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君がいない日々

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「あー腰が痛ぇ」

 珍しい言葉をダルそうに口にするジルヴァに厨房の仲間がニヤつく。

「タフなジルヴァを追い込むたあ、ディルもやるなぁ」
「俺が年取っただけだっつーの」
「そりゃ違いねぇや! アイツが帰ってくる頃にはお前もババアの仲間入りだぜ」
「黙って手ぇ動かせ」
「あいてっ!!」

 賑やかにこなしたランチタイムが終わった昼休み、裏口に出て煙草を吸いながら思い出すのはディルと初めて会った日のこと。
 目の前に広がる大きな野菜畑の中、まだ小さな身体で土まみれの野菜を両手に抱えていた少年。食べる物がないのだと考えずとも理解できた。自分もそうだったから。でも少年は自分が十歳の頃とは違い、オドオドしていた。盗んではいけないとわかっていながらも命を繋ぐために決行したこと。
 きっと彼が自分の子供の頃のようにふてぶてしい子供だったら追い払って終わっていたかもしれない。煙草を押し付ける真似をして脅して追い払う。そんなクズさが表に出ていたような気がする。
 ディルだから、だったのかもしれない。
 煙草の煙が嫌なくせに傍にいたいその気持ちが隠せず、内気ながら隣に座って黙っている彼に意地悪でふーっと煙草の煙を吹きかけると何度も咳をして迷惑そうな顔を見せた。それがたまらなく可愛くて何度仕掛けたことか。
 母親に愛されなくても、母親に愛されている妹を大事にし続けた良い兄であり哀れな少年が愛おしくて仕方なかった。
 そんな少年はいつの間にか大きくなって大きな夢を持つようになった。いつまで経っても自信が持てなくて、そのくせ一人で抱え込んで暴走する厄介な性格。自らの意思でそうすると決めた以上、見守るしかできないことが苦しかったが簡単に手を出して助けてしまうと彼は一層深く傷ついてしまうから知らないフリをした。それが正しかったのかどうかはわからない。あの身体に必要のない傷をいくつも負わせてしまった。開ける必要のない穴を開けて、痛みと苦しみを刻みつけた一年は本当に必要だったのか。だが、守られてばかりは居心地が悪く心苦しいことを知っているからジルヴァはずっと悩んでいた。そして結局は前に出てしまった。
 今こうして彼が夢を追いかけている結果があることは喜ばしいことで、守って良かったと思えるもの。後悔はその前。彼がもう二度と戻ってこない十五歳の一年間。

「俺も存外バカなんだよな」

 思い出すことが多すぎて笑ってしまう。
 色々なことが起こる人生だった。生まれる前には確かにあっただろう母親からの愛情は生まれると同時に失われ、父親からの異常な愛の犠牲となり、歪んで、落ちていった。あの十年間、幸せだったわけじゃない。あの頃はあの頃でそれを幸せだと思っていた。だが、ロイクに拾われてから全く違う愛情を手に入れ、そして今はそれとも違う愛を手に入れている。
 面倒事は死ぬほど嫌いなはずなのに一つの出会いで全てが変わっていった。

「手のかかる子ほど可愛いってのは本当だよな」

 ロイクに言われた言葉を自分が同じ立場になって実感する日が来るとは想像もしていなかった。あの頃は理解できなかった言葉は気持ちを何度も実感する日を繰り返している。
 あの人が何を考えてそう言っていたのか、あの顔が何を思っていたものなのか知れたのは嬉しいが、失いたくないものが増えたのは少し気まずい。

「アンタは置いてった側だからなぁ。この気持ちだけはわかんねぇだろ」

 空を見上げながら呟くと声が聞こえた気がした。

(寂しいか?)

 ふと聞こえたニヤついているのだろうことが容易に推測できる声に「寂しいよ」と答えた。
 今日からもうあの元気な声が聞こえないのだから寂しくないわけがない。でも待つと約束した。それを支えに夢を叶えて帰ってくる男を待つと決めたのだ。寂しさを噛み殺して待っているつもりだ。

「マジでババアになっちまう前に迎えに来いよ」

 今頃汽車の中だろうディルに届かぬ声をかけながら立ち上がって地面に落とした煙草を踏み潰し、店に入ろうとして立ち止まる。

「動物が食べちまうんだったな」

 ディルの言葉を思い出して拾い上げ、中へと戻っていった。 


「あー……」

 身体は疲れている。でも言葉にはしない。したところで変わらないのならわざわざ口に出す必要はない。余計に自覚するだけだ。

「一人抜けるってのはヤバいな」

 ディルが抜けて一ヶ月が経った頃、ジルヴァたちは嫌でも感じ始めている。ディルはまだシェフと呼ぶには程遠い場所にいたが周りを見て動くことができていた。失敗もあったが怒鳴ることは少なくなっていた。彼は細かな気遣いが向いている。それは幼い頃から人の顔色を伺って生きてきたせいか、よく周りを見るようになっていた。それが当たり前になっていたシェフたちはそれがないと不便だとようやく実感し始めた。だからといって誰もディルが帰って来るまでの繋ぎとして新しい者を雇おうとは言わない。今までこれでやってきたのだからやれるはずだと各々がそう思っていた。
 
「何やってんだろうな……」

 ベッドに寝転んで天井を見上げながら呟くのは自分のことか、遠く離れた場所で一人戦い続けている彼のことか。

「身体バッキバキだわ」

 ベッドに寝転びながらそう言うとディルはいつも時間をかけて丁寧にマッサージをしてくれた。代わってやると言っても『マッサージした意味がなくなる』と断った。
 鍛えられた身体をマッサージしながらディルはどう思っていたのだろう。男娼になって多くの男女を抱いて抱かれての繰り返しで、固いも柔らかいも知ったはず。もう少し柔らかいほうが好きなのだろうか、などと女々しいことを考える日もあった。そう言われたところで筋肉を落とすことはしない。そうすることで筋肉の代わりに不安に縛られてしまうだろうから。
 天井に伸ばした手を握るだけで浮かぶ血管。腕を曲げて力を入れると盛り上がる筋肉。腹に触れると滑らかとは程遠いボコボコとした感触。
 こんな身体に興奮するのだからイカれていると笑いながらサイドテーブルに手を伸ばした。
 毎日毎日飽きもせずに送られてくるディルからの手紙。ミーナとシーナは朝と学校帰りにポストを確認して兄から手紙が来ていないかを確認する。妹たちだけに送ればいいのにと自分にも送られてくる手紙を見ながら思うが、ジルヴァも毎日これを楽しみにしている自分がいることに気付いている。
 夜寝る前に彼からの手紙に目を通す。ミーナたちと違ってジルヴァは一通も返事を出していない。何を書けばいいのかわからないのだ。会えなくなってもう一ヶ月。でも修行に行ってはまだ一ヶ月。「頑張ってるか?」と書くには早すぎる。
 部屋の真ん中には便箋とペンを置いているが、一度も握っていない。いつかは書く。決めているのはそれだけ。

「よくこんだけ書くことがあるな」

 睡眠時間を削らなければ手紙を書く余裕は与えられない。朝早くから夜遅くまでずっと仕事をするのだ。油まみれ汗まみれ傷まみれになる毎日。風呂に入ったらそのままベッドにダイブ。自分を慰める時間さえ存在しないだろうはずが、ディルは睡眠時間より大事な人に手紙を書く時間を優先している。
 封筒に入っていた便箋三枚分の手紙にジルヴァの目が細くなる。その一文字一文字にゆっくりと目を通す。書いてあるのはいつもと変わらないこと。それでも書きたくなるほどディルにとっては新鮮なことばかりなのだろう。
 電話をかけてみようか。いや、眠れなくなったら困る。どっちが? 自分か? 彼か?
 相当浮かれている。こんな手紙一枚で疲れさえ吹き飛んでしまった感覚に陥るのだから末期だと笑ってしまう。

「ディル」 

 名前を呼んでも返事はない。

 彼が頑張ってる姿を想像する。怒られて、邪険にされて、失敗して、落ち込んで、でも手紙の上では元気な姿を見せる。
 昨日なかった成長を今日して、今日できなかった成長を明日する。
 甘やかされていたことを実感しながら前を向き、一流の腕に唖然とし、目を輝かせ、憧れ、夢とする。
 四年、と言っていた約束は五年に延びるだろう。それでいい。そうでなければ。
 アルフィオのようにならなくていい。アルフィオと張り合う必要ない。自分も、ディルもきっとあの男に追いつくことはできないから。
 出発の前日、ディルは「待ってて」と念押しのようには言わなかった。待っててくれる。それがわかっているから言わないでいられた。信用されているのは嬉しい反面少し寂しくもあった。
 彼の成長してる姿を想像しては嬉しくなる。
 でも、傍にいないこと、温もりが感じられないことに寒さを感じる。

「ジルヴァ」

 ノックの音に起き上がり、ドアを開けると双子が枕を抱えて眉を下げながら立っていた。

「どうした? ベッドの下にモンスターでもいたか?」

 かぶりを振る。

「一緒に寝てもいい?」

 その言葉に数回目を瞬かせたあと、ジルヴァは何も言わず二人を部屋に招き入れた。

「二人で寝てても寂しいのかよ」
「うん」

 二人だから寂しくないわけじゃない。二人いれば暖かいわけじゃない。温めてくれる人がいなければ意味がないのだ。

「ボロいベッドだからな、暴れんなよ」

 二人がベッドに上がると真ん中を空ける。

「なんだよ。固まって寝りゃいいだろ」
「ジルヴァが真ん中なの」
「シーナとミーナはジルヴァの隣」
「そうかよ。そりゃ贅沢だな」

 お邪魔しますと声をかけて空けられた真ん中のスペースに横になる。二人が枕を寄せてピッタリとくっついてくることで身動きが取れなくなるものの、五分もすれば静かな寝息が聞こえてきたことに笑みが溢れる。
 寒くはない。ここにちゃんと温もりがある。守らなければならない小さな小さな炎が二つ。その二つを抱えるように腕に軽く力を入れた。
 明日は手紙を書こう。文句がいい。お前がいないから妹たちがこっちに来て一緒に寝ることになった。いや、自慢がいいかもしれない。こっちは三人で寝てる。甘えたな妹のおかげで寒くない。と。
 手紙が来ていることに喜びながら開けた彼はその手紙を読んでどう思うだろう。

「いーなー!」

 文句にしても自慢にしてもそんな声を上げるはず。

「幸せだ」

 そう口にしてしまうほど満たされる心地良さにゆっくりと目を閉じ眠りについた。

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