たとえば、この恋に終わりがないと言われても──

永江寧々

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始まり

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「は~……これまた立派な……」

 馬から降りたアストリッドとイヴァは黄金の宮殿に感嘆の息を漏らした。
 エルヴァングの城も壁の白と植物の緑のコントラストが美しかったが、これは富の象徴である黄金の美しさ。

「アストリッド様、これ、壁を削るだけでお金になりそうです」
「絶対にしないのよ?」
「ア、アストリッド様のお顔に泥を塗るようなことはしませんよ! ちょっと言ってみただけで……」

 好奇心旺盛なイヴァには釘を刺しておかなければ何をしでかすかわからない。

「皇帝陛下、おかえりなさいませ」

 腰が曲がった老人が笑顔で出迎える。

「今戻った。ハキーム、こちらがエルヴァングのアストリッド王妃と侍女のイヴァだ」

 エルヴァングに行くという話は聞いていたのだろう。ハキームは驚いた顔もせず、二人を見て笑顔を向けた。
 太い杖が奏でる、足音よりも大きな音と共に進み、距離を詰めると「ようこそお越しくださいました」と歓迎の言葉を口にする。

「アストリッド・ルーセランと申します。皇帝陛下には命を救っていただき、感謝してもしきれません。ここまで連れてきてくださいました皇帝陛下のご厚意に今は甘える形になってしまいますが、侍女のイヴァと共に、できるだけ早く、自らの足で立てるよう努めてまいります。至らぬ点ばかりではございますが、どうかよろしくお願いいたします」

 頭を下げたアストリッドに合わせてイヴァも後ろで深々と頭を下げた。
 その様子を見たザファルの表情は複雑で、ハキームはアストリッドからザファルへと一瞥する。
 何か言いたげなハキームに気付きながらもザファルは何も言わなかった。

「用意はできているか?」
「万全でございます」
「私たちはどこか小さな離れで構いませんので──」
「帰ったか、我が弟よ」

 使用人たちが並ぶ奥からゆっくりと歩いて現れた上半身裸の男。

「兄さん……」
「皇帝陛下は兄貴に挨拶しなくてもいいってルールでも新たに作ったか?」
「見てのとおり、今帰ったばかりだ」
「あー、俺が出迎えが遅かったってことか」
「そうは言ってない。あとで挨拶に行くつもりだった」
「女を隠してか?」

 こちらを覗き込んでくる長髪の男がザファルの兄であるとわかったが、アストリッドは挨拶を怯んだ。
 彼が向ける瞳の奥に見えるのは友好ではなく怒り。それを隠そうともしない相手にどう対応すべきか分からないでいる。
 何より、ザファルにも警戒が見えた。ほんの少しだが、ザファルの腕が動き、アストリッドを隠すようにした。それがアストリッドにも彼を警戒させる理由となった。

「よかったなぁ、ザファル。狙ってた女が手に入って」
「兄さん、やめてくれ。王妃に失礼だ」
「フィルング、だったか? アイツが死ねば手に入るって言ってたじゃねぇ──」

 どこから現れたのか、水のように透き通る蛇が男の首に巻きついた。鋭い牙を見せながら口を開ける蛇の構えは万全で、一歩でも動けば噛み付くと伝えているように見えるほど威嚇している。 

「おいおい、女に聞かれたくねぇからって八つ当たりはねぇだろ」
「彼女を困惑させるような言葉は慎んでくれ」
「事実だろ?」
「ザイード様、お戯れはそこまでにしましょう」

 コンコンと軽く杖で床を叩いたハキームにザイードがチッと舌打ちをした。

「長旅でお疲れの方がいる中で、兄弟喧嘩をするのは賢い選択とは言えません」
「いいよなぁ、皇帝陛下ってだけで利益をもたらすわけでもねぇ女を迎えるのも自由なんだからなぁ」
「兄さん、王妃は疲れている。話は後でしよう」

 気に入らないと心情を顔に隠すことはせず、一歩だけ近付くとザファルがあからさまにアストリッドを守るように腕を伸ばした。
 それでもザイードは気にせず笑顔を向けた。

「ラフナディールへようこそ。アストリッド=ルーセラン・エルヴァング“元”王妃」

 言葉を刃に変えるのはとても簡単で、悪意を込めるだけで料理人が研磨した包丁よりもずっと切れ味が良くなる。
 今初めて会った相手から向けられる悪意にアストリッドは思わず目を逸らした。

「マルダーン様にお伝えしても?」
「俺はもう父親に怯えるガキじゃねぇんだよ」
「では、早速ご報告に──」
「ジジイ、俺が死んでもいいってのか?」
「まさかまさか。マルダーン様は長男のご尊顔に拳を叩きつけるまでは致しても、命まで奪うような愚かな方ではございません」
「世界では皇帝の座を次男に譲った奴を愚か者って呼ぶんだぜ」
「それもお伝えしておきましょう」
「おい、クソジジイ待て」

 ハキームがザイードを連れて行ってくれたことにザファルとアストリッドは同時に安堵の息を吐き出した。

「兄がすまない」
「いえ、私のせいで彼の機嫌を損ねてしまったようで、申し訳ございません」
「あなたのせいではない。兄は、私が皇帝に指名されてからずっとあんな調子だ」

 この短い時間の中でいくつもの疑問が浮かんではいたが、踏み込んでいいものかわからず問いかけることはしないでおいた。
 この国のことをまだ何も知らない自分が知ったような口を利きたくはない。

「あなたたちが生活する場所に案内しよう」

 ザファルの言葉を聞いて使用人たちが共に歩き始める。

「この中、すごくひんやりしてますね?」

 イヴァの疑問に隣を歩いていたイフラーシュが答えた。

「これがザファル様が皇帝に選ばれた理由の一つだよ」
「どういう意味です?」
「政治の才能はもちろんのこと、文武に優れたザファル様が皇帝になれらたのは至極当然の道筋だが、前皇帝であるマルダーン様はザファル様が得られた水の精霊の加護に期待しているとおっしゃった」
「水の精霊の加護が、ですか?」
「アレイファーン一族は代々、火の精霊の加護を受けるが、ザファル様は水の精霊に愛された。それはラフナディールの守護神であるアザラーク神からのお告げだとマルダーン様は信じておられるのだ」
「お告げ?」
「ラフナディールがより良い国へと変わる進化、そして未来への希望。それが水の精霊の加護を受けた理由なのではないかと」

 得意げに語るイフラーシュの顔は見ないまま頷き続けるイヴァは一つの疑問に辿り着いた。

「そもそも、精霊の加護ってどうやって受けるんです?」
「知らない」
「は?」
「精霊の加護を受けていないもんでね」

 思わず顔を向けたイヴァにウインクをしたイフラーシュの堂々たる返しに七星たちが呆れる。

「イフラーシュ、喋りすぎだ」

 ザファルの一言に背筋を伸ばしたイフラーシュが黙って頭を下げる。
 冷えた飲み物を飲んだあとのようにひんやりと涼しい室内に疑問を感じているのはイヴァだけでなく、アストリッドも同じ。
 ラフナディールの建物はエルヴァングとは全く違う。
 民の家もそうだったが、窓がなかった。ドアがない家もあった。そういう様式なのだとしても、窓がないのにこれだけ冷えるのは何故なのか。
 立っているだけで汗が吹き出すほどの外気を室内では感じない。
 これこそが水の精霊の加護なのだとしたら、マルダーンが期待するのも当然だと理解はできる。火の精霊の加護ではない自然の熱波。慣れているといえど、水がなくても平気というわけではない。
 ザファルが言ったように「水は命」なのだから。

「王妃、あそこがあなたに暮らしてもらう家だ」
「うっそ……!」

 宮殿から抜けて屋根のある渡り廊下を歩きながら前方に見える唯一の建物にアストリッドは思わず足を止めた。
 トンッとぶつかったイヴァがそのまま後ろからアストリッドを抱きしめる。
 もっと小さい離れを想像していただけに、二人で暮らすには大きすぎる建物にどう反応していいのかわからず苦笑が漏れた。

「安心してくれ。あそこはあなたのために建てたわけではない。あそこは賓客室として使っていた場所だ」
「今は使われていないのですか?」
「交流する国が多くなったことで、手狭になってしまい、新しい賓客室を用意したんだ。今は誰も使っていない」

 小さく安堵の息を吐き出した。

「身の回りのことは使用人に──」
「ザファル様、私が侍女であることをお忘れではないですよね?」
「ああ、そうだったな。では、お前に覚えてもらうことがたくさんある」
「お任せください! アストリッド様のお背中を押したのは私ですからね! 必要なことは全部覚えます! こう見えて仕事はできる人間なんですよ!」
「頼もしいことだ」

 ザファルは笑顔は少ないが言葉は優しい。笑顔が多いイフラーシュよりもずっと親近感が湧くとイヴァはにっこり笑った。

「服の用意などもある。暫くは使用人が行き来するが、アミーラが同席しているから安心してくれ」
「何から何まで、感謝いたします」

 使用人がドアを開けるとやはりひんやりとした空気が身体を包んだ。
 そこで頭を下げるとザファルが頷きを返すも、中に入ろうとしたアストリッドを引き止めた。

「王妃」

 振り返ったアストリッドが首を傾げる。

「自立を考えるのは今じゃなくていい。今はここで、休むことだけを考えてくれ。申し訳ないと思う必要もない。今のあなたに必要なのは自立ではなく、心身ともに休むことだ」

 真っ直ぐな言葉にアストリッドはもう一度頭を下げた。

「また来る」

 背を向けて場を離れようとしたザファルが立ち止まった。

「とと様~!」

 向かいから走ってくる笑顔の少年がザファルに飛びつくように抱きついた。
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