亡き妻を求める皇帝は耳の聞こえない少女を妻にして偽りの愛を誓う

永江寧々

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愛をくれた人

「ロベリアとはパーティーで出会った。華やかな笑顔に目を奪われ、その柔らかな声が耳に焼き付いて離れなかった。その日からロベリアという少女に心を奪われ、何をするにも彼女が思考の真ん中にいた。一目惚れだった。俺から連絡を取り、文通が始まった。時には呼び寄せて会うこともあったが、両親が生きている間はとにかく時間がなかったから手紙でのやり取りが多かった。手紙の中で彼女は幾度となく俺を褒めてくれた。努力している。あなたは偉い。皇帝だからといって誰もが努力するわけではない。重責に耐えてよくやっている。そういう言葉を得るたびに想いは強くなり、出会って半年で俺から結婚を申し込んだ」

 懐かしいと目を細める様子には愛しさが込められており、イベリスは横目でその表情を見ながら小さく微笑む。病で亡くならなければ今も彼はロベリアと幸せな毎日を過ごしていた。彼女も抗えない運命に命を落とした。ロベリアが現れたことも消えたこともファーディナンドの人生を狂わせる大きな要因となった。

「結婚すると報告した日、次期皇帝としての自覚も勉強も足りていないのに結婚など早いと言う親に初めて反抗した。『うるさい! 俺が決めたことに口を出すな!』と怒鳴ったらその日から両親は何も言ってこなくなった。それと同時に全ての教育も終わった。どういうことだと聞いたら親を怒鳴る人間は碌でもない。親を敬うことも知らず、礼儀もない人間がこの国の皇帝として生きることは許さんと言って俺を追い出した」
〈追い出されたけどあなたはテロスで皇帝をやってる。いつ戻ってきたの?〉
「両親が訪問先の国で暗殺されてからだ」

 知らなかった話。家庭教師のアーシャルはそこまで教えてはくれなかった。

「それまではロベリアと二人で暮らしていた。幸せだった。何を失敗してもロベリアは『初めてなんだから』と言ってくれた。『初めてにしては上手よ』とも。食事中に話をしても怒らず、むしろ黙っていると話すつもりがないのかと怒られたぐらいだ。俺にとっては生まれて初めて笑顔の多い生活を送れた日々だった。だが、喧嘩もした。くだらないことでな。喧嘩をしたら抱きしめて謝るだけでいいと教えてくれた。怒っている相手を抱きしめるのはおかしいと言う俺に謝らないほうがずっとおかしいと言った。皇帝とかホームレスとか、大人とか子供とか関係ない。喧嘩をしたら謝る。それで仲直りするんだと。知らなかったことを教えてくれる、欲しかった物を全て与えてくれる彼女を心から愛していた」
〈バブちゃんだったのね、あなた〉
「バブちゃ……」

 メモ帳に書かれた文字に目を瞬かせるも苦笑しながら頷く。褒められたかった。子供のように。それは間違いない。皇帝になることだけを見据えて厳しい教育環境に身を置かせた両親から追放を受け、知らない世界で生きることになっても幸せだったのはロベリアがいたから。親が与えてくれなかった愛情を注がれ、失敗を許され、努力を褒められる。イベリスにとって当たり前だったことがファーディナンドには当たり前ではなかった。
 ロベリアといる世界はとても居心地が良かったのだろう。一歩もその世界から出たくないと思うほどに。当時の記憶を掘り起こす彼の表情がそれを物語っていた。

「手を繋ぎ、抱きしめ合う温もりの心地良さ。笑い合う幸せ。肌を重ねる高揚感。全てロベリアが与えてくれたものだ。両親が亡くなり、皇妃として生きさせなければならないことを伝えても嫌な顔一つせずに『任せて』と言ったんだ。そして彼女は本当に皇妃としてよく努力してくれた。皇族ではない人間にとって皇族のルールは異常で、疎ましいものばかりだっただろうが、文句一つ言わずにやってのけた」

 そう言ったあと、イベリスを見た。

「お前には負担だったろうな、そのことが。比べてはならなかったのに、あのときの俺は……」

 イベリスがかぶりを振る。
 そう反応することがわかっていたからファーディナンドは頷きだけ返す。そして「すまない」とこぼした。

「ロベリアがいたから皇帝として生きることができた。そう思っていたからロベリアが病で倒れ、長くないと知って動揺した。なんとかして助けようと奔走したが、現代医学ではどうにもならなかった。親が亡くなっているのだから妻もいつか亡くなる。そんなことは当たり前に起こり得るのに、俺はどうしてロベリアが、と嘆いた。両親のときは涙を滲ませることすらなかったのに」
〈それはそうよ。だってあなたにとってロベリアは自分の全てだったんだもの〉
「……そうだな。今思えば、怖かったんだ。ロベリアを失えば俺はまた独りになる。味方がいなくなり、誰も褒めてはくれない現実に戻ってしまう。愛のない日常に生きるなんて今更できるのかと。今ならわかるんだ。それら全てが自分のことだけを考えた言葉だったんだとな。お前が言ったとおり、俺はいつも自分のことばかりだった」

 はー、と息を吐き出すファーディナンドが寝転んだまま伸びをする。手を下ろす際に大きく息を吐き出し、目を閉じる。そしてもう一度深呼吸をしてから目を開けた。

「結婚したとき、ロベリアは十六歳だった。今のお前と同じ年齢だ」
(この身体にロベリアが入れば彼が強烈な愛を感じた日のことを再現できるってことね)

 当時はそう思っていたのだろう。張り付けた笑顔で嘘をついてまで手に入れたかったのは実現したいシーンがあるから急いでいた。彼が熱心に手紙を送ってくれたのはロベリアに出しているつもりだったのだと考えるとあのロマンチックな内容も合点がいく。名前ではなく『君』と書かれていたことにも。
 彼の話を聞いて胸の中に生まれた感情があるが、イベリスはそれが何かわからなかった。モヤっとするような感覚が生まれてもスーッとすぐに消えてしまう。苦しいと思えばすぐに軽くなり、落ち込んだり悲しんだり怒ったりと負の感情もない。かといって喜の感情でもない。胸の真ん中に小さな何かがある。わかっているのはそれだけ。

「ロベリアと顔が似ているだけで中身は別人。当然だ。子供でもわかることを俺は理解しようともせず、ロベリアと違うのは何故だと怒りを覚えた。ロベリアと似ているところを見つければ戸惑い、別人に見えれば怒り、比べては暴言を吐き……愚かにもそれら全てが間違いであることに気付きもしなかった。一目惚れだと嘘をついて求婚した男に俺は憎むほど嫌っていた両親のような行為を繰り返していたんだ」

 それに気付いたとき、ゾッとし、そして後悔した。心の底から嫌っていた両親から吐かれて傷ついた言葉をイベリスに吐きかけた。それでもイベリスは逃げ出さず、今日この瞬間もこうして留まってくれている。この優しさにもっと早く気付くべきだった。もっと早く、この想いに気付くべきだった。もっと早く、謝罪すべきだった。

「過去の話をして言い訳がましいと自分で思うのは初めてだ」

 苦笑ばかりのファーディナンドにイベリスは〈いいんじゃない?〉と書いて見せた。

「いいわけないだろう。俺はお前を傷つけ続けたんだぞ」
〈自分勝手なのはあなただけじゃない。私も同じよ〉
「どこだ?」
〈例えば……そうね……皇妃の権限を使っておやつの時間を増やした〉

 ポカンと口を開けるも「なんだそれ」と言って笑うファーディナンドの身体が揺れる。

「それはただのお願いだろう」
〈あの二人なら聞いてくれるだろうなと思って頼んだの〉
「お前は優しい」
〈ロベリアの次ぐらい?〉
「ロベリア以上だ」

 イベリスの驚いた顔に小さく笑いながらメモ帳に手を伸ばしてパタンと閉じさせた。イベリスはそれを目で追うだけでメモ帳を開こうとはせず、むしろその上に自らペンを置いた。
 再び身体を起こしたファーディナンドの目を見つめる。

「だからイベリス」

 続く言葉はわかっている。

「離婚してくれ」

 イベリスが大事だと気付いたからこそ解放しなければと決心したファーディナンドの意思は固い。それはあっという間に訪れてしまう事態を危惧してのことでもあった。イベリスもそれはわかっている。わからないのは、このままロベリアの魂を入れてしまえば皇帝としての威厳も保てるし、国民もロベリアが戻ってきたようだと心から喜ぶ日が来るというのに、ファーディナンドはその道は選ばないこと。
 困ったように笑ったイベリスも身体を起こし、再びメモ帳を開く。ペンが動くのは短かった。はいか、いいえか。覚悟は決めているのに緊張する。ペンを置いたイベリスの手が動き、メモ帳がズイっと顔の前まで突き出される。

「なッ……!?」

 書かれていた言葉に目を見開く。

〈バーカ!〉

 一ページ使って大きな文字で書かれていた言葉。懐かしくすら思えるその言葉にファーディナンドも困った顔をする。

「イベリス」
〈離婚するかどうかは私が決めるって言ったでしょ〉
「イベリス、お前に何度もこの言葉を告げたくはない」
〈言わなきゃいいでしょ〉
「頑なだな」
〈ウォルフとサーシャとマシロとまだまだ一緒にいたの。あなたと居たいから離婚しないわけじゃない。おやすみ〉

 書くだけ書いてポイッとメモ帳とペンを床に放り、背中を向けた。強制的に起こしたところでイベリスはもう話し合いはしないだろうと九ヶ月の間に学んだファーディナンドは相変わらず困った顔のまま身体を横にして天井を見上げる。
 久しぶりに思い出したロベリアとの出会いは今もキラキラと輝く眩しいものだが、今はそれに縋りつこうとは思わなくなった。横を見るな。振り返るな。前を向け。そう自分に言い聞かせるにはあまりにも遅過ぎた。

『生も死も、幸も不幸も、失敗も成功も全てお前が選んだ結果に過ぎない。人を恨むな。自分の愚かさを恨め』

 吐き捨てるように言った父親の言葉。

『この死はあなたたちが選んだものだ』

 葬儀で棺の中で眠る両親を見つめながらそう呟いた自分は彼らに勝った気持ちになっていた。幸せを手に入れ、皇帝の座を手に入れ、誰にも縛られない自由を手に入れた。全ては自分の思いどおり。そう思っていた頃が懐かしくも哀れに思える。
 言葉は自分に返ってくる。愛を伝える資格を手放し、愛されないこの現状も自分が選んだ結果に過ぎない。
 枕もとの明かりを消して真っ暗になった部屋の中で、ファーディナンドはイベリスの寝息を聞きながら全てを失ったあとの生活を想像していた。
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