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家族だから
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家族──その存在を早くに失くしたジルヴァにとって三人で生きるディルたちはときに目を細めたくなるほど眩しく、そして守ってやりたいと思うほど愛おしい存在となっていた。
ガーベージから出るのは正しい判断。未来ある若者があんな場所で長く過ごすべきではない。あの場所は落ちぶれた者が最後の生き場所として選ぶ場所だ。
生まれ育ったのは仕方ない。だからといって永遠をあの場所で過ごす必要はなく、脱出を試みるのがベスト。
ディルが男娼になったのは最悪だったが、それで金を稼いだからこそ脱出できるチャンスを作れた。だから後悔する必要のない過去なのだが、一生の傷としては残ってしまうだろう。
それでも家族一緒に、と考えるのは三人同じ。交わされる意見こそ足並み揃わず平行線を辿っているが、そろそろ決めなければならない。
「シーナはあの家がいいの! お庭が二つもあるし、ブランコだってある。隣のおばあちゃんだって優しそうだったし、お風呂もキッチンもあるんだもん。今のお家にはない物ばっかり。あそこがいいよ」
シーナは「あの家がいい!」の一点張りではなくなった。ちゃんと意見を出し、なぜそれがいいのかを言えと言ってから必死に考えて発言している。素直で良い子だが、まだ話し合いが続いているのは主な話し相手がディルではなくミーナだから。
「隣のおばあちゃんが優しそうなのとあの家がいいのは関係ないよ」
「ある! だって、今まで他の人とお話しちゃダメだったんだよ? 他に見たお家だって男の人がたくさんいるからダメってなったし、ジロジロ見られるからダメって。全部ダメって言ってダメになったもん。今回は遠いだけでしょ?」
「遠いとお兄ちゃんがしんどいの」
「でもお兄ちゃんは大丈夫って言ってた!」
「そんなのシーナのために言っただけだよ! どうしてお兄ちゃんにしんどい思いさせてまで引っ越したいって言うの? お兄ちゃんが可哀想だって思わないの?」
「思うよ! シーナだってお兄ちゃんのこと心配してるもん! どうしてミーナは自分だけお兄ちゃんの心配してるみたいな言い方するの!?」
「ミーナはお兄ちゃんがしんどい思いするの嫌なの! お兄ちゃんがしんどい思いするならミーナはあの家でいい!」
夕飯時の話し合いでは決着がつかなかったため、普段なら朝方行う仕込みを深夜に済ませたことで寝不足と時間を作って向かう引越し候補の家。
車の中でも行われる話し合いという名目の言い合い。ディルは「まあまあ」と宥めようとするが二人の言い合いはヒートアップするばかり。「ウルセェ」の一言で黙るのだが、今日はジルヴァも口を開かず両手両足を組んだまま目を閉じている。
「お兄ちゃんはシーナたちのために引っ越そうって言ってくれてるのにどうしてあのお家がいいなんて言うの!?」
「あのお家だったらミーナたちが戸締りしっかりしてたら大丈夫だから。お兄ちゃんはしんどい思いしなくていいし」
「でもずっとずっと心配することになるんだよ!?」
「ミーナたちがもっと大きくなったらそんな心配いらないし」
「最近また変な人がウロつくようになったのにどうしてそんなこと言えるの!? あそこ怖いよ!」
「でも戸締りしてれば大丈夫だよ!」
シーナは自分の意見を言うのだが、ミーナがそれを受け入れようとしない。車の中で地団駄を踏むと平坦な道を走っているのに車が上下に揺れる。
「シーナは引っ越したい!」
「じゃあもっとお兄ちゃんがお仕事に行ってもしんどくない場所にしようよ!」
「あのお家が一番だったもん!」
「ミーナはシーナと同じ部屋でもいい。狭くてもいい。ジルヴァのとこでお金払って食べるからキッチンもなくてもいい」
条件を出すから紹介できる物件が限られる。もっと条件を減らせばもっと近くでそれなりの場所があるはずだとミーナが少し前に身体を乗り出して不動産屋の男を見た。チラッと横目で見た男はそれに苦笑しながら「そうですね」と言う。ジルヴァが一緒じゃなければこの男は動かない。あくまでも憶測でしかないが、ディルはそう感じていた。だからあまり期待はできない。自ら新しい物件を紹介はしてこないだろう。
「ミーナだけのお家じゃないんだから勝手に決めないでよ!」
「シーナだけのお家じゃないんだからあのお家って決めないで!」
「決めてないもん! あのお家が良いって言ってるだけだもん!」
ジルヴァが何も言わないのがディルは怖かった。貧乏ゆすりしているわけでもポケットの中の煙草を触っているわけでもなく、かといって寝息を立てているわけでもない。目を閉じたまま黙って何を考えているのか。
「着きましたよ」
終始騒がしかった二人の言い合いがようやく一時停止され、シーナは嬉しそうに車を飛び出した。
「私はお隣に届け物をしてきます」
途中寄った店でいつもの買い物をした男が紙袋を抱えて隣への配達に向かった。
「お兄ちゃん」
「ん?」
「シーナ嫌い」
鍵を預かっていたジルヴァと一緒に先に入っていくシーナを見ながら呟くミーナに苦笑が溢れる。
「そんなこと言うな」
「だって……」
しゃがんで目線を合わせるとミーナの唇が尖り、顔が拗ねていく。
「ここからジルヴァのお店まで通うなんてムリだよ」
「やってみなきゃわからないだろ?」
「やってみてダメだったら?」
「そんとき考えよう。免許取るとか、車買うとか」
「そんなお金ないでしょ?」
「まあ、すぐにはムリだけど……兄ちゃん頑張って働くし」
笑顔を見せるディルにミーナが抱きついた。肩に目を押し当てるミーナはいつも心配の言葉をかけてくれる。お土産を買って帰ったときもそう。喜びよりも心配が先に出る。もう少し嬉しそうな顔をしてほしいと思うディルだが、それがミーナなのだ。
「またいなくなっちゃうの?」
顔を上げずに呟くように問いかける内容にディルの腕がミーナの身体に回って抱き締めるとまだこんなに小さいのだと実感する。口がもう立派に大人であるだけにこうしてたまに実感する小ささに我慢ばかりさせてきたことが申し訳なくなる。そう言わせてしまうことが辛かった。
「いなくならない。ジルヴァの店で必死に働いて毎日お前たちのいる家に帰るよ」
「本当?」
「約束しただろ? お前たちと過ごす時間が大切だからって。金よりお前たちとの時間のほうがずっと大事だって気付いたんだよ。時間かかったけどな」
多忙だった一年は“たった”一年ではなかった。なんて愚かな選択をしたのだろうと今も毎日後悔する時間がやってくる。でもどれほど悔やんでも戻ってはこないから二度と約束は破らないと決めた。
「ミーナはあのお家でいい」
「兄ちゃんは出たいな」
「どうして? ミーナ、戸締りしっかりするよ?」
「お前たちがもっと大きくなったら状況はきっと今よりずっと悪くなる。美人になっていくお前たちをお嫁さんにしたいって思う男たちがムリヤリお前たちを連れて行こうとするかもしれない。それはきっと兄ちゃんが仕事に行ってる間に起こるはずだ」
「だから戸締りを──」
そうじゃないと首を振るディルを見るミーナもわかっている。戸締りなんて言葉があの家では無意味なこと。
「あの家はもう限界なんだ。俺とジルヴァとオージの三人で押せば壊せるかもしれない。それぐらいガタがキてる。デイヴだったら一人でいいかもしれない。そんな場所でお前たちを留守番させ続けるわけにはいかなんだ」
「でも……」
デモーナだとクスッと笑ってしまう。
「ミーナ、これは兄ちゃんのわがままだ。まだあそこでいいって言うお前をムリヤリ引っ越しに付き合わせるんだから」
「わがままじゃないけど……でも……」
「兄ちゃんは通勤に時間がかかることよりもそれを嫌がってあの家に居続けている間にお前たちにもしものことがあったほうがずっと辛い。帰ったらお前たちがいなかった。抵抗した跡が目に見えてあったりしたら……耐えられない」
ミーナもシーナもジルヴァも同じぐらい大切で、この身を引き換えにしてでも守ることを惜しいとは思わない。だからこそ安全な場所へ移りたい。その願いはミーナにも届いているが、自分の妹だと実感するほど頑固で頷こうとはしない。
頭を撫でる手を払いはしないが、かといって嬉しそうにも笑わない。このお願いを聞いてしまえば兄が苦労することはわかっているから。
「今みたいにシーナと一つの部屋で暮らす」
「大きくなったら別々の部屋がいいって言い出すさ」
「言わない。シーナが自分の部屋がいいって言ったらリビングで過ごす」
「そんなことさせられない」
「どうして? 今は床で寝てるし、自分の部屋なんてないもの。平気」
引っ越したくない理由があの場所に好きな人がいるから、ならどれほど良かっただろう。それなら今すぐにでも免許を取ってムリしてでも車を買って会いに行かせるぐらいはできるのに、シーナが引っ越したくない理由は兄にこれ以上の苦労をかけたくないから。そんなこと思う必要はないのに言ったところでミーナは聞かない。
これ以上の我慢はさせたくない兄とこれ以上の苦労はかけたくない妹の思いは同じなのに交わらない。
ズルいとわかっているが、ディルは言うか迷っていた言葉を口にする。
「来年、再来年とあの家にいたら兄ちゃんはきっと何度も家に帰ることになる。皆に謝って店を抜け出してお前たちが無事か何度も何度も確認しにね」
「そんなことしなくていい!」
「ダメだ。お前たちが心配なんだよ」
「心配なんていらない! 何も起きない! 誰にも連れて行かれたりしない! ミーナたち、お兄ちゃんにも言ってない隠れ場所あるの!」
「家が壊されてもそこはお前たちを絶対に守ってくれるのか?」
嘘をつくことは簡単でもミーナはそうしなかった。できなかった。そんな嘘は見抜かれているだろうし、もし意地を張って兄が心配する“もしも”があった場合、後悔するのは兄だけではなく自分も同じだと容易に想像がつくから黙り込む。
「じゃあもっと近いお家にしようよ。お兄ちゃんがもっと簡単にお仕事に行ける場所」
「物件がな……」
「お兄ちゃーん! ミーナー! 来て来て! おばあちゃんがお話したいってー!」
いつの間にか来ていたフィリスに会釈をすると優しい笑顔が返ってくる。
「行こうか」
「うん」
ミーナの返事には勢いがあった。そこに含まれているのは諦めや開き直りではなく怒り。早歩きでシーナへと一直線で向かうミーナの表情は見えないが、シーナを睨みつけているのだろうと予想はつく。シーナよりも大人びてはいるが、怒ると厄介なのはミーナのほう。少し母親に似た部分があるためディルは慌ててその小さな背中を追いかけた。
ガーベージから出るのは正しい判断。未来ある若者があんな場所で長く過ごすべきではない。あの場所は落ちぶれた者が最後の生き場所として選ぶ場所だ。
生まれ育ったのは仕方ない。だからといって永遠をあの場所で過ごす必要はなく、脱出を試みるのがベスト。
ディルが男娼になったのは最悪だったが、それで金を稼いだからこそ脱出できるチャンスを作れた。だから後悔する必要のない過去なのだが、一生の傷としては残ってしまうだろう。
それでも家族一緒に、と考えるのは三人同じ。交わされる意見こそ足並み揃わず平行線を辿っているが、そろそろ決めなければならない。
「シーナはあの家がいいの! お庭が二つもあるし、ブランコだってある。隣のおばあちゃんだって優しそうだったし、お風呂もキッチンもあるんだもん。今のお家にはない物ばっかり。あそこがいいよ」
シーナは「あの家がいい!」の一点張りではなくなった。ちゃんと意見を出し、なぜそれがいいのかを言えと言ってから必死に考えて発言している。素直で良い子だが、まだ話し合いが続いているのは主な話し相手がディルではなくミーナだから。
「隣のおばあちゃんが優しそうなのとあの家がいいのは関係ないよ」
「ある! だって、今まで他の人とお話しちゃダメだったんだよ? 他に見たお家だって男の人がたくさんいるからダメってなったし、ジロジロ見られるからダメって。全部ダメって言ってダメになったもん。今回は遠いだけでしょ?」
「遠いとお兄ちゃんがしんどいの」
「でもお兄ちゃんは大丈夫って言ってた!」
「そんなのシーナのために言っただけだよ! どうしてお兄ちゃんにしんどい思いさせてまで引っ越したいって言うの? お兄ちゃんが可哀想だって思わないの?」
「思うよ! シーナだってお兄ちゃんのこと心配してるもん! どうしてミーナは自分だけお兄ちゃんの心配してるみたいな言い方するの!?」
「ミーナはお兄ちゃんがしんどい思いするの嫌なの! お兄ちゃんがしんどい思いするならミーナはあの家でいい!」
夕飯時の話し合いでは決着がつかなかったため、普段なら朝方行う仕込みを深夜に済ませたことで寝不足と時間を作って向かう引越し候補の家。
車の中でも行われる話し合いという名目の言い合い。ディルは「まあまあ」と宥めようとするが二人の言い合いはヒートアップするばかり。「ウルセェ」の一言で黙るのだが、今日はジルヴァも口を開かず両手両足を組んだまま目を閉じている。
「お兄ちゃんはシーナたちのために引っ越そうって言ってくれてるのにどうしてあのお家がいいなんて言うの!?」
「あのお家だったらミーナたちが戸締りしっかりしてたら大丈夫だから。お兄ちゃんはしんどい思いしなくていいし」
「でもずっとずっと心配することになるんだよ!?」
「ミーナたちがもっと大きくなったらそんな心配いらないし」
「最近また変な人がウロつくようになったのにどうしてそんなこと言えるの!? あそこ怖いよ!」
「でも戸締りしてれば大丈夫だよ!」
シーナは自分の意見を言うのだが、ミーナがそれを受け入れようとしない。車の中で地団駄を踏むと平坦な道を走っているのに車が上下に揺れる。
「シーナは引っ越したい!」
「じゃあもっとお兄ちゃんがお仕事に行ってもしんどくない場所にしようよ!」
「あのお家が一番だったもん!」
「ミーナはシーナと同じ部屋でもいい。狭くてもいい。ジルヴァのとこでお金払って食べるからキッチンもなくてもいい」
条件を出すから紹介できる物件が限られる。もっと条件を減らせばもっと近くでそれなりの場所があるはずだとミーナが少し前に身体を乗り出して不動産屋の男を見た。チラッと横目で見た男はそれに苦笑しながら「そうですね」と言う。ジルヴァが一緒じゃなければこの男は動かない。あくまでも憶測でしかないが、ディルはそう感じていた。だからあまり期待はできない。自ら新しい物件を紹介はしてこないだろう。
「ミーナだけのお家じゃないんだから勝手に決めないでよ!」
「シーナだけのお家じゃないんだからあのお家って決めないで!」
「決めてないもん! あのお家が良いって言ってるだけだもん!」
ジルヴァが何も言わないのがディルは怖かった。貧乏ゆすりしているわけでもポケットの中の煙草を触っているわけでもなく、かといって寝息を立てているわけでもない。目を閉じたまま黙って何を考えているのか。
「着きましたよ」
終始騒がしかった二人の言い合いがようやく一時停止され、シーナは嬉しそうに車を飛び出した。
「私はお隣に届け物をしてきます」
途中寄った店でいつもの買い物をした男が紙袋を抱えて隣への配達に向かった。
「お兄ちゃん」
「ん?」
「シーナ嫌い」
鍵を預かっていたジルヴァと一緒に先に入っていくシーナを見ながら呟くミーナに苦笑が溢れる。
「そんなこと言うな」
「だって……」
しゃがんで目線を合わせるとミーナの唇が尖り、顔が拗ねていく。
「ここからジルヴァのお店まで通うなんてムリだよ」
「やってみなきゃわからないだろ?」
「やってみてダメだったら?」
「そんとき考えよう。免許取るとか、車買うとか」
「そんなお金ないでしょ?」
「まあ、すぐにはムリだけど……兄ちゃん頑張って働くし」
笑顔を見せるディルにミーナが抱きついた。肩に目を押し当てるミーナはいつも心配の言葉をかけてくれる。お土産を買って帰ったときもそう。喜びよりも心配が先に出る。もう少し嬉しそうな顔をしてほしいと思うディルだが、それがミーナなのだ。
「またいなくなっちゃうの?」
顔を上げずに呟くように問いかける内容にディルの腕がミーナの身体に回って抱き締めるとまだこんなに小さいのだと実感する。口がもう立派に大人であるだけにこうしてたまに実感する小ささに我慢ばかりさせてきたことが申し訳なくなる。そう言わせてしまうことが辛かった。
「いなくならない。ジルヴァの店で必死に働いて毎日お前たちのいる家に帰るよ」
「本当?」
「約束しただろ? お前たちと過ごす時間が大切だからって。金よりお前たちとの時間のほうがずっと大事だって気付いたんだよ。時間かかったけどな」
多忙だった一年は“たった”一年ではなかった。なんて愚かな選択をしたのだろうと今も毎日後悔する時間がやってくる。でもどれほど悔やんでも戻ってはこないから二度と約束は破らないと決めた。
「ミーナはあのお家でいい」
「兄ちゃんは出たいな」
「どうして? ミーナ、戸締りしっかりするよ?」
「お前たちがもっと大きくなったら状況はきっと今よりずっと悪くなる。美人になっていくお前たちをお嫁さんにしたいって思う男たちがムリヤリお前たちを連れて行こうとするかもしれない。それはきっと兄ちゃんが仕事に行ってる間に起こるはずだ」
「だから戸締りを──」
そうじゃないと首を振るディルを見るミーナもわかっている。戸締りなんて言葉があの家では無意味なこと。
「あの家はもう限界なんだ。俺とジルヴァとオージの三人で押せば壊せるかもしれない。それぐらいガタがキてる。デイヴだったら一人でいいかもしれない。そんな場所でお前たちを留守番させ続けるわけにはいかなんだ」
「でも……」
デモーナだとクスッと笑ってしまう。
「ミーナ、これは兄ちゃんのわがままだ。まだあそこでいいって言うお前をムリヤリ引っ越しに付き合わせるんだから」
「わがままじゃないけど……でも……」
「兄ちゃんは通勤に時間がかかることよりもそれを嫌がってあの家に居続けている間にお前たちにもしものことがあったほうがずっと辛い。帰ったらお前たちがいなかった。抵抗した跡が目に見えてあったりしたら……耐えられない」
ミーナもシーナもジルヴァも同じぐらい大切で、この身を引き換えにしてでも守ることを惜しいとは思わない。だからこそ安全な場所へ移りたい。その願いはミーナにも届いているが、自分の妹だと実感するほど頑固で頷こうとはしない。
頭を撫でる手を払いはしないが、かといって嬉しそうにも笑わない。このお願いを聞いてしまえば兄が苦労することはわかっているから。
「今みたいにシーナと一つの部屋で暮らす」
「大きくなったら別々の部屋がいいって言い出すさ」
「言わない。シーナが自分の部屋がいいって言ったらリビングで過ごす」
「そんなことさせられない」
「どうして? 今は床で寝てるし、自分の部屋なんてないもの。平気」
引っ越したくない理由があの場所に好きな人がいるから、ならどれほど良かっただろう。それなら今すぐにでも免許を取ってムリしてでも車を買って会いに行かせるぐらいはできるのに、シーナが引っ越したくない理由は兄にこれ以上の苦労をかけたくないから。そんなこと思う必要はないのに言ったところでミーナは聞かない。
これ以上の我慢はさせたくない兄とこれ以上の苦労はかけたくない妹の思いは同じなのに交わらない。
ズルいとわかっているが、ディルは言うか迷っていた言葉を口にする。
「来年、再来年とあの家にいたら兄ちゃんはきっと何度も家に帰ることになる。皆に謝って店を抜け出してお前たちが無事か何度も何度も確認しにね」
「そんなことしなくていい!」
「ダメだ。お前たちが心配なんだよ」
「心配なんていらない! 何も起きない! 誰にも連れて行かれたりしない! ミーナたち、お兄ちゃんにも言ってない隠れ場所あるの!」
「家が壊されてもそこはお前たちを絶対に守ってくれるのか?」
嘘をつくことは簡単でもミーナはそうしなかった。できなかった。そんな嘘は見抜かれているだろうし、もし意地を張って兄が心配する“もしも”があった場合、後悔するのは兄だけではなく自分も同じだと容易に想像がつくから黙り込む。
「じゃあもっと近いお家にしようよ。お兄ちゃんがもっと簡単にお仕事に行ける場所」
「物件がな……」
「お兄ちゃーん! ミーナー! 来て来て! おばあちゃんがお話したいってー!」
いつの間にか来ていたフィリスに会釈をすると優しい笑顔が返ってくる。
「行こうか」
「うん」
ミーナの返事には勢いがあった。そこに含まれているのは諦めや開き直りではなく怒り。早歩きでシーナへと一直線で向かうミーナの表情は見えないが、シーナを睨みつけているのだろうと予想はつく。シーナよりも大人びてはいるが、怒ると厄介なのはミーナのほう。少し母親に似た部分があるためディルは慌ててその小さな背中を追いかけた。
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