顔も知らない婚約者 海を越えて夫婦になる

永江寧々

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それぞれの

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 あれからハロルドは一応、毎日ユズリハ邸に顔を出すようにしていた。
 あれだけ抱いていた嫌悪感は不思議なほど消え失せ、顔を出すのも嫌ではなくなったのだ。

「おや、今日は随分とめかしこんでおるな。オシャレ、じゃな」

 いつも見る服ではなく貴族の息子らしい立派な装いに微笑むユズリハに「変じゃないか?」と問うと頷きが返ってくる。

「今日は学校でパーティーが開催されるからそのために着替えた」
「ほう」
「アーリーンとダンスを踊るチャンスなんだ」

 普段は父親が厳しくてパーティーに出席することができないアーリーンも学校行事となれば話は別だと許されたらしく、人気だろうが自分も絶対に踊るつもりであるハロルドは気合いが入っている。
 その姿を微笑ましげに見つめるユズリハが目の前で拳を握って同じように気合いを入れる。

「逃してはならぬぞ。男ならやってきた波には乗らねばならぬ」
「チャンスを掴め、でいいんじゃないか?」
「荒波を超えてこその男」
「僕にそういうのを求めるな」
「弱気じゃのう。女はいつの世も手を引いてくれる男を望むもの。ああ、贈り物は持ったのか?」
「持った。お前のアドバイスを聞いたわけじゃないけど、髪飾りにしておいた」

 ニヤつくユズリハを見ると今は嫌悪よりも恥ずかしさが勝り、花の前に髪飾りは早かっただろうかと焦りさえ感じてしまう。
 令嬢も今日のためにドレスも髪飾りも新調しているのに髪飾りを渡すのは嫌味ではないかと余計なことが頭をよぎる。

「大丈夫。手を握ってこう言ってやれ。そなたのことを考えながら選んだ物じゃ。付けてくれ、とな」
「普通に渡す」
「なんじゃ、贈り物と台詞は二つで一つだというに。そのような心構えでは落ちる女も落とせぬぞ」
「余計なお世話だ。僕は今日は来れないってことを伝えに来ただけでアドバイスをもらいに来たわけじゃない」
「わざわざ言いに来てくれたのじゃな」
「一応な。お前が僕を待ってるといけないし」
「おお、優しきことじゃ。でも優しいだけでは女は──」
「あーうるさいうるさい! 僕は僕のやり方でいく! お前からのアドバイスは必要ない!」

 そんなキザなセリフが言えるかと両手を振って拒むと後ろで砂利を踏む音が鳴った。嫌な気配に肌が粟立つ。

「なんの話だ?」

 ウォルター・ヘインズの声だ。

「ジジ様、よく来たな。いやなに、これから学校主催の宴に行くらしくてな、父上直伝の振る舞い方を教えてやろうとしていたところじゃ」

 天性の嘘つきだと今は感心してしまう。

「ダイゴロウは豪快すぎるからな。そこが奴の長所ではあるが、ハロルドには向かないだろ」
「そうか、残念じゃ」
「お前には婚約者がいるんだ。調子に乗ってハメを外すなよ」
「わかっています」
「ならいい」
「行ってきます」
 
 逃げるように去っていったハロルドを見送るとウォルターを招いてお茶の時間にした。
 花だと言っていたのに髪飾りに変えたことから本気度が伺えると笑うユズリハを見てウォルターは事情こそ知らないが、ユズリハが楽しげに笑っているのを見て安堵する。

「ハロルドとはどうだ?」
「毎日顔を見せに来てくれるのじゃが、毎日来られると気疲れする。わらわのことを気にかけるよう圧をかけるのはやめてくれ」

 ハロルドにとっても望ましいことではないだろうと少し眉を寄せてウォルターを見た。

「だが、離れたまま暮らすわけにもいかんだろう」
「あまり強要してくれるな。わらわにはわらわのペースがある。わらわは此処で静かに暮らしたい。それはそなたにも伝えたはずじゃ」
「わかってるが、そうしていては夫婦仲は進展しないぞ。そうなれば子供がだな……」
「強要するな」
「わかった」

 クリフォードの子供よりも楽しみにしていることなだけに落ち込むウォルターに苦笑しながら手を伸ばして軽く肩を叩くと微笑みに変えた。

「天からの授かり物を期待しすぎるな。そなたの孫とは仲良くやっておる」
「ダイゴロウも楽しみにしているんだぞ」
「まだ書面上でさえ夫婦にはなっておらぬのに子の話などしてくれるな」

 ニヤつくウォルターが胸ポケットから一枚の紙を取り出した。
 
「よもや……」

 そんなはずがないと思いながら目の前に差し出された紙を見るとハロルド・ヘインズの名前が書いてあった。

「ハロルドは納得したのか?」

 こんなことを聞くこと自体馬鹿馬鹿しいことだと思いながらも口を突いて出てしまったのはハロルドが何も言わなかったから。
 ユズリハが持つハロルドの印象は感情に従う素直な男。だから何かあれば不満を言いに来るし、意見を聞きに来る。
 そのハロルドがこのサインについて何も言わなかったことが不思議だった。

「これはハロルドの字か?」
「本人に聞いてもいいぞ」

 その自信が証拠だと理解して溜息を吐いたユズリハにウォルターが訝しげる。

「嬉しくないのか?」
「そうではない。そうではないが……このような書面を必要とする意味があるのかと思うてな……」
「ダイゴロウとの約束だからな」

 父親は豪快だが用心深い性格。ウォルターとは長い付き合いだが、仕事のこととなると話は別となることが多かった。
 この結婚は何かを引き換えに結ばれたものではないが、自分の目の届かない場所に行ってしまう娘のためにと書面を用意するようウォルターに言ったのだ。
 ハロルドとユズリハ二人の直筆で書くことが必須条件。それもハロルドが書いたあとにユズリハが書くという指示まであった。

「これはお前に預けておく。書いたら見せてくれ。お前が手紙で送る際に俺の手紙も同封したい」
「……あいわかった」
「よろしくな」

 玄関が閉まるまで手を振って見送ったあと、玄関の閉まる音と同時に大きな溜息をついた。

「随分と大きな溜息だな。予想外か?」
「……いや、予想外というわけではない。ハロルドは祖父に逆らえぬ。書けと言われれば反抗せずに書くじゃろう。だが、それをわらわに言わなんだことが不思議……というか、それこそ予想外じゃ」

 ウォルターが置いていった紙を手に取ったシキが軽く揺らして呆れたように笑う。

「ダイゴロウの旦那らしいやり方だな」
「ああ……」

 二人が正式に夫婦になったという書面。仕事についても書面なしでは仕事をしないと決めている父親は家族間でも約束事には書面を用意する。それはどちらも言い訳を許さないようにするため。
 
『お前が向こうで粗末に扱われないよう俺が話をつけておいた』

 そう言っていた意味がわかった。
 書面ではないかと思っていたが、親友にまで書面を用意したりはしないだろうと思っていたユズリハの予想は大外れ。
 
「ま、ウォルター・ヘインズのサインもあるわけだし、これでお前さんがハロルド・ヘインズの妻であることは正式なものとなったわけだ。誰がなんと言おうとこれが証拠だ」
「二枚用意してはおらんのか」
「それこそあのジイさんからの信頼ってこったろうな。ヘインズ家に一枚置いてりゃ書き換えられる可能性もある」
「ウォルターはそのようなことはせぬよ」
「ジイさんはな。ジイさん亡き後はわからんさね」

 自分たちが老いるまでウォルターが生きていることはありえない。ヘインズ家の当主が変わるのも遠くない未来だ。そのとき、どうなってしまうのかは想像がつかない。
 永遠にここにいていいのかさえわからないのだ。
 ヘインズ家を継ぐのがハロルドであれば何も言われなかったのだろうが、ウォルターが没すれば息子が継ぎ、その次はその息子、長男が継ぐ。出ていけと言われれば出て行くしかない。
 そのとき、ハロルドは守ってくれるだろうか。
 愛人を作れと言ったのは自分。愛人とどこか違う国、それこそ与えられた領土で仲睦まじく暮らすかもしれない。
 金さえ与えていれば役目は果たしていることになる。愛する愛人を置いて形だけの妻を守る必要はないのだ。

「こんな書面がなんの役に立つと言うのか……」
「ないよりマシなもんも世の中にはある。お守りとかな」
「神頼みよりはマシということか」
「お前さんはシキ頼みだろ?」
「そうじゃな。神様仏様シキ様じゃ」

 笑顔を見せるユズリハの頭をシキが優しく撫でる。

「どうなろうとお前さんのことは俺が守ってやるから今から余計な心配しなさんな」
 
 だから父親はシキに行けと言い、ユズリハもシキを連れてきた。シキ自身もユズリハを異国に一人で置いておくつもりはなかったため今の選択に後悔はない。
 異国の人間はウォルター・ヘインズが基準であったため賢いのだとばかり思っていたが、ハロルドを見るとそのイメージが崩れた。年相応の甘やかされた坊ちゃんがユズリハの婚約者であることを認めたくないのはシキのほう。
 もしも、のことがあったとしてもユズリハ一人ぐらい食わせていける自信があるためシキは何も心配はしていない。
 ハロルド・ヘインズが愛人を本命としたとしてもその意思は変わらない。

「迷惑かける」
「十五年で慣れた」

 おかしそうに声を上げて笑うユズリハの笑顔を守ることが使命だとシキは自分の中でそう誓っていた。
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