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野菜畑で
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まだ朝を迎えさせない夜が居座る薄暗い中、外の気温を言葉なく吐き出される白い息で語りながらベッドから抜け出す女がいた。
寝癖がついた短い髪を乱暴に撫でつけたあと、その行為を髪を掻き乱すことで自ら台無しにする。
部屋の中でさえ白い息が出るほど寒いというのにベッドの上にあるのは薄い毛布一枚。肌着も付けず下着だけだが身震いは出ない。この骨まで凍えそうなほどの寒さに身体はすっかり慣れてしまった。
立ち上がるとボロボロのマットレスがギシッと音を立て、歩くと今度は床がギシッと音を立てる。そろそろ床板を張り替えなければそのうち抜けそうだと三年前から思いながらも腐りかけの板を慣れたように避けて歩く。
これまた部屋に合う古い椅子に投げかけられた本来白いはずのズボンを手に取って足を通す。油やソースでどうせ汚れるからと洗濯したのはいつだったかと思い出すのも面倒くさい。
中に肌着も身につけずコックコートを羽織るだけにし、床と同じく体重がかかる度に軋む階段を降りていく。
見慣れた光景。毎朝同じ光景を見るのに飽きずに表情が緩む。
奥にある厨房に入るとまず電気をつけ、それからコックコートのボタンを閉める。目を閉じれば立ったままでも眠れそうな、まだぼんやりとした頭の中で今日の限定メニューを考えるが当然浮かばない。
厨房の壁にかかっている時計を見上げ、二階にある自室のベッドに倒れ込んだのは何時間前だと確認する。日付が変わってから一時間過ぎた頃に二階に上がった。ベッドの横に置いてあるサイドテーブルの上には七年前からそこに鎮座する針の下でクルクルと回り続けるメリーゴーランドがついた置時計。趣味じゃない。でもアレは七年前からずっとそこで女に時間を知らせ続けている。時折、持ち主の望みを叶えるように針を止めながら。
睡眠薬代わりにグラス一杯のウイスキーを飲んでベッドに倒れた。ロックで飲んだところで睡眠薬代わりになるはずはない。酔い潰れるためにはその十倍は飲まなければならない。
少し飲んだだけなのに頬は朱に染まり、足元はフラフラ、なんて愛らしい時代は女にはなかった。初めて飲んだ酒はあまりのマズさに吐き出した。それなのに酒を口にするのはやめられず、気が付けば多少の酒では酔えなくなっていたし、生きていく上で酒は欠かせない物になっていた。
女にとって寝る前に酒を飲むのは寝るためのおまじないのようなもの。服を脱ぎ、ベッドに腰掛けたらグラスに酒を注ぐ。あと少し注げば溢れてしまう手前で止めたら一気に呷る。そしたら眠れなくてもベッドに横になって目を閉じる。
いつ作ったのかもわからないルールに従って七年。昨日も……いや、今日もそうした。そして明日もそうする。
目を閉じたのが一時半だった。それからいつ眠ったのかわからない。眠れていたとしても二時間半。いつもどおりだと時計から視線を外した。
冷蔵庫から取り出した肉塊を抱えてドンッと音を立てて調理台に置く。その音こそ女をハッキリ目覚めさせるもの。
「今日も頼むぞ」
朝一番に口にする言葉。
これも七年前からのマイルール。
「カーッ! 忙しかったなー!」
ランチタイムが終わると一旦Closedになる店の中でようやく昼休憩を取れる従業員たちが毎日同じ言葉を口にする。その顔に不満はなく、むしろ笑顔でさえあった。
この店に新人はおらず、シェフの肩書を持って三十年以上になるベテランばかり。
「ジルヴァ、賄い食わねぇとなくなっちまうぞ」
「全部食うなよ。残ってなかったら全員の金玉切り落とすからな」
「俺らもかよ」
ゲラゲラと大笑いしながら賄いをテーブルに運ぶ男たちの声を背に店の裏に出ていく。
昼休憩に入るとジルヴァは空腹を満たすより先に一服しに行く。店内は禁煙。それは店主であろうと特別扱いはない。
ドアを開ければ店よりも広い畑が広がっている。その中には店で使う野菜が成長を自慢するように土から顔を出し、採れ時期を告げていた。
ズボンのポケットから煙草を取り出して一本咥え、金色のジッポ火をつける。吸い上げることで先が燃えて赤くなり、吐き出すことで紫煙が視界を覆う。
今日もよく晴れている。澄み渡る真っ青な青空の上をジルヴァのベッドのシーツよりも白い雲が流れていく。吐き出すのは紫煙か吐く息か。太陽がどれほど顔を出していようと指先を真っ赤に染める寒さは消えない。それでもジルヴァは外に出て煙草を吸う。一日二本と決めているうちの一本。味わうように肺まで吸い込んで惜しむように少量吐き出すのがジルヴァのやり方。
「いー天気だな」
手は真っ赤になるほど寒く、肌を刺すような痛みの中で吸う煙草が好きだ。晴れていれば尚良い。気分が良くなる。最高の一日だとさえ言える。
トントンと親指で吸い口を叩いて灰を落とす。あっという間に短くなってしまうのが惜しい。だから後半は頻繁には吸わず、口の中に広がる煙草の味を噛み締めることに費やす。
目を閉じ、空を仰ぐ。身体は火照っていないのに吹き抜ける風が気持ちいい。だが、もうすぐ雪が降るだろう。雪が降るとこの景色とも暫くお別れ。暗い雪雲が広がる陰気臭い空を見ることになる。ジルヴァはあの空が嫌いだった。呼吸もしたくないほどに。
「ジルヴァ! キャベツが少ねぇぞ!」
「オージ! 気付いた奴が取りに行けっていつも言ってんだろうが!」
中から声だけかけてくる男に怒鳴るも「畑の前にいるんだからいいだろ!」と返されると断る理由もなく、煙草を咥えて一気に吸い上げ、灰にしてから短くなったそれを灰皿に押し付けて立ち上がった。
「あ?」
いつもならそのまま畑に入ってキャベツを五玉ほど抱えて戻るのだが、今日は違う光景に動きが止まる。
「あ……ああ……」
畑の中に子供がいる。今から収穫しようと思っていたキャベツを両手に抱えながらジルヴァと合った目を逸せないまま怯えた表情に変わっていく。漏れる声は震え、両手に抱えていたキャベツ二つを土の上に落として逃げようか迷っているようだった。
「おい」
「ヒッ!」
上品とは程遠い声の掛け方と女性らしさのない声に天から吊るされているかのように背筋を伸ばした少年が短い悲鳴を上げる。
逃げるなら今しかない。今しかないのに恐怖で足が動かない。挙動不審に辺りを見回すだけ。
「お前、何してんだ?」
凄むジルヴァの迫力に涙を滲ませながらその場にしゃがみ込んで頭を抱える。殴られる!そう思っているのが伝わってくる怯え方だ。
「ごめんなさい! ごめんなさい! ごめんなさい! ごめんなさい!」
この少年は殴られる恐怖を知っている。腹の底から声を出して謝る少年の小さな身体が大袈裟なほど震える。土を踏む足は靴を履いていない。音を立てないためかと周りを見てもそれらしい物はない。盗むのに靴を脱ぐバカはいない。
「ごめんなさい! ごめんなさい! ごめんなさい! ごめんなさい!」
必死で謝る少年の口から「許してください」は出てこない。殴られることを知っている人間は許してくれと言ったところで許されないことを知っているから謝ることに徹する。
見たところまだ十歳前後。親に守られるべき存在が既に身に染みるほど覚えてしまっている。痛々しい光景だ。
ジルヴァは謝罪を続ける少年の首根っこを掴んで持ち上げ、強制的に店の中へと連れて入る。店に近くなると少年の声が小さくなる。親に噛まれて移動する子猫のように大人しくなった。
店の中にいた従業員たちの視線を受けるも俯いている少年は気付いていない。誰一人少年が想像している表情をしていないことに。
「あうっ!」
椅子の上で手を離され、尻が座面に直撃する。強打した痛みに声を漏らすも俯いた顔は上げられない。乱暴な手つき。怒っている。
「逃げんじゃねぇぞ」
それを如実に表す声色と言い方に少年はビクッと肩を跳ねさせ、逃げることなど考えられず小刻みに震えて待つしかできなかった。
寝癖がついた短い髪を乱暴に撫でつけたあと、その行為を髪を掻き乱すことで自ら台無しにする。
部屋の中でさえ白い息が出るほど寒いというのにベッドの上にあるのは薄い毛布一枚。肌着も付けず下着だけだが身震いは出ない。この骨まで凍えそうなほどの寒さに身体はすっかり慣れてしまった。
立ち上がるとボロボロのマットレスがギシッと音を立て、歩くと今度は床がギシッと音を立てる。そろそろ床板を張り替えなければそのうち抜けそうだと三年前から思いながらも腐りかけの板を慣れたように避けて歩く。
これまた部屋に合う古い椅子に投げかけられた本来白いはずのズボンを手に取って足を通す。油やソースでどうせ汚れるからと洗濯したのはいつだったかと思い出すのも面倒くさい。
中に肌着も身につけずコックコートを羽織るだけにし、床と同じく体重がかかる度に軋む階段を降りていく。
見慣れた光景。毎朝同じ光景を見るのに飽きずに表情が緩む。
奥にある厨房に入るとまず電気をつけ、それからコックコートのボタンを閉める。目を閉じれば立ったままでも眠れそうな、まだぼんやりとした頭の中で今日の限定メニューを考えるが当然浮かばない。
厨房の壁にかかっている時計を見上げ、二階にある自室のベッドに倒れ込んだのは何時間前だと確認する。日付が変わってから一時間過ぎた頃に二階に上がった。ベッドの横に置いてあるサイドテーブルの上には七年前からそこに鎮座する針の下でクルクルと回り続けるメリーゴーランドがついた置時計。趣味じゃない。でもアレは七年前からずっとそこで女に時間を知らせ続けている。時折、持ち主の望みを叶えるように針を止めながら。
睡眠薬代わりにグラス一杯のウイスキーを飲んでベッドに倒れた。ロックで飲んだところで睡眠薬代わりになるはずはない。酔い潰れるためにはその十倍は飲まなければならない。
少し飲んだだけなのに頬は朱に染まり、足元はフラフラ、なんて愛らしい時代は女にはなかった。初めて飲んだ酒はあまりのマズさに吐き出した。それなのに酒を口にするのはやめられず、気が付けば多少の酒では酔えなくなっていたし、生きていく上で酒は欠かせない物になっていた。
女にとって寝る前に酒を飲むのは寝るためのおまじないのようなもの。服を脱ぎ、ベッドに腰掛けたらグラスに酒を注ぐ。あと少し注げば溢れてしまう手前で止めたら一気に呷る。そしたら眠れなくてもベッドに横になって目を閉じる。
いつ作ったのかもわからないルールに従って七年。昨日も……いや、今日もそうした。そして明日もそうする。
目を閉じたのが一時半だった。それからいつ眠ったのかわからない。眠れていたとしても二時間半。いつもどおりだと時計から視線を外した。
冷蔵庫から取り出した肉塊を抱えてドンッと音を立てて調理台に置く。その音こそ女をハッキリ目覚めさせるもの。
「今日も頼むぞ」
朝一番に口にする言葉。
これも七年前からのマイルール。
「カーッ! 忙しかったなー!」
ランチタイムが終わると一旦Closedになる店の中でようやく昼休憩を取れる従業員たちが毎日同じ言葉を口にする。その顔に不満はなく、むしろ笑顔でさえあった。
この店に新人はおらず、シェフの肩書を持って三十年以上になるベテランばかり。
「ジルヴァ、賄い食わねぇとなくなっちまうぞ」
「全部食うなよ。残ってなかったら全員の金玉切り落とすからな」
「俺らもかよ」
ゲラゲラと大笑いしながら賄いをテーブルに運ぶ男たちの声を背に店の裏に出ていく。
昼休憩に入るとジルヴァは空腹を満たすより先に一服しに行く。店内は禁煙。それは店主であろうと特別扱いはない。
ドアを開ければ店よりも広い畑が広がっている。その中には店で使う野菜が成長を自慢するように土から顔を出し、採れ時期を告げていた。
ズボンのポケットから煙草を取り出して一本咥え、金色のジッポ火をつける。吸い上げることで先が燃えて赤くなり、吐き出すことで紫煙が視界を覆う。
今日もよく晴れている。澄み渡る真っ青な青空の上をジルヴァのベッドのシーツよりも白い雲が流れていく。吐き出すのは紫煙か吐く息か。太陽がどれほど顔を出していようと指先を真っ赤に染める寒さは消えない。それでもジルヴァは外に出て煙草を吸う。一日二本と決めているうちの一本。味わうように肺まで吸い込んで惜しむように少量吐き出すのがジルヴァのやり方。
「いー天気だな」
手は真っ赤になるほど寒く、肌を刺すような痛みの中で吸う煙草が好きだ。晴れていれば尚良い。気分が良くなる。最高の一日だとさえ言える。
トントンと親指で吸い口を叩いて灰を落とす。あっという間に短くなってしまうのが惜しい。だから後半は頻繁には吸わず、口の中に広がる煙草の味を噛み締めることに費やす。
目を閉じ、空を仰ぐ。身体は火照っていないのに吹き抜ける風が気持ちいい。だが、もうすぐ雪が降るだろう。雪が降るとこの景色とも暫くお別れ。暗い雪雲が広がる陰気臭い空を見ることになる。ジルヴァはあの空が嫌いだった。呼吸もしたくないほどに。
「ジルヴァ! キャベツが少ねぇぞ!」
「オージ! 気付いた奴が取りに行けっていつも言ってんだろうが!」
中から声だけかけてくる男に怒鳴るも「畑の前にいるんだからいいだろ!」と返されると断る理由もなく、煙草を咥えて一気に吸い上げ、灰にしてから短くなったそれを灰皿に押し付けて立ち上がった。
「あ?」
いつもならそのまま畑に入ってキャベツを五玉ほど抱えて戻るのだが、今日は違う光景に動きが止まる。
「あ……ああ……」
畑の中に子供がいる。今から収穫しようと思っていたキャベツを両手に抱えながらジルヴァと合った目を逸せないまま怯えた表情に変わっていく。漏れる声は震え、両手に抱えていたキャベツ二つを土の上に落として逃げようか迷っているようだった。
「おい」
「ヒッ!」
上品とは程遠い声の掛け方と女性らしさのない声に天から吊るされているかのように背筋を伸ばした少年が短い悲鳴を上げる。
逃げるなら今しかない。今しかないのに恐怖で足が動かない。挙動不審に辺りを見回すだけ。
「お前、何してんだ?」
凄むジルヴァの迫力に涙を滲ませながらその場にしゃがみ込んで頭を抱える。殴られる!そう思っているのが伝わってくる怯え方だ。
「ごめんなさい! ごめんなさい! ごめんなさい! ごめんなさい!」
この少年は殴られる恐怖を知っている。腹の底から声を出して謝る少年の小さな身体が大袈裟なほど震える。土を踏む足は靴を履いていない。音を立てないためかと周りを見てもそれらしい物はない。盗むのに靴を脱ぐバカはいない。
「ごめんなさい! ごめんなさい! ごめんなさい! ごめんなさい!」
必死で謝る少年の口から「許してください」は出てこない。殴られることを知っている人間は許してくれと言ったところで許されないことを知っているから謝ることに徹する。
見たところまだ十歳前後。親に守られるべき存在が既に身に染みるほど覚えてしまっている。痛々しい光景だ。
ジルヴァは謝罪を続ける少年の首根っこを掴んで持ち上げ、強制的に店の中へと連れて入る。店に近くなると少年の声が小さくなる。親に噛まれて移動する子猫のように大人しくなった。
店の中にいた従業員たちの視線を受けるも俯いている少年は気付いていない。誰一人少年が想像している表情をしていないことに。
「あうっ!」
椅子の上で手を離され、尻が座面に直撃する。強打した痛みに声を漏らすも俯いた顔は上げられない。乱暴な手つき。怒っている。
「逃げんじゃねぇぞ」
それを如実に表す声色と言い方に少年はビクッと肩を跳ねさせ、逃げることなど考えられず小刻みに震えて待つしかできなかった。
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