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駆け行け

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 十六歳の誕生日パーティーは最高だった。あのあと、明け方に目を強制起床をかけられたシェフたちは飲みすぎた二日酔いだと訴えていたが、ジルヴァがメニュー黒板を爪で引っ掻いたことで全員が芋虫のように身体を動かし目を覚ました。
 朝の仕込みを終わらせたら起きてきた妹たちに朝食を食べさせて家まで送り、一度マダムの家へと帰った。すぐにまた出なければならないが、一度は家に帰らないと何を言われるかわからないため律儀に家に帰ったディルを待っていたのは不機嫌な三人だった。

「ディル、朝帰りなんて随分とひどいことするじゃない」
「ちゃんと許可は取ったはずですけど」
「でも朝帰りするなんて言ってないじゃない。あなたの十六歳の誕生日を皆で祝おうとご馳走を用意して待っていたのに全部台無しになったわ」
「パーティーがあるなんて言ってくれなかったのでないものだとばかり思っていました」

 もうマダムシンディは怖くない。何をされても平気だ。薄れかけていた魂がジルヴァによって補給されたような感覚にディルの足は数ミリ地面から浮いている状態。
 反論だけではなく生意気な言い方も目に余ると考えているマダムは手を振り上げてディルの頬に振り下ろした。乾いた音がする。行動を見ていれば叩かれるのはわかっていたが、頬を叩かれることなど幼い頃から当たり前で怖くもなんともない。母親の枯れ枝のような手と違って肉肉しい分厚い手が与える衝撃は威力が違えど耐えられないわけではなかった。

「やっぱりあんな条件受け入れるべきじゃなかったわね」

 仕事に通わせることを言っているのだろう。容易に受け入れてしまった過去の自分の行動に後悔しているのだろう。悔しそうに顔を歪めるマダムの背中をティニーが撫でている。

「あなたがあの条件を受け入れないと言ったらオレもレンタルは受け入れませんでしたけどね」
「ジンは許可させたと思うわよ。あの男はお金が全てだもの」

 ジンには弱みを握られている。太客だから断れないとハッキリ言われた時点でジンの性根はわかっているつもりだが、壊さないことを最低条件に出した時点で少し考え方を改めたディルはマダムの言葉に対しどう返そうか迷っていた。

「あの店がなくなればあなたはもう通う必要がなくな──ッ!?」

 安易に口にした言葉がディルの怒りに火をつけた。一瞬で湧き上がった怒りは殺意にも似たもので、その感情全てを目に込めてマダムを睨みつける。その怒りはチリチリと肌に微量の痛みを感じさせマダムは無意識に半歩後ろに下がった。

「な、何よその目は! 私はあなたのご主人様なのよ! その目をやめなさい!」
「あの店に手を出したら許さない。もしあの店がなんらかの被害を受けたらオレはあなたを殺します」

 あの店は自分の心の拠り所である以前にジルヴァの宝物だ。大勢の客たちがあの店で食事をすることを楽しみにしている。生きる希望にしている者もいる。それを一人の人間が自分の欲だけでどうにかしようと考えることさえ許されないのにマダムはわかっていない。自分だけが被害に遭うならまだ耐えられる。だが、誰かを巻き込むならもう容赦はしないとディルはここに来てから何百回と頭の中で繰り返した想像を実行する覚悟だけはあった。

「あなたが店を辞めればいいだけの話でしょう!? あなたが意固地になるから悪いんじゃない!」
「条件として受け入れた以上、あなたはそれを守るべきだ。オレはあなたに金を払われているからあなたに従っている。あなたが感情のままにオレの扱いを決めようとオレは抵抗しなかった。それはオレが買われた商品だから。でもあなたがルールを破るならオレも破る。あなたの一番大切な物を奪ってやる」
「人を殺す度胸なんてないくせに大口叩いて何様のつも──」
「オレがガーベージ出身だってことをお忘れなく」

 どこまで個人情報を得ているのかはわからないが、ガーベージと言っただけでマダムの顔色が青に変わる。だからといって怒りまで引いたわけではなく、身体の横で震わせる拳がマダムの感情を表している。
 犯罪を犯罪とも思っていない者が暮らす場所。警察が機能していない場所。そんな街で生まれ育ったディルにとって人を殺すことがどういうことか想像して強く出られないマダムを鼻で笑って踵を返すとティニーが声を張った。

「僕が君に審判を下す!」

 その言葉に声を上げて笑うディルが振り向いて怒りを表情に出すティニーの目を見た。

「ママを守るための正義の鉄槌とか? 本当のママの頭を潰して殺した人間は違うね」
「君だって死にかけの母親を見殺しにしただろ」

 ティニーの暴露に面白いことを聞いたと言わんばかりにマダムがニヤァッと口端を上げて歪んだ笑みを浮かべる。

「トラッシュで親を殺した人間がガーベージで親を見殺しにした人間を脅せると思ってるのか?」
「僕のは時効だよ。でも君はどうだい? 五年前の話だろう。まだ時効じゃない」
「そうね。警察に言えばあなたは逮捕されるでしょうね。そんなことになればあなたはあの店で働けなくなる。長ーい人生を塀の中で暮らすことになるのよ。豪華な食事も温かいベッドもお風呂もないひどい生活を送るしかない」
「証拠がない」
「警察に行けばあるわ。私になら喜んで差し出すでしょうね」

 賄賂を握らせればなんだって言うことを聞くと思っているのだろう。実際、ディルが知る警察も金をもらえば大抵のことはするだろうが勝ち気に笑っているのは向かいに立つ三人だけでディルは今にも声を上げて笑いそうなのを肩を揺らして噛み殺すことで堪えている。
 三対一の状況に負けないよう強がっているのだと思っているマダムのほうが先に口を開いたが、声を出したのはディルが先だった。

「証拠が残っているなら、ですけど」 

 その言葉に三人は強気に反論しなかった。腐った警察官は大勢いるが、その中でもガーベージの警察はトップクラスで腐っている。ガーベージの人間が犯罪を犯罪とも思わないのは警察が機能していないからだ。ディルの母親は誰かが刺し殺したわけじゃない。あくまでも車にはねられたのが死因。人身事故だ。それを丁寧に調べて処理するだろうか? 事故と簡単に書いて処理した可能性が高いことはマダムたちにも容易に想像がついた。

「君が証言したと言うさ」

 マダムよりもティニーのほうがまだ強気に出ている。

「なんでも話せばいいさ。何時間でも何日でも。警察が取り合ってくれれば、の話だけど」
「腐っても警察だ。君が思ってるより賢いさ」
「親の頭を叩き潰した子供を捕まえなかった警察の機能を信用してるのか?」

 怒りに顔を歪めるティニーの肩にジョージが手を置き、後ろに下がらせる。一歩前に出たジョージがその場で仁王立ちして首を軽く傾けた。

「ママがあの店を潰してお前がママを殺すことに成功しても捕まらないと思ってるのか? マダムシンディを殺しておいて?」

 ディルの表情が少し険しいものへと変わった。その表情を見たジョージが代わりに笑顔を浮かべて整った歯並びを見せつける。
 
「マダムシンディを殺して警察が動かないと思うのか? ガーベージで殺そうとトラッシュで殺そうと警察は動くぞ。都市部の警察でさえな」

 ディルも捕まらないとは思っていない。警察は動くだろうし、間違いなく自分は捕まるだろうその場面まで容易に想像できてしまうが、だからといって実行しないことはないだろう。あの店はジルヴァの魂も同然。ジルヴァが全てを失ったのにマダムだけ平然と安全な場所で生かしておくわけにはいかない。
 ジルヴァの店に火をつければ燃え上がるまで一瞬だろう。だからジルヴァは火を使うシェフたちがうんざりするほど火の確認については今も毎日口にする。『消し忘れて店が燃えたら犯人をその中にぶち込む』と脅しではない言葉と共に。マダムシンディの屋敷はきっと燃え上がるまでに時間がかかり、これだけ大勢の使用人がいるのだからあっという間に鎮火させてしまうだろう。店を燃やしたのだから家を燃やす、では対等ではない。身勝手な行為で最愛の人の大事な物を奪ったのだからディルは自分の人生を引き換えにしてでもマダムを殺すつもりだった。たとえそれで命を落とすことになろうとも。だからジョージの言葉に震えはしない。

「そうやって脅せばオレが従うとでも思ってるのか?」
「あなたの勝手をジンが許すと思う?」
「オレは別にジンに借りを作って従ってるわけじゃない」
「親を見殺しにしたことをネタに脅されてるんだよね? ママを怒らせたことが知られたら困るんじゃない?」
「別に。オレは昨日十六になった。成人なんだよ。金さえあればどこにだって家を借りられる。ガーベージから出ることもできる」
「私を怒らせてこの国で悠々と生きていけると思ってるの?」

 難しいかもしれない。ガーベージの警察は怠惰でどうしようもない腐敗した人間が配属され、犯罪に身を染めた人間にとっては住み心地の良い場所。だが、腐敗しているからこそ動かしにくくもあり動かしやすさもある。金を握らせればすぐにでも動くはず。そうすればディルをこの街から出さないことも彼らには容易なはずだ。
 自分はあの店で一生働いていたいから今の家で暮らしてもいい。だが、妹たちだけは安全な家に移らせたい。出られなくなるのは困る。
 それでもディルは笑みを浮かべた。

「さすが、と褒めるべきですか?」
「ディル、そろそろ反抗するのやめたらどう? 私はとても心が広いほうだけど、ペットが噛みつけばちゃんと躾はするのよ」
「躾、ねぇ。本物の犬にあれを躾と称してやれば間違いなく死んでるでしょうけどね。あ、本物の犬は飼わないか。懐かないだろうから」

 バカにしたような反応にカッとなったマダムが「捕まえなさい!」と声を上げてティニーとジョージが同時に走り出し、それと同時にディルも走り出した。

「門は閉まってんだよ!」
「絶対安全で安心だって言っただろう!」

 ここは絶対安全で安心な場所。それは間違いない。だが、ディルも何もしないで絶望に浸ったままここにいたわけじゃない。

「あの野郎ッ……!」

 目的はそびえ立つ門から出ることではなく、使用人たちが外に出る際に利用する門。

「おいッ! そいつ捕まえろ!」
「逃すとマダムからお仕置きがあるよ!」

 お仕置きという言葉に慌てて顔を上げた庭師がディルに手を伸ばすもその場で手を伸ばしただけで捕まえられるはずもなく、その手から逃れるようにひらりとかわして逃げていく。焦った声が後方から聞こえる。それがおかしくてディルの顔が愉快そうに笑みを浮かべる。

「マダムから逃げられると思ってるの!? ここにいれば幸せになれるんだよ!? どうして逃げようとするんだい!? 自ら不幸になりに行くなんてどうかしてる!」
「待てよ! マダムを怒らせるとどうなるか──……」

 門の傍に置いてあった使用人の休憩ベンチ。そこを踏み台にして飛び上がると柵を掴んでそのまま外の世界へと着地する。

「マジか……」

 軽々と飛び越えたディルにジョージが唖然とする。
 二人は絶対に外まで追いかけてこない。服を着ていないのもあるが、彼らは外の世界が怖いのだ。外に出ればまた地獄に引きずり込まれるかもしれない。あのとき動かなかった警察が動くかもしれない。そんな不安に駆られたくないのだ。外に出るときはマダムシンディも一緒。彼らにとって彼女は王であり盾である。それはきっと使用人たちも同じ。訳ありばかりなのだろう。

「ママと仲良く暮らせよ」

 睨みつける二人に笑顔を見せたディルはそのまま走って屋敷から離れた。十六歳になったのだから怯えて縛られる必要はない。あれからたった一年が過ぎただけなのに成人を迎えただけで強くなれた気がした。それがとても嬉しかったのだ。
 帰る場所ならある。それも二つ。愛しい妹たちが待つボロい家と想い人がいるあの店。
 晴れ晴れとした気持ちの中、ディルは住み慣れたボロい家へと向かった。
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