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「おい、いつまで寝こけてんだ。さっさと起きろ」
ジルヴァの部屋を訪ねたのは日付が変わった頃だっただろうか。それからベッドの上で何時間ジルヴァを見つめていただろう。いつ眠りについたかも覚えていないディルが頭に感じた衝撃で目を覚まし、テーブルの上に置いてある古めかしい置き時計で時間を確認する。
「まだ五時前……」
「仕込みすんぞ」
「はい……」
明け方に起きて仕込みをすることはシェフなら当たり前のことだ。自分で仕込みをしなければ気が済まないジルヴァは信頼しているシェフたちを呼び出そうとしないのに、ディルには手伝わせる。ディルももうアイスクリーム目当てにお手伝いをしたい年頃ではなく、正式に給料をもらって働くシェフなのにジルヴァはそこは別だと言って働かせる。
「腰が……痛い……」
「お前の若さでもそうなるか。ま、あんだけ暴れ馬すりゃそうなるわな」
「暴れ馬はジルヴァだよ……」
「俺は抑えたほうだがな」
「体力ありすぎ……」
笑い話なのに、ディルの頭には一瞬、ジンの言葉が浮かんだ。
『アイツはああされることを望んでんだよ』
ジルヴァの尊厳を奪うような言葉を吐きかけ、建物の外にまで聞こえるほど乱暴な音が聞こえていた。あれをジルヴァが望んでいるわけがない。だが、昨夜の様子を抑えたと言うのであれば、ジルヴァはあれを嫌々受け止めているわけではないのだろうかと疑ってしまう。
「目覚ましには丁度いい一発だな」
部屋の中でパンッと軽く響いた音にジルヴァがニヤつく。自分の頬を両手で挟むように叩いたディルはそれでしっかり目を覚ました。
痛む腰を抑えながら顔を歪めて立ち上がる。廊下を歩くのは平気だが、階段を降りる度に痛みを感じた。
コックコートに袖を通したらあとは気を引き締めるだけ。
「ジルヴァって朝は煙草吸わないんだね」
「朝は仕込みで忙しいんだよ。終わる頃にはオープン前になってやがる」
仕込みを夜にするか朝にするかはその日のメニュー次第。
夜が遅かろうと朝が早かろうとジルヴァと二人で仕込みをするのが大好きだった。
「朝帰りする兄ちゃんを妹はどう思うだろうな」
「稼いで帰れば文句は言われない」
「賢いじゃねぇか。でも言っとけ、仕込みはタダ働きだって」
「アイスは?」
「あれは皿洗いのごほーびだろうが」
「チェッ」
機嫌が直ったのか、それともまた何も悟らせないようにしているのかはわからないが、ディルはそれがとてもありがたいと思った。だってもう、ジルヴァがそうする必要はなくなるのだから。
包丁を買ってもらった日。握った日。材料を切った日。厨房に入るといつも思い出す。愛おしい思い出の一つ。
「ね、ジルヴァ。お腹すいてない? オレに朝食作らせてよ」
「まともな飯作れんのかよ」
「オレだってシェフ見習いだよ?」
「マズかったらクビだからな」
「任せて」
棚にあったパンを焼いて、ベーコンを焼いて、オムレツを作った。ジルヴァは朝からあまり食べないから少なめに。人が食べるのを見るのが好きだから自分の分は多めに。
二人でテーブルについて向かい合って食事をする。美味しいとは言われない。「もっと腕磨け」と言われたが、それはこれからもここで働けという意味でクビではない。それだけで嬉しくてたまらなかった。
「ほらよ」
「え?」
食事のあと、厨房から戻ってきたジルヴァの手にはアイスが二つ。なんでだと驚くディルにジルヴァが言った。
「皿洗いすんだろ」
「ジルヴァも食べるの? 皿洗いしないのに?」
「俺の店だ。俺に全ての権限があんだよ」
「ズルいオーナーだなぁ」
小さなスプーンで食べるディルと大きなスプーンで食べるジルヴァ。相変わらずバニラとチョコレート。変わっていない時間がここにあって、それだけでディルはやっていけると思った。
変わらないものはない。だから美しいんだ。
誰かがそう言った。変わらないことこそ美しいと思うほど、ディルの五年間は幸せなものだった。変わっていくしかないこれからの人生が辛くてたまらない。でも、それを辛いとは思ってはいけない。
身体中を這う男や女の手に身震いを起こすことも嫌悪して胃物を吐くことも許されない。男に抱かれ、女を抱き、その逆もまた然り。でもそれをやめたいとは思わなかった。自分がこうしていることでジルヴァはもうジンに手出しされなくなる。それが条件なのだ。
初めて裏庭で会った日、ジルヴァは怒りもせず店で暖かな食事をさせてくれた。愛情をくれた。温もりをくれた。笑顔をくれた。ごほーびをくれた。居場所をくれた。
そんな優しい人を守ることもしないでのうのうと生きるなんてムリだ。十五歳になった。もう守られる年齢ではない。守ることができる年齢だ。今度は自分がジルヴァを守らなければと、それだけを心の支えに生きている。
「これがお前の今月の取り分だ」
あれから一ヶ月が経ち、ディルはジンの棲家を訪ねていた。二人きりの部屋で椅子に腰掛けたジンが放り投げた札束。それは拾うのも躊躇するほどの大金だった。それが自分の取り分だと言われたことに戸惑いが隠せないディルにジンの口元が笑みで歪む。
「だから言っただろ。お前なら稼げるって」
最初の相手はジンからの紹介だった。その人物から噂が広がったのか、ディルに指名がつくまであっという間で、そこから火がついたように予約が入るようになった。嬉しいとは思わない。嬉しいはずがないのだから。
ただ、これだけあれば妹たちに好きな物を食べさせて好きな物を買ってやれる。街に出ても恥ずかしくない服と靴、帽子まで買ってやれるだろう。「欲しくない」なんて強がりを言わせることもないのだと絨毯の上に落ちている金を見つめながら妹たちの笑顔を想像する。
ゆっくりとしゃがんで金を拾い上げる。汚い金だ。真っ当に働いて得た金じゃない。でも、金は金。そう思う両極端な考えで頭がいっぱいになる。
「しっかし、お前たちは健気だねぇ。互いに庇いあって美しい師弟愛じゃねぇか」
人をバカにしなければ生きていけないのだろうと、この一ヶ月でジンという男がどういう人間かわかったつもりだ。この街にお似合いの腐りきったクズだが、約束は守るタイプで、ジンのジルヴァに手を出すなという条件も今はちゃんと守っている。それから客を取るのは夜中だけ。昼と夜は店に出るというのも許可してくれた。
だからこうしてディルも従順に予約が入っているというスケジュールに従っている。
気持ち悪い言葉も態度も視線も臭い息も身体も、抵抗しなければすぐに終わる。どんなことを言われてもどんな目に遭っても天井のシミを数えるか羊の数を数えている間に終わるのだからと一ヶ月で既にディルはこの仕事に慣れつつあった。
そして我慢と引き換えに大金を手に入れた。
「お前の給料の何ヶ月分だ?」
何ヶ月分だろうと考えることはしない。これがいくらなのか数えることもしない。得た達成感が違う。価値が違う。
「これは俺からのお小遣いだ。妹たちに金がかかるんだろ?」
ジンが財布から取り出した札束はテーブルではなく床に落ちた。
「良い店に食わせに行ってやれ」
確かにその金があれば更に良い思いをさせてやれる。アパートを借りて今よりずっと安心できる場所で暮らせるだろうが、ディルはそれまで拾おうとはしなかった。
自分が稼いだ金だけをポケットに入れてドアへと向かう。
「金に執着しねぇ奴に未来はねぇぞ」
「金は自分で稼ぐから価値があるんだよ」
ジルヴァが言った言葉だ。ディルはそれをかっこいいと思ったが、ジンはあのときのように不愉快なほど甲高い声で笑い始めた。
「さすがはジルヴァ信者だな。キレーな言葉並べて陶酔か?」
腹を抱えながら笑うジンに怒りの感情は湧かない。彼にいちいち怒っているとキリがない。ただでさえ疲弊している心が余計に酷くなると悟った。
前髪を掻き上げては肩を揺らして大袈裟な笑い方をするジンが急にドンッと大きな音を立ててテーブルを叩いた。それと同時に笑い声が止み、俯いたジンの表情がわからないだけに余計に不気味になる。
「金は金だろ」
顔を上げたジンの表情の冷たさにゾッとする。
「ああ、そうか。お前は自分のプライド優先で、妹たちのことは二の次ってことか」
「違う!」
「違わねぇだろ。それがありゃ何がどれだけ食える? 何がどれだけ買える? 何がどれだけできる? 来月、お前は給料とそれを合わせただけの額を稼げんのか?」
できるはずがない。そこまでの太客はまだついていないし、いくらかジンに取られてしまうのだから二つの札束を合わせた金額などどう転んでも稼げはしない。
「だったら骨投げられた犬みてーに尻尾振って拾えや。振るのは得意だろ?」
侮辱の言葉にディルの顔がカッと赤くなる。悔しいが、返す言葉もない。この一ヶ月、何回家に帰っただろう。妹たちが心配じゃないわけではないが、これからもずっとこんな生活が続くのだから少しでも安全な場所に引っ越させたい。そのためには金はいくらでも必要になる。
「ほら、俺の気が変わらねぇうちに拾えよ」
唇を噛み締めながら握り拳を開いて札束を拾う。
「お礼はどうした? 良い物もらったらお礼だろ」
噛み締めた唇を震わせながらディルの頭がゆっくりと下がる。
「ありがとう……ございました……」
無理矢理受け取らせておきながらこうしてお礼をさせる。どこまでも人をバカにする人間だと怒りで声が震えるも態度に出る前に退散しようとしたディルをジンが呼び止めた。
嫌な予感しかしない。
「やっぱ気が変わったわ」
「え……?」
「自分で稼ぐから価値があるんだよな? それに価値を見出させてやるよ」
そう言ってデスクからソファーへと移動したジンがいつものようにドカッ乱暴に腰掛け、大股を開く。その時点でジンはディルが察したと感じ、ディルもそのとおり察してしまった。慣れたことだ。
大股を開き、その間を指でさすジンから一度目を逸らして伏せ目を作ったディルが数秒経ってから顔を上げるとニヤつくジンの表情が映った。
「一回でそれだ。安いもんだろ?」
安いもんだ。だから大丈夫。大事なのはそこら辺に落ちている石ころのような小さいプライドではなくこれから明るい未来が待っている妹たちだ。
踵を返してジンに歩み寄ったディルはジンの足の間に座り、ポケットの中の金に価値を付けた。
ジルヴァの部屋を訪ねたのは日付が変わった頃だっただろうか。それからベッドの上で何時間ジルヴァを見つめていただろう。いつ眠りについたかも覚えていないディルが頭に感じた衝撃で目を覚まし、テーブルの上に置いてある古めかしい置き時計で時間を確認する。
「まだ五時前……」
「仕込みすんぞ」
「はい……」
明け方に起きて仕込みをすることはシェフなら当たり前のことだ。自分で仕込みをしなければ気が済まないジルヴァは信頼しているシェフたちを呼び出そうとしないのに、ディルには手伝わせる。ディルももうアイスクリーム目当てにお手伝いをしたい年頃ではなく、正式に給料をもらって働くシェフなのにジルヴァはそこは別だと言って働かせる。
「腰が……痛い……」
「お前の若さでもそうなるか。ま、あんだけ暴れ馬すりゃそうなるわな」
「暴れ馬はジルヴァだよ……」
「俺は抑えたほうだがな」
「体力ありすぎ……」
笑い話なのに、ディルの頭には一瞬、ジンの言葉が浮かんだ。
『アイツはああされることを望んでんだよ』
ジルヴァの尊厳を奪うような言葉を吐きかけ、建物の外にまで聞こえるほど乱暴な音が聞こえていた。あれをジルヴァが望んでいるわけがない。だが、昨夜の様子を抑えたと言うのであれば、ジルヴァはあれを嫌々受け止めているわけではないのだろうかと疑ってしまう。
「目覚ましには丁度いい一発だな」
部屋の中でパンッと軽く響いた音にジルヴァがニヤつく。自分の頬を両手で挟むように叩いたディルはそれでしっかり目を覚ました。
痛む腰を抑えながら顔を歪めて立ち上がる。廊下を歩くのは平気だが、階段を降りる度に痛みを感じた。
コックコートに袖を通したらあとは気を引き締めるだけ。
「ジルヴァって朝は煙草吸わないんだね」
「朝は仕込みで忙しいんだよ。終わる頃にはオープン前になってやがる」
仕込みを夜にするか朝にするかはその日のメニュー次第。
夜が遅かろうと朝が早かろうとジルヴァと二人で仕込みをするのが大好きだった。
「朝帰りする兄ちゃんを妹はどう思うだろうな」
「稼いで帰れば文句は言われない」
「賢いじゃねぇか。でも言っとけ、仕込みはタダ働きだって」
「アイスは?」
「あれは皿洗いのごほーびだろうが」
「チェッ」
機嫌が直ったのか、それともまた何も悟らせないようにしているのかはわからないが、ディルはそれがとてもありがたいと思った。だってもう、ジルヴァがそうする必要はなくなるのだから。
包丁を買ってもらった日。握った日。材料を切った日。厨房に入るといつも思い出す。愛おしい思い出の一つ。
「ね、ジルヴァ。お腹すいてない? オレに朝食作らせてよ」
「まともな飯作れんのかよ」
「オレだってシェフ見習いだよ?」
「マズかったらクビだからな」
「任せて」
棚にあったパンを焼いて、ベーコンを焼いて、オムレツを作った。ジルヴァは朝からあまり食べないから少なめに。人が食べるのを見るのが好きだから自分の分は多めに。
二人でテーブルについて向かい合って食事をする。美味しいとは言われない。「もっと腕磨け」と言われたが、それはこれからもここで働けという意味でクビではない。それだけで嬉しくてたまらなかった。
「ほらよ」
「え?」
食事のあと、厨房から戻ってきたジルヴァの手にはアイスが二つ。なんでだと驚くディルにジルヴァが言った。
「皿洗いすんだろ」
「ジルヴァも食べるの? 皿洗いしないのに?」
「俺の店だ。俺に全ての権限があんだよ」
「ズルいオーナーだなぁ」
小さなスプーンで食べるディルと大きなスプーンで食べるジルヴァ。相変わらずバニラとチョコレート。変わっていない時間がここにあって、それだけでディルはやっていけると思った。
変わらないものはない。だから美しいんだ。
誰かがそう言った。変わらないことこそ美しいと思うほど、ディルの五年間は幸せなものだった。変わっていくしかないこれからの人生が辛くてたまらない。でも、それを辛いとは思ってはいけない。
身体中を這う男や女の手に身震いを起こすことも嫌悪して胃物を吐くことも許されない。男に抱かれ、女を抱き、その逆もまた然り。でもそれをやめたいとは思わなかった。自分がこうしていることでジルヴァはもうジンに手出しされなくなる。それが条件なのだ。
初めて裏庭で会った日、ジルヴァは怒りもせず店で暖かな食事をさせてくれた。愛情をくれた。温もりをくれた。笑顔をくれた。ごほーびをくれた。居場所をくれた。
そんな優しい人を守ることもしないでのうのうと生きるなんてムリだ。十五歳になった。もう守られる年齢ではない。守ることができる年齢だ。今度は自分がジルヴァを守らなければと、それだけを心の支えに生きている。
「これがお前の今月の取り分だ」
あれから一ヶ月が経ち、ディルはジンの棲家を訪ねていた。二人きりの部屋で椅子に腰掛けたジンが放り投げた札束。それは拾うのも躊躇するほどの大金だった。それが自分の取り分だと言われたことに戸惑いが隠せないディルにジンの口元が笑みで歪む。
「だから言っただろ。お前なら稼げるって」
最初の相手はジンからの紹介だった。その人物から噂が広がったのか、ディルに指名がつくまであっという間で、そこから火がついたように予約が入るようになった。嬉しいとは思わない。嬉しいはずがないのだから。
ただ、これだけあれば妹たちに好きな物を食べさせて好きな物を買ってやれる。街に出ても恥ずかしくない服と靴、帽子まで買ってやれるだろう。「欲しくない」なんて強がりを言わせることもないのだと絨毯の上に落ちている金を見つめながら妹たちの笑顔を想像する。
ゆっくりとしゃがんで金を拾い上げる。汚い金だ。真っ当に働いて得た金じゃない。でも、金は金。そう思う両極端な考えで頭がいっぱいになる。
「しっかし、お前たちは健気だねぇ。互いに庇いあって美しい師弟愛じゃねぇか」
人をバカにしなければ生きていけないのだろうと、この一ヶ月でジンという男がどういう人間かわかったつもりだ。この街にお似合いの腐りきったクズだが、約束は守るタイプで、ジンのジルヴァに手を出すなという条件も今はちゃんと守っている。それから客を取るのは夜中だけ。昼と夜は店に出るというのも許可してくれた。
だからこうしてディルも従順に予約が入っているというスケジュールに従っている。
気持ち悪い言葉も態度も視線も臭い息も身体も、抵抗しなければすぐに終わる。どんなことを言われてもどんな目に遭っても天井のシミを数えるか羊の数を数えている間に終わるのだからと一ヶ月で既にディルはこの仕事に慣れつつあった。
そして我慢と引き換えに大金を手に入れた。
「お前の給料の何ヶ月分だ?」
何ヶ月分だろうと考えることはしない。これがいくらなのか数えることもしない。得た達成感が違う。価値が違う。
「これは俺からのお小遣いだ。妹たちに金がかかるんだろ?」
ジンが財布から取り出した札束はテーブルではなく床に落ちた。
「良い店に食わせに行ってやれ」
確かにその金があれば更に良い思いをさせてやれる。アパートを借りて今よりずっと安心できる場所で暮らせるだろうが、ディルはそれまで拾おうとはしなかった。
自分が稼いだ金だけをポケットに入れてドアへと向かう。
「金に執着しねぇ奴に未来はねぇぞ」
「金は自分で稼ぐから価値があるんだよ」
ジルヴァが言った言葉だ。ディルはそれをかっこいいと思ったが、ジンはあのときのように不愉快なほど甲高い声で笑い始めた。
「さすがはジルヴァ信者だな。キレーな言葉並べて陶酔か?」
腹を抱えながら笑うジンに怒りの感情は湧かない。彼にいちいち怒っているとキリがない。ただでさえ疲弊している心が余計に酷くなると悟った。
前髪を掻き上げては肩を揺らして大袈裟な笑い方をするジンが急にドンッと大きな音を立ててテーブルを叩いた。それと同時に笑い声が止み、俯いたジンの表情がわからないだけに余計に不気味になる。
「金は金だろ」
顔を上げたジンの表情の冷たさにゾッとする。
「ああ、そうか。お前は自分のプライド優先で、妹たちのことは二の次ってことか」
「違う!」
「違わねぇだろ。それがありゃ何がどれだけ食える? 何がどれだけ買える? 何がどれだけできる? 来月、お前は給料とそれを合わせただけの額を稼げんのか?」
できるはずがない。そこまでの太客はまだついていないし、いくらかジンに取られてしまうのだから二つの札束を合わせた金額などどう転んでも稼げはしない。
「だったら骨投げられた犬みてーに尻尾振って拾えや。振るのは得意だろ?」
侮辱の言葉にディルの顔がカッと赤くなる。悔しいが、返す言葉もない。この一ヶ月、何回家に帰っただろう。妹たちが心配じゃないわけではないが、これからもずっとこんな生活が続くのだから少しでも安全な場所に引っ越させたい。そのためには金はいくらでも必要になる。
「ほら、俺の気が変わらねぇうちに拾えよ」
唇を噛み締めながら握り拳を開いて札束を拾う。
「お礼はどうした? 良い物もらったらお礼だろ」
噛み締めた唇を震わせながらディルの頭がゆっくりと下がる。
「ありがとう……ございました……」
無理矢理受け取らせておきながらこうしてお礼をさせる。どこまでも人をバカにする人間だと怒りで声が震えるも態度に出る前に退散しようとしたディルをジンが呼び止めた。
嫌な予感しかしない。
「やっぱ気が変わったわ」
「え……?」
「自分で稼ぐから価値があるんだよな? それに価値を見出させてやるよ」
そう言ってデスクからソファーへと移動したジンがいつものようにドカッ乱暴に腰掛け、大股を開く。その時点でジンはディルが察したと感じ、ディルもそのとおり察してしまった。慣れたことだ。
大股を開き、その間を指でさすジンから一度目を逸らして伏せ目を作ったディルが数秒経ってから顔を上げるとニヤつくジンの表情が映った。
「一回でそれだ。安いもんだろ?」
安いもんだ。だから大丈夫。大事なのはそこら辺に落ちている石ころのような小さいプライドではなくこれから明るい未来が待っている妹たちだ。
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