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マダム襲来

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「うちの子を返してちょうだい!」

 キツい香水を撒き散らしながら乗り込んできたマダムにディルは慌てて外へと押し出そうとした。
 この店はいつも料理のイイ匂いで満ちている。それをぶち壊すような悪臭をばら撒くのはやめてくれと伸ばした手は付き添いのティニーによって防がれた。

「裏切り者がマダムに触るな」

 優男な見た目と違って意外にも力が強いティニーに掴まれた手首がミシッと音を立てる。最後まで引き留めようとしたティニーにとって外へと出ていったディルは裏切り者だが、マダムが取り返しに行くと言うから渋々ついてきたのだろう。反論すれば自分は“悪い子”になってしまうから。そしてディルと再会したことで抑え込んでいた怒りが再熱した。
 顔が歪んでしまうほどの痛みに腕を引くも離れない。それどころか動かすたびに力が強くなっている。人に握られて折れるのではないかと思うのは子供の頃以来。当時は何も考えていなかったが、今は腕が何よりも大事。補佐をするのも運ぶのも腕がなければできないこと。何があっても大事にしてきた腕への痛みに焦っていた。

「おい、手ぇ離せ」

 隣に立ったジルヴァがティニーの腕を掴んで離させた。一瞬で顔が歪んだことから相当の力を込めたことがわかる。バッと勢いよく振り払ったことでジルヴァの手は離れたが、残る痛みにティニーは顔を歪めたまま掴まれていた腕を押さえている。

「外に行ってほしい。外なら話すから」
「いいえ、ここでいいわ。ここで話をつけなきゃあなたはいつまでも私の言うことを聞かないじゃない」
「マダム──……」
「契約は終わっていないはずよ!」
「オレは更新するとは言ってない」
「それを決めるのはあなたじゃない」

 決めるのはジンだ。ジンは壊すなとマダムには言った。だからディルは壊れずにここにいる。そう言ってくれたことで彼が優しい人間であるとは思っていない。実際に一ヶ月が過ぎようと彼は「更新するぞ」の一言もなかった。金が入ればそれでいい。ジンはそういう人間だ。だから勝手に更新されているかもしれない。だが、マダムは「更新された」とは言わなかった。自分のことでありながらディルは二人の間で交わされた契約がどうなっているのか把握できていない。

「ジルヴァ、ディルから手を引いてちょうだい」
「知り合いでもねぇくせに馴れ馴れしく名前呼ぶんじゃねぇよ」
「女のくせに随分と舐めた口利くじゃねぇか」
「男のくせに女にヒィヒィ言わされて喜んでるような奴に言われたかねぇなァ」

 ディルは何も言っていない。それなのにジルヴァはまるで彼らの生活を知っているかのように言葉を返す。キッと睨みつけてくるジョージに何も知らないとディルは首を振る。

「変態ババアに飼われてる奴の末路なんざ想像する必要もねぇよ」
「口を慎みなさい! 誰に向かってそんな口利いてるの!」
「テメェだよ、クソババア」

 振り上げられた手を掴んだジルヴァが顔を寄せて間近で見つめながら悪言を囁く。それに目を見開くのではなくティニー同様に顔を歪めるマダムにジルヴァは意外にもかなりの力をこめていた。
 ジルヴァの囁きさえもったいないと言わんばかりにディルがジルヴァの服を引っ張る。顔だけ振り返ってディルの目を見たジルヴァが口元に笑みを浮かべながらパッとマダムの手を離して一歩下がった。

「私がその子をレンタルするのにいくら払ったか知ってる?」
「知らねぇよ」
「あなたがその子に払う一年分の給料の五倍は払ってるの」

 五倍と言われ、ジルヴァがディルを見る。

「お前、セール品になってんのか?」
「え?」
「随分安く売られてんじゃねぇか。俺でも買えるぜ」
「ジ、ジルヴァ?」
「買い取ってやろうか?」
「あ、あの……!」
 
 人差し指で顎を持ち上げられるとジルヴァの顔が近くなる。わかっている。本気で言ってるわけじゃない。ジルヴァの表情は明らかにからかって楽しんでいるときの表情だ。それでもディルは期待してしまう。どこまでが冗談なのだろうと。本気の部分も混ざっているのではないかと。先日のキスがそうだった。キスをからかいにされたことで怒ったディルが噛み付くとジルヴァはそれを受け入れた。時折見せる溺れそうなほどの甘さにディルはいつも翻弄される。だから今もそう。期待を瞳に宿したまま焦りを見せる。

「やめなさい!」

 マダムの怒声が響く。

「お金を払ってる以上は私の物よ! マダムシンディの物に手を出したらどうなるかわかってるんでしょうね?」

 その言葉にジルヴァの手がディルの顎を離れた。

「物、ねぇ」

 嘲笑混じりの言い方にマダムが不愉快そうに表情を歪める。

「変態クソババアの物に手を出したらどうなるかまでは知らねぇが、金しか持ってねぇ人間がクソ以下だってことはわかるぜ」

 ジルヴァの挑発はマダムを喜ばせる言葉だったらしく、不愉快を極めていた表情が愉快に変わった。

「それは貧乏人の嫉妬でしょ? 仕方ないわよね、こんなボロい店で毎日雀の涙にもならない額しか稼げないんだもの。貧乏人はいつもそう。お金を持ってる私に嫉妬するの。地を這って生きる人間にはそれしかできないから寛大な心で受け止めてあげてるけど、そういう姿って惨めよね」
「頭の中も脂肪でいっぱいなんだな」
「なんですって!?」
「嫌になって逃げ出した飼い犬を追いかけて返せって喚くほうが惨めじゃねぇか? 飼い主だと思われてもねぇのにそれを認めたくねんだろ?」

 ディルはマダムに突き放されてあの家を出たわけではない。自らの意思で逃げ出したのだ。ジルヴァには何も言っていない。ミーナにもシーナにもそう。それなのにジルヴァはやはり見ていたかのように口にする。
 当たっていると真っ赤にしたマダムの顔が物語っている。それでも帰るつもりはないのか、マダムはジルヴァを睨みつけて言い放った。

「このお店よりディルが大事なのかしら?」
「この店より大事な物はねぇよ」

 わかっていたことだが、あまりにもキッパリとした答え方にディルはズキンッと胸が痛むのを感じた。
 マダムはディルにこの言葉を聞かせたかったのだろう。逃げ出したとわかってすぐこうしてやってこなかったのはジルヴァがどういう人間かのリサーチをしていたからかもしれない。
 
「ディル、聞いた? この人はあなたよりもこのお店が大事なんですって。こんなところにいてもあなたは幸せになんてなれないわ。帰ってらっしゃい」

 ディルはジルヴァを見るも目は合わない。

「もう怒ってないから。またちゃんと愛してあげるから帰ってきなさい。ね? さ、おいで」

 伸ばされた手は見るだけで掴むことはしない。伸ばす素振りさえも見せないことが気に入らないマダムの表情がまた不愉快へと変わる。

「聞こえなかったの? この人はあなたよりもお店が大事なの。お店より大事な物なんてないんですって。あなたがどんな感情を持っていてもそれは変わらないの。わかる?」
「俺の中じゃコイツは物じゃねぇからな」

 ディルの胸が震える。
 ジルヴァはいつもそうだ。期待してはいけないんだと思わせておいて期待させるようなことを言う。期待するなと言うほうがムリだというぐらい言葉をくれる。

「……お店を失うことになってもその子は手放さないってことかしら? いい度胸ね」

 声が細くなるもどこか愉快そうに聞こえる声にディルが口をひらこうとするもジルヴァが腕を伸ばして待ったをかける。

「俺を脅してんのか?」
「聞いてるだけよ」
「へえ、そうかよ」

 ジルヴァの顔に笑みが宿る。それはディルでさえ見たことがない満面の笑みだが、見惚れないのは見ているとなぜか全身粟立ったから。ジルヴァは絶対何か企んでいると思わせる笑みだ。

「ジルヴァの店に手を出したら許さないって言ったの忘れたわけ?」

 ディルがあの日と同じようにマダムを睨みつけるもマダムは逆に笑って返す。

「許さないって言ってもあなたには何もできないでしょう? それとも私に対抗できる術があるって言うのかしら?」
「……今更一人増えたところで──」

 殺すとハッキリ言葉にはしないものの見殺しも殺しも同じだと思う自分がいて、ジルヴァの店を守るためなら今度は本当に刑務所に入っても構わないと思っていた。マダムを殺す前にジョージとティニーをなんとかしなければならない問題はあるもののやるしかないと拳を握ったディルの口をジルヴァが手で覆う。

「人身売買に関わってる奴は何が善で何が悪かもわからなくなってんだよな。こえーわ」

 ククッと喉奥を鳴らしたジルヴァの言葉に全員が目を見開く。ジョージとティニーもそのことについては知らなかったのだろう。ひどい顔でマダムを見ていた。 
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