顔も知らない婚約者 海を越えて夫婦になる

永江寧々

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結婚の意思

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「お前の母親は何歳で結婚したんだ?」

 家に戻るとすぐに夕飯が出てきた。肉が多かったヘインズ家と違ってここでは魚料理が多い。ハーブもスパイスも使わず塩を振って焼いただけの魚が出てくることにはじめこそ抵抗があったが、次第に慣れ、今ではその身の柔らかさに舌鼓を打つようになった。
 ふと浮かんだ問いかけにユズリハが指を一本立てたあと手を開いて五と示す。

「和の国では若い結婚は珍しくないと言ったな」

 口の中に入っていた物をごくんと飲み込んでから頷いた。

「和の国では七歳や八歳で奉公に出るのも珍しくはなく、十一歳での結婚もそれほど珍しいことではない。十七歳まで結婚せなんだら行き遅れと言われるぐらいじゃぞ」
「学生だぞ」
「和の国では女で学び舎に通う者こそ珍しい。女は家を守り夫を支える。これが和の国の考えじゃ。故にわらわも十五で結婚と言われても抵抗はなかった」
「僕はあった。結婚なんて大学を出てからだと思っていたからな。あ、言っとくけどこれは後悔とかじゃないからな。頭の中でなんとなくそう思ってただけだ」

 ユズリハに罪悪感を抱かせる前に先に言葉を発するハロルドの変化にユズリハが笑う。
 シキと二人、のんびり暮らして変化のない生活を何十年と送るだけだと覚悟していた人生がハロルドが加わったことで色が付いた。
 父親に何度も手紙を書くほど嬉しい変化を毎日のように噛み締めている。

「じゃが、不思議なことに母上はわらわが十五で結婚するのは反対と父上に噛みついておったな」

 まだ幼い頃の記憶だが、温厚な母親が珍しく父親に怒っていたのを覚えている。

「海を越える必要がどこにある。娘は商売道具じゃない。この子の親はあなただけじゃないのに勝手に決めないで。と本気で怒っておった。あれは怖かったのう。まさしく鬼の形相であった」

 怖かったと言うわりにはおかしそうに笑うユズリハにとっては良い記憶なのだろうと少し安堵した。

「母上が生きておればきっと同行しておったのではなかろうか」
「気まずいな……」
「はっはっはっはっはっはっ! じゃろうな」

 母親がいればきっと猫をかぶったまま好青年を演じ、一定の距離を置いたまま必要以上の接触はしなかっただろう。
 この家を安息の場所にすることもなければ住み着くこともなく、ユズリハに好意を持つこともなかった。
 ユズリハの母親が亡くなっていて良かったとは思っていないが、一人だったのは良かったと思ってしまう。

「母上が亡くなる日、調子が良くないと聞いて駆けつけたジジ様が母上に約束した。俺の孫が必ずユズリハを幸せにする。ハロルド・ヘインズに嫁いで良かったと心から笑えるほど幸せにするから心配するな、と泣きながら約束したのじゃ」
「勝手なことを……」
「母上もそう言っておった。孫の人生はあなたの物じゃない。子供の人生も親の物じゃない。自分の足で立って、選んで、進んでいく。そこに大人の欲を入れることは許されない、と……」

 死んでしまうのだと幼心になんとなくだがそう理解していた。それも最後まで母親の目に宿る意思は強く、言葉もハッキリしていたからユズリハはなぜ不思議とそのときは涙が流れなかった。
 
「解放してあげてとは言わない。だから約束は守って。あの子を不幸にすることだけは許さない。必ず幸せにして。母上とそう約束したから、ジジ様はきっと、あの木をここに運びたかったのじゃろうな。わらわが笑っている姿を見守れるようにと」

 ユズリハが笑っていたのは父親に憧れていたからだけではなく、母親に自分は不幸ではないとちゃんと見せるためだったのかと衝撃にハロルドの箸が止まる。
 わかっているつもりになっていた。ユズリハという女がどういう性格なのかわかっているつもりだった。でもそれは“つもり”なだけで本当に理解できてはいなかった。
 ハロルドができていたのは上辺だけの理解。
 何もできない母親を悲しませないために毎日笑顔で過ごす。それがユズリハの覚悟なのだと。

「僕はお前にどれだけ笑顔を強要してきたんだろう……」
「随分と自惚れた発言じゃのう、お前様?」

 聞き捨てならない言葉に顔を上げるとユズリハのいつもの笑顔がある。

「ここにいると煩わしいことは何もない。使用人たちの声も兄の怒声も父上の大きな笑い声も何もない、静かな空間。吹き抜ける風を感じながら好きな時間に好きなだけ寝て、本を読み、おやつを食べ、食事をし、庭を眺める。そんな自由な中にいて笑顔にならぬ者がおると思うか? 強要されたそなたには悪いが、わらわはここでの生活を謳歌しておったのじゃ。誰にも笑顔を強要などされてはおらぬ」

 言い切られてしまうと自分の自惚れかとも思うが、ユズリハの本音がどこにあるのか見抜くことはできない。
 新しい茶を持ってきたシキを見ても視線は合わず、合ったとしても教えてはくれないだろう。
 これがまだユズリハを理解しきれていない証拠だと苦笑する。

「わらわはこの小さな幸せの中で生きておるだけで充分じゃ。これ以上は求めぬよ」
「大きい幸せを掴みたいと思わないのか?」
「大きい幸せとは?」

 そう言われるとわからなくなる。どこまでが小さい幸せで、どこからが大きい幸せなのか。
 少なくとも結婚して愛し合う日々は大きな幸せと言えるのではないかと考えるが、一線を引かれたままでは大きい幸せには辿り着けない。
 触れることは許されていても心を開けっぴろげにしてはくれないユズリハに自分が大きな幸せを与えると言ったところで信じはしないだろう。
 腕を組んで首を傾げながら悩むハロルドをユズリハが笑い、その声に顔を上げた。

「悩ませてすまぬ。じゃが、考えずともよい。わらわに大きい幸せな必要ない」
「理由は?」

 できるなら幸せにしてやりたい。祖父が整えた環境の中で得た幸せではなく、自分が与えた物で幸せになってほしいと願うハロルドが真剣に問う。

「これから変わっていくかもしれないだろ? 今よりずっと夫婦らしくなるかもしれないし、子供だってわからない」
「……そうじゃな」

 検査をしてきたのだろう。十五歳で既に子供が出来ない身体だと診断を受けていながら大人になってそれが突然変異で妊娠可能となる可能性はゼロに近い。
 わからないと口にすることさえ男の自分には無責任だとわかっていながらも全てを受け入れて何もかもを諦めてほしくはなかった。
 きっとこれからユズリハへの想いはもっともっと強くなる。それはハロルド自身が言い切れること。それを言葉にするためにはもっと自分の頭で考えてユズリハを幸せにする必要がある。
 エゴだとわかっていながらも希望だけは捨てないでほしかった。 

「そなたの気持ちは嬉しい。そなたのその優しさがわらわにはとても嬉しい。もったいないと思うてしまうぐらいじゃ」

 その言葉がハロルドはなんだかとても寂しく思えた。

「幸せは大きすぎぬほうがいい。あまりに大きすぎると失うのが怖くなる。程良く幸せであれば多少失う物があろうと惜しむだけで終われる。もし仮に、いつかここを失うことになったとしても居心地の良い場所であったのにと、それだけで終えられる。新しい居住地を見つけ、あの木さえ一緒であればどこでも生きていけるじゃろう」

 続くだろう言葉の先がハロルドには読めた。

「手放せないほどの幸せを手に入れてしまえば、失うのが怖くなる。……母上を失ったときのように」

 母親を失った喪失感は言い表せないほどぽっかりと穴が空いてしまったようで、自分が自分でなくなってしまいそうだった。
 家族の太陽だった母親がいない家はまだ兄と姉と父親がいたのにそれでも母親を失った穴を埋めることはできなかった。
 今もそうだ。どこにいても母親を探してしまう。あの温もりを、あの匂いを、あの優しい声を。それでもユズリハはもう十五歳。世界の果てまで探しに行っても見つけられないことはわかっている。
 だからこそ、ようやく穴を気にしなくなった今、またあの頃のような幸せを手に入れることが怖かった。

「僕じゃ、埋められないか?」

 やはり優しいとユズリハの目元が綻ぶ。

「大役を担う必要はない」
「僕はお前の夫だぞ」
「そうじゃな」

 ユズリハからの気持ちがないわけではないという確証はある。でもそこで大きさを測れるのであれば大きくはないだろうという確証もある。
 でもそれは自分の努力不足が原因であってユズリハに問題があるとは思っていない。
 幸せになることが怖いと思っているのならそれを覆してやればいい。失わせないと誓い、安堵させてやればいいと心に誓って手を伸ばした。

「ユズリハ」

 箸を持つ手を握って名前を呼ぶと目が見開かれる。名前で呼んだことはほとんどない。本人がいない前では呼んでも本人に向かって呼ぶのはどうにも気恥ずかしさが勝ってできなかった。
 それでも先日、ユズリハが咄嗟のことといえど名前を呼んでくれたから自分もそうしようと決めた。

「僕は好きな相手じゃなきゃキスなんかしない」

 カランと箸がテーブルの上に落ちる。何か言いたげに口をぱくぱくと動かすも言葉が出てこない。

「言っとくけど、僕だって初めてだったんだからな」
「ア、アーリーン……とは……」
「してない。パーティーには母親が一緒なんだ。親の監視下でできるはずないだろ」
「じゃ、じゃが……」

 ここでハッキリ言わなければきっとこれからも本気で信じてもらうことはできないだろうと握った手を引き寄せて手の甲に口付けた。

「お前が好きだ」

 ユズリハの肩が上がり、動きが止まる。言われるとは思っていなかったのだろう。怪訝とも唖然とも言えない表情で固まっている。

「お前にひどいことをたくさん言ってきたから、何言ってるんだって思われても仕方ない。でも、お祖父様に強要されて言ってるわけじゃない。これは僕の本心だって、それだけは信じてほしい」

 ユズリハが何も言わないままハロルドを見つめ、ハロルドも返事がないことには何を言っていいのかわからなくなり沈黙が続いたあと、握っている手が軽くキュッと握り返された。

「そなたが嘘をついておるとは思うてはおらぬ。そなたは感情に素直な男。好きも嫌いもハッキリしておる故、その言葉もそなたが心から申しておるのじゃと思うておる」

 笑顔でいつもどおり穏やかな声で話すユズリハにバレていたのかと恥ずかしくなったのも束の間、言葉を終えた途端に笑顔のまま顔が真っ赤に染まっていく様子に今度はハロルドが目を見開いた。
 平常心を心掛けていただけで、本当はそうしてられるほど穏やかではなかった。
 面と向かって言われる告白に恥ずかしさが隠しきれず、表に出てしまった。

「照れてるのか?」
「て、照れてなどおらぬ!」
「へえ。そのわりには顔が真っ赤だけど?」
「こ、これは外に長くおった故の冷えのぼせというやつじゃ」
「さっきまでは赤くなかったのに? 僕が好きだって言ったら赤くなったぞ?」
「そ、それはタイミングとやらが合っただけのこと! わらわがその程度で照れるわけがなかろう! みくびるでないぞ!」

 きっとユズリハが引く一線がなくなった頃にはこの告白も笑顔で受け止めてくれる日が来るのではないかと期待している。
 これはこれで面白いからいいと思いながらもやはり目に見える一線は消えてほしい。

「お前が好きだよ、ユズリハ」
「や、やめぬか! 男がそのように何度も何度も口にするものではない! 一生に一度ぐらいでよいのじゃ!」

 手を離せと必死に腕を引くユズリハの手を解放することなく楽しげに笑いながら何度も囁くハロルドを睨みつけるユズリハ。
 笑顔が好きだ。でもそれ以外ももっとたくさん見たい。ユズリハのことがもっと知りたい。そう強く思った日だった。
 
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