エリスローズの瞳に映るもの

永江寧々

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エリスローズは入城する

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「すごい……」

 中に入って驚いたのはその広さ。
 エリスローズは確かに五人で暮らせる広さの家を用意しろと言った。
 だがこれは五人で暮らすには広すぎる。
 誰かに警戒する必要のない鍵付きのドア。
 風が吹き込むことのない窓。
 ピカピカに磨かれた床。

 スラム街で生きてきたエリスローズたちにとってここは別世界そのもの。
 ボロ布を身にまとう者たちには分不相応な場所だ。
 それでも五人は今日からここの住人となる。
 
「ここは王太子が所有する物件の一つだ。長い間使用していないため許可を出してくださった。感謝するように」
「王太子……」

 王妃が戻るまでの仮の夫となる相手。
 顔も名前も知らない相手だが、どうだっていい。興味もない。

「ロイ、これはお風呂って言ってね、温めた水を入れて身体を綺麗にする場所なの」
「……雨の日に洗えるし」
「もうそんなことしなくていいの」

 立派な猫足バスタブ。その横には湯を沸かすためのストーブがある。
 もう雨が降った日に外に出て頭や身体を洗い、ついでに服の洗濯をする必要はないのだ。
 弟たちはお湯というものを知らない。ガスも通っていないスラム街で湯に触れることはできない。
 風呂というものを経験したらきっと驚くだろう。その姿を見られないのが残念だった。

「使い方を教えてあげてね」
「わかった」

 兵士の頷きに頷き返してロイのを手を引っ張り、別の部屋へと向かう。

 テーブルと椅子が置いてある部屋が多い。
 なんのために使う部屋なのかがわからず、中を覗くだけでどんどん通り過ぎていくと両親が一室の入り口で戸惑ったように立っていた。

「どうしたの?」
「ああ、エリー……これ……寝床、だろうか?」
「ん?」

 中に顔だけ入れてわかった。
 二人が戸惑うのも無理はない。

「ロイ見て! すごい! 今日からここで眠るのよ!」

 だが、エリスローズは信じられないほど興奮していた。戸惑いはない。
 今まで眠っていたのは床の上。馬車のシートはシオンとメイが使っていた。
 汚いクッションが枕代わり。
 ロイの手を引いて一緒に中に入ると抱き上げてベッドに座らせた。
 大きなクッションのような、クッションよりも遥かに柔らかなマットレスの感触に驚いた顔を見せるロイにエリスローズが笑う。

「大きな寝床!皆で寝られる大きさよ!」

 触り心地のいいシルクのシーツ。枕も何もかもが真っ白で気持ちがいい。
 貧困街にある宿屋のシーツは黄ばんでいて白ではない。
 エリスローズが住んでいた家には絶対に入らないだろう大きなベッドに五人が眠っている光景を想像する。
 風呂で髪も身体も綺麗にして、新品の寝巻きに身を包んで眠る姿を。
 そこに自分もいられたらどんなにいいだろう。
 だが自分がいたらこのベッド一つでは足りない。
 メイとシオンとロイはまだそんなに大きくないから一緒に眠れるのだ。

「嬉しくない?」

 どこを見ても喜び一つ見せないロイの顔を覗き込むと今にも泣き出しそうな顔をしていた。

「ロイ?」

 声をかけると抱きついてきた。

「今日からここはあなたの家よ。寒さに震えることもないし、雨水を飲まなくてもいい。今日食べる物を心配する必要もないの。皆で安心して眠れるわ」

 あの家で過ごす日々に辛さはなかった。食べられない日があることには慣れていたし、何より笑顔があった。
 一番辛かったのは雨が降ったときと雪が降ったときの寒さに震えること。雨水を飲んでお腹を壊すきょうだいを見るのも辛かった。
 ここにいればそんな心配をすることはない。
 明日を生きられるかの心配をする必要がないだけでエリスローズはこの契約を結んだことに後悔はない。

「でもそこにエリーがいない……」

 心残りがあるとすればそれはロイのこと。
 シオンとメイが両親に甘えるからロイは甘える場所がない。
 だが、ロイは二人の世話をする兄として二人の前では何があろうと兄の顔をしていなければならないのだ。どんなに甘えたい瞬間があろうとも。
 エリーが帰ってきたときだけ一緒に眠って甘えていた。兄の顔をする必要もなく、姉の腕の中で弟として眠ることがロイの幸せだった。
 その時間が失われることが怖い。エリーに会えなくなることが辛い。
 エリスローズもそれがわかっているから辛かった。

「王太子妃様が帰ってくるまでの辛抱よ」
「いつ帰ってくるんだよ」
「きっとすぐよ」
「嘘だ」

 嘘じゃないと言いたいが、いつ帰るのかは王太子妃にしかわからない。
 自らいなくなったのか、それとも事件性があるのか。
 もし自らいなくなったのだとしたら王太子妃の気まぐれによるもので、そのうち帰ってくるはず。
 しかし、事件性があるものなら帰れるかどうかもわからない。
 病気説にして隠すことでもしない限りエリスローズの解放はないだろう。

「必ず帰ってくる。また皆で一緒に暮らすの」
「王太子を好きになるなよ……」
「王太子には妻がいるのよ? そんな人を好きになってどうするのよ」
「わかんないだろ! 約束しろよ!」

 恋なんてしない。ロイが、シオンが、メイがちゃんと自立するまで恋はしないと決めているのだ。
 だからその約束には躊躇しない。
 小指を差し出すと小さな指が強い力で絡んでくる。

「嘘ついたらどうする?」
「嘘つくなよ……」

 眉を下げる反応が可愛くてつい意地悪を言ってしまう。
 シオンとメイの前では絶対に見せない反応だ。
 
「約束する。ちゃんとロイのところに帰ってくるから」
「ならいいけど」

 人差し指で鼻を擦って小さなはにかみを見せるロイをもう一度抱きしめて頭にキスをする。
 お世辞にも良い匂いとは言えない。古い油のような匂いがする。それでもこれはまだマシなほう。
 三日前に雨が降ったから一応の洗髪はした。
 酷いときは鼻も近付けられないほど臭い時もある。
 痒いと頭を掻いては爪で頭皮を傷つける。カサブタになって痒くなってまた掻いての繰り返し。
 肌もそう。
 だが、もうそんな痒さや臭いに悩まされることはなくなる。
 
「そろそろ時間だ」
「もう?」
「国王陛下がお待ちだ」
「……わかった」

 ロイが悲痛な表情でエリスローズを見るが、これ以上兵士たちを待たせるわけにはいかない。
 兵士のあとを追って外に出たエリスローズはそこに用意された物に驚いた。

「すごい……」

 街から降ってくるチラシに描かれているのを見たことはあったが、実物を見るのは初めて。

「馬車っていうのよね?」
「そうだ。これで城へ向かう」

 ピカピカに磨かれたボディに映るのは汚い服を着た汚い女。
 自分はこんな顔をしていたのだと久しぶりに見た自分の顔に他人事のような感想を心の中で呟いた。
 ドアが開くと中から良い匂いがする。

「エリー!」
「ロイッ」

 駆け寄って抱きつくロイは姉に行くなとは言わない。喉元までその言葉が上がってきていようとも口には出さない。
 あのままスラム街にいれば家族はいつも通りの生活をしていただろうが、いつメイとシオンが病気になるかわからない。
 もし病気になっても薬一つ手に入れられないのだから失うのを待つしかない生活になる。
 看取るのはロイの役目。そんなのはもう二度とごめんだと目を閉じる。
 これは必要なことなんだと寂しさを押し殺してゆっくり身体を離した。

「エリー、身体に気をつけるんだよ」
「嫌だと思ったらすぐに帰ってきなさい。私たちはいつでもここを出る準備をしておくから」

 二人とも頑張れとは言わない。
 いつだってエリーのことを心配して考えてくれている。
 こんなに大きな屋敷に住めることはきっともう二度とないだろう。
 エリスローズが諦めればまたスラム街に戻ることになる。
 毎日百キロ以上はある樽をいくつもいくつも運ばされ、監視付きで少しでもフラつけば鞭で打たれる。
 そんな重労働をしても手に入れられるのは銀貨一枚。
 毎日金を持たない男の乱暴に耐えながら身体を売ることが正しい生き方とは言えない。
 それしか選べない環境にいるから選んでいただけ。
 どんなに客を取っても銀貨一枚にも交換できない額しか稼げない仕事をする必要はない。
 自分が身代わりになるだけで全員が救われるのだから帰るはずがない。

「ゆっくり身体を癒して。それで、ロイを甘やかしてあげて。私たちはロイに甘えすぎてたから、今度はロイに甘えさせてあげてね」
「もちろんだ」

 それだけを約束して手を振ると馬車に乗り込んだ。
 シオンは不思議そうな顔をしており、メイは嬉しそうに笑って手を振っている。
 家族のためにできることがある。それだけでエリスローズは幸せだった。
 
「エリーッ」

 馬車が走りだすとロイも走るが、それを父親が止めて抱き寄せた。
 追いかけたところで辛くなるだけ。
 だからエリスローズも振り返るのをやめて前を見た。

 まずは入城。それから事情説明。
 これは仕事。人生最大のこの身一つで挑む大仕事だと太ももの上で握った拳に力を入れて気合を入れた。
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