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第一歩
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戴冠式から一週間後、エヴァンは街に降りていた。自分の足で歩いて、自分の目で見て、自分の耳で聞かなければ国民の苦しみや望みなどわかるはずがない。貴族たちと何百回会議を繰り返しても国民のための意見など一つも出てこないのだから。
馬車から降りる前にエヴァンはまた手のひらに希望と書いて飲み込む。何か一つでもいいから希望があればと願ってやっているのだ。あれ以来、すっかり癖になってしまった。
「石を投げつけられませんように」
前のスピーチの反響は特になく、勝手なことを言うなと怒っている国民から石を投げられないかだけを心配するエヴァンはお願いしますと願いながら馬車から降りた。
「お、来たぞ」
大歓迎というわけにはいかず、まるで親戚が来たような言い方だが、仰々しくされるよりはずっといいと胸を張るエヴァンの前に一人の男が歩いてきた。お叱りかと緊張のまま待っていると肩を叩かれた。
「こらっ! 誰の肩を叩いている! 触るんじゃない!」
「いや、いいんだ」
護衛が怒るのを止めて男が何か言うのを待っていると笑顔を見せた。
「俺は良いと思うぜ、ダークエルフとの和解」
予想外の言葉にエヴァンの目が見開かれる。
「身体能力が高いんだろ? それに、狩りに長けてる。森で狩りして売りに来てくれりゃあ助かるじゃねぇか。モレノスは肉も魚も土地柄手に入りにくいからよぉ。ダークエルフは商売を知らねぇが、俺らは狩りを知らねぇ。互いに欠けてるとこ補い合えりゃあモレノスはもっと良い国になる。間違いねぇさ」
鼻の奥がツンと痛くなるのを感じた。それでもエヴァンは笑顔を見せ続けた。ありがとうございますと頭を下げて「王様らしくねぇな」と笑われて一緒になって笑う。
「アンタの父親は一度もこうやって顔見せに来たことねぇからな。アンタは今回だけにならないことを願ってる」
「定期的に視察に来ると約束します」
「期待してるぜ」
一つ一つの店を回っていく中で嫌味も言われたが、それを引きずらないで済むほどには良い言葉をたくさんかけてもらった。不安を口にしながらも期待を持っていることを明かす人やダークエルフに興味を持っていることを明かす人。異種族の共存を願うなら結婚も許されるのかとエヴァンより先のことを希望している人もいた。二十年か三十年かかることを予想しての話だったのに「話し合いはいつから始まるんだ?」とさっそく興味を持ってくれている人もいたりしてエヴァンの胸はずっと暖かいままだった。
「ダークエルフは耳が良いんだろ? なら、王様の声も思いも届いてるといいな」
泣きたい気持ちはあれど、いまこうして涙を止めているのは戒めではなく、皆に笑顔を見せたかったから。嬉しい気持ちを笑顔で伝えたかったから。
「いらっしゃいま……」
「デイジー」
「嘘!? え、どうして!?」
「視察だ」
視察がてら、デイジーの店に立ち寄ると元気に働く姿があった。制服姿しか見たことがなかったエヴァンにとって、売り子になって焼きたてのパンを棚に運んでいる姿は新鮮すぎた。
何年振りかと込み上げる愛おしさに声をかけるとくしゃりと顔を歪めて抱きついてきた妹を強く抱きしめた。
「ごめんな、デイジー。守ってやれなくてごめん。わかってやろうとしなくてごめん。味方になってやれなくて……すまなかった」
エヴァンの腕の中で何度も頭を振ってもういいと告げるデイジーの頭に強く唇を押し付けては頬を乗せる。
こんなに愛おしい妹に自分はなぜ優しくできなかったのか。どうして反抗期という言葉で済ませて理解しようとしなかったのか。遅すぎる後悔が込み上げる。
「変わったのね、お兄さま」
「国王だからな」
「お兄さまが国王なんて信じられない」
「いつかはなるってわかってただろ」
「いつかはね。でもこんなに早いと思ってなかったもの」
王位継承権第一のエヴァンが王になることはわかっていたが、あまりにも早いその訪れにデイジーも驚きを隠せないでいた。護衛を引き連れ、陛下と呼ばれる兄は新鮮で不気味でもある。
「ちょっと来てくれる?」
デイジーに腕を引かれて奥へと進んで裏に出る。裏は壁で囲まれていて誰かが入ってこられるような作りではないため店の奥から人が出てこない限りは安全。
「どうした?」
こんな場所まで連れてきた意図はなんだと問いかけるとデイジーは人がいないにも関わらず小声で話す。
「お姉さまに会ったの」
「ッ!? どこでだ!?」
「ここで。お兄さまの戴冠式の日にお姉さまが会いに来てくれたの」
「よく騒ぎにならなかったな」
戴冠式にクラリッサが城下町に居れば騒ぎになるのは間違いない。外に出たことがないクラリッサを間近で見たことがあるのは貴族だけで、平民はいつも遠くから見るだけ。それが手を伸ばせば触れられるほど近くにいれば確実に戴冠式そっちのけでクラリッサを取り囲んで大騒ぎになるはず。それなのに大騒ぎになった場所があったという報告は入っていない。
どうやってクラリッサがここまでやって来たのかと疑問を顔に出すエヴァンにデイジーも笑顔にはなれなかった。
「自分でもおかしなことだとは思うけど、疑わないで聞いてほしいの」
「ああ」
「お姉さまの声が耳元で聞こえて、裏に回ってって言われたの。でも誰もお姉さまの声は聞いてなくて、裏に回るとお姉さまがいたの。透明になるマントみたいなのがあるって言ってたわ」
普通の人間であればデイジーは夢でも見ていたのだろうと呆れるか笑うかだが、エヴァンはそれを疑う余地もないと笑った。
「信じる」
「信じてくれるの?」
「目の前で消えたクラリッサとエイベルを見てるんだ。信じるよ」
深く安堵するデイジーは胸を撫で下ろし、言葉を選ばずに話せると再開させる。
「お兄さまの戴冠式だって聞いてスピーチを聴きに来たみたい」
「クラリッサはスピーチを聴いてたのか?」
「ええ。でも間違ってるって言ってた。犠牲なんかじゃない。守りたいものを守ってただけだって」
「それを自己犠牲って言うんだ……」
クラリッサらしい言葉に思わず苦笑がこぼれる。何もしれやれなかった兄の後悔を否定するクラリッサは家を出ても何一つ変わってはいない。
「人が犠牲にしたって言うのは違うんじゃない?」
「でも後悔してるんだ。お前を守ってやれなかったこと、クラリッサを守ってやれなかったこと……逃げ続けていたこと全部……」
「でもお姉さま言ってた。私は皆が思うほど聖人じゃない。父も兄も脅すような人間が素晴らしい人間であるはずがないからものって」
「確かに脅された」
「当然だけどね」
「まあな」
バラされたくないことを隠していたところを突かれただけで実際に被害は被っていない。脅すだけで実際にそれを父親に告げることは絶対にしなかった。たとえ脅しを無視してもクラリッサは父親に告げ口などしはしなかっただろう。
出来損ないの兄を見捨てず、守らなければならない妹たちを守るために脅していたのであって自分の人生を楽にするためではなかった。
「ダークエルフと和解したいって話をとても喜んでた。お兄さまがそんなこと考えてるなんて知らなかったし、そんな言葉が聞けるなんて思ってもなかったって」
「ひどいな」
「でも私もお姉さまと同じ意見。お兄さまってお父さまの意思をそのまま継ぐものだって思ってたから」
きょうだいでさえそう思っていたのだからひどい兄だったんだと思い知る。
「リズが戦ってたんだ、一人でずっと。俺やウォレン、父上と何度も言い合いをした。それでもリズは負けなかった。お前たちのことを誰よりも大事に思ってるから負けられなかったんだろうな」
「一番泣き虫のくせにね」
父親と言い合いになった日のことを思い出してデイジーの目に涙が滲む。
「あいつに正論ぶちかまされて目が覚めたってとこだ」
「リズのお手柄ね。そういえば、リズの結婚はどうするの?」
「ダニエルがうるさいんだよな。リズを嫁に出すことは迷惑かけることになるからやめとけって」
「過保護なのよね」
「姉離れできてないんだよな、ダニエルは。イルーゴ王子からリズを嫁にもらってもいいって声をかけてもらったが、断った」
「そうなの?」
「リズにはリズの王子様がいるだろうからな」
誰よりも王子様を信じているリズに無理強いをするつもりはなく、結婚したいと言ったときに結婚させるつもりであるためエヴァンは王としても兄としても急かすつもりはなかった。
兄の笑顔も言葉も変わったことにデイジーは誇らしさを感じて笑顔を見せる。
「お前の笑顔を見たのはいつ以来か……」
「ここに来ればいつでも見られるわよ」
「幸せか?」
「ええ、とても」
その言葉が嘘ではないことは笑顔が物語っている。王女がパン屋に嫁いで働いているなど前代未聞だが、あの日、クラリッサが言ったように前代未聞いいじゃないかと今ならエヴァンもそう思える。これは恥でもなんでもなく、むしろ誇りに思うべきことだと思った。
「お兄さまの考えに賛成してる人もいるわ」
「ここに来るまでにいろんな言葉を受けたよ。厳しい言葉も励ましもな」
「頑張らないとね」
「そうだな」
言葉だけでは信頼は得られない。実行して結果を残す。そうして初めて信頼を得られるのだとエヴァンは今回のことで強く実感した。だから父親のように口だけにするつもりはない。
自分の考えに賛成してくれているのは国民の半分以下だろう。ほとんどの貴族が敵に回ったと言っても過言ではない。敵だらけの中で自分が国王としてどこまで戦えるのか想像もつかないが、デイジーの言葉のとおり頑張るしかない。愛する人と一緒になるために愛する国を出て行かざるを得なかった妹のためにも──
「クラリッサは自分の居場所を言ってたか?」
「いいえ。でもこの国がダークエルフと手を取り合えるようになったら戻りたいって言ってたわ」
「なら一層頑張らないとな」
まだダークエルフには接触していない。どうやって接触するべきなのか迷っているところだ。声が聞こえていて、彼らにも何か思うところがあればいいが、それはわからない。でもだからと逃げ腰でもいられない。だからエヴァンは笑顔を見せる。
「ああ、だからか……」
「何が?」
クラリッサがいつだって笑顔を見せ続けた理由が今ようやく理解できた。笑顔を見せていなければ皆が不安になり心配するからだ。肩に背負っているものがあればあるだけ笑顔を見せ続けなければならなくなる。それはもはや義務に近いものとなり、嫌でも張り付けなければならないのだ。
自分もこれからそうなる。疲れていても疲れていないふりをして笑顔を見せる。そうして自分に気合いを入れると共に言い聞かせるのだと。
辛かっただろう──その一言しか出てこない。そんな言葉は慰めにもならないとわかっているが、そんな言葉しか出てこなかった。それ以上の言葉があったとして、何十年と続けてきたクラリッサに容易にかけられるものではないとわかってもいるから。
「また来るとか言ってたか?」
「ええ、会いに来るって」
「なら伝えといてくれ」
エヴァンが今、妹に最も伝えたい言葉。
「お前たちが見本となれってな」
どういう意味だと首を傾げてエヴァンの顔を見つめていたデイジーだが、意図がわかると表情を明るめて「それいいね!」と声を上げた。
「当たり前に受け入れてもらえるわけじゃないとわかっているが、国の端にでも家を建ててそこで暮らす。仕事も受け入れてくれる人を募集すればいいんだ。クラリッサもお前のように働くことを願うだろうし」
「でもこの近所にパン屋だけは建てさせない。絶対にうちには来なくなるから」
「はははっ! そうだな」
本当にそうなればいいとデイジーも願っている。
父親による束縛はもうない。自由に外を歩いても誰も咎めることはしないのだ。愛する人と手を繋いで歩き回っていい世界にいる。遺恨さえなければダークエルフは脅威でもなんでもなく、共存し合える生き物だと教えてやってほしいと。
なにより、姉が女として幸せそうに笑う笑顔が見たかった。
「伝えとく」
「頼んだぞ。ああ、それからもう一つ」
一歩踏み出した足を止めて人差し指を立てて振り返ったエヴァン。
「妹を嫁にもらうのに挨拶一つなしかってエイベルに伝えろって言っといてくれ」
「まずは撃ったこと謝るのが先じゃない?」
「うっ……!」
「でも伝えとく。来るといいね、挨拶に」
「妹はやらん!って言いたかったけどな」
「もうあげちゃったしね」
肩を竦めるエヴァンの真似をして肩を竦めるデイジーはこの一年で今日が一番幸せだった。
家を出てからのことは何も知らず気にすることしかできなかった。精神的に落ち込むこともあり、エヴァンのスピーチを聞いたときはショックで失神しそうになった。自分だけが楽な道を選んでしまったのだと、家に帰って咽び泣いた。枕に顔を押し付けながら何度も謝罪の言葉を叫んだ。
でも今日、一つ進んだような気がして嬉しかった。まずは一歩踏み出すこと、それを恐れずに進もうとする兄の背中を強く叩くと驚いた顔が見えた。
「頑張ってくださいね、陛下」
「ああ、任せておけ」
去っていく背中が遠くなっていく寂しさを感じながらもエヴァンは決して父親の二の舞になることはないだろうと確信があった。傍で妹として支えてやることはできなくても、一国民として支えることはできる。何があろうと支持することはやめない。
馬車に乗って手を上げる兄に手を振りながら見送れば、引っ込んだはずの涙がまたじわりと滲んできた。
「頑張れ」
国王としてできること、その第一歩を踏み出したエヴァンに小さな声援を送った。
馬車から降りる前にエヴァンはまた手のひらに希望と書いて飲み込む。何か一つでもいいから希望があればと願ってやっているのだ。あれ以来、すっかり癖になってしまった。
「石を投げつけられませんように」
前のスピーチの反響は特になく、勝手なことを言うなと怒っている国民から石を投げられないかだけを心配するエヴァンはお願いしますと願いながら馬車から降りた。
「お、来たぞ」
大歓迎というわけにはいかず、まるで親戚が来たような言い方だが、仰々しくされるよりはずっといいと胸を張るエヴァンの前に一人の男が歩いてきた。お叱りかと緊張のまま待っていると肩を叩かれた。
「こらっ! 誰の肩を叩いている! 触るんじゃない!」
「いや、いいんだ」
護衛が怒るのを止めて男が何か言うのを待っていると笑顔を見せた。
「俺は良いと思うぜ、ダークエルフとの和解」
予想外の言葉にエヴァンの目が見開かれる。
「身体能力が高いんだろ? それに、狩りに長けてる。森で狩りして売りに来てくれりゃあ助かるじゃねぇか。モレノスは肉も魚も土地柄手に入りにくいからよぉ。ダークエルフは商売を知らねぇが、俺らは狩りを知らねぇ。互いに欠けてるとこ補い合えりゃあモレノスはもっと良い国になる。間違いねぇさ」
鼻の奥がツンと痛くなるのを感じた。それでもエヴァンは笑顔を見せ続けた。ありがとうございますと頭を下げて「王様らしくねぇな」と笑われて一緒になって笑う。
「アンタの父親は一度もこうやって顔見せに来たことねぇからな。アンタは今回だけにならないことを願ってる」
「定期的に視察に来ると約束します」
「期待してるぜ」
一つ一つの店を回っていく中で嫌味も言われたが、それを引きずらないで済むほどには良い言葉をたくさんかけてもらった。不安を口にしながらも期待を持っていることを明かす人やダークエルフに興味を持っていることを明かす人。異種族の共存を願うなら結婚も許されるのかとエヴァンより先のことを希望している人もいた。二十年か三十年かかることを予想しての話だったのに「話し合いはいつから始まるんだ?」とさっそく興味を持ってくれている人もいたりしてエヴァンの胸はずっと暖かいままだった。
「ダークエルフは耳が良いんだろ? なら、王様の声も思いも届いてるといいな」
泣きたい気持ちはあれど、いまこうして涙を止めているのは戒めではなく、皆に笑顔を見せたかったから。嬉しい気持ちを笑顔で伝えたかったから。
「いらっしゃいま……」
「デイジー」
「嘘!? え、どうして!?」
「視察だ」
視察がてら、デイジーの店に立ち寄ると元気に働く姿があった。制服姿しか見たことがなかったエヴァンにとって、売り子になって焼きたてのパンを棚に運んでいる姿は新鮮すぎた。
何年振りかと込み上げる愛おしさに声をかけるとくしゃりと顔を歪めて抱きついてきた妹を強く抱きしめた。
「ごめんな、デイジー。守ってやれなくてごめん。わかってやろうとしなくてごめん。味方になってやれなくて……すまなかった」
エヴァンの腕の中で何度も頭を振ってもういいと告げるデイジーの頭に強く唇を押し付けては頬を乗せる。
こんなに愛おしい妹に自分はなぜ優しくできなかったのか。どうして反抗期という言葉で済ませて理解しようとしなかったのか。遅すぎる後悔が込み上げる。
「変わったのね、お兄さま」
「国王だからな」
「お兄さまが国王なんて信じられない」
「いつかはなるってわかってただろ」
「いつかはね。でもこんなに早いと思ってなかったもの」
王位継承権第一のエヴァンが王になることはわかっていたが、あまりにも早いその訪れにデイジーも驚きを隠せないでいた。護衛を引き連れ、陛下と呼ばれる兄は新鮮で不気味でもある。
「ちょっと来てくれる?」
デイジーに腕を引かれて奥へと進んで裏に出る。裏は壁で囲まれていて誰かが入ってこられるような作りではないため店の奥から人が出てこない限りは安全。
「どうした?」
こんな場所まで連れてきた意図はなんだと問いかけるとデイジーは人がいないにも関わらず小声で話す。
「お姉さまに会ったの」
「ッ!? どこでだ!?」
「ここで。お兄さまの戴冠式の日にお姉さまが会いに来てくれたの」
「よく騒ぎにならなかったな」
戴冠式にクラリッサが城下町に居れば騒ぎになるのは間違いない。外に出たことがないクラリッサを間近で見たことがあるのは貴族だけで、平民はいつも遠くから見るだけ。それが手を伸ばせば触れられるほど近くにいれば確実に戴冠式そっちのけでクラリッサを取り囲んで大騒ぎになるはず。それなのに大騒ぎになった場所があったという報告は入っていない。
どうやってクラリッサがここまでやって来たのかと疑問を顔に出すエヴァンにデイジーも笑顔にはなれなかった。
「自分でもおかしなことだとは思うけど、疑わないで聞いてほしいの」
「ああ」
「お姉さまの声が耳元で聞こえて、裏に回ってって言われたの。でも誰もお姉さまの声は聞いてなくて、裏に回るとお姉さまがいたの。透明になるマントみたいなのがあるって言ってたわ」
普通の人間であればデイジーは夢でも見ていたのだろうと呆れるか笑うかだが、エヴァンはそれを疑う余地もないと笑った。
「信じる」
「信じてくれるの?」
「目の前で消えたクラリッサとエイベルを見てるんだ。信じるよ」
深く安堵するデイジーは胸を撫で下ろし、言葉を選ばずに話せると再開させる。
「お兄さまの戴冠式だって聞いてスピーチを聴きに来たみたい」
「クラリッサはスピーチを聴いてたのか?」
「ええ。でも間違ってるって言ってた。犠牲なんかじゃない。守りたいものを守ってただけだって」
「それを自己犠牲って言うんだ……」
クラリッサらしい言葉に思わず苦笑がこぼれる。何もしれやれなかった兄の後悔を否定するクラリッサは家を出ても何一つ変わってはいない。
「人が犠牲にしたって言うのは違うんじゃない?」
「でも後悔してるんだ。お前を守ってやれなかったこと、クラリッサを守ってやれなかったこと……逃げ続けていたこと全部……」
「でもお姉さま言ってた。私は皆が思うほど聖人じゃない。父も兄も脅すような人間が素晴らしい人間であるはずがないからものって」
「確かに脅された」
「当然だけどね」
「まあな」
バラされたくないことを隠していたところを突かれただけで実際に被害は被っていない。脅すだけで実際にそれを父親に告げることは絶対にしなかった。たとえ脅しを無視してもクラリッサは父親に告げ口などしはしなかっただろう。
出来損ないの兄を見捨てず、守らなければならない妹たちを守るために脅していたのであって自分の人生を楽にするためではなかった。
「ダークエルフと和解したいって話をとても喜んでた。お兄さまがそんなこと考えてるなんて知らなかったし、そんな言葉が聞けるなんて思ってもなかったって」
「ひどいな」
「でも私もお姉さまと同じ意見。お兄さまってお父さまの意思をそのまま継ぐものだって思ってたから」
きょうだいでさえそう思っていたのだからひどい兄だったんだと思い知る。
「リズが戦ってたんだ、一人でずっと。俺やウォレン、父上と何度も言い合いをした。それでもリズは負けなかった。お前たちのことを誰よりも大事に思ってるから負けられなかったんだろうな」
「一番泣き虫のくせにね」
父親と言い合いになった日のことを思い出してデイジーの目に涙が滲む。
「あいつに正論ぶちかまされて目が覚めたってとこだ」
「リズのお手柄ね。そういえば、リズの結婚はどうするの?」
「ダニエルがうるさいんだよな。リズを嫁に出すことは迷惑かけることになるからやめとけって」
「過保護なのよね」
「姉離れできてないんだよな、ダニエルは。イルーゴ王子からリズを嫁にもらってもいいって声をかけてもらったが、断った」
「そうなの?」
「リズにはリズの王子様がいるだろうからな」
誰よりも王子様を信じているリズに無理強いをするつもりはなく、結婚したいと言ったときに結婚させるつもりであるためエヴァンは王としても兄としても急かすつもりはなかった。
兄の笑顔も言葉も変わったことにデイジーは誇らしさを感じて笑顔を見せる。
「お前の笑顔を見たのはいつ以来か……」
「ここに来ればいつでも見られるわよ」
「幸せか?」
「ええ、とても」
その言葉が嘘ではないことは笑顔が物語っている。王女がパン屋に嫁いで働いているなど前代未聞だが、あの日、クラリッサが言ったように前代未聞いいじゃないかと今ならエヴァンもそう思える。これは恥でもなんでもなく、むしろ誇りに思うべきことだと思った。
「お兄さまの考えに賛成してる人もいるわ」
「ここに来るまでにいろんな言葉を受けたよ。厳しい言葉も励ましもな」
「頑張らないとね」
「そうだな」
言葉だけでは信頼は得られない。実行して結果を残す。そうして初めて信頼を得られるのだとエヴァンは今回のことで強く実感した。だから父親のように口だけにするつもりはない。
自分の考えに賛成してくれているのは国民の半分以下だろう。ほとんどの貴族が敵に回ったと言っても過言ではない。敵だらけの中で自分が国王としてどこまで戦えるのか想像もつかないが、デイジーの言葉のとおり頑張るしかない。愛する人と一緒になるために愛する国を出て行かざるを得なかった妹のためにも──
「クラリッサは自分の居場所を言ってたか?」
「いいえ。でもこの国がダークエルフと手を取り合えるようになったら戻りたいって言ってたわ」
「なら一層頑張らないとな」
まだダークエルフには接触していない。どうやって接触するべきなのか迷っているところだ。声が聞こえていて、彼らにも何か思うところがあればいいが、それはわからない。でもだからと逃げ腰でもいられない。だからエヴァンは笑顔を見せる。
「ああ、だからか……」
「何が?」
クラリッサがいつだって笑顔を見せ続けた理由が今ようやく理解できた。笑顔を見せていなければ皆が不安になり心配するからだ。肩に背負っているものがあればあるだけ笑顔を見せ続けなければならなくなる。それはもはや義務に近いものとなり、嫌でも張り付けなければならないのだ。
自分もこれからそうなる。疲れていても疲れていないふりをして笑顔を見せる。そうして自分に気合いを入れると共に言い聞かせるのだと。
辛かっただろう──その一言しか出てこない。そんな言葉は慰めにもならないとわかっているが、そんな言葉しか出てこなかった。それ以上の言葉があったとして、何十年と続けてきたクラリッサに容易にかけられるものではないとわかってもいるから。
「また来るとか言ってたか?」
「ええ、会いに来るって」
「なら伝えといてくれ」
エヴァンが今、妹に最も伝えたい言葉。
「お前たちが見本となれってな」
どういう意味だと首を傾げてエヴァンの顔を見つめていたデイジーだが、意図がわかると表情を明るめて「それいいね!」と声を上げた。
「当たり前に受け入れてもらえるわけじゃないとわかっているが、国の端にでも家を建ててそこで暮らす。仕事も受け入れてくれる人を募集すればいいんだ。クラリッサもお前のように働くことを願うだろうし」
「でもこの近所にパン屋だけは建てさせない。絶対にうちには来なくなるから」
「はははっ! そうだな」
本当にそうなればいいとデイジーも願っている。
父親による束縛はもうない。自由に外を歩いても誰も咎めることはしないのだ。愛する人と手を繋いで歩き回っていい世界にいる。遺恨さえなければダークエルフは脅威でもなんでもなく、共存し合える生き物だと教えてやってほしいと。
なにより、姉が女として幸せそうに笑う笑顔が見たかった。
「伝えとく」
「頼んだぞ。ああ、それからもう一つ」
一歩踏み出した足を止めて人差し指を立てて振り返ったエヴァン。
「妹を嫁にもらうのに挨拶一つなしかってエイベルに伝えろって言っといてくれ」
「まずは撃ったこと謝るのが先じゃない?」
「うっ……!」
「でも伝えとく。来るといいね、挨拶に」
「妹はやらん!って言いたかったけどな」
「もうあげちゃったしね」
肩を竦めるエヴァンの真似をして肩を竦めるデイジーはこの一年で今日が一番幸せだった。
家を出てからのことは何も知らず気にすることしかできなかった。精神的に落ち込むこともあり、エヴァンのスピーチを聞いたときはショックで失神しそうになった。自分だけが楽な道を選んでしまったのだと、家に帰って咽び泣いた。枕に顔を押し付けながら何度も謝罪の言葉を叫んだ。
でも今日、一つ進んだような気がして嬉しかった。まずは一歩踏み出すこと、それを恐れずに進もうとする兄の背中を強く叩くと驚いた顔が見えた。
「頑張ってくださいね、陛下」
「ああ、任せておけ」
去っていく背中が遠くなっていく寂しさを感じながらもエヴァンは決して父親の二の舞になることはないだろうと確信があった。傍で妹として支えてやることはできなくても、一国民として支えることはできる。何があろうと支持することはやめない。
馬車に乗って手を上げる兄に手を振りながら見送れば、引っ込んだはずの涙がまたじわりと滲んできた。
「頑張れ」
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