静かで穏やかな生活を望む死神と呼ばれた皇子と結婚した王女の人生

永江寧々

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誰がための

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「忘れ物はないですか?」
「ふふっ、ラビ皇子が早朝から何度も確認してくださったおかげで忘れ物はありません」
「し、心配で、つい」
「ありがたいです」

 早朝だけでなく昨夜も眠る前にリスト片手に荷物のチェックをしていたラビの心配性は時としてとてもありがたいものに変わる。
 アーデルは失くしてしまってもそれはそれで仕方ないと思うほうなのだが、ラビは一つ失くすと大慌てする。外ポケットに入れていた懐中時計を無意識に胸ポケットにしまい、それを忘れて懐中時計がないと真っ青な顔で暗い夜道をランプ片手に探し回った日もあった。それはアーデルからもらった物だけでなく、昔から使っている物だからと鉛筆一つにしても家中を探し回る。「あれ?」「おかしい」「どこにやったのか」と一人ぶつぶつ唱えながら探す姿を見ているのがアーデルは好きだった。座っていてくれと言われるため一緒に探す事はできず、見つかるまでその姿を眺めているだけなのだが、その姿を思い出してまた笑う。

「郵便も中に入れておきますね」
「あ、僕がしますからアーデルは先に馬車に乗っていてください」
「私の仕事を奪わないでください」
「それは本来は僕の仕事なんですよ?」
「私が先に言ったので私の仕事です」

 小走りで外へと向かったアーデルに苦笑するもすぐに笑顔へと変わる。今日出発すれば当日にはハイデンに着く。ハイデンは世界でも近代化が目覚ましい国だと言われている。ヒュドールもそれなりに発展はしているが、世界一と言われるハイデンと比べれば発展などないも同然レベルかもしれないとラビは想像していた。
 もっと情報があればいいのだが、ルスほど離れている国の情報がそれほど詳細に入ってくるはずもなく、新聞もとっていないのでは尚更だ。それを申し訳ないと謝ったラビにアーデルは「着いてからのお楽しみでいいじゃないですか。前情報で知りすぎるよりきっとたくさん楽しめますよ」と言ってくれた。楽しませたい。絶対に最高の思い出にするんだと気合を入れているラビは上機嫌に荷物を抱えて馬車へと向かった。
 だが、外に出てすぐ足を止めた。

「アーデル? どうしました?」

 何かのチラシを左手に数枚持ったアーデルの右手は封筒を持っている。ラビの心臓がドクンと大きく跳ねた。嫌な予感がする。アーデルが見ている差出人は誰か。その封筒に施されている封蝋に入ってある家紋は誰のものか。確認する事すら躊躇われる。
 ラビは迷っていた。このまま知らぬふりをして荷物を馬車に乗せ、奪うようにアーデルから手紙を取ってそのまま家のゴミ箱へと叩きつけて鍵を閉め、アーデルの手を引いて馬車に乗って出発すべきかと。だけど、そうしたところで差出人の名をアーデルが既に見てしまっている。きっとアーデルは黙っていない。一言ぐらいは言うだろう。どこまで自分の言葉を聞いてくれるだろうか。

「……アーデル、行きましょう。早く出発しないと──」
「ラビ皇子」
「アーデル、手紙を戻してください。時間がありません」

 急ごうとするラビにアーデルは気付いている。この手紙が誰からなのかを。逃げようとしているのだと。せっかくこれから旅行に行くのだ。今すぐ馬車に乗ればハイデンに着いた日は自分の誕生日。張り切ってくれているラビからの大仰なおもてなしを受けられる。アーデルもずっと楽しみにしていた。昨日など、想像するとおかしくてなかなか眠れなかったほどだ。
 この手紙は開封せずに郵便受けに戻して馬車に乗るのが正解だと自分でもわかっている。だけど、アーデルにはできなかった。

「見たほうがいいと思います」
「どうして……」
「……何か……大変な事が起こっているのでは、ないでしょうか……」

 その言葉にラビは思わず封筒に手を伸ばした。差出人はシャンディではなくウェルザー家。こうした出し方をするのは使用人だ。ラビの中で嫌な予感が加速する。差出人の字が震えている。動揺しながら書いたのだろう。

『死んでやるから!』

 シャンディの言葉を思い出したラビの顔色が青ざめていく。大袈裟なほど手が震え、その手からは今にも封筒が離れてしまいそうなほどだった。

「開けてもよろしいですか?」
「お、お願い、します……」

 封筒を取って中を開けると一枚の便箋が入っていた。それを取り出すもアーデルはすぐに中身を確認せず、胸に当てた状態で問いかけた。

「私が確認しましょうか? それともご自分で確認されますか?」
「確認してください……」

 こくんと頷いたアーデルが便箋を開くと眉を寄せた。差出人だけではなく綴られた字全てがガタガタだった。まるで弱った状態か、動揺しながら書いたような字。それに目を通すと怪訝な顔が驚きへと変わる。青ざめていくアーデルの表情を見てラビは絶望に近い感情に支配されていくのを感じた。

「そんな……」

 小刻みに震える手で口を押さえるアーデルがショックを受けたような顔で呟く。
 これが嬉しい報告である可能性は潰え、最悪の報告である可能性が現実味を帯びた。
 驚きながらも手紙に目を通すアーデルは何度も小さく首を振る。今にも「嘘だ」と漏らしそうな表情を見つめながらラビは唇を小さく開いて浅い呼吸を繰り返す。

「……シャンディさんが……自殺したと……」

 ラビが膝から崩れ落ちる。慌てて支えるアーデルが落とした手紙が開いたまま地面に落ち、ラビの視界に入った。

「死んで……ない……?」
「一命は取り留めたそうです。ただ、まだ意識不明だと……」

 脱力するほどの安堵に襲われるも呼吸は浅いまま、表情も苦しいラビの背中をアーデルが摩る。
 
「なんでこんな……!」

 悲しげというよりは悔しげに聞こえるラビの声にアーデルは問いかける事にした。

「ラビ皇子、シャンディさんと何があったのですか?」
「それは……」
「教えてください」

 戸惑っていた。わかる。きっと話したくないほど嫌な事だったのだろう。だが、アーデルはずっと不思議に思っていた。ラビは頑なにシャンディの事を話したがらず、かといってシャンディからも一通も手紙が送られてきたりする事はなかった。喧嘩したのであれば以前のように謝罪を要求する手紙を送ってくるはずだが、アクションは一つもなかった。それがひどく不気味で。何より、彼が誕生日には絶対に旅行に行くと頑なだった事が最も怪訝とした事だった。
 彼は強引な男ではない。人の顔色を伺い、自分の気持ちよりも相手の気持ちを優先する人間だからアーデルの気持ちを無視する事は絶対にしないのだが、今回の旅行だけは何があろうと絶対に行くと強い意思を見せた。前々から考えてくれていた事だからだろうと思っていたのだが、この手紙で悟った。シャンディとの間に何か大きな揉め事があったのだと。
 自分は関係ないかもしれない。だけど、この現状を無視して旅行に行く事はできないとアーデルはラビの頬に手を添えて目を見つめた。

「ぼ、僕は……」

 彷徨う視線が宙を泳ぐ。でもその瞳が次第に濡れ始め、涙へと変わり、頬を伝う。

「どうしてここまで……!」

 拳を握り、唇を噛む悔しげな表情の中に滲む絶望。まだ結婚して一年も経っていないのに何度この絶望めいた表情を見たのだろう。
 アーデルは十六年の人生の中で絶望を味わった事はまだ一度もない。それなのに彼は一年の間で何度も経験する。
 シャンディの自殺はきっとラビへの当てつけ。でなければ彼がここまで悔しげな顔をするはずがない。
 一ヶ月を目処にと考えていたラビが家に帰ろうとしたのを止め、そこで問題が起きた。離れていこうとするラビを引き留めるためにやったのだとしたらシャンディは異常だ。命をかけて誰かを引き止めようとするなど正常ではない。そんな事をしたところで人の心を繋ぎ止めることなどできるはずがないのに。
 死ぬつもりだったのか、それとも未遂で終えるつもりだったのかはアーデルにはわからない。だが、シャンディ・ウェスカーのラビへの執着が本物である事はわかった。
 自分の人生は自分だけの物。誰かと一緒になったとしても相手の人生を生きているわけではない。それなのにシャンディはラビの人生を自分の物にしようとしている。

「とりあえず中に入りましょう」

 行かなきゃ、とは言わなかった。まるで夜になると現れるお化けに怯える子供のように震えながらアーデルに支えられて中へと入っていった。
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