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知らぬ間に
しおりを挟むティファニーはこの日、本気で悪役令嬢をやめたいと思った。
「アーロン」
「あ、ティファニー! 昨日はごめんね。もう二度とあんな風に聞いたりしないから許してほしい」
少し離れた場所から名前を呼ぶと嬉しそうに駆け寄ってくる大型犬は飼い主の機嫌を取るようにわざわざ地面に膝をついて謝罪をする。
公爵家の息子が伯爵家の娘に膝をつくという異常な行動に周りはギョッとしていた。
「何してるの?」
「コンラッド王子と話をしていたんだ」
「何の話?」
「君の話をしてたんだ。君がどんなにいい子かって話をね」
嬉しそうにしているが、ティファニーにとってそれは最もしてほしくない話題であり、してほしくない相手だった。
コンラッドが何を考えてアーロンに接触しているのかわからないものの、確実に善意ではないと確信があるだけに眉を寄せる。
「コンラッド王子と話をするのは楽しい?」
「うん! 優しいね、彼」
「そう」
ティファニーは迷っていた。
正直に言ってしまえばコンラッドに接触してほしくなかった。何を考えているのかわからないし、キスの話もある。あれをアーロンが聞けばショックで寝込むのは間違いないだろう。何より、アーロンはまだ帰国したばかりで友達がいない。そんな中でコンラッドと話すなと言ってしまえば友達など出来なくなってしまう。
アーロンはいつだってティファニー優先でティファニーの言うことなら何でも聞くのだから出来るだけ束縛するような事はしたくなかった。
だが……コンラッドは問題だと頭を抱えたくなる。
「行きましょう、アーロン」
「もう怒ってない?」
「ええ、昨日はカッとなってあんな言い方をしてごめんなさい」
「ううん! 気にしてないよ!」
ティファニーが一瞬コンラッドに視線を向けるとニヤついた表情が目に入った。何かを企んでいるような顔に危機感を募らせる。
遊び人と名高い王子に誠実さはない。アーロンを手元に置いて脅しの材料にするつもりかと睨み付けるもコンラッドの表情は変わらない。
悪役令嬢などしていなければコンラッドを警戒する必要もなく、アーロンを引き離す必要もなかったのに。ましてやこんな危機感に心臓に負荷をかける事もなかった。
コンラッドと親しくしてしまったのは自分の落ち度だと悔やむティファニーは拳を握りながら去っていく。
「クリストファー王子の話をしてやったらどうだ?」
ピタッとティファニーの足が止まる。
「クリストファー王子?」
「……ええ、パーティーで知り合いましたの。すぐ眠ってしまったので会っただけですけれど」
ホッと安堵を見せるアーロンに先に教室へ戻るよう促せば「でも……」と出そうになったのを「で」で堪えて渋々教室へと戻っていく。飼い主と引き離される犬のように何度も振り返りながら角を曲がったのを見ればティファニーはゆっくりコンラッドの前まで歩いていく。
「どうした?」
挑発するような眼差しで見つめるコンラッドの前で仁王立ちをするティファニーは対峙するように睨み付けながら暫く黙っていた。
「見かけたから声をかけて話をしていただけだ。他意はない」
「他意しかないの間違いでは?」
「俺がそんな悪意のある人間に見えるか?」
「ええ、邪心の塊ですもの」
少し前ならこんな言葉も互いに笑い合って言えていたのに今はコンラッドしか笑っていない。
「あの子はあなたと違って純粋なんですの。余計な気遣いは無用ですわよ」
「姉でも恋人でもない君が決める事じゃないだろう。それこそ余計なお世話というものじゃないか?」
ティファニーは押し黙ってしまう。
自分はただの幼馴染であってそれ以上でも以下でもない。特別な感情を抱いているわけでもない相手の事を決めることなど出来ないのだ。しかし、だからといって黙っていることは出来なかった。
「余計なお世話だろうと彼のことはよく知っていますの。善人と悪人の区別がつけられませんし、彼にかかればどんな悪人だって善人になってしまいますの。人を脅して従わせようとする人間が悪であるという事ぐらい教える人間が必要なんですのよ」
どちらの表情も変わらない。鼻で笑う事も、微笑み合う事も、睨み合う事もしない。
「彼のキスでは目覚めなかったのか?」
「は?」
唐突な問いかけに眉間のシワを深めるティファニーは意味が分からないと表情で訴える。
キスの話はコンラッドにとって切り札であるかのような問いかけにティファニーは不愉快さを感じていた。
「クリストファーやアーロンのキスで目を覚ましたのか?」
「彼らは誰かと違って眠っている女性にキスをするような非常識な人間ではありませんの」
「という事はキスはまだか」
そういう事かと笑ってしまうティファニーに今度はコンラッドが眉を寄せる。
「わたくしのファーストキスを奪ったという事に執着していますのね。遊び人によくある話ですわ。そんな事に執着できるなんてさすがとしか言いようがありませんわね」
「俺は執着なんかしてない」
「アーロンにクリストファー王子の事を教えようとするのもキスの事を話そうとして見せるのも全て自分の所に戻らせるためでしょう? 脅してでも従わせたいんですものね?」
コンラッドは優しい人間だと思っていた。優しくなければ人は寄ってこない。遊び人でいるためには優しくする必要がある。だが、その裏には別の顔があって、権力を持つ人間らしい一面にティファニーは距離を取る事にした。
「まるで俺がとんでもないクズのような言い方だな」
「あら、違いまして?」
ティファニーの言葉にハハッと小さく笑って前髪を掻き上げる。
「もし二人が君にキスをして君が目覚めたら笑えるな」
「……それ本気で言ってますの?」
「君の周りにいる男は全員君に気がある。誰がキスしてもおかしくない状況だ。今までは俺一人だったが、複数人がして、その度に君が目を覚ませば……」
「誰にされても目が覚めたらわたくしは眠っているフリをしているキス待ちのアバズレだとおっしゃりたいのですか?」
あの日、協力を断ってからコンラッドの嫌な面ばかり見ていて心が冷えていくのを感じながら侮辱的に感じる言葉に怒りを見せないよう深呼吸をした。
「そうは言ってないが、もしそうなら誰のキスでもいいんだなと」
「さすが歪んだ人間は考える事が違いますわね」
「君には負ける」
パンッと乾いた音が響き、コンラッドの顔は横へと逸れていた。ジンジンと痛む手が強く叩いたのだと実感し、これでもう完全に後戻りはできないと覚悟する。
「サイテーですわね」
呟くように言って去るティファニーにコンラッドは何も言わなかった。ティファニーも振り向かなかった。
もう期待はない。
マリエットといる時に向けてくる視線にほんの少し期待する事もあった。そのうちこっそり現れて「どうだ? やってやったぞ」と笑って言うのではないかと想像したりもした。
しかし実際はそんな事はありえないのだ。今、こうしてティファニーはコンラッドに背を向け、唇を噛みしめながら出来るだけ早くこの場を離れようと足を動かしている。
(誰のキスでもいいんだな)
嫉妬かと笑う事も出来たはずなのに、ティファニーはそれが出来なかった。事情を知っている相手に言われた言葉は悔しさなのか悲しさなのか涙を滲ませていた。
「ティファニー、大丈夫?」
「何が?」
「泣かされたの?」
「いいえ、欠伸をしただけ。あの人との話が退屈だっただけ」
潤んだ瞳から涙を拭ってみても形跡でバレてしまう。それでも泣いたと認めないティファニーにアーロンはそれ以上聞いたりはしなかった。
「ティファニー、僕もうコンラッド王子と仲良くしないよ」
「……」
ありがとうともそんなこと考えなくていいとも言えなかった。
キスしていた事を知られたくないとか、クリストファー王子の事を話されるのではないかとかそんな事はどうでもよかった。ただ、アーロンがコンラッドと一緒にいるようになればアーロンが利用されるのではないかと心配があったから接触しないでいてくれる方がティファニーとしては安心できる。
「僕はティファニーがいればそれでいいから」
教室内で告白のような言葉を吐くアーロンに女子生徒は悲鳴を上げ、男子生徒はザワついた。それがからかいに変わるのはあっという間で、ヒューヒューと子供のように口笛を吹く者もいた。
いつもなら無視するのだが、今日ばかりはそれも出来ないほどイラついていたティファニーは手のひらではなく拳で机を思いきり叩き、立ち上がる。
「腐った人間はどこまでも腐ってますのね。吐く息まで腐っているかのように悪臭が臭ってきますわ。騒ぐことしか能がないのなら毎日パーティーでも開いてそこで騒いではいかが? どうせ将来性のない人間ばかりなのですからここで勉強するフリをする必要なんてありませんわ」
「なんだと!?」
「黙るか出ていくかどちらかにしていただけます!? 不愉快ですのよ!」
教室中に響き渡る怒鳴り声に全員が黙った。
「わたくしが出ていきますわ」
「ティファニー待って! 僕も行くよ!」
感情がコントロールできない。感情のままに当たり散らす女にどこまで上手く悪役令嬢が出来るのかと自問しても答えは出ない。
朝からアーロンはコンラッドと一緒にいて、コンラッドと話したが性格は悪化しているように思え、教室にいるクラスメイトは子供でバカばかり。こんなにも学校を嫌だと思った日はなく、涙が出てきた。
「今日は帰りますわ。あなたはちゃんと授業を受けて」
「僕も一緒に帰る。君を一人には出来ない」
「大丈夫ですわ。帰るだけですもの」
「でも……」
「一人になりたいの!」
また怒鳴ってしまった事に口を押さえるも謝ったのはティファニーではなくアーロン。眉を下げながら言いたい事を我慢して頷いたアーロンはそのまま踵を返して教室へと戻っていく。
悪役令嬢など受けなければと考えた事は何百回とある。だがその度に拒否権がなかった事を思い出す。習い事と同じで、親にやりなさいと言われて続けてきた悪役令嬢は今になって苦痛を感じ始めていた。
マリエットをターゲットにした悪役令嬢はいつしか王子と絡むようになり、一人ぼっちだと思っていた悪役令嬢に新しい王子との出会いがあり、それにムカついた自国の王子は自分を選ばなければ協力しないと言い出した。
「子供ですわね……」
鼻で笑ってみるも顔に笑みは浮かばず、その代わりに涙が頬を伝う。
アビゲイルのように派手な事が好きではないティファニーは穏やかで静かな生活をしたいと願っているのに悪役令嬢という使命がそれを邪魔する。穏やかで静かとは真逆のものになりつつある毎日に嫌気がさす。
アーロンが帰ってきて嬉しいはずなのに、それが余計な事を引き起こすのではないかと不安になっていた。
アーロンが悪いわけじゃないと否定しても心のどこかでは何故今帰ってきたのかと八つ当たりのような言葉が浮かんでくる。
背もたれに身体を預けて天井に顔を向けて目を閉じるも涙はこぼれる。
「こういう時に限って眠れないのはどうしてですの?」
馬車に乗れば自然と眠ってしまうのに逃げたい時に限って眠れず、大事な時に眠ってしまうのは誰かに操られているのではないかと思ってしまうほど自分に都合の良い病ではなくて———
「え……?」
それでも良い事は起こる。
「クリストファー王子?」
「あれ? 学校はどうしたんだい?」
「あ、えっと……今日は体調が思わしくなくて早退してきましたの。王子こそどうなさいましたの?」
ここはヘザリントン家で間違いない。そこにクリストファーが立っているという事は用事があったという事。
———まさかわたくしに会いに?
変な期待をしてしまう自分の胸をドンッと強めに叩くと咳払いをして笑顔を浮かべるも伸びてきた手が髪に触れた。
ティファニーの目は目玉がこぼれ落ちそうなほど見開き、まるでスローモーションのようにその手の行方を目だけで追っていた。
「前も思ったけど、この髪型可愛いね。キレイに巻けてる。ふわふわしてるし」
縦ロールはティファニーの中の悪役令嬢イメージで十年間欠かさずセットし続けてきたもの。古いとか似合っていないとか言われながらもやり続けてきたものを褒められた事に感情表現のキャパシティが崩壊したティファニーは無表情になっていた。
喜ぶべきか、恥じらうべきか、驚くべきか、悪役令嬢の対応をすべきか……頭の中には今まで磨き上げた対応術が瞬時に選択肢として現れるのに選べない。
「あ、ごめん。勝手に触って馴れ馴れしかったね」
「い、いいんですのよ。わ、わわわわわわたくしの髪にふっ触れたくなるのはとうぜっ、とっ当然ですもの。セットに一時間かかっていますしこれを夕方までもたせようと思うと大変ですのそうですのわたくしの縦ロールは唯一無二で誰にも真似できないもので似合うのもこの世でわたくしだけと言っても過言ではありませんわですからどうぞ存分にお触りになってもよろしくてよ」
これがコンラッドなら「まったくですわ」と言って用件を聞くのにクリストファーが相手だとどうしてもそういう態度が取れなくなる。胸がドキドキして呼吸が苦しくなる。
よくお茶会で聞く『好きな男性の前では緊張してしまって上手く喋れない』は嘘だと思っていた。そんなか弱いキャラではないだろうと鼻で笑っていたのにティファニーは自分が〝上手く喋れない〟ではなく〝何を喋っているかわからない〟という状況に陥っていた。
「……あ……」
息継ぎもせず早口で捲くし立ててしまった事に顔を青くするティファニーは終わったと思った。キョトンとした顔で見ているクリストファーが引いているのは間違いないと錆びた玩具のようにカチコチ状態で玄関へと向かうティファニーの耳に届いた笑い声。
「君って本当に面白いよね」
言葉の通りおかしそうに笑うクリストファーに振り向くと今度は顔が赤くなる。
「わ、わたくし……い、いつもはこんなにおかしな事を口走るような人間ではありませんのよ。あなたが現れるとおかしくなりますの」
「僕のせい?」
「そ、そうですわ! あなた、わたくしに何か悪い魔法をかけましたわね? そうでしょう! でなければわたくしがおかしくなるなんてそんな事ありえませんもの!」
「うん、そうかもしれないね」
認めるような発言に「解いて!」と言う自分の姿が浮かぶも口には出せなかった。心臓が口から飛び出しそうで何度もそれを飲み込むのに、クリストファーと向かい合えているこの瞬間を嬉しいと思う自分がいる事にティファニーは気付いていた。何も思わない悪役令嬢として仕返しをするだけの人間に戻りたくなかった。
この湧き上がる想いを失いたくなかったから。
「今日は君に用事があって来たんだ」
「わ、わたくしに?」
「うん。君に———」
何の用事だったのかティファニーは聞き取る事が出来なかった。
「ティファニー、僕だよ。アーロン。鞄忘れてたでしょ? それからチョコレート持ってきたよ。君の大好きなリディルのチョ……」
アーロンはティファニーに言われた通り、ちゃんと授業を終えてから部屋を訪ねた。鞄を忘れて帰ったティファニーのために鞄と、また怒らせてしまったからとお詫びとしてチョコレートを持ってきた。
子供の頃、ティファニーと一緒に親に内緒で食べていた特別なチョコレート。機嫌が直ってくれているといいと願いながら中に入るとアーロンの足が止まる。
「シーッ」
ティファニーはベッドに眠っている。ベッドの傍に置いてある椅子に腰かけて本を読む男が口元に人差し指を立てて静かにとジェスチャーを送る。
「いま眠ってるからコレは預かっておくよ」
「あ、うん……」
誰?という簡単な問いかけも出来ないほど混乱しているアーロンは素直に鞄とチョコレートを渡してしまう。
ティファニーが眠っているのは理解出来るが、男が傍にいるのが理解出来なかった。ここにいるという事はティファニーの家族が許しているということ。だがアーロンは何の説明も受けていない。大体の情報はいつもお喋りなアビゲイルが教えてくれるのに。
「他に用はある? 伝言があれば伝えるよ」
爽やかで嫌味のない好青年。自分ともコンラッドとも違うタイプ。もしこの男がティファニーの婚約者だったらどうしようという不安に駆られたアーロンは目を見つめたまま言葉なく首を振る。
「君が来たこと伝えるよ。名前は?」
「……アーロン」
「アーロンだね。僕はクリストファー。じゃあまた」
エスコートするようにドアに向かうクリストファーについていく足はアーロンの意思を無視して動くもので、アーロンが部屋から出ると小さな声で名乗って静かにドアを閉めた。
「クリストファー……」
アーロンの頭にコンラッドの言葉が甦る。
(クリストファー王子の話をしてやったらどうだ?)
意味深な言い方をしていた。
それに対してティファニーは照れるでもなくパーティーで会っただけだと言っていた。深く聞かれるのを嫌うためアーロンも聞き出せなかったが、あの男がコンラッドの言っていたクリストファー王子なのだとしたら……。
アビゲイルに聞くか迷っていた。アビゲイルに聞けば根も葉も全部喋ってくれるだろうが、もしそれがティファニーにバレたら?
アーロンはティファニーに嫌われる事が何より怖い。だが、きっとティファニーは自分から話してはくれない。婚約者と正式に決まらない限りは婚約者候補が出来ても話してはくれないだろう。
ティファニーはいつだって最悪を想像して生きるため淡い期待の中で可能性を話したりはしないのだ。全て決まってから。
だが、まだ何も聞いていないという事は婚約者ではないということで、ティファニーが言った「パーティーで会っただけ」という話は本当かもしれないと希望が生まれる。
しかし、なら何故〝会っただけ〟の人間がこの屋敷に居る? ティファニーが眠っているなら帰ればいいだけなのに何故傍で目覚めるのを待っているかのように本を読んでいるのか。
クリストファーが王子なのだとしたら権力に弱いティファニーの父親は許可を出すだろう。眠っている娘に手を出されても怒るどころか喜ぶだろう。責任を取ってもらえると。
何かしようという感じはなかった。アーロンが入ってきても焦った様子はなく、ベッドは乱れた様子もなかった。誰だと警戒する事もなく、そっと鞄と荷物を受け取ってティファニーの眠りを優先した。
嫌な人間ではないということはわかったが、アーロンにとって問題なのはクリストファーがティファニーとどういう関係なのかということ。
「明日、聞けるかな……」
自分が来た事は伝えると言っていたのだからティファニーから何か言葉があるはず。チョコレートの感謝だけしてクリストファーの話をしないような事はないと思いたかった。何か少しでも、前の「パーティーで会っただけ」以外の言葉が聞けるよう願いながらアビゲイルにも会わず帰っていった。
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