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今だけの幸せ
しおりを挟む「アーロン、昨日は鞄とチョコレートをありがとう」
「あ、ううん! チョコレート食べた? 取り寄せてたのがようやく届いたから持って行ったんだ!」
「今朝一粒。美味しくて食べてしまうのがもったいないですわ」
「なくなったらまた取り寄せるからいつでも言ってよ」
「安物じゃありませんのよ。次は誕生日にくださる?」
「うん!」
まずチョコレートのお礼。わかっていた。まずはお礼。わざわざ取り寄せてまで贈りたかったチョコを食べてもらえたのは素直に嬉しかった。だが、それよりも聞きたい事がアーロンにはあった。
「今日は暑くなりそうですわね」
「う、うん……そうだね」
チョコレートに続いて話されると思っていたクリストファーの存在についてだが、ティファニーはまさか天気の話をし始めた。話すつもりがないのかと驚くアーロンは目を見開きながらティファニーを見るも視線は合わない。
そっとドアの前に置いていたわけでもなければドアノブにかけて帰ったわけでもない。クリストファーは伝えると言っていたのだからクリストファーは自分の名前を口にしたはずと思うも、あの爽やかな笑顔の裏に悪い顔があったらと今更考えた。
もし『ドアノブにこれがかけられてたよ』とクリストファーが嘘をついていたらティファニーはアーロンがクリストファーと会ったことは知らない。ならば話す必要はないと思うのも当然で、アーロンの眉間に眉が寄る。
「あ、あのね、ティファニー」
「ん?」
「き、昨日、君の部屋を訪ねたんだ。そ、そしたら……その……お、男の人が出てきて……」
ティファニーの反応が怖かった。地面を見て、人差し指を突き合わせながら恐る恐る話すアーロンにティファニーは言葉を遮ることなく黙っていた。
「クリストファー……って人が……いた?」
「ええ」
アーロンは強いショックを受けた。ティファニーはアーロンがクリストファーの名を出した事に驚き一つ見せなかった。それはクリストファーからアーロンの名が出たということで、ティファニーは二人が顔を合わせた事を知っているということ。それなのにティファニーはアーロンにクリストファーの事を何も話そうとしなかった。
自分に話す必要はないと思っているのか、余計な詮索をすると思っているのかと眉を下げる。
「ぼ、僕のこと何か言ってた?」
「あなたがわたくしの鞄とわたくしの好きなお店のチョコレートを届けてくれたと聞きましたわ。背が高くてかっこいいとも」
「ぼ、僕を?」
「ええ」
それほど身長は変わらなかった気がすると思いながらも鞄もチョコレートも自分が届けたものだとちゃんと伝えてくれた相手に裏の顔はなかったと安堵しながらも聞かなければ話さなかっただろう事には相変わらずショックを受けていた。
「彼、本……読んでたね」
「ええ。訪ねてきてくださったのだけど、相も変わらずだらしなく眠ってしまって。目が覚めるか不安だったからと傍についててくださったの」
「彼は眠ってるだけなの知らないの?」
「知ってますわ。でも心配だとおっしゃるの。祖母がおやすみと眠ってそのまま目を覚まさなかったからと」
アーロンは急に自分が恥ずかしくなった。自分の方がティファニーをよく知っていると言いながらもティファニーが眠る事について「眠ってるだけ」と言ってしまった。病気なのだから悪化すればそのままになるかもしれないのに、楽観視して慣れで〝だけ〟と使った自分が情けなくなった。
————————
昨日の夜、クリストファーはティファニーが目覚めるまで傍にいた。
「あれからずっとここに?」
「うん。ご両親に許可は取ったよ」
目覚めた時、クリストファーが傍にいた事に驚いたティファニーは混乱していた。自分の部屋で間違いないのに、クリストファーという間違いがそこにいるのだ。慌てて鏡を手に取ってメイクを確認すると落ちてはいなかったが、涎の痕があった。
「……寝顔、見まして?」
「寝かせる時に一度だけ。あとは見てないよ」
「そ、そうですのね。ならいいんですの」
背中を向けて口元を擦って涎の痕を擦りながら鏡でそっと後ろを見ると顔を逸らして小さく肩を震わせる姿があった。
「ちょっと! 見ましたわね!」
「本当に見てない」
「でも笑ってましたわよ!」
「何してるかわかったものだから」
笑わなくてもいいのにと顔を赤くしながら鏡を置くと大きな咳払いをした。
「ああごめん。迷惑かなとも思ったんだけど、君の顔を見ておやすみを言いたかったんだ」
「マレニス王国まで遠いのにそんな事のためにこの時間まで? 帰ったら夜中ですわよ?」
「それもたまには新鮮でいいさ」
「怒られませんの?」
「信頼を裏切るような真似はしてないからね」
何もなかったのは違和感のない身体が証明しているし、クリストファーはコンラッドと違って誠実だとわかっている。だからこそ恥ずかしくなるのだ。
「君はもうひと眠りできそうかな?」
「眠るのは得意ですもの」
「そっか。じゃあ、イイ夢を」
チュッと小さなリップ音と共に頭に触れた唇。優しい笑顔が振る手にちゃんと手を振り返せていたかもわからないほど放心状態だったティファニーはそれから朝まで一睡も出来なかった。
そのため今日は少しメイクが濃い。
「仲、良いの?」
「仲良しというわけではありませんわ」
「で、でも……」
「ティファニー・ヘザリントン!」
アーロンの言葉を遮って大声を上げたのは怒り狂ったマリエットではなくクラリッサ・マーシャルだった。
「朝から発声練習なんてどんな茶番劇に出られるおつもりですの?」
「昨夜、あなたの家にクリストファー王子が訪ねたというのは本当なの?」
「お教えする義理ありませんわね」
「あなたの屋敷前にブレア家の馬車が停まってるのを見た子がいるのよ!」
「あら、とんだ監視野郎がいたものですわね。趣味の良いご友人をお持ちで羨ましいですわ」
「答えなさい!」
大声に負けず迫力を見せる表情にティファニーはその場で仁王立ちになって顎を上げる。背が低いというのは対峙するには不利で、自分より大きな相手に見下されて引きそうになってしまうため少しでも大きく見せる必要がある。ティファニーにとってはこれが精一杯の足掻きだった。
「何を知りたいんですの? わたくしが……」
ティファニーの言葉が詰まる。
この場でクラリッサを挑発して怒らせるのは簡単だが、この場にはアーロンが一緒にいる。アーロンの気持ちを知っているだけに挑発を聞かせるのは傷付ける事になりそうで躊躇していた。
「近くまで用事で来ていたからと寄ってくださいましたの。このわたくしに会うためだけに。クラリッサ・マーシャルではなく、ティファニー・ヘザリントンに会うためにね」
「ッ!」
アーロンがどう受け取るか少し心配ではあったが、アーロンを気にしていては自分の使命は果たせない。マリエットとクラリッサはセットのようなものだが、評価が違う。クラリッサよりマリエットの方がずっと評判はよく、生徒達は『どうして二人が一緒にいるのかわからない』と言うぐらいだ。クラリッサを堂々と擁護するような真似、マリエットには出来ないだろうとふんで強気に出る事にした。
「彼は誰かさんのようにわたくしを怠け者や眠り魔と馬鹿にしたりしませんの。本当に優しい方ですわ」
「でしょうね。彼は誰にでも優しいのよ」
「でもあなた、そんな誰にでも優しい彼にわたくしより優しくしてもらえましたの?」
「なんですって!?」
クラリッサもマリエット同様必死に見えた。マリエットがコンラッドを婚約者と決めているように、クラリッサはクリストファーを婚約者として決めているのだろう。
遊び人を婚約者にしたがるのは理解出来ないが、クリストファーを婚約者にと思うのはわかる。
あの人の妻になる者は幸せだろうとティファニーだって想像出来るほど彼は優しかった。
「何も行動しないくせに嫉妬で絡んでくるのはやめていただけますこと?」
「私があなたに嫉妬してるですって?」
「違いますの? でしたら難癖つけて絡みたいだけのチンピラですわね」
「伯爵令嬢如きが……後悔することになるわよ……」
「親の爵位でどうにかしようとするど腐れ根性、素敵ですわ。その調子でお父様におねだりでもしてクリストファー王子を呼びつけてはいかが? 彼にも選ぶ権利はあるでしょうけど」
ティファニーの高笑いが響き渡る中、クラリッサの顔はこれ以上ないほど真っ赤になって今にも噴火しそうだった。いつ殴りかかってもおかしくないほど全身を震わせながら睨み付ける顔の迫力に心臓を速めるも口を止めるわけにはいかなかった。
クリストファーがこんな自分を見たらどう思うだろうかと余計なことを考えた一瞬の間にクラリッサは目の前まで来ていた。
「離しなさいよ!」
上げられた手はすぐにアーロンによって阻止され、ティファニーに被害はなかった。
「ティファニーに手を上げるのは僕が許さない」
「王子様ヅラしてんじゃないわよ!」
手を振り払うクラリッサは『潰してやる』と呟いて去っていった。
「ありがとう」
「悪役令嬢なんかもうやめようよ。やっぱり危ないよ。見てられないよ。あんなこと言うのティファニーらしくない」
何を知っているんだと責める言葉が浮かぶも首を振る。純粋に心配してくれているのだ。誰だって友人が悪者になるのを見ていたくなどない。押し付けられて始まった悪役令嬢をヒロイン役が結婚するまで続けなければならないなどおかしいとアーロンは反対し続けるのにティファニーは聞かない。
「わたくしの人生ですもの。どうするかはわたくしが決めますわ」
強要しているつもりはない。ただ、やめてほしいだけで。でもそれを本気で止められないのはティファニーの努力を知っているから。無理矢理やめさせてしまうのはティファニーの努力を壊すようなもので、その努力以上の物を自分が与えられる自信がなかったから。
「僕を使っていいからね」
「……頼りにしてますわ」
公爵家の幼馴染の存在はありがたい。だが、二人の公爵家に一人の公爵家が対抗できるだろうか?
ウインクル家を抑えられるものがあってもマーシャル家まで抑えられるかはわからない。なにより、アーロンがコンラッドの怒りを買えばアーロンの家がどうなるかわからない。
貴族には爵位が必要で、コンラッドの親がもし子供のために動く人間なら厄介なことにしかならないのは目に見えている。
ティファニーは自分の人生を賭けながらも、その先には家の存続がかかっているのだと改めて考えていた。
事実、ティファニーは帰って父親に呼び出された。
「ウインクル家を怒らせるだけでは飽き足らず、マーシャル家まで怒らせてどういうつもりだ!」
バンッと強く机を叩く父親にティファニーは表情を変えず立っている。
「彼女が先に絡んできたのですわ」
「だから相手をチンピラ扱いしたのか?」
「ええ。何もしていませんのに絡んできたものですから」
「我慢すればいいだろう!」
「わたくし聖女じゃありませんのよ。悪役令嬢ですの。やられたらやり返す。それが使命ですわ」
「お前の相手はマリエットだろう!」
「クラリッサが狙っているのがクリストファー王子だからわたくしに絡んできているのだとしても?」
ゴリラのように机を叩き続けていた父親の手が止まった。
———わかりやすい反応ですわね。
「クラリッサはクリストファー王子を狙っていて、親しくしているわたくしに嫉妬しているんですの。やり返しもせずクリストファー王子をお譲りした方がよろしいとおっしゃるのですか?」
キープしておけと一つ覚えのように連日連呼する父親にとってクリストファー王子は取っておきたい相手。マーシャル家の父親から何か言われたのは確かだろうが、それに耐えるのとクリストファーをキープしておくを天秤にかけた時、どちらに傾くのかは聞かずともわかる。
「ほどほどにしておきなさい」
「心得ていますわ」
ティファニーの笑顔に父親は不安しかなかった。
何度かクリストファーと話をしたが、クリストファーは真っ直ぐに相手を見るタイプで周りの意見には揺れないタイプ。人の話をちゃんと聞きながらも同情や優しさだけで物事を決めるタイプではないためアルバートがどう出ようとそれによってクリストファーの意見が決まるわけではない。
どうこう出来るのはティファニーだけ。好意を感じる以上は下手に前に出るのは得策ではないと判断しているため、自分が耐える事にした。
「お父様のキープという言葉には毎日ムカついていますけど」
「ムカつくだと……」
「でも、彼は素晴らしい人ですわ。伯爵家はそれほど低い爵位ではないと言ってくださいましたの。お父様のような野心家には日々かない言葉でしょうけど、素敵な方ですわ」
「まずはマリエットだぞ」
「ええ、わかっていますわ」
右手で作った拳を左手で受け止める物騒な反応に首を振るも、ティファニーに好意があるのならクリストファーとの結婚はそう難しいものではないのかもしれないとアルバートの口元が怪しくニヤつく。
「下心はありませんわよ」
「いいからさっさと出ていけ」
返事もせず出ていくティファニーに溜息を吐きながらも椅子を回して窓に身体を向けると外は窓を鳴らすほどの大雨だが、アルバートの心は晴れきっていた。
「せいぜい今のうちにたっぷり脂肪を蓄えておくことだな、バージル・ウインクル!」
不気味な笑いが部屋に響き、外まで漏れるその不気味さに使用人達は足早に前を通り過ぎていった。
「彼をキープなんて失礼ですわ」
誰かをキープ出来るような女ではないし、キープ出来るような相手でもない。
美しい字で美しさや優しさを綴る人には素敵な女性が現れると決まっている。こんな口も性格も悪い悪役令嬢なんかするような女ではなく、清らかで美しい心優しい、それこそまさにヒロインに相応しいような女性だとわかっている。
それでも、そんな人が現れていない今だけはこうして手紙をやり取りするぐらいは許してほしいと神に願う。
相手に運命の人が現れたら諦める心の準備は出来ているからと。
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