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感じる寂しさ
夜になってもイベリスは寝室に入ってはこなかった。
謝罪の手紙は読んでいたとサーシャから聞いたが、同時に今日は一人で寝るとも伝えられた。
当然だと考えるファーディナンドはいつもは右端で寝る身体をベッドの真ん中に置いて天井を見上げている。
既に日付が変わって二時間が経っているのに睡魔はやってこず、考えるのはあの瞬間のイベリスの心情。もし、立場が反対ならどう思っただろうかと。
(リンウッド、もしくは別の誰かの名前を呼ばれたとして……)
考えはしたが、苦しいや傷ついたという感情よりも腹が立った。だが、イベリスは夫を好きになってはいない。好きになったら言うと約束した。まだ伝えられてはいない。ただ、傷ついただけ。亡くなった妻の肖像画や写真を飾り続ける男が咄嗟に呼んだ名前は怒らせた相手ではなく亡き妻の名前。
(あの涙は悔しさからか? だから怒っていた……)
あまり命令口調にはならないように言葉を選びながら謝罪文を書いたつもりだ。言い訳まじりだが、謝罪の言葉も綴った。それでも、イベリスは許すつもりにはならなかったらしい。
(……どうかしている……)
イベリスの感情が乱れるとファーディナンドは複雑な気分になる。まるで幼児のようにコロコロと表情が変わるイベリスが時折見せる表情や感情に戸惑う。
ロベリアが見せないものだったから戸惑っているのか、それとも、自分の中に認めたくない感情が芽生え始めているからなのか。ありえない選択肢にかぶりを振って息を吐き出す。
「違う。イベリスがロベリアに似ていながら違う顔を見せるから戸惑っているだけだ」
別人なのだから受け入れてしまえば気にならなくなる。理屈としてはわかっているのに何故それができないのか。
「イベリス……」
ロベリアと呼んでしまったことへの言い訳はできなかった。いや、あれは言い訳にしか過ぎないだろう。どんな理由がこちらにあろうと相手にとっては言い訳でしかない。あれに納得していないからイベリスは戻ってこない。
ロベリアが言ったように怒りを鎮めさせなければならないとわかっているのにその方法をファーディナンドは知らない。ロベリアは誠心誠意謝ればすぐに許してくれたから。
(一人で眠るのは久しぶりだな)
初めて一緒に眠った日、ファーディナンドは怪訝な表情でイベリスに問いかけた。
『お前は寝る前にも香水をつけるのか?』
イベリスも同じように怪訝な表情で〈なんのこと?〉と問いかけ返した。
砂糖菓子のような甘い匂い。つまみ食いしてきたのかと疑いすらした。だが、実際はそのどちらでもなく、イベリスが持つ香りだった。正確にはイベリスの花の匂い。父親が用意してくれた香水の匂いが取れていないだけだと説明を受けたが、つけていない日でもその匂いがするのは染み付いているからだろう。
枕からイベリスの香りがする。だが姿は見えない。まるであの日が戻ってきたようだ。ロベリアを失い、もう抱きしめることもできないのに至る所にロベリアの香りと痕跡だけが残っている。
母親を失った幼子のように泣き続け、女々しくその匂いに縋りついたのはそう遠い昔の話ではない。
「雷か……」
突如、ゴロゴロと遠くで鳴り始めた音に気付いて身体を起こした。使用人が閉めたカーテンを少し開けると遠くで稲妻が見える。三十分もしないうちにここら一帯を覆うだろう雷雲と雷鳴と雷光。
ロベリアは雷が嫌いだった。あの音を聞いていると不安になるし、急に光るのが怖いし、突然大きく鳴り響く音が苦手だと。だから雷が発生した日はいつも眠るのが遅くなった。抱きしめ、大丈夫だと声をかけ、怖がりだと笑って。懐かしいあの頃が恋しくて雷を待った日もあった。だが、雷が鳴ると抱きしめる相手がいない現実に虚しくなった。
「アイツは平気だったか……」
迫り来るあの不安になる音も突然鳴り響く雷鳴も聞こえない。わかるのはあの強烈な光だけ。不安になっていたらと考え、様子を見に行こうとした足が止まる。今日はたとえ雷が怖かったとしても一人で震えてはいないだろう。サーシャを呼び寄せて共に寝るという選択肢もあるのだから。
「強くなってきたな」
次第に窓を打つ雨の音が強くなる。誰かが外で窓を連打しているのではないかと思うほど強い雨。
ベッドに戻って身を沈めるも睡魔はやってこない。疲れているはずなのに、何故こんなにも眠れないのか。人を怒らせたぐらいで気にする性格ではないはずなのに。わからないその感情に不安になる。
延々と独り言を言うつもりかと心の中で自分に問いながら目を閉じた。いつもなら聞こえてくるのは秒針の音と本を捲る音。でも今はそのどちらも聞こえず、雷鳴と雨の音だけ。
どうしようもない胸のモヤつきに早々に目を開け、ベッドから降りて廊下に出た。向かう先はイベリスの部屋。音が聞こえないのだから雷雨が奏でる轟音の影響も受けず眠っているかもしれない。サーシャがいるかもしれない。それに時計の短針はもうすぐ右真横に向く。そんな時間に起きているはずがないとわかっていても足は止まらない。
「…………」
イベリスの部屋がある廊下に続く角を曲がったとき、ファーディナンドの足が止まった。
部屋ではなく、廊下にイベリスが立っていた。大きな窓の前に立って、部屋からでは見えない門側を見ている。
「イベリス」
呟くように名前を呼ぶとイベリスが振り向く。目が合うも特に表情は変わらない。むしろそれが怖かった。
(怖い? 何が怖いんだ?)
明確に言語化できる感情に心の中で自分に問いかけるも答えは出ない。だが、こちらを見るイベリスを見ていると不安と恐怖に襲われる。立っているのはロベリアなのに背筋を伸ばして雷と対峙するように見ている。
〈夜は好きじゃない。色が消えちゃうから〉
イベリスは以前、そう言っていた。暗くなれば色が見えなくなるのは当然だと思っていたが、ファーディナンドはその言葉とイベリスを重ねていた。
話せないはずのイベリスを賑やかだと感じるように、夜に見るイベリスは昼間とは別人に見えるのだ。夜になると消えてしまうような漠然とした不安に襲われる。
「雷が怖くないのか?」
いつもなら手首から下げているペンもメモ帳も今は持っていない。それを取りに戻ろうとはせず、ファーディナンドが横に立つと再度前を向いて頷くだけ。
やはり、ロベリアとは違う。何もかもが正反対。その中でも決定打として違うのは、ロベリアは“守りたい者”イベリスは“繋ぎ止めたい者”と感じていること。
ロベリアはずっと守りたい者だった。当然だ。生まれて初めて愛を知り、自分が持てる愛の全てを注いだ相手なのだから。
イベリスは守りたいとは思っていない。しかし、消えてしまうのではないかという不安を感じさせる。その“不安”の理由がわからない。ただ、消えるなと願う自分がいて、それを繋ぎ止めなければと触れたくなる。
だが、イベリスは望んでいないらしく、肩に触れたファーディナンドの手を肩を動かすことで明確に拒んだ。
「まだ俺に怒っているのか?」
身体をイベリスに向けて問いかけるもイベリスは前を見たままかぶりを振る。
「俺に触られるのは嫌か?」
頷かれる。
「ロベリアの名を呼んでしまったことは俺の落ち度だ。すまない。今後は二度とないと誓う」
それに対してイベリスは顔を横に振ろうとしたのだろう。右に首が動いたあと、不自然に頷いた。
信用は得られていない。だが、怒っているようにも見えない。睨まれてはいないし、拒み方も静かなものだった。
「雷が気になるのか?」
かぶりを振られる。手話を覚えていれば相手に何も要求せずに済んだ。ペンもメモ帳もなくとも話せるのに、その努力を怠った結果、こうした場面で相手から得られる回答は首振りだけのイエスかノーだけ。
「明日は何か、お前が好きなことをするか。また池を凍らせてスケートでもするか? それかマシロの散歩でも──」
開いた両手の指先を下に向けて二回下げて見せるイベリスが言っていることがなんとなくわかり、頷いた。
「そうか。明日も雨か。なら、他にしたいことがあれば言ってくれ。お前の好きなことに付き合う」
頷いてはくれたが、窓に映るその笑顔が儚げで、そのままこの闇夜に吸い込まれてしまうのではないかと襲い来る不安から思わず手を握った。そうしてようやく振り向くイベリスと目を合わせたファーディナンドが言った。
「一緒に寝ないか?」
返事を待つファーディナンドは緊張していた。らしくない。だが、このまますぐそこの部屋に送って、朝になったら消えていたとなるのではないかというお化けを信じる子供のような話が頭をよぎってどうしようもない。
断らないでくれと腕を掴む手に力が入ってしまう。その手を三秒ほど見ていたイベリスが笑顔で頷いた。儚げではなく、仕方ないなとでも書いて見せそうないつもの笑顔。その瞬間に不安を押し除けて込み上げる安堵にファーディナンドが小さく息を吐く。
〈眠れなかったの?〉
わかりやすい手話はなんとなくで返事をする。
「睡魔が来なかった」
〈赤ちゃんでも一人で眠れるのに〉
なんと言っているのかはわからないが、ニヤつきでからかわれているのはわかった。それでも今日は手を離して偏屈な返事をすることはなかった。
「俺は環境の変化が苦手なんだ。そこにいたはずの人間がいなくなると眠れなくなるらしい」
ロベリアを失ったときもそうだったのだろう。手の強さから感じる縋りつきのような感情。スケートリンクの上で繋いでいた手とは少し違う感覚を覚えながらイベリスも手を握り返すとファーディナンドの手は更に力を込める。それがおかしくてイベリスが笑うとファーディナンドの表情も少し和らぐ。
「お前の匂いは甘ったるい」
ベッドに入るや否やそんなことを言うファーディナンドにニヤつきながら親指と人さし指をのばしてあごにつけ、 前に出しながら指を合わせるイベリスに黙れと言って抱きしめた。
ファーディナンドの匂いは甘さとはかけ離れている。柑橘に少しミントが混ざったようなスーッとする匂い。それに包まれ、イベリスは目を閉じた。
月を隠してしまった雷雲がもたらす雷光。雷光に照らされる噴水がある広場を見ているときに問われた『怖くないのか?』の言葉。イベリスは話せなくてよかったと心から思った。きっと、自由に話すことができたら言ってしまっていたから。
『私はね』と、可愛げのない言葉を。
どこまでも重ねられる。仕方ないとあと何十回言い聞かせるのだろう。逃げ出さずにいられるだろうか。自分の物だったこの身体も匂いを快く差し出して、さよならが伝えられるだろうか。
光っては消えるを繰り返す雷が、固まっては溶ける覚悟のようだとイベリスは思っていた。
謝罪の手紙は読んでいたとサーシャから聞いたが、同時に今日は一人で寝るとも伝えられた。
当然だと考えるファーディナンドはいつもは右端で寝る身体をベッドの真ん中に置いて天井を見上げている。
既に日付が変わって二時間が経っているのに睡魔はやってこず、考えるのはあの瞬間のイベリスの心情。もし、立場が反対ならどう思っただろうかと。
(リンウッド、もしくは別の誰かの名前を呼ばれたとして……)
考えはしたが、苦しいや傷ついたという感情よりも腹が立った。だが、イベリスは夫を好きになってはいない。好きになったら言うと約束した。まだ伝えられてはいない。ただ、傷ついただけ。亡くなった妻の肖像画や写真を飾り続ける男が咄嗟に呼んだ名前は怒らせた相手ではなく亡き妻の名前。
(あの涙は悔しさからか? だから怒っていた……)
あまり命令口調にはならないように言葉を選びながら謝罪文を書いたつもりだ。言い訳まじりだが、謝罪の言葉も綴った。それでも、イベリスは許すつもりにはならなかったらしい。
(……どうかしている……)
イベリスの感情が乱れるとファーディナンドは複雑な気分になる。まるで幼児のようにコロコロと表情が変わるイベリスが時折見せる表情や感情に戸惑う。
ロベリアが見せないものだったから戸惑っているのか、それとも、自分の中に認めたくない感情が芽生え始めているからなのか。ありえない選択肢にかぶりを振って息を吐き出す。
「違う。イベリスがロベリアに似ていながら違う顔を見せるから戸惑っているだけだ」
別人なのだから受け入れてしまえば気にならなくなる。理屈としてはわかっているのに何故それができないのか。
「イベリス……」
ロベリアと呼んでしまったことへの言い訳はできなかった。いや、あれは言い訳にしか過ぎないだろう。どんな理由がこちらにあろうと相手にとっては言い訳でしかない。あれに納得していないからイベリスは戻ってこない。
ロベリアが言ったように怒りを鎮めさせなければならないとわかっているのにその方法をファーディナンドは知らない。ロベリアは誠心誠意謝ればすぐに許してくれたから。
(一人で眠るのは久しぶりだな)
初めて一緒に眠った日、ファーディナンドは怪訝な表情でイベリスに問いかけた。
『お前は寝る前にも香水をつけるのか?』
イベリスも同じように怪訝な表情で〈なんのこと?〉と問いかけ返した。
砂糖菓子のような甘い匂い。つまみ食いしてきたのかと疑いすらした。だが、実際はそのどちらでもなく、イベリスが持つ香りだった。正確にはイベリスの花の匂い。父親が用意してくれた香水の匂いが取れていないだけだと説明を受けたが、つけていない日でもその匂いがするのは染み付いているからだろう。
枕からイベリスの香りがする。だが姿は見えない。まるであの日が戻ってきたようだ。ロベリアを失い、もう抱きしめることもできないのに至る所にロベリアの香りと痕跡だけが残っている。
母親を失った幼子のように泣き続け、女々しくその匂いに縋りついたのはそう遠い昔の話ではない。
「雷か……」
突如、ゴロゴロと遠くで鳴り始めた音に気付いて身体を起こした。使用人が閉めたカーテンを少し開けると遠くで稲妻が見える。三十分もしないうちにここら一帯を覆うだろう雷雲と雷鳴と雷光。
ロベリアは雷が嫌いだった。あの音を聞いていると不安になるし、急に光るのが怖いし、突然大きく鳴り響く音が苦手だと。だから雷が発生した日はいつも眠るのが遅くなった。抱きしめ、大丈夫だと声をかけ、怖がりだと笑って。懐かしいあの頃が恋しくて雷を待った日もあった。だが、雷が鳴ると抱きしめる相手がいない現実に虚しくなった。
「アイツは平気だったか……」
迫り来るあの不安になる音も突然鳴り響く雷鳴も聞こえない。わかるのはあの強烈な光だけ。不安になっていたらと考え、様子を見に行こうとした足が止まる。今日はたとえ雷が怖かったとしても一人で震えてはいないだろう。サーシャを呼び寄せて共に寝るという選択肢もあるのだから。
「強くなってきたな」
次第に窓を打つ雨の音が強くなる。誰かが外で窓を連打しているのではないかと思うほど強い雨。
ベッドに戻って身を沈めるも睡魔はやってこない。疲れているはずなのに、何故こんなにも眠れないのか。人を怒らせたぐらいで気にする性格ではないはずなのに。わからないその感情に不安になる。
延々と独り言を言うつもりかと心の中で自分に問いながら目を閉じた。いつもなら聞こえてくるのは秒針の音と本を捲る音。でも今はそのどちらも聞こえず、雷鳴と雨の音だけ。
どうしようもない胸のモヤつきに早々に目を開け、ベッドから降りて廊下に出た。向かう先はイベリスの部屋。音が聞こえないのだから雷雨が奏でる轟音の影響も受けず眠っているかもしれない。サーシャがいるかもしれない。それに時計の短針はもうすぐ右真横に向く。そんな時間に起きているはずがないとわかっていても足は止まらない。
「…………」
イベリスの部屋がある廊下に続く角を曲がったとき、ファーディナンドの足が止まった。
部屋ではなく、廊下にイベリスが立っていた。大きな窓の前に立って、部屋からでは見えない門側を見ている。
「イベリス」
呟くように名前を呼ぶとイベリスが振り向く。目が合うも特に表情は変わらない。むしろそれが怖かった。
(怖い? 何が怖いんだ?)
明確に言語化できる感情に心の中で自分に問いかけるも答えは出ない。だが、こちらを見るイベリスを見ていると不安と恐怖に襲われる。立っているのはロベリアなのに背筋を伸ばして雷と対峙するように見ている。
〈夜は好きじゃない。色が消えちゃうから〉
イベリスは以前、そう言っていた。暗くなれば色が見えなくなるのは当然だと思っていたが、ファーディナンドはその言葉とイベリスを重ねていた。
話せないはずのイベリスを賑やかだと感じるように、夜に見るイベリスは昼間とは別人に見えるのだ。夜になると消えてしまうような漠然とした不安に襲われる。
「雷が怖くないのか?」
いつもなら手首から下げているペンもメモ帳も今は持っていない。それを取りに戻ろうとはせず、ファーディナンドが横に立つと再度前を向いて頷くだけ。
やはり、ロベリアとは違う。何もかもが正反対。その中でも決定打として違うのは、ロベリアは“守りたい者”イベリスは“繋ぎ止めたい者”と感じていること。
ロベリアはずっと守りたい者だった。当然だ。生まれて初めて愛を知り、自分が持てる愛の全てを注いだ相手なのだから。
イベリスは守りたいとは思っていない。しかし、消えてしまうのではないかという不安を感じさせる。その“不安”の理由がわからない。ただ、消えるなと願う自分がいて、それを繋ぎ止めなければと触れたくなる。
だが、イベリスは望んでいないらしく、肩に触れたファーディナンドの手を肩を動かすことで明確に拒んだ。
「まだ俺に怒っているのか?」
身体をイベリスに向けて問いかけるもイベリスは前を見たままかぶりを振る。
「俺に触られるのは嫌か?」
頷かれる。
「ロベリアの名を呼んでしまったことは俺の落ち度だ。すまない。今後は二度とないと誓う」
それに対してイベリスは顔を横に振ろうとしたのだろう。右に首が動いたあと、不自然に頷いた。
信用は得られていない。だが、怒っているようにも見えない。睨まれてはいないし、拒み方も静かなものだった。
「雷が気になるのか?」
かぶりを振られる。手話を覚えていれば相手に何も要求せずに済んだ。ペンもメモ帳もなくとも話せるのに、その努力を怠った結果、こうした場面で相手から得られる回答は首振りだけのイエスかノーだけ。
「明日は何か、お前が好きなことをするか。また池を凍らせてスケートでもするか? それかマシロの散歩でも──」
開いた両手の指先を下に向けて二回下げて見せるイベリスが言っていることがなんとなくわかり、頷いた。
「そうか。明日も雨か。なら、他にしたいことがあれば言ってくれ。お前の好きなことに付き合う」
頷いてはくれたが、窓に映るその笑顔が儚げで、そのままこの闇夜に吸い込まれてしまうのではないかと襲い来る不安から思わず手を握った。そうしてようやく振り向くイベリスと目を合わせたファーディナンドが言った。
「一緒に寝ないか?」
返事を待つファーディナンドは緊張していた。らしくない。だが、このまますぐそこの部屋に送って、朝になったら消えていたとなるのではないかというお化けを信じる子供のような話が頭をよぎってどうしようもない。
断らないでくれと腕を掴む手に力が入ってしまう。その手を三秒ほど見ていたイベリスが笑顔で頷いた。儚げではなく、仕方ないなとでも書いて見せそうないつもの笑顔。その瞬間に不安を押し除けて込み上げる安堵にファーディナンドが小さく息を吐く。
〈眠れなかったの?〉
わかりやすい手話はなんとなくで返事をする。
「睡魔が来なかった」
〈赤ちゃんでも一人で眠れるのに〉
なんと言っているのかはわからないが、ニヤつきでからかわれているのはわかった。それでも今日は手を離して偏屈な返事をすることはなかった。
「俺は環境の変化が苦手なんだ。そこにいたはずの人間がいなくなると眠れなくなるらしい」
ロベリアを失ったときもそうだったのだろう。手の強さから感じる縋りつきのような感情。スケートリンクの上で繋いでいた手とは少し違う感覚を覚えながらイベリスも手を握り返すとファーディナンドの手は更に力を込める。それがおかしくてイベリスが笑うとファーディナンドの表情も少し和らぐ。
「お前の匂いは甘ったるい」
ベッドに入るや否やそんなことを言うファーディナンドにニヤつきながら親指と人さし指をのばしてあごにつけ、 前に出しながら指を合わせるイベリスに黙れと言って抱きしめた。
ファーディナンドの匂いは甘さとはかけ離れている。柑橘に少しミントが混ざったようなスーッとする匂い。それに包まれ、イベリスは目を閉じた。
月を隠してしまった雷雲がもたらす雷光。雷光に照らされる噴水がある広場を見ているときに問われた『怖くないのか?』の言葉。イベリスは話せなくてよかったと心から思った。きっと、自由に話すことができたら言ってしまっていたから。
『私はね』と、可愛げのない言葉を。
どこまでも重ねられる。仕方ないとあと何十回言い聞かせるのだろう。逃げ出さずにいられるだろうか。自分の物だったこの身体も匂いを快く差し出して、さよならが伝えられるだろうか。
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