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刺さる棘

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「私たちは帰るけど、この子はあなたに話があるみたいだから聞いてあげてくれる?」
「ああ」

 厨房に下がったジルヴァの返事を聞くと母親は娘たちの手を引いて先に帰っていった。
 店にはディルとジルヴァの二人きり。奥でカチャカチャと何か作業をしているジルヴァに近付くか迷っていた。これからジルヴァに話すことを考えると無邪気な顔で近付くことが躊躇われる。
 ザーッと水が流れる音が止まるとジルヴァが出てきた。椅子に腰掛けて長い足を組んでテーブルの上に肩肘をついて頬杖をつく。人の話を聞く態度ではないが、ジルヴァらしい構えだとディルは思う。

「タバコ吸いてぇ」
「吸っていいよ」
「俺はな、昼休憩と寝る前にしか吸わねぇって決めてんだ」
「一日二本?」
「そうだ」

 テーブルに置いている手が指を動かしてトントンと連続して音を立てる。吸いたいのを我慢しているのが伝わってくる。出会ったときもタバコを吸っていた。あれが一日二本のうちの一本目。

「で? 話ってなんだ?」
「あ……うん。あのね……そのことなんだけど……」

 ディルは話した。昨日はああ言ったが、朝になると妹たちがお腹が空いたといつも訴えていたこと。夜までにお腹が空いたと何度も泣くこと。だからもし何か捨てるような物があれば持ち帰りたいと。
 昨日は母親の言葉に乗り気だった。眠りに落ちる直前まで名案だと思っていた。いや、ここに来るまで、こうして話すまではそう思っていた。でもこうして話してみると血の気が引きそうなほど愚かなことを言っていると自覚する。こんなのは物乞いと同じだ。いや、親切にしてくれている者にそんなことを言うのだから物乞いより酷い。悪質だ。
 だが、言ってしまったものを撤回すれば全てが嘘ということになる。話は全てが嘘だったわけじゃない。妹たちはお腹空いたと夜まで何度も訴える。空腹には慣れているため泣きはしないだけでいつもお腹を空かせている。それでも一日一食、贅沢な物が食べられる幸福が絶対に訪れるから泣かずに我慢できている部分もあるのだろう。
 苛立っている状態の相手に話すにはタイミングが悪かった。また嫌われる選択をしてしまったと俯くディルの耳に届いたジルヴァの返事。

「いいぜ」

 苛立った声ではない。かといって明るい声でもない。いつものトーンでの返事に勢いよく顔を上げた。

「いいの?」
「妹を栄養不足にしたくねぇんだろ?」
「う、うん」

 問いかけるジルヴァの目を見ることができなかった。ジッと見てくるジルヴァの目を見ればきっとバレてしまうから。ジルヴァはディルより人間を知っている。この街で生きてきたなら尚更、嘘をつく人間の瞳を知っているだろう。
 この射抜くような瞳を見つめて嘘の返事をするにはディルの心は弱すぎた。

 その日の夜、ディルが持ち帰った物を見て母親は大喜びした。

「よくやったね!」

 その言葉をどれほど望んでいただろう。お兄ちゃんだから当たり前じゃなくて、ほんの少しでいいからそうやって褒めてほしかった。妹が生まれてからずっとずっと当たり前を強いられてたから。
 でも不思議なことに、ディルの胸をそれほど嬉々とはしていなかった。念願叶ったはずなのに、よしよしと頭を撫でてもらい、母親が笑顔になってくれたはずなのに、母親と同じ感情を共有することができない。その理由の一つが今日、帰りにジルヴァが頭を掻きながら冷蔵庫を覗いていたこと。きっと持って帰らせる物なんて何もないのに、何かないかと探してくれていた。少なくて悪いなと謝るジルヴァが差し出した物をディルはまるで宝物のようにそれを抱えて帰った。
 謝らなければならないのは自分のほうだ。嘘をついてごめんなさい。母親の味方になってごめんなさい。ジルヴァの優しさを利用してごめんなさい。そう謝るべきなのに、それができなかった。それなのに「良い兄ちゃんだな」と褒められれたことには喜んでしまった。撫でてくれる手が乱暴でも、ディルは嬉しかった。母親に褒められるよりずっと。
 だからディルはグッと拳を握って母親を見た。

「ジルヴァのお手伝いすることにしたから」
「まさか、これを持って帰らせる代わりに手伝えって言われたのかい?」

 ジルヴァがそんなこと言うはずがない。

「違うよ。僕が手伝いたいって言ったんだ。だからさ、妹たちにたくさん食べさせてやってよ」

 兄としてできることを精一杯の笑顔で伝えたことが母親の逆鱗に触れるとは思っていなかった。

「母親の私は食べなくてもいいってのかい?」

 母親は父親と一緒で酒を飲むと性格が変わる。飲まずにこの街でなんて生きられないと大人たちは言う。それはわかる。酒は飲んだことはないが、飲めばほわほわとして辛いこともも薄らいでしまうことは両親を見ていてわかった。だから止めたことはない。止めたところで暴力を振るわれるだけなのだから止めはしない。だが、母親は現在まだ一口だって酒を飲んでいないはずなのになぜこれほど急に雰囲気が変わったのかがディルにはわからなかった。

「そんなこと言ってないよ!」
「それならさ、母さんもたくさん食べてよって言うべきじゃないのかい?母さんたち、とかさぁ!」
「ご、ごめん」

 蔑ろにしたつもりはない。ただ、食べ盛りの妹たちにたくさん食べさせたかった気持ちがあったからそう言っただけ。そこにディルの特別な感情など入ってはいなかったのに、母親は気に入らなかった。
 チッと大きな舌打ちが鳴り、よく伸びた爪を持つ手がディルの肩を押す。そのまま尻餅をついたディルを横目で見た母親を吐き捨てた。

「気の利かない男だね。ホント、顔しか取り柄がないんだから。お前の父親と一緒さ」

 父親のことは覚えている。家を出るときも帰ってくるときも必ず酔っ払って、外で見かけたときはいつも若い女と一緒にいた。ミニスカートの女の脚を脚で割って胸元から滑り込ませた手で柔肌に触れる。それがどういうことなのか、まだ今より幼かったディルにはわからなかったが、今ならわかる。わかったところで嫌悪はしなかった。だって、ここはそういう街だから。
 呆れたような顔で息子から離れた母親は娘たちに寄っていき笑顔になる。自分だって家族なのに、一番に生まれた子供なのに、父親がいつもどおり出ていってから帰ってこなくなったある日を境に、ディルはここに居場所がないように感じるようになった。
 稼いだ金を全て酒と女とギャンブルに注ぎ込み、払う物も払わないで消えてしまった男の面影を残す子供なんて可愛くないんだろうとディル自身、なんとなく気付いている。それでもまだ、諦めきれずにいる。いつか母親に愛されることを。

(ジルヴァに会いたいッ)

 隣の部屋に逃げ込むように入り、毛布を引っ掴んで頭の先まで毛布で覆いながら丸くなり、早く明日が来るよう祈った。
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