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ディナーのための野菜収穫。これもディルの立派な仕事。でも手は動いていない。まだ賄いの時間だが、今日はなんだか食べる気分にならなくて畑の真ん中で空を見上げていた。
「ディル」
「ジルヴァ……あ、野菜すぐ持ってくよ! サボってないから!」
かけられた声に慌てて作業を再開させるもジルヴァの声は最初から怒っているそれではなかった。怒っているときは言葉がセットで付いてくる。
チラッと顔を上げて見るもジルヴァはいつもどおり煙草を吸いに出てきただけでディルを監視しに出てきたわけではなかった。
「幸せか?」
「え……?」
ジルヴァからそんなことを聞かれたのは初めてで戸惑ってしまう。
幸せか? ディルも自分に問いかけてみる。でも答えは出てこない。だってルーチェは可愛くて優しい恋人。料理もできるし、愛嬌もある。ジルヴァとジンの二箇所で働くだけでも精一杯な中でルーチェとのデートの時間を確保するのは大変でもそれは自己都合であってルーチェは関係ない。だからこれで幸せじゃないと言えば罰が当たる。
それなのに、ディルは頷けなかった。
「上手くやってるよ」
代わりに笑顔でそう答えた。野菜に入れたカゴを持って裏口のドアの近くに置く。
その笑顔を見ながら煙草を吸ったジルヴァは空へと紫煙を吐き出してから片方の口端を上げてディルを見た。
「上手くやってるってのはお前ら二人の話だろ。俺が聞いてんのはお前が幸せかどうかってことだ」
やっぱりジルヴァは誤魔化されてくれない。ジルヴァの問いには正直に答える。昔からそれしかないのだ。
「……わかんな──」
「ディルくーん!」
正直に言おうとしたディルの言葉を遮った愛らしい声が響き渡る。誰だと確認する必要のない声に顔を向けるとやはりルーチェだった。
「どうしたの?」
今日はバスケットは持っていない。だとしたらなんの用だと顔を向けるとニコッと笑顔を見せて抱きついてきた。
「ディル君に会いたかっただけぇ。ディル君は会いたくなかった?」
「あー……会いたかった……よ」
かも、と言いかけてやめた。それは言ってはならないことだと咄嗟に脳が判断したのだ。
ディルの言葉に嬉しいと更に強く抱きつくルーチェの背中をディルはポンポンと叩くだけで抱きしめ返すことはしない。どうしてもジルヴァの視線を気にしてしまう。
チラッとジルヴァを見るもジルヴァはいつものように空を見上げているだけでディルのほうは見てもいなかった。
「ジルヴァさんと何のお話してたのぉ?」
「それは……」
「ジルヴァさん、ディル君ったらいつもジルヴァさんの話ばーっかりするんですよぉ」
「へえ」
ジルヴァの言い方は面白いと思った「へえ」ではなく興味がない「へえ」だった。
「私ね、不思議だなーっていつも思ってたんです。ディル君って若くてイケメンなのにどうしてこんなおばさんに夢中なんだろうって」
「ルーチェ?」
互いに見たことはあっても言葉を交わしたことはない間柄。それなのにルーチェは本人を前に本人に向かってハッキリ『おばさん』と告げた。驚いたのはジルヴァではなくディルのほう。ジルヴァは眉一つ動かさずに空を見上げたまま動かない。動いているのはジルヴァの口から吐き出された煙だけ。
「だって、煙草吸うでしょ? 口も悪いしぃ、ディル君のこと叩くしぃ、男性に負けないぐらい背が高いしぃ、声だって女性にしては低めでしょぉ? なんか全体的に男性っぽいっていうかぁ。それなのにディル君はずーっとジルヴァさんはすごいんだーって語るから本当は魅力的な人なのかなぁって思ってたけど間近で見てもやっぱりそうじゃなかったからディル君は初恋が忘れられないだけなんだなぁって思いましたぁ」
うふふっと愛らしく笑う姿と悪態があまりに合わず、ディルはルーチェの本性に愕然としている。
人は誰しも二面性を持っている。それは夜の仕事を始めて嫌というほど理解した。だからルーチェにこんな一面があってもおかしくはない。誰だって心の内で思うことは多いだろうから。だが、それを本人にぶつけるのは違う。なぜルーチェはジルヴァに向かってそんなことを言うのかと背中に回された腕をむりやり引き剥がして彼女を見た。
「ルーチェ、ジルヴァはおばさんじゃないし、本当にすごい人なんだ。そんな言い方はやめてほしい」
「私とジルヴァさん、どっちが好き?」
ジルヴァの目の前でハッキリ言わせようとしているのだ。
ディルの顔が強張る。
「小娘って言われたくて俺に突っかかってきてんのか?」
限界まで吸った煙草を地面に落として靴でそれを踏み潰す。そこから足を動かすことなく吸い殻を靴の下に隠したまま問いかけるジルヴァにルーチェが満面の笑みを見せる。
「事実を言っただけですよ。だってジルヴァさんってもうすぐ三十なんでしょ? 二十代ってだけでもおばさんなのに三十代なんて、ねぇ」
ルーチェはずっと気に入らなかった。自分とのデート中もディルが自ら話すことといえばジルヴァの話題だけで他の話をしようとはしない。妹のことを聞いても情報はあまり出したがらなかった。悪用するわけでもないのにという不満もあり、ジルヴァジルヴァと連呼されるのも気に入らない。積もり積もった不満はディルではなくジルヴァにぶつけることにしたルーチェにとって外見と若さは最強の武器。化粧っ気も美しさもないジルヴァに負けるはずがないという確固たる自信がルーチェを突き動かしていた。
「お前が抱いてる怒りは大方コイツのバカな発言のせいだろうが、若さを自慢し終えたらおうちに帰んな。ママとパパが心配するぜ」
「子供扱いしないで! 私はもう成人してるの! 親にも口出しなんてさせない!」
「口は出させず金は出させる。さすが成人した女はやることが違うな」
中に入らずドアにもたれかかったまま腕を組んで言葉を返すジルヴァにディルが目を瞬かせる。
ジルヴァは絡まれて相手をしないわけではない。言い返して叩きのめすことのほうが多いが、年下の同性にこんな風に言い返すのは想像できなかっただけに驚いてしまう。
「ディル君を解放して!」
「まるで俺がコイツを縛り付けてるような言い方するじゃねぇか」
「縛り付けてるじゃない! あなたのせいでディル君はずっと苦しんでるのよ! 普通に恋愛が楽しめないのはあなたが縛り付けてるせいなんだから! あなたが解放してあげればディル君は幸せになれるの!」
「そうなのか?」
ジルヴァから話を振られるとは思っていなかったディルが驚きに固まる。
正直に言うとディルは自分の人生を天秤にかけると幸せに傾く率は低い。幸せだと言い聞かせるために自分が幸せのほうに乗っても幸せの天秤は上に上がっていく。
ジルヴァに縛り付けられているのは本当だ。だが、ジルヴァが縛り付けられているのではなく、ディルが勝手に雁字搦めになって離れられなくなっているだけ。もしここでディルがルーチェと同じことを言えばジルヴァは当たり前のように突き放すだろう。でもそんなこと怖くて言えるはずがない。恋心を忘れることと拒絶されることは全くの別物。
「俺がコイツをどう縛り付けてるってんだ?」
「ディル君は私がデートの約束しようとしてもあなたを優先する! あなたと買い出しの約束があるからって!」
「仕事だからな」
「でもプライベートじゃない! どうしてプライベートの時間まで彼を縛りつけるの!? 人がたくさんいるんだからその人たちと行けばいいじゃない!」
「オージたちは腰が悪いんだ。あんまり重い物は持たせたくないからオレが行ってるだけだよ。ジルヴァに強制されたことはないから」
「ほらね! ディル君はいつもあなたを庇うの! 私が何を言っても必ずあなたの味方をする!」
自分が悪い。それは全面的に自分が悪いんだと思い慌てるディルを見たジルヴァの笑いが辺りに響き渡る。
ジルヴァは笑わないわけじゃない。からかったりするときによく笑う。こうして声を上げて笑う姿も初めて見るわけじゃないが、久しぶりに見た。口元を隠して笑うわけではなく口の中まで見えるほど大きく口を開けて笑っているその女性的ではない笑い方にもルーチェは嫌悪していた。
「何がおかしいのよ!」
笑い声に負けじと声を張るルーチェにジルヴァが言った。
「そりゃそうだろ。コイツはガキの頃から俺にゾッコンだからな。今もガキだが」
言いきったジルヴァの自信にルーチェが目を見開く。
「悪ィな、マザコンに育てちまって。こんなナリして中身はまだまだガキのままでよ。まだママのおっぱいが恋しいんだよな?」
「こ、恋しくないよ!」
「なんだよ、もう乳離れしまったってか? 寂しいねぇ」
からかっているとわかっていても、あの日の記憶が鮮明に甦る。忘れないようにと五感全てに焼き付けたのだから今もハッキリ覚えている。それが無意識にディルの視線をジルヴァの胸に向けさせる。
顔を真っ赤にしながらもそこを見て反論するディルの腕をルーチェが叩き、そして自分の胸で挟むように腕に抱きついた。
「ディル君はいつも私のを吸ってるから大丈夫ですぅ!」
「ルーチェやめてよ!」
ルーチェと身体を重ねたのは迫られて逃げきれなかった二回だけで、それほど頻繁に会っているわけではないしデートしたら必ず求められるわけでもない。
夜の仕事がある以上、ディルは飢えてはいないし自分から求めることは一度もなかった。『ディル君から求めてくれたことないね』と言われたときはさすがに申し訳ないと思いながらもその日は朝から仕事だったことを理由に謝って終わった。
恋人なら身体の関係があることは何もおかしなことではなく、むしろ自然だ。だからジルヴァに変に思われることはない。ここはそういう街でもある。心配する必要はないのに強めに注意するディルにルーチェが不満げに頬を膨らませる。その目からは「おばさんが言うのは良くて彼女である自分が言うのはダメなのか」と責めているのが読み取れた。
「へえ、そりゃけっこーなことで。惚気話なら木の穴か壺にでも向かってやってくれ」
ドアから背を離したジルヴァがこの場を離脱しようとするのを見てルーチェが声を上げる。
「逃げるの? ああ、悔しいから逃げるんだ」
「勝負した覚えはねぇなぁ」
背中を向けてヒラヒラと手を振ったジルヴァはそのまま振り返らず中へと入っていく。
憤慨するルーチェの横でディルは最悪だと顔を青くしてしゃがみ込んだ。
「ディル」
「ジルヴァ……あ、野菜すぐ持ってくよ! サボってないから!」
かけられた声に慌てて作業を再開させるもジルヴァの声は最初から怒っているそれではなかった。怒っているときは言葉がセットで付いてくる。
チラッと顔を上げて見るもジルヴァはいつもどおり煙草を吸いに出てきただけでディルを監視しに出てきたわけではなかった。
「幸せか?」
「え……?」
ジルヴァからそんなことを聞かれたのは初めてで戸惑ってしまう。
幸せか? ディルも自分に問いかけてみる。でも答えは出てこない。だってルーチェは可愛くて優しい恋人。料理もできるし、愛嬌もある。ジルヴァとジンの二箇所で働くだけでも精一杯な中でルーチェとのデートの時間を確保するのは大変でもそれは自己都合であってルーチェは関係ない。だからこれで幸せじゃないと言えば罰が当たる。
それなのに、ディルは頷けなかった。
「上手くやってるよ」
代わりに笑顔でそう答えた。野菜に入れたカゴを持って裏口のドアの近くに置く。
その笑顔を見ながら煙草を吸ったジルヴァは空へと紫煙を吐き出してから片方の口端を上げてディルを見た。
「上手くやってるってのはお前ら二人の話だろ。俺が聞いてんのはお前が幸せかどうかってことだ」
やっぱりジルヴァは誤魔化されてくれない。ジルヴァの問いには正直に答える。昔からそれしかないのだ。
「……わかんな──」
「ディルくーん!」
正直に言おうとしたディルの言葉を遮った愛らしい声が響き渡る。誰だと確認する必要のない声に顔を向けるとやはりルーチェだった。
「どうしたの?」
今日はバスケットは持っていない。だとしたらなんの用だと顔を向けるとニコッと笑顔を見せて抱きついてきた。
「ディル君に会いたかっただけぇ。ディル君は会いたくなかった?」
「あー……会いたかった……よ」
かも、と言いかけてやめた。それは言ってはならないことだと咄嗟に脳が判断したのだ。
ディルの言葉に嬉しいと更に強く抱きつくルーチェの背中をディルはポンポンと叩くだけで抱きしめ返すことはしない。どうしてもジルヴァの視線を気にしてしまう。
チラッとジルヴァを見るもジルヴァはいつものように空を見上げているだけでディルのほうは見てもいなかった。
「ジルヴァさんと何のお話してたのぉ?」
「それは……」
「ジルヴァさん、ディル君ったらいつもジルヴァさんの話ばーっかりするんですよぉ」
「へえ」
ジルヴァの言い方は面白いと思った「へえ」ではなく興味がない「へえ」だった。
「私ね、不思議だなーっていつも思ってたんです。ディル君って若くてイケメンなのにどうしてこんなおばさんに夢中なんだろうって」
「ルーチェ?」
互いに見たことはあっても言葉を交わしたことはない間柄。それなのにルーチェは本人を前に本人に向かってハッキリ『おばさん』と告げた。驚いたのはジルヴァではなくディルのほう。ジルヴァは眉一つ動かさずに空を見上げたまま動かない。動いているのはジルヴァの口から吐き出された煙だけ。
「だって、煙草吸うでしょ? 口も悪いしぃ、ディル君のこと叩くしぃ、男性に負けないぐらい背が高いしぃ、声だって女性にしては低めでしょぉ? なんか全体的に男性っぽいっていうかぁ。それなのにディル君はずーっとジルヴァさんはすごいんだーって語るから本当は魅力的な人なのかなぁって思ってたけど間近で見てもやっぱりそうじゃなかったからディル君は初恋が忘れられないだけなんだなぁって思いましたぁ」
うふふっと愛らしく笑う姿と悪態があまりに合わず、ディルはルーチェの本性に愕然としている。
人は誰しも二面性を持っている。それは夜の仕事を始めて嫌というほど理解した。だからルーチェにこんな一面があってもおかしくはない。誰だって心の内で思うことは多いだろうから。だが、それを本人にぶつけるのは違う。なぜルーチェはジルヴァに向かってそんなことを言うのかと背中に回された腕をむりやり引き剥がして彼女を見た。
「ルーチェ、ジルヴァはおばさんじゃないし、本当にすごい人なんだ。そんな言い方はやめてほしい」
「私とジルヴァさん、どっちが好き?」
ジルヴァの目の前でハッキリ言わせようとしているのだ。
ディルの顔が強張る。
「小娘って言われたくて俺に突っかかってきてんのか?」
限界まで吸った煙草を地面に落として靴でそれを踏み潰す。そこから足を動かすことなく吸い殻を靴の下に隠したまま問いかけるジルヴァにルーチェが満面の笑みを見せる。
「事実を言っただけですよ。だってジルヴァさんってもうすぐ三十なんでしょ? 二十代ってだけでもおばさんなのに三十代なんて、ねぇ」
ルーチェはずっと気に入らなかった。自分とのデート中もディルが自ら話すことといえばジルヴァの話題だけで他の話をしようとはしない。妹のことを聞いても情報はあまり出したがらなかった。悪用するわけでもないのにという不満もあり、ジルヴァジルヴァと連呼されるのも気に入らない。積もり積もった不満はディルではなくジルヴァにぶつけることにしたルーチェにとって外見と若さは最強の武器。化粧っ気も美しさもないジルヴァに負けるはずがないという確固たる自信がルーチェを突き動かしていた。
「お前が抱いてる怒りは大方コイツのバカな発言のせいだろうが、若さを自慢し終えたらおうちに帰んな。ママとパパが心配するぜ」
「子供扱いしないで! 私はもう成人してるの! 親にも口出しなんてさせない!」
「口は出させず金は出させる。さすが成人した女はやることが違うな」
中に入らずドアにもたれかかったまま腕を組んで言葉を返すジルヴァにディルが目を瞬かせる。
ジルヴァは絡まれて相手をしないわけではない。言い返して叩きのめすことのほうが多いが、年下の同性にこんな風に言い返すのは想像できなかっただけに驚いてしまう。
「ディル君を解放して!」
「まるで俺がコイツを縛り付けてるような言い方するじゃねぇか」
「縛り付けてるじゃない! あなたのせいでディル君はずっと苦しんでるのよ! 普通に恋愛が楽しめないのはあなたが縛り付けてるせいなんだから! あなたが解放してあげればディル君は幸せになれるの!」
「そうなのか?」
ジルヴァから話を振られるとは思っていなかったディルが驚きに固まる。
正直に言うとディルは自分の人生を天秤にかけると幸せに傾く率は低い。幸せだと言い聞かせるために自分が幸せのほうに乗っても幸せの天秤は上に上がっていく。
ジルヴァに縛り付けられているのは本当だ。だが、ジルヴァが縛り付けられているのではなく、ディルが勝手に雁字搦めになって離れられなくなっているだけ。もしここでディルがルーチェと同じことを言えばジルヴァは当たり前のように突き放すだろう。でもそんなこと怖くて言えるはずがない。恋心を忘れることと拒絶されることは全くの別物。
「俺がコイツをどう縛り付けてるってんだ?」
「ディル君は私がデートの約束しようとしてもあなたを優先する! あなたと買い出しの約束があるからって!」
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「オージたちは腰が悪いんだ。あんまり重い物は持たせたくないからオレが行ってるだけだよ。ジルヴァに強制されたことはないから」
「ほらね! ディル君はいつもあなたを庇うの! 私が何を言っても必ずあなたの味方をする!」
自分が悪い。それは全面的に自分が悪いんだと思い慌てるディルを見たジルヴァの笑いが辺りに響き渡る。
ジルヴァは笑わないわけじゃない。からかったりするときによく笑う。こうして声を上げて笑う姿も初めて見るわけじゃないが、久しぶりに見た。口元を隠して笑うわけではなく口の中まで見えるほど大きく口を開けて笑っているその女性的ではない笑い方にもルーチェは嫌悪していた。
「何がおかしいのよ!」
笑い声に負けじと声を張るルーチェにジルヴァが言った。
「そりゃそうだろ。コイツはガキの頃から俺にゾッコンだからな。今もガキだが」
言いきったジルヴァの自信にルーチェが目を見開く。
「悪ィな、マザコンに育てちまって。こんなナリして中身はまだまだガキのままでよ。まだママのおっぱいが恋しいんだよな?」
「こ、恋しくないよ!」
「なんだよ、もう乳離れしまったってか? 寂しいねぇ」
からかっているとわかっていても、あの日の記憶が鮮明に甦る。忘れないようにと五感全てに焼き付けたのだから今もハッキリ覚えている。それが無意識にディルの視線をジルヴァの胸に向けさせる。
顔を真っ赤にしながらもそこを見て反論するディルの腕をルーチェが叩き、そして自分の胸で挟むように腕に抱きついた。
「ディル君はいつも私のを吸ってるから大丈夫ですぅ!」
「ルーチェやめてよ!」
ルーチェと身体を重ねたのは迫られて逃げきれなかった二回だけで、それほど頻繁に会っているわけではないしデートしたら必ず求められるわけでもない。
夜の仕事がある以上、ディルは飢えてはいないし自分から求めることは一度もなかった。『ディル君から求めてくれたことないね』と言われたときはさすがに申し訳ないと思いながらもその日は朝から仕事だったことを理由に謝って終わった。
恋人なら身体の関係があることは何もおかしなことではなく、むしろ自然だ。だからジルヴァに変に思われることはない。ここはそういう街でもある。心配する必要はないのに強めに注意するディルにルーチェが不満げに頬を膨らませる。その目からは「おばさんが言うのは良くて彼女である自分が言うのはダメなのか」と責めているのが読み取れた。
「へえ、そりゃけっこーなことで。惚気話なら木の穴か壺にでも向かってやってくれ」
ドアから背を離したジルヴァがこの場を離脱しようとするのを見てルーチェが声を上げる。
「逃げるの? ああ、悔しいから逃げるんだ」
「勝負した覚えはねぇなぁ」
背中を向けてヒラヒラと手を振ったジルヴァはそのまま振り返らず中へと入っていく。
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