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どこにいても
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人間というのは不思議な生き物で、自分の悪口などはどれだけ騒がしい中にいても耳が勝手に拾い上げてしまう。
過剰反応かもしれないが、二人は足を止めて同時に声のほうへと振り返った。大勢の人々が行き交う中、たぶんその言葉を発した人物だろう男と目が合った。男も足を止め、こちらを見ている。まだ疑問でしかなかったものが目が合った事で確信へと変わった男が「ヒュドールの死神がどうしてここにいるんだ……?」と言った。その声は疑問を呟くというよりは周りに知らせるように少し大きめに発せられた。
「え? ……嘘……」
「あれがヒュドールの死神……?」
「本当に金の仮面をしてる」
活気に溢れていた市場は笑い声が消え、ザワつきへと変わっていく。それはまるで快晴が曇天へと変わっていくような心地悪さで、次々に足を止める人に囲まれるのに時間はかからなかった。
「視察に来たのか?」
「違います! 僕達は買い物に来ただけで──」
「ヒュドールの死神が現れた国は必ず消滅すると聞いた事がある」
「そんな事はありません!」
アーデルが声を大にして否定するも一度不安になった者達は一気にそれを増幅させていく。
「もうすぐヒュドールとの戦争が始まるんだ!」
「勝てるわけがないじゃないか!」
「行方不明の子供達はあの死神に連れて行かれたんだ!」
「ふざけるな! 子供達を返せ!!」
彼らは何を言っているんだ。一体なんの話だ。身に覚えのない話がまるで真実であるように怒りをぶつけられる。
彼らの瞳には怒りが宿っている。ジュベールが向ける瞳によく似ていた。
「ぼ、僕達は本当に視察に来たわけではなく──ッ! 何をするんですか!」
「帰れ! ヒュドールの死神め! 俺達の国を汚すな!」
「そうだ! 帰れ! 死神! 子供達を返せ!」
奥から飛んできた何かを手で受け止めたラビはそれが石だと知って声を上げるも怒りを纏った彼らには逆効果だったらしく、飛んでくる物が増えた。地面に落ちている石、買ったばかりの果物、野菜、本が飛んでくる。アーデルに当たらないように抱きしめながら後退する。
「失せろ!!」
「二度と来るんじゃねぇぞ!!」
市場から少し離れた場所で停めておいてよかった。彼らは荷馬車までは追いかけて来なかった。
「帰りましょうか」
「……そう、ですね……」
アーデルは疑問や怒りを口にする事はなかった。何事もなかったかのように気丈に振舞い、行きと同じく二台に乗る。御者席に座って馬を走らせながらラビはどうすべきか悶々を考えていた。
だが、行動はラビよりも不動産の男のほうが早かった。
「退去……?」
突然の訪問で告げられた言葉にラビが耳を疑う。
「契約していただいたばかりでこのような事を申し上げるのは非常識だと承知の上で頼んでおります」
市場での噂を聞きつけたか、それとも買い物に来たと言ったためにここら一帯の住宅を管理している不動産に死神を見たと言いに行った人間がいたのか。どちらにせよ彼は二人が引っ越してくるのを快く思っていなかっただけに退去を願う言葉を口にする顔にはそれほど申し訳なさは見えない。むしろこれ幸いとさえ思っているのだろう。
「お支払いいただきました資金は全てお返しいたします」
金は返すから出て行け。冷酷にそう告げられている気分になったラビは眉を下げながらも問いかけた。
「ぼ、僕のせい……ですか?」
不動産屋の男は答えない。
「で、でも、僕達は──」
何もしていない。そう言おうとしたラビをアーデルが手を握って止めた。
「アーデル?」
「わかりました」
「納得するのですか!?」
せっかく希望どおりの家をココが見つけて契約まで同行してくれた理想の家を一週間で手放さなければならなくなった。何もしていない自分達がどうしてと取り乱しそうになっているのはアーデルではなくラビ。
「ですが、理由を聞かせていただけますか? こちらとしましても正当な支払いをしている以上は理不尽な要求はのめません」
わかっているだろうにとでもいいたげに溜息を吐いた男が口を開く。
「市場でヒュドールの死神を見つけた。買い物と言っていたが、ここら辺に住んでいるのではないかと不安を訴えに来た住民がいましてね。あなたがヒュドールの死神である以上は戦争や視察の意図がなくとも姿を見れば不安は大きくなる。膨らみすぎた不安が爆発する事が一番怖いのです」
「その種である私達が去れば彼らは平和に暮らせるから引っ越せと言っているのですね?」
「あまり言葉はよろしくありませんが、そういう事です」
たった一人の人間の存在で大勢の人間が不安になっているのだから当然。開き直ったように肩を竦める男の顔にティーカップを叩きつける想像をしながらアーデルはもう一度「わかりました」と言った。
「少しだけ時間をくれませんか? 荷造りも必要ですし、今日明日にでもというわけにはいきません」
「そんなに荷物があるようには見えませんがね?」
「眼鏡、作り直したほうがよろしいのではないですか? もしよろしければ眼鏡を新調するキッカケを与えさせていただきますが」
スッと男の眼鏡に手を伸ばそうとするアーデルをラビが慌てて止める。様子を見ていればアーデルはきっと彼の眼鏡を握り潰すか叩き壊していた。映像として浮かんできたのだ。
彼の態度がよほど気に食わないのか、アーデルは止められてもそのまま彼の眼鏡を掴もうとした。意外と力が強いと慌てて抱き寄せる事でなんとか距離を離すことに成功したが、アーデルの表情は先程までの笑顔はどこへやら、今にも噛み付かんとする猛獣のような表情へと変わっていた。
「ア、アーデル、ドードー……」
馬を落ち着かせるように声をかけるもアーデルの表情は変わらない。
ポケットからハンカチを出した男は額に滲んだ汗を拭いながら立ち上がり、言い放った。
「では三日後までに退去願います。彼らにはそう説明しておきますので」
それでも不動産の男の目は「できるだけ早く」と訴えていた。
「ティーカップ、一つだけダメにしてもいい、ですよね……」
「だ、ダメですよ? 大事にしましょう? ね? お気に入りなんですから」
男の開き直りが許せなかったのか、珍しく感情剥き出しにするアーデルは男が一口も飲まなかった紅茶が入ったままのティーカップを掴んで玄関まで追いかけようとした。紅茶をかけるだけならまだいい。だが、ダメにすると言った以上は破壊するつもりがあるという事。
感情を乱すのは未熟者の証だと父親の言葉を思い出すも今回ばかりは納得していなかった。
「……ココに手紙を書き直さなきゃいけないですね」
「すみません……僕のせいで……」
「あなたのせいではありません」
「僕が死神と呼ばれているせいです……」
「それはあなたがそう呼ばれるほどの仕事をした結果です。あなたが悪いわけではありません」
「ですが……」
「大鎌を持って市場を練り歩いてやりたい」
「そ、それはさすがに……」
仕方ない事だとアーデルもわかっている。視察に来たわけじゃない。引っ越してきただけだ。誰にも迷惑をかけずに穏やかに暮らすつもりだと言ったところでそれが真実かどうか彼らにはわからない。嘘だと疑い続ければ不安が大きくなるのは当然だ。誰だって戦争経験者にはなりたくない。穏やかな幸せに包まれて暮らしたいと思っている。
一人が引っ越すだけで大勢の不安が消えるならそれが良いに決まっている。頭ではわかっているが、悔しかった。怖がらせるだけ怖がらせて引っ越してやりたいと思うほどに。
「悔しいですけど、荷造りしましょうか」
「ごめんなさい」
「謝罪は一度だけという約束でしょう? 罰金です」
「あ、はい……」
チャリンと硬貨を入れる音はいつもどおりなのに虚しさに襲われる。
一週間前に解いたばかりの物をまた詰め直さなければならない。
「荷解き、楽しかったですね」
「そうですね。ワクワクしましたね」
「もう一度あのワクワクが楽しめるんですね」
前向きな発言と笑顔を見せるアーデルにラビは笑顔を作って同意する。笑顔になれる状況ではないのに必死に場の雰囲気を殺さないように努力してくれている。そんなアーデルにラビは感謝していた。
箱を持ってきて荷物を一つずつ詰めていく。新しい物はまだ買っていない。買った物といえばテーブルと椅子ぐらい。まだ見ぬ子供のためにと先急いで買わなくてよかったと安堵しながら荷造りをする二人はとりあえず一度あの家に戻ろうと話し合った。
これは一種の呪いかもしれない。あの場所から逃げようとする自分への罰のような呪い。
「暗い顔してますよ」
「あ……す、すみません! 申し訳ないです!」
慌てるラビにアーデルが言った。
「一緒にお風呂でも入りますか?」
「はッ!?」
思わず飛び出した大声に慌てて口を押さえるラビの顔が真っ赤に染まる。
「な、なん…そ、そんなの……!」
「夫婦ですし」
アーデルの裸は一度だけ見た。だが、マジマジと見たわけではない。極力見ないように努めた。だから彼女の裸を知っていると言うには語弊がある。
彼女の言うとおり、自分達は夫婦なのだから一緒にお風呂に入るのは何もおかしな事ではない。むしろ自然だと自分に言い聞かせたラビが口を覆っていた手を離し、口を開いた。
「できません……」
まるで花が茎から枯れるようにしなっと床に崩れ落ちて土下座する形を取ったラビにアーデルが眉を下げながら笑う。
自分に言い聞かせはしたが、想像するだけで無理だった。アーデルの裸を凝視しない自信がないし、そんな自分に引かれたくない。夫婦だからと全て許されるわけじゃないという結論に至ったラビは自分が情けなくてたまらなかった。
「じゃあ一緒に寝るのはどうですか?」
「そ、それなら……できます」
相変わらず別々に眠っているが、今日は一緒に寝ようと約束をした。キスをして抱きしめる事が出来ているのだから一緒に寝るぐらい出来ると思ってはいるのだが、何せ寝ている無防備な相手を見ていると色々想像してしまうため眠れなくなってしまう弊害が生じる。
さすがにいつまでもこのままでは子供など夢のまた夢の話となる。どうにかせねばと考えるばかりでラビ自身、あまり進めていない。
それでも男だなんだと言わないアーデルは自由に過ごし、夫にも自由の選択を与えてくれている。感謝しかないと姿勢を正してキッチリとした土下座へと変えた。
だが、深夜、アーデルは眠りについてもラビはやはり眠れなかった。隣ですやすやと静かに寝息を立てるアーデルの匂いと温もりに心臓が異様な速さで動くせいでうるさくて眠れない。
どうするべきかと額を叩き続けているとドンッと壁を叩くような音がした。それと同時に感じたニオイ。油──そう気付くと同時にまた壁を叩く音が連続で聞こえた。
「アーデル、起きて!!」
叫ぶラビの声にアーデルが飛び起きた。
過剰反応かもしれないが、二人は足を止めて同時に声のほうへと振り返った。大勢の人々が行き交う中、たぶんその言葉を発した人物だろう男と目が合った。男も足を止め、こちらを見ている。まだ疑問でしかなかったものが目が合った事で確信へと変わった男が「ヒュドールの死神がどうしてここにいるんだ……?」と言った。その声は疑問を呟くというよりは周りに知らせるように少し大きめに発せられた。
「え? ……嘘……」
「あれがヒュドールの死神……?」
「本当に金の仮面をしてる」
活気に溢れていた市場は笑い声が消え、ザワつきへと変わっていく。それはまるで快晴が曇天へと変わっていくような心地悪さで、次々に足を止める人に囲まれるのに時間はかからなかった。
「視察に来たのか?」
「違います! 僕達は買い物に来ただけで──」
「ヒュドールの死神が現れた国は必ず消滅すると聞いた事がある」
「そんな事はありません!」
アーデルが声を大にして否定するも一度不安になった者達は一気にそれを増幅させていく。
「もうすぐヒュドールとの戦争が始まるんだ!」
「勝てるわけがないじゃないか!」
「行方不明の子供達はあの死神に連れて行かれたんだ!」
「ふざけるな! 子供達を返せ!!」
彼らは何を言っているんだ。一体なんの話だ。身に覚えのない話がまるで真実であるように怒りをぶつけられる。
彼らの瞳には怒りが宿っている。ジュベールが向ける瞳によく似ていた。
「ぼ、僕達は本当に視察に来たわけではなく──ッ! 何をするんですか!」
「帰れ! ヒュドールの死神め! 俺達の国を汚すな!」
「そうだ! 帰れ! 死神! 子供達を返せ!」
奥から飛んできた何かを手で受け止めたラビはそれが石だと知って声を上げるも怒りを纏った彼らには逆効果だったらしく、飛んでくる物が増えた。地面に落ちている石、買ったばかりの果物、野菜、本が飛んでくる。アーデルに当たらないように抱きしめながら後退する。
「失せろ!!」
「二度と来るんじゃねぇぞ!!」
市場から少し離れた場所で停めておいてよかった。彼らは荷馬車までは追いかけて来なかった。
「帰りましょうか」
「……そう、ですね……」
アーデルは疑問や怒りを口にする事はなかった。何事もなかったかのように気丈に振舞い、行きと同じく二台に乗る。御者席に座って馬を走らせながらラビはどうすべきか悶々を考えていた。
だが、行動はラビよりも不動産の男のほうが早かった。
「退去……?」
突然の訪問で告げられた言葉にラビが耳を疑う。
「契約していただいたばかりでこのような事を申し上げるのは非常識だと承知の上で頼んでおります」
市場での噂を聞きつけたか、それとも買い物に来たと言ったためにここら一帯の住宅を管理している不動産に死神を見たと言いに行った人間がいたのか。どちらにせよ彼は二人が引っ越してくるのを快く思っていなかっただけに退去を願う言葉を口にする顔にはそれほど申し訳なさは見えない。むしろこれ幸いとさえ思っているのだろう。
「お支払いいただきました資金は全てお返しいたします」
金は返すから出て行け。冷酷にそう告げられている気分になったラビは眉を下げながらも問いかけた。
「ぼ、僕のせい……ですか?」
不動産屋の男は答えない。
「で、でも、僕達は──」
何もしていない。そう言おうとしたラビをアーデルが手を握って止めた。
「アーデル?」
「わかりました」
「納得するのですか!?」
せっかく希望どおりの家をココが見つけて契約まで同行してくれた理想の家を一週間で手放さなければならなくなった。何もしていない自分達がどうしてと取り乱しそうになっているのはアーデルではなくラビ。
「ですが、理由を聞かせていただけますか? こちらとしましても正当な支払いをしている以上は理不尽な要求はのめません」
わかっているだろうにとでもいいたげに溜息を吐いた男が口を開く。
「市場でヒュドールの死神を見つけた。買い物と言っていたが、ここら辺に住んでいるのではないかと不安を訴えに来た住民がいましてね。あなたがヒュドールの死神である以上は戦争や視察の意図がなくとも姿を見れば不安は大きくなる。膨らみすぎた不安が爆発する事が一番怖いのです」
「その種である私達が去れば彼らは平和に暮らせるから引っ越せと言っているのですね?」
「あまり言葉はよろしくありませんが、そういう事です」
たった一人の人間の存在で大勢の人間が不安になっているのだから当然。開き直ったように肩を竦める男の顔にティーカップを叩きつける想像をしながらアーデルはもう一度「わかりました」と言った。
「少しだけ時間をくれませんか? 荷造りも必要ですし、今日明日にでもというわけにはいきません」
「そんなに荷物があるようには見えませんがね?」
「眼鏡、作り直したほうがよろしいのではないですか? もしよろしければ眼鏡を新調するキッカケを与えさせていただきますが」
スッと男の眼鏡に手を伸ばそうとするアーデルをラビが慌てて止める。様子を見ていればアーデルはきっと彼の眼鏡を握り潰すか叩き壊していた。映像として浮かんできたのだ。
彼の態度がよほど気に食わないのか、アーデルは止められてもそのまま彼の眼鏡を掴もうとした。意外と力が強いと慌てて抱き寄せる事でなんとか距離を離すことに成功したが、アーデルの表情は先程までの笑顔はどこへやら、今にも噛み付かんとする猛獣のような表情へと変わっていた。
「ア、アーデル、ドードー……」
馬を落ち着かせるように声をかけるもアーデルの表情は変わらない。
ポケットからハンカチを出した男は額に滲んだ汗を拭いながら立ち上がり、言い放った。
「では三日後までに退去願います。彼らにはそう説明しておきますので」
それでも不動産の男の目は「できるだけ早く」と訴えていた。
「ティーカップ、一つだけダメにしてもいい、ですよね……」
「だ、ダメですよ? 大事にしましょう? ね? お気に入りなんですから」
男の開き直りが許せなかったのか、珍しく感情剥き出しにするアーデルは男が一口も飲まなかった紅茶が入ったままのティーカップを掴んで玄関まで追いかけようとした。紅茶をかけるだけならまだいい。だが、ダメにすると言った以上は破壊するつもりがあるという事。
感情を乱すのは未熟者の証だと父親の言葉を思い出すも今回ばかりは納得していなかった。
「……ココに手紙を書き直さなきゃいけないですね」
「すみません……僕のせいで……」
「あなたのせいではありません」
「僕が死神と呼ばれているせいです……」
「それはあなたがそう呼ばれるほどの仕事をした結果です。あなたが悪いわけではありません」
「ですが……」
「大鎌を持って市場を練り歩いてやりたい」
「そ、それはさすがに……」
仕方ない事だとアーデルもわかっている。視察に来たわけじゃない。引っ越してきただけだ。誰にも迷惑をかけずに穏やかに暮らすつもりだと言ったところでそれが真実かどうか彼らにはわからない。嘘だと疑い続ければ不安が大きくなるのは当然だ。誰だって戦争経験者にはなりたくない。穏やかな幸せに包まれて暮らしたいと思っている。
一人が引っ越すだけで大勢の不安が消えるならそれが良いに決まっている。頭ではわかっているが、悔しかった。怖がらせるだけ怖がらせて引っ越してやりたいと思うほどに。
「悔しいですけど、荷造りしましょうか」
「ごめんなさい」
「謝罪は一度だけという約束でしょう? 罰金です」
「あ、はい……」
チャリンと硬貨を入れる音はいつもどおりなのに虚しさに襲われる。
一週間前に解いたばかりの物をまた詰め直さなければならない。
「荷解き、楽しかったですね」
「そうですね。ワクワクしましたね」
「もう一度あのワクワクが楽しめるんですね」
前向きな発言と笑顔を見せるアーデルにラビは笑顔を作って同意する。笑顔になれる状況ではないのに必死に場の雰囲気を殺さないように努力してくれている。そんなアーデルにラビは感謝していた。
箱を持ってきて荷物を一つずつ詰めていく。新しい物はまだ買っていない。買った物といえばテーブルと椅子ぐらい。まだ見ぬ子供のためにと先急いで買わなくてよかったと安堵しながら荷造りをする二人はとりあえず一度あの家に戻ろうと話し合った。
これは一種の呪いかもしれない。あの場所から逃げようとする自分への罰のような呪い。
「暗い顔してますよ」
「あ……す、すみません! 申し訳ないです!」
慌てるラビにアーデルが言った。
「一緒にお風呂でも入りますか?」
「はッ!?」
思わず飛び出した大声に慌てて口を押さえるラビの顔が真っ赤に染まる。
「な、なん…そ、そんなの……!」
「夫婦ですし」
アーデルの裸は一度だけ見た。だが、マジマジと見たわけではない。極力見ないように努めた。だから彼女の裸を知っていると言うには語弊がある。
彼女の言うとおり、自分達は夫婦なのだから一緒にお風呂に入るのは何もおかしな事ではない。むしろ自然だと自分に言い聞かせたラビが口を覆っていた手を離し、口を開いた。
「できません……」
まるで花が茎から枯れるようにしなっと床に崩れ落ちて土下座する形を取ったラビにアーデルが眉を下げながら笑う。
自分に言い聞かせはしたが、想像するだけで無理だった。アーデルの裸を凝視しない自信がないし、そんな自分に引かれたくない。夫婦だからと全て許されるわけじゃないという結論に至ったラビは自分が情けなくてたまらなかった。
「じゃあ一緒に寝るのはどうですか?」
「そ、それなら……できます」
相変わらず別々に眠っているが、今日は一緒に寝ようと約束をした。キスをして抱きしめる事が出来ているのだから一緒に寝るぐらい出来ると思ってはいるのだが、何せ寝ている無防備な相手を見ていると色々想像してしまうため眠れなくなってしまう弊害が生じる。
さすがにいつまでもこのままでは子供など夢のまた夢の話となる。どうにかせねばと考えるばかりでラビ自身、あまり進めていない。
それでも男だなんだと言わないアーデルは自由に過ごし、夫にも自由の選択を与えてくれている。感謝しかないと姿勢を正してキッチリとした土下座へと変えた。
だが、深夜、アーデルは眠りについてもラビはやはり眠れなかった。隣ですやすやと静かに寝息を立てるアーデルの匂いと温もりに心臓が異様な速さで動くせいでうるさくて眠れない。
どうするべきかと額を叩き続けているとドンッと壁を叩くような音がした。それと同時に感じたニオイ。油──そう気付くと同時にまた壁を叩く音が連続で聞こえた。
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