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知らなかったこと

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 部屋に帰ったクラリッサは全身で感じる疲労感に立っていられず、ベッドに寝転んで四肢を放り出した。

「あーーーーーーーーーーーーーー」

 あまりの疲労感に理由も意味もない声を上げながら何をしているんだと思うが、こうでもしなければ嫌な感情が表に出て爆発してしまいそうだった。

「ッ!? ど、どうぞー」

 使用人を追い払ってはいたが、聞かれてしまったかとノックの音に慌てて身体を起こすと髪を撫でつけて乱れを整えてから返事をする。
 開いたドアから顔を覗かせたのはデイジーだった。

「デイジー、どうしたの?」

 デイジーが部屋を訪ねてきたのは何年ぶりか。七年ぶりかもしれないと驚きと共に喜びが込み上げ、クラリッサはベッドから下りて自らドアを開けてデイジーを中へと招き入れた。
 お茶会に不参加が絶対のデイジーが個人でやってきた。その表情は特別で、今までのように厳しい顔ではない。まるで憑き物が落ちたように感じられた。

「座って」
「あ、うん」

 どこか気まずそうに視線を下方に彷徨わせるが、すぐに出ていくとは言わない。話したいことでもあるのだろうかと向かいのソファーに腰掛けた。

「……今日は……ありがとう」

 絞り出すように告げられた感謝にクラリッサが笑う。

「どういたしまして」

 優しい声に顔を上げたデイジーの瞳に映ったのは声からでも充分に想像できた優しい笑顔。クラリッサの作っていない笑顔があった。

「……どうして、庇ってくれたの?」
「言ったでしょ、大事な妹だからよ」
「でも……私ずっとひどい態度取ってたのに……ひどいこともたくさん言った。それなのにどうして……」

 庇ってもらえるとは思っていなかった。家族全員が呆れ顔で自分を見て、誰もが責め立てるのだと思い込んでいただけに、クラリッサが庇ってくれたのは予想外だった。いつも見ていた真っ直ぐのびた背中。その背中をもう一度見ることになるとは思ってもいなかったデイジーにとって困惑の理由でもあった。

「私が姉で、あなたが妹だから。それ以上の理由が必要?」

 また顔を俯かせてしまうデイジーを見て立ち上がったクラリッサはデイジーの隣に移動して肩を抱く。肩を寄せているせいで小さく感じる身体を抱き寄せればすぐに肩が震えた。

「今日のデイジーは泣き虫さんね」
「だって……だって私のせいでお姉さまの自由がなくなっちゃった! お姉さまがまた自分を犠牲にして……全部私のせいなのに! 私がちゃんと自制してればこんなことにはならなかったのに!」

 泣きじゃくるデイジーをしっかり抱きしめながら震える背中を何度も撫でる。クラリッサは自己犠牲だとは思っていないが、デイジーは違う。事の発端から何から何まで全て自分だけの責任なのにと押し寄せる後悔を吐露する。

「……好きな物ってやめられないでしょ? キャンディやクッキー、クリーム、蜂蜜たっぷりのホットミルクもそう。甘くて美味しい物はどんなに食べても飽きなくて、どんどんどんどん食べたくなっちゃう。恋もきっとそうだったんじゃない? だからやめようと思ってもやめられなくなっちゃった。でもそれは仕方がないことなの。だって、美味しいのが悪いんだもの。食べたいだけ食べれば太っちゃうけど、でもそれを我慢して得るものってなに? 人から褒められる完璧なスタイル? それを手にするために甘い物を諦めたらデイジーは幸せになれた?」
「……なれない。彼といることが幸せなの。彼を諦めたらきっと私、もう二度と恋なんてしないと思う」

 デイジーはもう見つけたのだ、真実の愛を。初めての恋は蕩けるように甘くて病みつきになった。一つ食べ進めるごとにその甘さにハマって抜け出せなくなり、もう二度と手放せなくなってしまった。クラリッサはまだそこまでの感情を経験してはいない。エイベルと会うのが楽しみの一つになっているが、離れる覚悟はできている。だから彼を諦めたらもう二度と恋はしないと言ってしまえるような深みはないのだ。

「だから守りたかったの。私はあなたよりずっと多くの男性と会ってるけど、一度もそういう感情を抱いたことがないから、きっと特別な感情なんだって思った。リズは私よりも先にあなたが彼に抱く愛情の深さに気付いてたのよね。妹が守ってるのに姉の私が守らないでどうするって思ったらお父様を脅してたわ」

 脅しと口にしながらもその表情はまるで少女のようで、舌を出して笑う顔を美しいではなく可愛いとデイジーは思った。

「……お姉さまは……変わってないのよね……」
「そう? これでも随分と大人になったと思ってるけど」
「そうじゃない。そうじゃないの。違う。お姉さまは昔から変わってない。ずっと優しいお姉さまのままなのに……私勝手に勘違いして……」
「勘違い?」

 その“勘違い”が反抗期の始まりだろうかとクラリッサはデイジーの急すぎる態度の変化の理由が知りたいと言葉を待った。

「私の十歳の誕生日にした約束覚えてる?」
「もちろんよ。あなたとのお茶の時間は何があっても優先する」
「でもお姉さまは嘘をついた」

 そう言われるだけのことをした自覚はある。あの頃は今よりもずっと忙しくて、いつ起きていつ眠っていたのかもわからないほどパーティーやレッスンで多忙すぎる日々を送っていた。

「お茶会の予定を手紙で出してもお姉さまは来ない日が増えた。呼びに行ってもお姉さまの傍には必ずお父さまがいて、お茶会なんか頻繁にするんじゃない。姉を太らせたいのかって言われたわ。お姉さまは私にごめんなさいって言うばかりでお茶会の約束なんてなかったみたいに来なくなった」

 デイジーはいつもお茶会を口ではなく手紙に書いて届けてくれていた。使用人に届けさせたり、部屋の前まで来てドアの隙間から入れたりと色々な方法で手紙を出してくれた愛らしい子だった。毎週その手紙を受け取るのが楽しみだったが、クラリッサが自分の意思で人と話ができるようになってからパーティーの開催日を増やしてほしいと要望を受けたことで張り切った父親によって多忙な日々へと突入した。お茶会さえもゆっくりと参加させてもらえないほどに。
 いつもデイジーやリズの手を引いて歩いていた手はいつの間にか父親に引っ張られるようになり、彼女たちの歩幅に合わせて歩いていた足はいつしか小走りが当たり前になった。
 約束したのにと思ってはいた。だからその申し訳なさを謝罪に込めてもデイジーにはそれは謝罪ではなく言い訳のように聞こえていたのだろう。

「お姉さまは私との約束よりパーティーに出るほうが楽しいんだって思うようになったの。チヤホヤされることが嬉しくて、わがままな妹の相手より楽って思ってるんだって……勝手に勘違いしてた」

 反抗期ではなく、約束を破った姉に腹を立てていただけ。怒って、拗ねての長い長い怒りをずっと燻らせていた。それを反抗期だと言って真剣に取り合おうとしなかったせいで七年間も無駄な時間を過ごしてしまったことをクラリッサは後悔していた。もっと早くちゃんと話を聞いていれば、もっと早く関係を修復できていたかもしれないのにと。

「リズとは楽しそうにお茶会するのに私のお茶会は来てくれなかった。誘ってもくれないし」
「誘っても行かないって言われちゃうし……でも、何度でも誘ってみるべきだったのよね。リズが見てたあなたの優しさを私は見てなかった。本当はとても優しい子だって知ってるのにね」

 きっとどこかにサインはあったはずなのにクラリッサは周りの意見に合わせてそれを見ようとしなかった。デイジーが今より大人になればきっとまた昔のように話ができるだろうと安易な考えに浸っていただけで、デイジーに対して真摯な態度を見せることはしてこなかった。

「デイジーは優しいからきっとわかってくれるって思ってたの。そんなわけないのにね。どんなに優しい子だって言われなきゃわからないことはたくさんある。でも私は忙しさを理由にあなたに勝手な期待をして、ちゃんと説明しようとはしなかった。悪いのはあなたじゃないわ」
「でも、今回のことは全部私が悪いの。お姉さまがあんな約束する必要なかったのッ」
「ただの交換条件よ」
「でも……あれのせいでお姉さまはこれからも……」

 父親に出した交換条件は“デイジーの結婚を認めてくれたら今後一切の反抗と脅しはせず、父親の言うとおりに生きる”というものだった。それは横暴な父親の奴隷とになると誓ったようなもので、リズでさえ表情を強ばらせていた。
 父親も迷ってはいたが、それでもこれからクラリッサに何を言っても脅されないことのほうが精神的に楽だと思ったのか、デイジーの結婚を認めることとなった。正確にはデイジーの結婚は無視をするということに。結婚したければ勝手にすればいい。ただし、祝いも何もなしということでデイジーも許された。これからデイジーへの当たりは強くなるだろう。無視であれば関わらないで済むだけラッキーだが、事あるごとに責めるようなことでも言おうものならデイジーは辛い思いをすることになる。それも自業自得だとデイジーは受け入れる覚悟だが、見ているきょうだいもそれはそれで辛いものになる。

「あんなの今までどおり生活する中で口答えと脅しをやめるって言っただけよ。困ったことにはならないわ」
「でも……」
「でもでもでもでも言わないの。二十五歳になったら私もお嫁に行くの。あと十年もないのにあんな条件あってもなくても変わらない。いつもどおり笑ってこの美しさを見せびらかすだけよ」

 自分で言うかとデイジーが笑う。

「美しいって自覚あるんじゃん」
「美人な姉で嬉しいでしょ?」
「姉と妹が美人すぎてコンプレックス抱きまくりなの」
「でも一番早く愛を見つけた」

 胸を張って誇っていいことだとクラリッサが両手でデイジーの頬を包むと照れ臭そうに笑う様子に心から安堵する。

「きっと彼もあなたのその笑顔に惚れたのね」
「やめてよ。別に笑ってないから」

 腕で顔を隠してしまうデイジーをもう一度抱きしめるとデイジーの腕が背中に回ってくる。愛しい愛しい大事な妹。この子を守るためなら脅しというカードを手放すなど怖くもない。
 今までどおり玉座に腰掛けて笑顔でお礼を言うだけ。それがこの家族の平穏に繋がるのだ。それしかできないのだからそれに徹する。その選択に後悔はなかった。

「もう一度、ちゃんと謝らせて」

 立ち上がるために身体を離そうとするデイジーを強く抱きしめることで離さないクラリッサにデイジーは従う。

「もうたくさん謝ったでしょ」
「足りないよ」
「あなたが世界で一番幸せになってくれたらそれでいいの」
「なるわ。絶対なる。お姉さまとリズが守ってくれた幸せだもの」
「じゃあ今度三人でお茶会しましょうね。じっくり聞かせてもらうから」

 これが恋かわからない姉と、まだ恋を知らない妹に守られて愛を手に入れた妹は自分がいかに愚かだったか、いかに恵まれた環境にいたかを知った。
 この愛は真実でなければならない。二人の優しさをムダにするようなことがあってはならない。だからデイジーは約束した。何があろうと必ず幸せになると。
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