亡き妻を求める皇帝は耳の聞こえない少女を妻にして偽りの愛を誓う

永江寧々

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聖女4

 聖女が滞在して五日が過ぎたある日、サーシャが大きな溜め息を吐いた。

〈どうしたの?〉
〈いえ、なんでもありません。深呼吸をしただけです。申し訳ございません〉

 嘘をつくなと目で訴えるイベリスに苦笑しながらサーシャが白状する。

〈ここのところ、なんだか疲れが取れないような気がして……〉
〈医者を呼びましょう〉
〈そこまで大袈裟なことではないんです。頭がボーッとするような感じがあるだけで〉

 熱だろうかとサーシャの額に手を当てるも熱はない。頬と首に触っても同じ。

〈働きすぎよ。なんでも私に合わせてくれるから甘えちゃう私が悪いんだけど、今日はゆっくり休んで〉
〈熱もないのに休むなどできません。イベリス様とご一緒しているほうが早く治ると思うので〉
〈私と過ごしてて疲れてるのに?〉
〈これは個人的な疲れですから。部屋に帰ってから本を読んでいるせいです〉

 そう言ってもイベリスは納得しなかった。立ち上がってサーシャの後ろに回るのをサーシャが鏡越しに目で追う。すると背中に手が当たり、そのままグイグイと推される。

「イベリス様!?」

 廊下へと押し出されると慌てて振り返り、イベリスがメモ帳にペンを走らせるのを見ていた。

〈今日のサーシャの仕事はしっかりと休むこと。ちゃんと食べて、ちゃんと寝ること。明日からまた私のわがままにたくさん付き合ってもらわなきゃいけないんだから今日はお休み〉
「で、ですが……」
〈大丈夫! 今日はウォルフと一緒にマシロを洗う予定なの。そしたら乾くまで一緒にお散歩して、帰ったらご飯食べて、お茶して、お喋りして、寝るだけ。ね? 楽な日常だもの。サーシャが一日休んだって平気よ〉

 眉を下げるサーシャを抱きしめるイベリスに驚いた顔をする。

〈苦労かけてごめんね〉

 顔が見えないサーシャに声が出ないイベリスの言葉が届くことはないが、それでもこの行為でなんとなくわかった。詫びているのだろうと。
 ゆっくり息を吐いたつもりが大きくだしてしまった自分を反省しながらも気を遣ってくれているイベリスの厚意を受け取って休むことにした。

〈ウォルフが変なことをしたら教えてください〉
〈はあい〉

 深く頭を下げて部屋へと戻っていくサーシャを見送ってから部屋に戻り、マシロの隣に寝転ぶ。床に寝転ぶなんてとサーシャがいたら怒られているところだ。
 毎日天日干しされるマシロ専用のベッドに顔を近付けるとマシロが顔を寄せてくる。大きな舌に顔を舐められると嫌だと言いながらも大笑いする。

(大好きよ、マシロ)

 犬を飼うのが夢だった。それが叶っただけでも嫁いだ意味があると前向きに捉えている。サーシャと出会い、獣人族のウォルフとも出会った。リンベルにいたら絶対に経験できなかった出会い。その点ではファーディナンドに感謝している。

「おはようございます、イベリス様」

 マシロを抱きしめていると目の前に表示された言葉に気付いて顔を上げる。ドアが少しだけ開いているのはウォルフが外から声をかけているから。

(声が出たらここからどうぞー、入ってーって声がかけられるのに)

 わざわざ起き上がってドアまで行かなければならない面倒さに息を吐いて立ち上がり、ドアへと向かった。軽くドアを押すとウォルフが笑顔で姿を見せる。

「おはようござ……あー」
〈な、なに?〉

 何かに気付いたようにニヤつくウォルフに慌てると彼が自分の胸を撫でるように手を這わせたあと、イベリスの身体を指した。それに合わせて自分の身体を見下ろしたイベリスがハッとする。

〈これはマシロとハグしてたからついただけ! 床に寝転んでついた毛じゃないから!〉
「俺は何も言ってませんよ?」

 メモ帳に書かれた文字がいつもより乱れているのも証拠になるが、イベリス自らの自爆にウォルフが笑うも唇の前で人差し指を立てた。

「内緒にしておきます」

 ウインクをする色男を見てイベリスは改めて彼の年齢が十六であることを疑っている。どう見ても二十五歳前後。

「俺の顔に何かついてます?」
〈目と鼻と口〉
「それはイベリス様も同じですよ……っと……サーシャはどうしました?」

 いつもならすぐに出てきて嫌味の一つでも言い放つサーシャが来ないことに疑問を持ったウォルフが中を覗き込む。

〈疲れてるみたいだから休んでもらったの。部屋に戻ってからも本を読んでるせいだって言ってたわ〉
「あー……手を抜くこと知らないですからね」
〈明日からはもっと早く部屋に戻ることにするわ。そうすればサーシャも読書の時間が取れるもの〉
「お優しいお考えです」

 大好きな相手だから労わりたい。最後まで一緒にいてくれる二人だけは大事にしたい。いつもと変わらない日常のまま終わりたい願いがあるだけ。それは完全なる私欲によるものだと自覚している。優しいからではないし、優しい考えでもない。自分がこんな人間だと知れば二人はどう思うだろう。怖くて口にはできない。

〈今日はマシロを洗う予定なの。一緒に洗ってくれる?〉
「もちろんです。そのあとは散歩ですね。俺も狼になりましょうか?」
〈マシロが怖がるからダメ〉

 狼姿のウォルフはイベリスの全身が埋まるほどふわふわで、触り心地も乗り心地も良くて好きだが、大きすぎるためマシロが怯えてしまう。
 残念だと呟いてマシロを呼び、駆け寄ってきたマシロの全身を混ぜるように撫でるウォルフの元気さに通り過ぎる使用人たちが笑う。

〈ここで大丈夫ですか? もう少し離れた場所でもいいんですよ?〉

 リンウッドが落ちた場所からそれほど離れていない場所でマシロを洗うための道具一式を下ろしたイベリスを気遣うも大丈夫だと言われる。
 聖女や貴族が城の中にいる間、外では手話を使って話すことにしているウォルフが眉を下げるも強制的に引き離すことはしない。

(いつまでも逃げているわけにはいかないと思っているのだろうか。だとすれば間違っている。避けるのは逃げじゃない。向き合わなくていい恐怖だってある。……もっと、感情のままに生きればいいのに……)

 言いたいことをいくつも飲み込む姿を何度も見てきた。声が出ないからこそ突発的にが起こらない。一時停止をかけて考えてから言葉にできる。素晴らしいことだと思うし、ウォルフも見習いたいとさえ思っていた。しかし、その感情と同時に十六歳の少女として生きるべきだと思う気持ちもある。
 堪える必要のない感情を堪え続けて掴んだ幸せは本当に幸せなのかとさえ思ってしまう。

(リンベルで暮らしてたならある程度の寒さには耐性があるだろうし、グラキエスで暮らすのも悪くないだろうに)

 そっちのほうがきっと彼女らしく生きられると思うのに、イベリスはここで暮らすつもりだと断言した。ファーディナンドの感情が少し変わりつつあるように見える今、以前よりは少し安心できるのかもしれないが、どうにも信用ならない部分もある。
 聖女が来てからまた少しイベリスから心が離れつつあるのではないかとすら感じていた。

〈マシロ、今日はふわっふわの日だよ! 泡だけは飛ばさないでね〉

 いつも洗っているとマシロが身体を振って泡と水を飛ばす。髪から足までずぶ濡れになるイベリスをウォルフはいつも『どっちが洗われているのかわからないですね』と大笑いする。
 狼になって守ってと言うのだが、それだけは絶対に聞いてくれない。だからマシロにいつものようにお願いする。聞いてもらえた試しのないお願いを。

「イベリス様、どうぞ」
〈ありがとう!〉

 庭師の一人がホースを持ってきてくれた。笑顔で受け取り、ありがとうの手話をする。それだけは皆が覚えてくれた。笑顔を返してもらえるのが一番嬉しいとマシロを抱きしめて頬擦りをするイベリスの横にしゃがんだウォルフが洗面器の中で石鹸を泡立て始める。石鹸はわざわざウォルフが街まで降りて植物由来の物を買ってきてくれたのだ。
 腕まくりをして水の中で石鹸を泡立てるウォルフを見ているだけでイベリスは面白いと感じる。
 立ち上がって蛇口を捻り、ホースから流れ始めた水をマシロの足元からかけていく。逃げることもせずそこに立っているマシロの賢さをいつも褒める。

「よし、じゃあこれを──」
「ウォルフ」

 後ろから聞こえた声に振り向くとウォルフが慌てて立ち上がる。

「ラルド団長」

 騎士団長が何故ここにと驚いていると手招きをされる。

「イベリス様、団長に呼ばれまして。すぐ戻ってきますので、少しだけ離れても大丈夫ですか?」
〈もちろん。ここでマシロを洗ってるから行って。ウォルフが戻ってくるまでにマシロをピカピカに洗い終えておくから〉
「マシロに洗われないようにしてくださいね」

 もうっ!と足を叩くと片足を跳ねさせる演技をしながら団長の元へ行ったウォルフはそのままそこから少し離れていく。
 全身をしっかり濡らしたらウォルフが泡が山盛りになった泡を両手で掬うように取ったイベリスがマシロに乗せようとしたとき、マシロが急に牙を剥き出しする。

〈マシロ? どうしたの? どこか痛い?〉

 洗われるのは嫌いではないはず。今まで何度も洗ってきたが、一度だって抵抗したことはないし、牙を剥き出しにする顔など見たことすらない。どうしたのかとホースから流れる水で泡を流して頭を撫でようとしたとき、マシロの顔がイベリスの横を一瞬で通り過ぎた。
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