十歳で運命の相手を見つけた少年は小さな幸せを夢見る

永江寧々

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バケモノと呼ばれて3

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 だが、痛みが襲いくることはなかった。

「ど、して……」

 甲高い笑い声が急に怯え震え始めたことに気付いたジルヴァが目を開けると仕事に行ったはずの父親が立っていた。家に入ってきた足音は聞こえなかった。出るときに忘れ物がないかジルヴァと確認し合った夫が帰ってくる理由はないはずなのにと目にも顔色にも恐怖を宿すアリーゼの腕が軋む。

「面白そうなことやってんじゃねぇか。その遊びは知らねぇわ。なんつー遊びか教えてくれよ」
「会社に行ったんじゃ……」
「会社? ああ、必死で働いてきた従業員になんの報告もなく会社のドアに倒産って書いた紙貼り付けてたあのクソ会社のことなら従業員から感謝の意を込めて火ぃ付けて萌えてるわ」

 夫が働いていた会社が倒産した。無職無一文。それはショックを受けるほど大きな問題だが、今はそれよりも最悪のタイミングで夫が帰ってきてしまったことにアリーゼは焦っている。全身が震え、昂っていた感情が冷えていくのがわかる。包丁を握る手は今にも折れそうなほど軋み、痛みを感じているはずなのに焦りと恐怖のせいかそれがわからない。
 火をつけるほど腹が立っている夫に見つかっていい場面ではなかった。溺愛している我が子を愛情の欠片もない妻が殺そうとしている状況だけでも許されないのに、そこに絶望するほどの怒りが加わると許す許さないの問題ではなくなる。
 震えによって手から離れた包丁がジルヴァの上に落ちる前にフェイルがキャッチし、投げ捨てる。その強さは刃が砕けるほどで、言い訳もできないアリーゼはただ首を振るだけ。

「ジルヴァ、大丈夫か?」

 顔を上げたジルヴァの顔は予想よりもひどく、歯が欠け、涙、鼻血、涎、吐瀉物で顔が濡れている。目もすぐに腫れ始めるだろう。その姿にフェイルの裏拳が容赦なくアリーゼの頬にめりこみソファーの背面へと激突させた。

「おいおいおいおい、なんでジルヴァの顔があんな風になってんだよ。おかしいじゃねぇか」

 床に倒れたアリーゼは先程までのジルヴァと同じように身体を丸めて震えている。何も答えないアリーゼに「なんでかって聞いてんだよ!」と怒鳴るフェイルの蹴りが腹に飛んできた。目が飛び出そうになるほどの衝撃に開いた口から大量の唾が飛ぶ。

「無視してんじゃねぇよ。ガキ一人育てることができねぇクズでも質問ぐらいは答えられるだろ。なァ?」
「あ……の……子、が……」
「ジルヴァがお前に何か言ったのか?」
「ッ!?」

 髪を鷲掴みにして妻の顔を持ち上げながら優しい声で問いかける夫に何を期待したのか、アリーゼは迷うことなく頷いた。その直後、アリーゼの顔に夫の拳がめり込んだ。顔が歪むほどの容赦ない威力にアリーゼは声も出ない。

「ジルヴァにはお前を無視しろって言ってんだよ。それをアイツが破るわけねぇだろ。嘘ついてんじゃねぇぞクソ女。育児放棄だけならまだ大目に見てやったものをテメーはそれさえも裏切るってわけか。裏切る奴にはロクな奴がいねぇなァ……。許せねぇよ」

 何度も何度も顔を殴る。折れた鼻が大量の血を吹き出し、フェイルの拳はあっという間に血濡れになった。滴るほどの血がついた拳を止めたのはアリーゼが悲鳴のような謝罪も許してほしいとの懇願もしなくなり指一本動かさなくなってから。
 投げるように髪から手を離したフェイルがジルヴァを見た。可哀想にと眉を下げながら寄っていき、抱き上げてソファーに寝かせる。髪と頬を撫でる手は優しく、ちゃんと血のついていないほうの手でジルヴァに触っていた。

「あーこりゃ鼻折れてんな……。あとで医者に行くぞ。その前に止血しねぇと。薬箱取ってくるからちょっと待ってろ」

 優しい声で話しかけてくれるのは父親だけだった。母親はいつも憎悪のこもった目で睨みつけるばかりで声も言い方も冷たい。近くを通れば舌打ちをし、いつからか小さな声で『……ねばいいのに』と言うようになった。口ごもった言い方だが、何を言っているのかはわかるようになっていた。それでも母親と二人の時間を暫く我慢していれば父親が帰ってきて甘やかしてくれる。それだけがジルヴァの心の支えだった。
 父親が身体を洗うことも寝る場所を妻と交代させた寝室で裸で眠ることも抵抗がなかった。母親は間違っていても父親は間違っていないと思っていたから。その気持ちは今日、この事件をきっかけに強くなった。

「ったく、薬箱ぐらいわかるとこ置いとけってんだよあの役立たず」

 薬箱を使うのは傷ができるアリーゼだけでフェイルは使ったことがないためどこにあるのかわからない。洗面所にあるだろうと推測して探しているのだろうが聞こえてくるのはバタンバタンと棚の扉を閉める音と文句だけ。一緒に探すよと言いたいが、全身を這う痛みに言葉を発するのも辛い。

「おい、薬箱どこだよ! ……ったく、いつまで寝てんだこのゴミ!」

 洗面所にはなかったと戻ってきたフェイルが振り上げた足が気絶しているアリーゼの腹に振り上げられた。その衝撃に目を覚ましたアリーゼが指を震わせて二階を指差す。

「二階のどこだよ。その汚ぇ口はなんのためについてんだ。さっさと言え」

 頬を強く叩き命令するフェイルの耳には蚊が鳴くような声だが『ジル……へ、や……』と聞こえた。舌打ちをしてそのままワザと腹を踏みつけていくフェイルが階段を上がっていくも途中で振り返る。

「ジルヴァに何かしようとしてみろ。殺すぞ」

 警告にアリーゼは返事をしなかった。口を半開きにして目を閉じている様子に「ゴミが」と吐き捨てるように呟きジルヴァの部屋へと向かう。

「……し……て……やる……」

 ジルヴァの目が開く。身体が震えるほどの憎悪は瀕死状態の母親から発されており、ジルヴァ同様に、いや、それ以上にボロボロなのに身体を震わせながら起きようとしている。
 目の血管が切れて赤く染まった白目が怖い。殺される。全身の肌が粟立つほどの恐怖にジルヴァの目から涙が溢れる。逃げなきゃ。でも逃げられない。起き上がることも声を出すこともできない。

「おま、え、が、いる、か、ら……」

 腹に振り下ろされた足の威力は相当なものだったのだろう。立ち上がろうとするアリーゼの顔が歪む。骨が折れているか砕けているか、それを疑うほどの痛みが走る。それでも這いずりながらジルヴァに寄っていく。その途中で見つけた刃が欠けた包丁を掴み、それを床に突き刺して立ち上がる。

「ゃ………ッ!」

 声を出そうともするも腹筋に力を入れようとすると激痛が走る。
 その包丁をどうするつもりなのかなど聞くまでもない。血濡れの顔で包丁を握る母親がすることなど一つだけ。ジリジリと這い寄ってくる母親がダイニングの椅子を掴んで立ち上がろうとする。立ち上がるなと念を送るしかできないジルヴァにアリーゼが絶望を与える。
 支えがなければあっという間に崩れてしまうだろうアリーゼの身体。大袈裟なほど震える足を一歩前へと踏み出しながら包丁をしっかりと握り直す。腕を折られなかったのは幸いだった。夫が戻ってくる前に殺してやる。アリーゼの頭の中はそれだけだった。
 娘のことしか見ない夫。娘だけを愛する夫。娘がこんな身体で生まれてこなければ自分だって愛せた。周りに自慢して、どこの子よりも可愛い子だと神に感謝しただろう。でもできない。我が子は呪われたバケモノとして生まれてきてしまったから。こんなバケモノを世に解き放ってはいけない。殺しておかなければ。殺せば夫は絶望するが、きっとそのうち目が覚めるはず。
 殺すと言われたがアリーゼは心配していなかった。本気で言っていると分かっていても自分が死ねば誰が次の子を産むのか。フェイルはそこそこ見た目の良い男だから探せば子供を産むと言う女はいるだろう。しかし、それは安定した職に就いていることが最低条件。今日、フェイルは無職になった。女は誰も相手にしない。金を稼ぐことしかできない男が稼げなくなったらそれこそ“ゴミ”も同然。愛しい愛しい我が子をもう一度手に入れるためには自分が必要だとそう考えるだけで笑顔になれる。
 血濡れた顔で笑みを浮かべる母親に吐き気がする。吐き続けたせいで胃にはもう何も残っていない。それこそ胃酸だって。
 異常性を感じさせる母親がすぐ近くまで来た。包丁を握りしめた手を掴んで抵抗することもできないジルヴァは覚悟するしかなかった。母親が殴られていたとき、必死で止めていればこんなことにはならなかったのだろうか。父親の言葉を真に受けず母親に優しく接していたらこんなことにはならなかったのだろうか。考えるだけ無意味なことがグルグルと頭の中を回って涙が止まらない。しゃくり上げることさえ身体を痛める中、涙で覆われた視界から母親を消すためにジルヴァは目を閉じた。

「はい、しゅーりょー」

 父親の軽い声が聞こえた。この声はいつも鬼ごっこやテーブルゲームをしたときに出す声だ。あれは夢で自分は居眠りでもしていたのだろうかと目を開けた。

「がッ……ぁ、なた……ッ」

 夢ではなかった。血塗れの母親の背後には父親が立っていて腕で首を絞めるヘッドロックがキマっている。ごっこ遊びではないそれは隙間なく密着することで母親の息を掠れさせる。殴られているときでさえ身を守るばかりで夫に抵抗しようとしなかったアリーゼがフェイルの腕に爪を立てる。空気を逃す音が出るだけの母親の口は何か言おうと動いているのか酸素を取り込もうと動いているのか、必死に動き回っている。それでも出てくるのは同じ音ばかりで吸えてはいない。

「最期に言いたいことはあるか?」

 アリーゼの目が見開かれる。本気だ。本気で殺そうとしている。自分がいなければならないはずなのにと予想と違う結末へと向かっていることに焦りを感じて暴れるアリーゼは襲いくる痛みは感じていない。何度も爪を立てて引き剥がそうとするもフェイルの太い腕は緩むどころか締まるばかり。
 顔が熱を感じ、圧迫を感じ、目が飛び出るのではないかと思うほどの感覚に喉奥から絞り出した断末魔のような「アアァァアアアッ!」という声を上げたあと、ジルヴァの耳にも聞こえるほど骨が折れる大きな音がした。
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