十歳で運命の相手を見つけた少年は小さな幸せを夢見る

永江寧々

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想い人

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 まだ幼い妹二人の手を引いて歩くには暗すぎる道。五十メートル、下手すればもっと長い距離に一本ぐらいしかない街灯を頼りに前に進む。
 冬はあまり好きじゃない。暗くなるのが早いし、道路が冷たい。早く足を動かさなければ足の裏と地面がくっついてしまいそうだから。

「おにーちゃん、あしいたい」
「ミーナもあしいたい」

 まだ五歳にも満たない妹たちには夜道はひどく冷たいものだが、それは手を引いて歩いているディルも同じだった。
 狭い路地を通る間、極力、顔を上げないようにしている。壁にもたれかかっている薄汚れたひどく臭う服を見に纏う男たちと目を合わせたら何が起こるかわからない。ない金で買った酒瓶片手に闇夜の中でしか強く出られない弱者だとわかっていても体格の差がある以上は武器があっても勝てない。ああいう人間は相手がまだ子供だろうと関係ない。やるときはやってしまう。その理不尽さをディルは身に染みてわかっている。

「ディル、妹連れてどこにお出かけだ?」
「ちょっと散歩」
「散歩に妹連れてくと邪魔になんだろ。預かってやろうか?」

 顔を見ずともどういう顔をしているのか声色でわかる。ニヤついている。そこに舌なめずりする音が追加されゾッとした。

「い、いいよ! 平気! 母さんもうすぐ帰ってくるから!」

 妹が五歳に満たない子供であろうと彼らには関係ない。女を買う金がないなら買う必要がない相手で済ませればいいとネジが外れた頭で判断する。
 全身が粟立っても歩く速さは変えない。変えれば逃げていると腹を立てる者もいるのだ。路地を知り尽くしているディルにとってこの狭い区域を逃げ切るのは難しいことではない。大人が通れないような抜け穴も知っている。でも今は両手に妹の手を握っている。逃げることはできない。正しい選択をしなければ。間違えることは許されない。

「お前の母ちゃんいつ帰ってくんだよ。もう五日も帰ってきてねぇだろ」
「一週間ぐらいで帰るって言ってたからもうすぐ帰ってくるよ」
「帰ってきたらケツ貸せって言っとけ」

 母親の職業は知っている。家だったり外だったり、男と絡んでいる姿を何度も目撃した。
 ディルがまだ五歳の頃、母親が知らない男と抱き合っているのが嫌で泣きながらお願いしたことがあった。でも母親はそんなディルに鬼の形相で言い放った。

『お前の父親が消えちまったからだろ! 私が稼がなきゃお前はどうやって飯を食うってんだい!? どうやって職を探す!? どうやって雇ってもらう!? 私らみたいな貧乏人はね、身体売ることでしか稼げないんだよ! ギャーギャー泣き喚く口があるならいつもありがとうの一言ぐらい言ったらどうなんだい!』

 叩かれた頬の痛みを思い出した。ショックで泣き止み、そしてまた泣いた。さっきよりもずっと大声で。
 母親は叩いてしまった罪悪感に心を痛めるわけでもなく、泣き喚く息子を疎ましげに見てチッと舌打ちをした。そしてまた働きに出ていってしまった。
 外で男に媚びを売る母親は家で子供たちの相手をしているよりずっと楽しげで、三年前帰ってこなくなった父親もそうだった。稼いだ金は家族のためではなく、酒と煙草と女に消えていた。妻よりずっと若い女。ディルの記憶に残っているのは父親の相手をしていたのは十代半ばの少女だった。若ければ若いだけ良いと下卑た笑みを浮かべていた父親の顔は思い出したくないのに、こうして嫌な思いをする度に思い出してしまう。そして吐き気を催す。
 母親が一週間帰ってこないことは日常的なもので何を聞いても『稼がなきゃいけないんだよ』と言われるため、いつ帰ってくるのか、なぜそんなに帰ってこないのか、どこにいるのか、と聞くことはしない。母親が帰ってこないことはディルにとって都合が良い。特に精神上の問題が楽になる。昨日持ち帰らせてもらった食事も母親がいなかったからこそ妹たちを笑顔にすることができた。昨日残った物で今日の朝と昼も賄えた。
 
「おにーちゃん、おなかすいた」
「またー?」
「もうすぐだよ」

 路地から大通りに出るときが一番緊張する。路地よりも灯りが多く、人の目が気になる。通りに出る前に立ち止まって顔だけ出して人通りを確認すればホッと安堵の息を吐き出す。
 時間が遅いせいか以外にも人通りは多くない。

『裏口から入って来い』

 ジルヴァからの指示通り、裏に回るために左右を確認してから道路を渡る。

「うわあっ!」

 道路を渡って向かいの歩道に渡った直後、猛スピードの車が走り抜けていった。ゆっくり渡っていれば跳ねられていたのではないか、そう思わせるほどドライバーがスピードを緩める気配はなかった。驚きに心臓がドッドッと大きな音を立てている。
 こっちに突っ込んでくる車に気付いていただろう大人たちは誰も「危ない」の一言もかけることなく、その様子を他人事として見ているだけだった。期待はしていない。この街で靴を履いていない子供を心配する大人はいない。でも、ジルヴァは違う。怖くはあったが、優しかった。

「やさいいっぱい!」
「いっぱいたべれる?」
「ここじゃないよ。お店の中だよ」

 野菜畑を見たとき、自分も同じことを思った。これだけ野菜があれば三人で食べてもお腹いっぱいになると。でも今日はそうじゃない。昨日と同じだ。中に入ればジルヴァがいる。ジルヴァに会える。ディルの胸がワクワクしているのはこれから頬が落ちるほど美味しい食事が食べられるからではなくジルヴァに会えるから。昨日別れてからずっとジルヴァのことが頭から離れなかった。
 裏口から入れと言われたのは表から汚い子供が入ったのを誰かに見られて噂でも立てば恥ずかしいからだろうかと勝手なことを考えては胸が苦しくなったが、振り返って見る妹も俯いて見る自分の姿もお世辞にも綺麗とは言えないのだから仕方ないと自分に言い聞かせていた。
 左右に畑が広がる真ん中の道を歩いて裏口の前で足を止める。左を見ればガラス製の灰皿が置いてある。昨日ここでジルヴァは煙草を吸っていた。
 強制的に連れて行かれた店内に今日は自らドアを開けて中に入る。

「ディルか?」
「う、うん!」

 店内は食欲をそそる良い匂いでいっぱいだった。妹たちは店内に入るとすぐに駆け出して厨房に向かう。「こらっ!」と怒るも聞いていない。ドアを素早く閉めて鍵も閉める。それから二人を追いかけて厨房に入ると大皿に盛られた料理がいくつかあった。

「早く食べてぇのはわかるが、兄ちゃんと向こうで良い子で待ってろ」
「ごめんなさい!ミーナ、シーナ、こっちおいで!」

 二人の手を引いて厨房を出る。昨日の椅子ではなく奥にあるソファー席に取り皿とカトラリーが並べられていた。こっちに座れということだろうかと足を向けて先に妹たちを座らせるもジッとしない。

「ミーナ、シーナ、ちゃんと座らないとご飯食べられないよ!」
「やだ!」
「やーだー!」

 椅子やソファーが家にはないため違和感に二人はすぐ床に降りてしまう。そして躊躇なく床に座る。

「床で飯食うのか?」

 両手に大皿を乗せてやってきたジルヴァが三人を見下ろす。怒っているように見える目にディルが慌てて二人の手を引っ張り起こそうとするも抵抗される。

「ミーナッ! シーナッ!」

 怒声を上げる兄に頬を膨らませながらジルヴァの後ろに隠れて足に抱きつく。二人は家でもこんな風に母親の後ろに隠れてしまう。悪いことをしたのは二人なのに注意をすると叱られるのはいつも兄であるディル。

『お兄ちゃんだろ』

 妹は可愛い。でも好きで兄に生まれたわけじゃない。ただ先に生まれただけなのにどうして兄という立場で全てを背負わなければならないのかわからない。理不尽さも責任も命も全て“お兄ちゃん”の一言で縛られてしまう。
 ジルヴァに怒られたくないと二人を叱るのをやめるとジルヴァが「おい、チビども」と二人に声をかけた。足に抱きついたまま顔を上げるミーナとシーナに「座れ」と言う。反論を許さない圧のある言い方に二人はそーっと離れて床に座った。そうじゃない。そう言いたいのを我慢して黙って引っ張り起こそうとするディルの横に自由になった足を伸ばして椅子とテーブルを端に寄せてから料理をテーブルに置いた。

「床で食いてぇなら床で食え」
「でも……」
「お前は名前をデモーナに変えろ」
「だ、だって……」
「ダッテーがいいか?」

 家では床だが、それは父親が酔っ払ってテーブルを壊してしまい、新しいテーブルを買う資金もないから床で食べているだけ。ここには椅子もテーブルもあり、ディルも昨日は椅子に座ってテーブルの上の食事を食べた。
 綺麗とは言い難い店だが、それでもジルヴァが働く店。貧乏人丸出しの様子は見せたくなかった。

「どこで食っても味は変わらねぇよ。ここは高級レストランじゃねぇ。椅子に座って食おうが床に座って食おうが食事は食事。うちは腹を満たすためにあるレストランだからな。細かいこと気にすんな」

 笑顔はなかったが、ディルの頭を撫でて去っていく手は優しい。その手が次の大皿を運んでくる。空いたスペースに座り直すよう二人に言い、それから大皿を四つ並べて取り皿を渡す。それからジルヴァも床に腰掛けた。

「たべていー?」
「ああ、いいぜ」
「ぜんぶ?」
「そうだ」

 本当に何も返せない。食べるだけ食べて終わり。それがわかっていながらジルヴァはこれだけの料理を食べさせようとする。目を輝かせる妹たちは既にフォークで筒状のパスタをいくつか突き刺して頬張っていた。

「美味いか?」
「うまい!」
「うーまい!」

 昨日もそうだった。その言葉を聞くとジルヴァは笑顔になる。

「食わねぇのか? 妹たちに全部食われちまうぞ」
「た、食べる!」

 立ったままだったディルは妹たちの隣ではなくジルヴァの隣に座った。隣から香るのは女性らしい良い匂いでも、母親からする化粧品の匂いでもなく、父親を思い出す煙草の匂い。でも不思議と嫌悪感はない。

「ちまちま取ってんじゃねぇよ。カバッと取れ。男だろ」

 一つずつ取るディルの手から皿を奪って四つの料理を大盛りで一つの皿に盛ったジルヴァがディルの目の前に置いた。山盛りと言ったほうが正しい状態にディルは今日は涙ではなく笑いが漏れた。

「山盛りだ」
「残すなよ」
「うん、食べきる」

 普段はお喋りな妹たちも食べるのに夢中で無言になっている。普段はそのまま食べられる物しか食べない。母親の機嫌が良いときは手土産を買って帰ってきてくれる。手土産と言っているが、実際は客がくれた物だろうとディルは思っている。綺麗に包まれた物ではなく、明らかに齧ったりちぎった形跡がある物ばかり。それでも妹たちはそれを喜んで食べるからディルは何も言わないようにしている。食べる物があるだけマシなのだから。
 ジルヴァは何も聞かない。十歳の子供が幼い妹二人の手を引いてきたことに「母親は? 父親は?」とか、どこに住んでいるのかとか、普段は何を食べているのかとか、何も聞いてはこない。美味しい物が食べられるのに親が来ないはずがない。親がいないと考えるのが妥当だ。どこに住んでいるのかも、ここらの区域に住んでいれば聞かずともわかる。食べる物がないから盗もうとした。どれも想像に難くないものばかり。それなのにディルは聞いてほしいと思ってしまう。可哀想だと同情してほしいと。優しい世界に足を踏み入れることが許されなかったディルの人生に降ってきた優しさ。与えてくれたジルヴァの気を引きたいと考えていた。
 二人の女の子が無我夢中で食べる様子を優しく見守るジルヴァからディルは目が逸らせなかった。
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