 困惑しつつ父を宥めながら話を聞けば、王様はこっそり抜け出す為に王宮から帰ろうとしていた父の馬車に無理やり乗り込んだようだった。父は昔シリウスが我が家に忍び込んだ事をいまだに根に持っているから、ここに来る道中は恨み辛みを聞かされた事だろう。

「ジジイは駄目だ。お前が町を案内しろ、フェルノ」

 隙をついてシリウスが僕の手を取って勝手に走り出す。走りながらも背中に激怒している父の怒声が聞こえるのが余程面白いのか爆笑していた。

 変だ。この王様はどこかおかしい。

 出会い方が違うせいか、僕の事を昔を知る一人としか認識してないせいか、これまでになく期間が短いからか、理由は分からないが王様というより昔のシリウスと接しているような錯覚を覚える。

「どこにお連れすれば良いんですか?」
「どこでも構わん、自由に見て回れさえすれば。見張り役が居らんだけでも気分は良い」
「……そうですか」

 王様は露店で売る商品をどれも興味深そうに眺め、人が集まっている店を見れば自ら列に加わり脈絡もないまま買い漁っていく。

 軽い変装だけは頼んではみたものの、王様を知る人には声を掛けられまくっている。悪意のある人達は隣にいかにも魔術師といった僕が居るからか今のところ近寄って来ない。父でも僕でも護衛と遜色ない働きは可能だろうが、シリウスが打算で巻き込んだ訳ではなさそうなのが頭の痛いところだ。

「王様、いつ帰るんですか?」
「捕獲されるまでだ。日没まで居れると良いが」

 急げ急げと手を引かれて色んな店を回り、その怒涛の勢いに休憩を必死に願い出てようやく今流行っているという隣国生まれの飲み物片手に木陰で一息つくことが出来た。

 隣に座った途端、シリウスは気になっていたのか馬車の中で聞かされたという我が家に忍び込んだ時の話を始めた。

「お前の父を疑う訳ではないが……不思議と全く覚えておらんのだ。フェルノにも迷惑をかけたのだろう?」
「い、いえ……僕は別に」
「俺に家宝まで差し出してか? その後も随分と俺を気にかけてくれていたらしいな。すっかり忘れてしまって悪い事をした」

 昔のシリウスはちゃんと覚えてくれていたから謝る必要なんてない。それよりこっちは父に昔の僕の不審さを見抜かれていた事が恥ずかしくて顔を俯かせたのだが、気づけばごく間近からシリウスに凝視されていた。

「お、王様! 近いです、びっくりします」
「うーん。全く記憶にない訳ではないかもしれん」
「……えっ?」
「フェルノを初めて見た気がしないんだが、思い出そうとすると……胃が焼けるような何とも嫌な感じがする」

 そう言って不快そうに鳩尾の辺りを擦るシリウスを僕は一体どんな顔をして見ていたんだろうか。ほんの一瞬の期待とそれを上回る罪悪感で胸が潰れてしまいそうだった。

「フェルノ、どうした。俺は傷つけたか?」

 シリウスが驚き、謝りながら頭を撫でてくれる。彼が失った物は僕のお腹の中にあるというのに。今度の王様は何だかとても穏やかで僕の知るシリウスに近すぎて困る。

「……もう時間が来てしまったようだ、本当にすまない」

 顔を上げると、遠くに護衛の人達の姿があった。たぶん酷く情けない顔でシリウスを見上げてしまったんだろう。慰めるようにごしごしと頬を擦られた後、敏感な耳朶に触れられて小さく肩を竦める。

「贈り物か? 良い色だ」
「はい。僕も大好きです」
「そうか……日暮れにはフェルノの瞳もこの色に染まるんだろうが、今日はこれで満足するとしよう」

 ピアスを擽るように撫でられて、シリウスの手が離れていく。

「ーーフェルノ、今度は王宮に来い。今日回りきれなかった菓子を持ってだぞ。お茶に付き合え」

 去っていくシリウスに何度も頷く。魔術師としてではなく、ただのフェルノとして誘われたのは初めてかもしれない。何だかふわふわした気持ちのまま家に帰り、次の日にはシリウスの直筆で正式な招待状が届いた。

「今日の土産は何とも身体に悪そうな味がするな」
「お口に合いませんでしたか?」
「いいや、気に入った。最高にうまい」

 僕はシリウスに所謂下町グルメを土産に持っていった。とても献上品とは思えない粗末な物をシリウスはそれはそれは喜んでくれるので、町で真新しい物を見つけるたび求められても居ないのに会いに来てしまう始末だ。これはきっと良くない。

「ーー王様、僕は隣国に行こうと思います」

 今のシリウスは友人のように接してくれる。当然身体を求められる事もなく、彼は僕の呪いの事も知らないままだ。だから今度こそ離れられる気がした。

「旅行か? いつ戻るのだ?」
「いえ……それは……」
「なんだ? 戻る気はないのか?」

 咎める響きに言葉が詰まる。言い訳ならいくつも用意してきたはずなのに。今のシリウスなら、引き留められる事もないような気がしていたからだろうか。途端に鋭くなってしまった彼の目をまともに見られない。

「お前は俺の事が好きなのだろう? なのに何故離れようとするーーフェルノ、お前は何を隠している」

 今度のシリウスにはもう好きになってもらえないかもしれないと思うと堪らなく怖かった。彼を思うフリをして本当はただ僕が逃げ出しかっただけだ。忘れられる事には耐えられても、愛されないまま傍に居続ける事は出来そうにない。自分の気持ちに気づかれていた事に驚くより、問い詰められてホッとしている自分がいる。

 一人で抱えているのはもう限界だった。

 シリウスにだけは絶対に言ってはいけないと思っていたのに、泣きながら洗いざらい白状してしまうのを彼は黙って聞いてくれた。

「見くびられたものだな」

 信じてもらえないと思った。始まりの朝、最初に記憶を奪ってしまった時のシリウスがそうだったから。何を言っても信じて貰えずに僕は家を追い出された。

「もっと早く打ち明けるべきだったのだ。俺がお前に恋情ではなく同情を抱けば、もう二度と身体を繋げる事も出来なくなると思ったか?」

 そう、憐れみで錠が開くことはないと思う。繋がれなければ彼の記憶を奪う事もないけれど、永遠にシリウスを拒否し続けるには危うげで、一夜だけでも抱かれる事は僕にとって幸せだった。

「俺はフェルノを手離してしまう位なら無理に繋がる必要はないと思う。お前が隠し事をするから毎度俺は必死に抱こうとするのだろう」
「……傍に居るだけで満足だと?」
「勘違いするなよ、入れなくても良いというだけで抱かないまま満足するとは言っておらん。それにーー」

 おずおずと見上げたシリウスの顔に同情の色はない。最後の日に見せる諦めの混じった穏やかな目でもなく、身につける宝石にも負けずキラキラと輝いていた。

「何度でも試せば良いのだ。失敗して記憶を奪われようと気にすることはない。好きに持って行け、俺の心は元よりお前の物だ」

 抱きしめられて、今のシリウスにも愛されているらしいと知った。そういえば、最初のシリウスはこんな風に包み込むような愛情をくれたんだった。記憶のない彼ばかりじゃなく僕も彼と過ごした年月とともに忘れてしまっていた。

「僕はシリウスが好きなので好きになってください」
「だから好きだと言っている」
「それはまだ言ってくれてませんでした」
「ならば飽きるほど言ってやろう」

 シリウスに呆れられるほど泣きに泣いた僕はその日から王宮に住まう事になった。それは前回と同じ部屋で、歓迎してはいないだろう使用人の人達がそれでもなるべく前と同じにしてくれようと部屋を整えてくれた心遣いが嬉しかった。

「ピアスを贈られたと言っていただろう? お前が自らそのピアスを外すのを待っていたが……俺は自分と戦っていたんだな」

 笑いながら耳朶にキスをするシリウスは今まで贈った物全てで僕を飾り立ててご満悦だった。思い出はここにある。今以上の幸せはない。

 ……と思うのだが、シリウスは違ったらしい。彼は僕の魔術を解く事を諦めてはなかった。父に頭を下げてまで協力を求める傍ら、僕が納得するまで説得を続けた。繋がろうとしなくてもいつかシリウスの記憶を奪ってしまうんじゃないかという不安が消えない事に気づかれていた。

 迷って迷って……答えを出すのに数年もかかってしまった。

 けれど今日、彼に抱かれる。

 父と叔父が解く為の術を一緒に考えてくれた。シリウスの意思を汲み、もしも記憶が奪われてしまった時は王宮の人達も「記憶にない僕のこと」を証言してくれると言ってくれた。僕一人ではなく皆が協力してくれる。

「打てる策は打った。それでも失敗したなら仕方ないだろう、また次の策を考えれば良い」

 キスをして笑い合い、お互いの身体を撫で合う。僕の魔術は彼を受け入れるだろう。緊張に強張る僕の身体に苦笑しながらシリウスは後孔に指を滑らせた。ぐっと指先に力を入れられると確かに内に沈んでいく感覚があった。

「……ここで拒まれるようなら十年経って出直せとお前の父に言われていた」
「何でこのタイミングでそんな事言うんですか」
「ちゃんと受け入れて貰えたからに決まっている」

 シリウスが真顔で言うからちょっと笑えた。緊張を解してくれようとする優しい彼が好きだ。強欲なはずなのに僕には与えてばかりいるシリウスに魔術が解けたら、今度は僕が与えてあげるんだと約束した。彼と一緒に未来を歩みたい。

 彼と深く繋がり、繋がったまま腹に手を当てる。シリウスを見上げると手を重ねてくれた。頷き合って目を閉じる。淡い橙の光が掌から腹全体に広がっていき、仄かな暖かさを感じた。次いで刻印のような文字が碧く灯る。

「……綺麗だな」

 シリウスが呟いた。それは本当に綺麗で、暗い部屋の中を夕焼けのように照らしていた。




 背後からきつく抱き締められる感触に目を醒ますと、外はもう朝だった。振り返るのが怖くて躊躇したけれど思いきって振り向いてみればシリウスはまだ眠っていた。

 彼が例えどんな状態でも、起きたら一番に掛ける言葉は決まっている。不思議と凪いだ気持ちでシリウスの寝顔を見つめ、その時を待った。しばらくして目蓋がピクピクと動いて少しずつその目が開かれていく。

「シリウス、愛してます」

 ぼんやりと僕を捉え、数度ゆっくりと瞬きをしてからシリウスは再び目を閉じた。そして言う。

「ーーああ。俺もだ、フェルノ」

 僕も目を閉じ、彼の胸に飛び込んだ。シリウスが僕を覚えてくれている。解けた。もう離れなくても良い。言いたい事がありすぎるのに、ぐじぐじ泣きながら額を擦りつけるばかりの僕をシリウスが撫でる。

「長い夢を見ていた。手で掬った水みたいに大切だったものが溢れ落ちていくんだ……何度も何度も。残るのは俺の空っぽの掌だけで……」

 まだぼんやりとしたシリウスが言う。

「お前はいつも泣いていたな」
「……いつも?」
「記憶も戻ったらしい。断片だが」

 何もない掌を握ったり離したりしていたシリウスがその掌を僕の頬に添え、泣きそうに目元を歪ませながらも酷く満足そうに微笑むから、僕も頬を掌に押し付けて何度も口づけた。

 指を絡ませて幸せを分かち合った。長かった。彼に愛してると告げ愛してると囁かれるこんな朝を、何度も夢に描いては儚く砕けて一人で目覚めた。それが終わった……終わったんだ。本当に。

「随分と遠回りして、随分と周りに迷惑をかけたものだ。皆に謝る準備は出来ているか?」
「はい、残りの人生を全てかけても構いません」
「……それは俺に寄越せ」

 笑って泣いてまた笑って、僕達が手を握りあって部屋を出ると使用人頭の人が泣いていた。驚きながらも必死に謝ると護衛の人には「おめでとうございます」と言われてまた驚く。

 シリウスと歩くたび、すれ違う人達が祝福をくれる。

「皆、お前を見るのが辛かったんだろう。同情したとて、自分達ではどうにもしてやれないからな」
「優しい人達ですね」

 歓迎されてないとばかり思っていたのに。一人きりで苦しんでいるつもりで、僕はたくさんの人に見守られていたらしい。謝っても謝っても、残りの人生かけたって足りないかもしれない。

「無限に生きる魔術を開発しようかな」
「それはまたーー強欲だな」

 それから僕は晴れて王宮魔術師になり、国の為に誠心誠意尽くした。強欲でなくなってしまった王様が「フェルノを寄越せ」と仕事場に怒鳴り込んで来るくらいに。

 その時くらいは手を止めて、僕も彼に満面の笑みを向ける。





「ーーはい、王様」





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