エリスローズの瞳に映るもの

永江寧々

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エリスローズは決断する

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「なんですかあなたたちはッ!」
「いきなり来て失礼じゃないですかッ!」

 両親の怒声に目を覚ましたエリスローズは慌てて玄関へと向かった。

「どうしたの!?」

 両親の怒声は今まで一度だって聞いたことがない。
 何があろうと自分たちの運命を受け入れて笑顔でいることを決めた人たち。愛情深く聖人のような人間。
 そんな二人が怒っている理由はなんだと想像するまでもなく目の前に広がっていた。

「……誰?」

 立派な服を着た男が一人、高そうなハンカチで鼻と口を押さえながらエリスローズを見た。

「これは……事実だったか。驚きだな」

 言葉通りの表情を見せるが、名乗りもせずに品定めのように視線を這わせる気持ち悪さにエリスローズの表情が歪む。

「誰だって聞いてんのよ」
「まずは自分からと教わらなかったのか? ああ、失敬。教育など受けいていないのだった」
「ええ、そうよ。だからあなたにこう言うわ。質問に答えるか今すぐ目の前から失せないとぶっ飛ばすわよ」
「口を慎め!」
「だったらさっさと失せればいいでしょ!」

 嫌な予感が消えない。頭の中でずっと警報が鳴り響いている。
 国はスラム街には目を向けないはず。ここは不法地帯も同然。
 だがこの男たちは明らかに国と関わりのある人間。でなければ後ろにいる男たちが同じ制服を着ていることに説明がつかない。
 
「ねーね……ふえっ……ぅえええッ」
「メイ、ごめんね。大丈夫だよ。お姉ちゃん怒ってないからね」

 怒ったことがないのはエリスローズも同じ。きょうだいの前ではいつも笑顔で過ごしてきた。
 怖がって泣き出す妹を抱きしめて背中を撫でながらも顔は男に向ける。

「この書類にサインしろ。そうすれば金を渡す」

 なんの説明もなく一枚の紙を見せる男が言い放つ不躾な言葉にエリスローズが唇を噛み締める。
 スラム街の人間には説明さえも必要ないと思っているのかと。
 
「早くしろ。こんな肥溜めのような場所に長居はできん。臭くて鼻が曲がりそうだ」
「なんの書類か聞いてない。アンタがどこの誰なのかもね」
「国王の勅命で来ていると言えばゴミでもわかるだろう」

 全員が耳を疑ったが、エリスローズは嫌な予感が当たってしまったと大きく跳ねる心臓が今にも止まってしまいそうだった。
 このスラム街を潰すという話だったらどうしようと怖くてたまらない。

「その内容を教えろって言ってるの。学があるのにそんなこともわからないわけ?」
「これ重要秘密事項だ。ここで説明するわけにはいかん。いいからさっさとサインしろ!」
「アンタが説明するのが先か、アンタの鼻が曲がるのが先か楽しみね」

 ここが国に潰されても貧民街はスラム街の人間を受け入れはしないだろう。
 きょうだいはまだ幼い。これ以上の辛い目には遭わせたくない。
 エリスローズは必死だった。

「この小娘……こっちが下手に出ていれば貴様ァッ!」
「重要秘密事項なんでしょ? それをこんなゴミ捨て場にまで持ってきたのには理由がある。それも重大なね。だったら下手に出てたほうがいいんじゃない? 私が機嫌損ねるかもしれないわよ」

 悔しさにギリッと歯を鳴らす男に向ける嘲笑。
 プライドだけが無駄に高い男を挑発するのはダンの機嫌を取るより簡単なこと。

「……他のゴミに話を聞かれない場所はないのか?」
「ご覧の通り、ここには窓もなければドアもない。他の家もそうよ」
「クソッ。上に行くぞ! ここよりはマシなはずだ! こんな場所耐えられん! ついてこい!」

 限界だったのか、足早に階段へと向かった男は階段に着くまでに嘔吐していた。
 吐いた後に息を吸うとその空気にまた嘔吐する。
 なぜあんな男がこんな場所、それもこの家にやってきたのかわからないエリスローズは困惑しながら両親を見ると二人はどこか思い詰めたような顔をしていた。

「何を言われたの?」

 問いかけても返事はない。
 何か言われたのだ。

「ロイ、ちょっと言ってくるからシオンとメイのこと見ててくれる?」
「俺も行く!」
「ロイ、お父さんたちが行くからお前は二人を頼む」
「俺だって──……」
「ロイ、お願いね」
「……わかった……」

 姉に関わることであるのは間違いない。
 嫁にもらわれるのではないかとありもしないことを考えて不安になったロイは自分も行くと主張するが三人から二人の世話を頼まれてはそれ以上駄々をこねることはできなかった。
 拳を握り締めながらシオンとメイを座らせるとその場に一緒に座った。

「お父さん、お母さん」
「エリーは何も心配しなくていい」

 その言葉だけで心配になる。
 後ろを歩く兵士たちの圧に早歩きで階段を上がっていく。

「部屋を貸せ! 誰も近付けるな!!」

 貧困街の宿屋に入った男が横暴な態度で二階の部屋へと上がっていく。
 それを追って部屋に入ると狭いがちゃんとしたベッドと少し傷んだ小さなテーブルがあった。

「お前がさっさとサインをすればこんな汚い場所まで来ることはなかったんだ。スラムのガキが手間取らせやがって」
「サインしてほしいならもっとちゃんとした態度でお願いしたほうがいんじゃない?」
「このガキッ!」
「大臣おやめください! 顔に傷でも付けたら首が飛びます!」
「クソッ!」

 兵士が二人がかりで羽交締めにして止めると地団駄を踏んで乱暴に頭を掻いて苛立ちを抑えている。
 兵士に持たせていた書類を奪って思いきりテーブルに叩きつけるとテーブルがミシッと音を立てた。

「なんの書類かって何度言わせるの?」

 私が代わりにと大臣に小声で言った兵士がエリスローズの前に立つ。

「エリーナ王太子妃が行方不明となっている」
「大事件ね」

 驚きはしない。王太子妃が行方不明になろうと国王が暗殺されようとスラム街は変わらないのだから興味がない。

「お前はエリーナ様に似ている。エリーナ様が見つかるまでお前に身代わりになってもらいたい」

 それには驚いた。
 ずっと立ち退きだと思っていたため違ったことに安堵はあるが、自分が王太子妃に似ているということも身代わりを要請されていることも現実とは思えない内容にエリスローズが固まる。

「お前がもし契約すると言うのなら金を支払う。お前たちが一生かかっても稼げん大金だ。ほれ、これは前金だ」

 床に放られた小袋の紐が緩んで中身が見えた。
 ギッシリと入っている金貨。自分の顔が映りそうなほどピカピカに輝く金貨は一生かかっても手に入れられない物。
 前金というが、これだけあればスラム街から出て貧民街を超え、平民として家を買うことだってできるだけの額がある。
 それでも両親はその金を見ようとはしなかった。

「お断りします」

 ハッキリと断った父親に驚いたのはエリスローズだけ。母親も同じ意見なのか驚いた様子はない。

「断る権利などあると思っているのか? ゴミの分際で断れると思っているのか!?」
「ゴミ捨て場で暮らしていようと私たちは人間です。感情もあれば心もある。それを上から金で踏みにじろうとするような人間の願いを聞くつもりなどありません」
「お前たちが一生かかっても稼げない額だぞ! これは前金だ! 前金でこれなんだぞ! お前の娘を王宮に出せばこれの五倍は出ることになっているんだ!」
「お金の問題ではありません。そちらの問題に娘を巻き込まないでください!」

 ああ、本当にこの二人の子供で良かったと心から思う瞬間だった。
 十九年間生きてきて何度もそう思う瞬間があった。
 お姫様になりたいと夢を語ったときも二人は笑わずに話を聞いてくれた。
 いつだって愛をくれた。
 お金はなくとも愛だけはこの世界の誰よりも持っている。二人はそういう人だ。
 だからこそエリスローズは決断する。

「サインするわ」

 目を見開いて振り返る両親に笑顔を見せる。

「行かなくていい!!」

 父親の怒声にエリスローズは苦笑するが、もう決めたことだと首を振る。

「大事な娘を物のように扱われることがわかっていて契約などさせられるものか!」
「お前たちが親としての甲斐性がないから子供が苦労するんだ。親としての役目も果たせんゴミ以下の分際でギャアギャアと喚き立てるな。お前たちが吐き出す息は汚染されているんだぞ」

 ハンカチで口を押さえながら顔の前で悪臭を払うように手を動かす大臣をエリスローズが睨みつける。

「私が行かなきゃ困るのはそっちよね?」
「……ハッ、それで強気に出たつもりか? お前こそ我らにそんな態度を取っていいと思っているのか? これはチャンスなんだぞ。ゴミ箱の中から這いずり出すチャンスを、家族を養ってやれる唯一のチャンスだ。それを生意気な態度でミスミス逃すと?」
「それはアンタたちにも言えることでしょ。ゴミ箱に頭を突っ込まなきゃいけないぐらい切羽詰まってるくせに尊大な態度取ってんじゃないわよ」

 怯まないエリスローズに大臣が怒りで身体を震わせる。

「私を誰だと思っている! お前なんかが口を利ける相手じゃないんだぞ!」
「ゲロジジイが偉そうに」
「ッ~!! スラム街を潰す案を出したっていいんだぞ!」

 カッとなったエリスローズがテーブルを蹴飛ばし壁にぶつける。
 さすがに驚いた顔を見せる大臣だが、すぐに鼻で笑って余裕の態度を見せた。

「スラムは女さえ凶暴か。礼儀も知らんゴミめ」 
「礼儀を欠いた奴に見せる礼儀を持ってないだけよ。その目が眩みそうなほど高い服が汚染される前に帰れば? そんで国王にでも伝えなさいよ。見つけはしたけどあまりの生意気さに腹が立ったので帰ってきましたってね!」
「せっかくこの私がチャンスをやったというのに……ゴミの分際で貴様ァッ!」

 拾い上げた書類を破ろうとする大臣を兵士たちが止める。

「大臣! ここで決めなければまた一から探し直すことになります! もう時間がありません!!」

 切羽詰まっているのは向こうだとわかっている。
 怒りで息を切らせながら書類を兵士に渡した大臣がベッドに腰掛けた。
 それをペンと共に差し出してくる兵士にエリスローズが肩を竦める。

「読んでよ」
「ハッハッハッハッハッハッ! 字が読めんのだろう! ハッ、生産することしかできん親の元に生まれると哀れだな!」

 大声でバカにする大臣に両親が震える。
 子供を産むことはできてもまともな教育を受けさせてやれないのは事実。
 十九歳になる娘は字を読むことも自分の名前を書くことさえできない。
 自分の名前がどういう文字で綴られるのかも知らないのだ。
 親として申し訳ない気持ちでいっぱいだった。

「私は確かに字が読めないし書けない。でもアンタは私の言葉が理解できないみたいね。アンタの親はアンタを賢く産んではくれなかったわけね」
「なんだと!?」
「読み上げろって言ったのよ」

 どこまでも強気な態度を崩さないエリスローズに拳を震わせながらも必死に堪える大臣は兵士に読めと命令して兵士が内容を読み上げ始めた。

 契約は意外にもしっかりしたものだった。
 王妃としての振る舞いを身につけることは当然のこと、契約金だけではなく毎月の賃金を支払うという項目があったことには驚いた。
 
「ストップ」

 エリスローズの声に大臣が大きな舌打ちを鳴らす。

「まず家を用意して。五人が暮らしていけるだけの大きな家。それも安全な場所に。お風呂や調理場がちゃんとついてること。ベッドも何もかも平民の暮らしと同じ生活を家族にさせて。それから契約金はその家で全部受け取る。そして毎月の賃金は私が自分の手で運ぶ。これが絶対条件よ」
「ゴミが人間のような暮らしを望むつもりか! 笑わせるな!」

 嘲笑する大臣の前に腕を出した兵士がエリスローズを見る。

「それは我らでは判断できない。王の許可がいる」
「じゃあさっさと掛け合ってきて。でなきゃ契約はしない」
「わかった。今日中に返事を持ってくる」
「覚えていろ!」

 なぜ大臣より兵士のほうが利口なのか謎だったが、今のエリスローズにはそれに言い返す気力がなかった。
 バタンッとドアが閉まると同時に床に座り込んでしまう。

「エリー!」
「大丈夫かい!?」
「大丈夫よ。平気。疲れただけ」

 震えた手は見せずに笑顔を見せる。

「どうしてあんなこと言うの! 行く必要なんてないんだから!」
「じゃあこれからどうやってロイたちを食べさせていくの? あの子たちはこれからどんどん食べるようになる。今の食事じゃ足りないわ」

 エリスローズの言葉に両親が黙る。

「二人が病気になったらどうする? 私の稼ぎだけじゃあの子たちを食べさせることはできない。ありえないことじゃないでしょ?」

 働き方からしていつ病気や怪我をしてもおかしくない二人は生涯元気でいると約束することができない。
 女一人働いたところで稼ぎなどないも同然の額。
 現実を見ているのは娘だけだと二人は頭を抱える。

「私たちのせいで散々辛い思いをさせてきたのにまだお前に辛い思いをさせなければならないのかッ」

 泣き出す父親を抱きしめながらエリスローズは笑顔を見せる。

「あの男が言ってたようにこれはチャンスなの。上手くいけば毎日ちゃんとした食事ができるのよ。幸せな日々があるの」
「お前を犠牲にして得られる幸せなどあるはずがないだろう!」

 向けられる怒声に含まれる悲痛さにエリスローズは一度目を閉じる。
 優しい人だと感謝せずにはいられない。
 この人たちが親でなければ自分を犠牲にしようとは思わなかっただろう。
 
「私のことを心配する必要なんてないのよ。王宮に行って王太子妃の代わりをするのよ? マナーだなんだは教えられるでしょうけど、そのための食事は豪華なはず。寝床だって床じゃないだろうし、身綺麗にだってするはず。今よりずっと良い生活をしてるから心配しないで」

 外に出るときだけのことかもしれない。
 食事だってマナーを覚えたら質素な物にされるかもしれない。それはわからない。
 街に出たことさえ娘が王宮で生きていけるのかとエリスローズも不安がないわけではないが、これ以上心配して欲しくはなかった。

「お父さんたちは私たちのために身を粉にして働いてくれた」
「親が子のためにするのは当たり前だ!」
「でも私たちは家族よ。今度は私が恩返しをする番なの」
「もうじゅうぶんしてくれたじゃない!」
「足りないのよ。全然足りない。今回のことが、私ができる唯一の恩返しなの。だから受け取って」

 咽び泣く両親にエリスローズも泣きそうになった。
 だが泣くわけにはいかない。心配させないためにも笑顔で行かなければならないのだから。

「あー……悪いんだが、用が済んだなら出てってもらえるか?」

 宿屋の店主が少し迷惑そうな顔で控えめに伝えてきた。
 泣き崩れる妻を支えながら泣く父親の背中に腕を回して三人は一緒に家へと戻った。
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