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エリスローズは忸怩する
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「本名を教えてほしい」
親交の挨拶の手紙などが送られてくるとそれに返事を出すのが王太子妃の役目。
机に向かって真剣に手紙を書くエリスローズにかけた言葉は何度目かわからない本名を求めるもの。
聞き飽きたと言わんばかりの表情を見せるエリスローズの傍に歩み寄ると背を丸めて顔を覗き込む。
「ダメかな?」
表情を作って甘える甘え上手なところもシオンによく似ているとエリスローズは口元を緩める。
「君が本名を教えないのは万が一のためだとわかってる。エリーナではない、アフロディーテなんて名前を呼んだら……まあ、アフロディーテは惚気として受け取ってもらえるけど、例えばそうだな……アリシア!なんて呼んだら大事だからね」
わざわざ紙には書かずに頷きだけで「そうですね」と答えるエリスローズ。
「女の子で定番の名前といえばなんだろう? メアリー、アリシア、アナスタシア、イザベラ、シャーロット、コンスタンツ、シェリー、エリザベス、フローラ、オリヴィア、パトリシア、スカーレット……」
どの名前にも反応を見せないエリスローズに今日もお手上げだと顔の横に両手を上げて降参ポーズを取るリオンにエリスローズがようやく顔を向ける。
「君の名前が知りたいんだ」
名前を知ったところで意味などない。
ここではエリーナとして過ごしているのだからエリーナでいい。
そう思っているのはエリスローズだけでリオンは違う。
『何度言われても名前は教えません』
「じゃあ、今度の帰省に僕も一緒に行ってもいいかな?」
エリスローズの目がこぼれそうなほど大きく見開かれ、何を言ってるんだと顔に書いた。
『前にも言いましたが──』
「わかってる。緊張するよね。でも僕は君を預かる身としてご両親に挨拶しておきたいんだ。僕が行って話をすれば安心してもらえるかもしれないし」
もうすぐ二ヶ月が経とうとしているのにエリスローズが慣れていないのは環境のせいだとわかっているが、そんな調子のまま帰れば家族はいつまで経っても安心しないのではないかと考えての提案なのだが、エリスローズは良い顔をしない。
だが、間違ってはいない。顔を見る機会さえないだろう王太子がどういう人間か知れば両親も少しは安心するかもしれないと思った。
「突然行くのもなんだから、先に手紙を送っておくよ」
意外と強引だと持っていたイメージにはない相手の性格にエリスローズは戸惑いながらも頷く。
両親はもう働かなくていい。だが心配は尽きないだろう。
娘は苦労していない。優しい人の傍にいるんだと思ってもらえれば少しは心休まるのではないかと思ったから。
だから渋々賛成するとリオンは新しい筆を取ってその場で手紙を書いた。
「これ、今すぐ僕の別荘に届けてくれるかい?」
「今すぐ、ですか?」
「大至急」
ドアの外に立っていた兵士に頼むと慌てて駆け出したのが足音でわかる。
こういった急な話をリオンからされることはないのだろう。
エリスローズとてこの二ヶ月間で急な対応を要されたことはない。
もうすぐ二度目の帰宅。
(帰ってくる、だろ?)
ロイの言葉を思い出して笑顔になる。
「僕にもそんな笑顔を向けてほしいな」
いつの間にか目の前まで戻ってきていたリオンの顔が近いことに驚いて慌てて顔を離す。
「誰のことを考えてたんだい? 家族?」
胸を押さえながら頷くと机に片方の尻を乗せて座るリオンがエリスローズの髪を一房手に取った。
「そういうのって特別だよね。自然に出る笑顔こそ本物だと思うんだ」
はりつけた笑顔が偽物であることはわかるが、そこに価値があるとは思わない。
まるで価値があるかのように話すリオンがそのまま髪に口付ける。
小さく鳴ったリップ音にエリスローズは少し気恥ずかしくなった。
「僕はまだそういうの向けてもらってないな」
『エリーナ様に向けてもらってください』
エリスローズはリオンの笑顔を見ることが多いが、同時に苦笑も多い。
ハッキリ言われた言葉には「向ける気はない」という意味が含んでいるような気がして苦笑が滲む。
真顔で言われたわけではなく笑顔で言われたのだが、それでもエリスローズの今の笑顔はさっきの笑顔とは別物で、自分に向けるものではないのだと実感してしまう。
「恋人はいる?」
首を振る。
「じゃあ恋人はいた?」
首を振る。
「好きな人は?」
首を振る。
「恋をしたことは?」
首を振る。
「……十九歳、だよね?」
頷くエリスローズにリオンが目を瞬かせる。
エリーナは二十五歳。エリスローズよりも六歳年上だが、エリスローズはちゃんとエリーナに見えるほど大人びていた。
年齢を聞いたときはリオンも驚いた。
正直言えばリオンはエリスローズの化粧をしていない顔のほうが好きだし、敬語なんて使われないほうが嬉しい。
エリーナの顔だが中身は全く違うエリスローズが見せる表情が好きと思っている。
書く字の美しさも聡明さも好きだった。
きっとよくモテただろうと思っていたのだが、今の質問の答えはリオンの想像と全く違っていて驚きに固まっていた。
『恋をして──』
紙に字を書き始めた音にリオンの意識がパッと向く。
『朝早くから織物工場で働いて終わるのは夕方。それからすぐに酒場で働いて家に帰るのは夜中。それを休みなく毎日繰り返す日々の中で恋人どころか恋をしている時間さえないんです。好きな人を作ってその人のことを考える余裕もない。だって弟たちの食べる物の心配で頭がいっぱいなんだから。恋人を作って恋人と過ごす時間を作る余裕があるなら私はその時間全てを弟たちと一緒に過ごすことに使いたい』
家族といるのが幸せで恋人が欲しいと思ったことはない。
一週間先のことさえわからない人生に余裕なんてない。
朝から夜中まで挫けず働けるのは大切な家族がいるから。
恋人がいないことを恥じたこともないエリスローズはそう書いた紙を持ち上げて見せた。
「キレイな人だね、君は。字がキレイな人は心もキレイだと言うし」
『字は教えてもらった通りに書いてるだけです』
「そう書こうと努力することもできない人は大勢いる」
『読みやすい字がいいと思っただけで──』
唇に当てられた指がエリスローズの言葉を遮る。
「カーラが言ってたよ、君は努力家だって。他人が見て認めるほどしてきた努力を当たり前のことだと卑下する必要はないんだ」
スラム街に生まれたことに卑屈にならなかったのは両親のもとに生まれたから。
それでもいつの間にか卑屈になっている部分があった。
どこに行っても吐きかけられるのは【スラム街のゴミ】という言葉。
貧困街の人間でさえそう呼ぶ。たった一つの階段があるというだけで見下されるのだ。
家族のことは愛しているし、スラム街のあのガラクタのような家が我が家だと誰にだって胸を張って紹介できる。
だが、ゴミという言葉を吐きかけられる度にエリスローズの中で摩耗していくものがあった。
それがいつしかエリスローズの中に溜まっていき、褒められても喜べないようになっていった。
この国の頂点に立つ者に褒められると尚更だ。
『ありがとうございます』
そう書きはしたが、気持ち的には最後に疑問符がついていた。
相手がダンなら笑顔を見せてキスの一つでもするのだが、相手は王太子であり、媚を売ったからと何も出てくることはないため書くだけ。
「君の唇が奏でる声はどんな色だろうね」
言い方に苦笑が出そうになるのを堪えるエリスローズは視線を泳がせる。
「君の声が聞いてみたいな」
『エリーナ様とは全然違う声ですよ』
「別人なんだから当然だよ」
『私はエリーナ様のような天使の声ではありませんし』
「天使?」
キョトンとするリオンは五秒ほど経って急に大笑いし始めた。
「エリーナの声が天使だって? 誰がそんなことを言ったんだい? どうせ母上だろう。天使の声なんてよくもそんな大嘘が……ッ、ダメだ……ははははははははッ!」
外にまで響いているだろう大きな笑い声にエリスローズも驚いていた。
エヴリーヌ王妃が天使だと言ったとき、エリスローズも笑いそうになった。天使の声を聞いたことがあるのかと言い返そうかと思ったほど。
しかし、ここまで笑うことはなかった。
腹を抱えて笑うリオンを見るのは初めてで、少し新鮮さを感じながら大笑いする様子を頬杖をついて眺めていた。
「あー笑った笑った。こんなに笑ったのは久しぶりだよ」
『大笑いでしたね』
「あの声を天使の声だなんてよく言うよ。エリーナの声は高飛車なイメージそのものだよ。天使の声とは程遠い」
『王妃様はエリーナ様を可愛がってるんですね』
「母上はカラスのように光物が好きだからエリーナが贈ってくれる宝石目当てで可愛がってるんだよ」
下心ありかと肩を竦めるエリスローズを見てリオンがクスッと笑う。
「君はどんな性格?」
『損得で動くタイプで口が悪いです』
「どんな風に口が悪いの?」
『王太子殿下には聞かせられないぐらいです』
「それは是非聞いてみたいな」
目を閉じて気取った顔で首を振るエリスローズの茶目っ気におかしそうに肩を揺らして笑うリオンが今度は親指で唇を撫でた。
「喋れないのは残念だね」
リオンはエリスローズの声が魔法使いによって封印されていることを知らない。病気か何かで喋ることができないのだと信じている。
ここで本当のことを伝えれば両親に怒鳴りに行くだろうかと考えるも、なんの得にもならないためやめた。自分が損をするだけだと容易に想像がつく。
「でも僕はこうしたやりとりも嫌いじゃないよ。このノートを見ればいつでも君との会話を思い出すことができるからね。むしろ他の人と違う特別な感じがして良いと思ってる」
『私の言葉しか書いてませんけど』
「読めば思い出せるよ」
リオンが紙ではなく紙を束ねたノートを与えてくれた。
一枚の紙だったらどこかへ行ってしまうけど、ノートだったらめくるだけでいいからと。
ノートを取って一ページ目からめくっていくリオンが目を細める。
「これは全部僕たちの思い出だから」
そう言ってノートを定位置に戻したリオンの笑顔は今まで見たことがないほど慈愛に満ちていた。
「そうだ! 何か手土産持っていかないと!」
『気を遣いますから』
「でも礼儀だからね。何が好きだい?」
『リオン様、本当に必要ないんです』
「君にあげるんじゃない。君の家族にあげる物だよ」
まさか自分が言われる側になるとは思っていなかったエリスローズは言い返せなかった。
そう言われてしまうと何も返せなくなる。
両親もこんな気持ちだったんだと今ようやくわかった。
「下は女の子だって言ったね? ぬいぐるみとか好きかな?」
『そうですね。うさぎのぬいぐるみが好きです』
台風で飛ばされてきた汚いぬいぐるみを今も大事にしている。
「シオンは何が好きだい?」
『シオンは風船が好きです』
何かのイベントのときに空を飛ぶ風船を見ては喜んでいた。
他には何も知らないため欲しがることもない。
「兄弟は他にいるの?」
『十歳のロイがいます』
「ロイ」
頷くリオンがメモをする。
名前と年齢と好きな物を書く様子にエリスローズの表情が緩む。
「ロイは何が好き?」
『……ボール、かな?』
「ボールね」
ロイはいつも弟たちの面倒を見ているため自分の時間を過ごすことはほとんどない。
スラム街では娯楽品など買えないため自分の時間があっても出来ることなど限られているのだが、目を離せない弟たちがいると全ての時間がそこに注がれてしまう。
ロイが好きな物はなんだろうと思い出すもハッキリとした物が出てこない。出てくるのは上から転がり落ちてきたボールを持っている姿ぐらい。
ちゃんと見ていなかったんだなと表情が消えるエリスローズの手をリオンが握る。
「たくさん玩具を持っていこう。彼らが好きな物で好きなだけ遊べるように」
その心遣いに少し鼻が動いた。唇が震えそうになるのを堪えると笑顔で頷く。
見ているつもりで、知っているつもりで知らないこともあって、口先ばかりの謝罪を繰り返していた自分が情けなくなる。
自分の意思で必要ないと断ろうとした自分が恥ずかしかった。
会ったこともないリオンのほうがずっと家族のことを考えてくれていると感謝の意を込めて手を握り返した。
今まで何度触れてもエリスローズから触れ返すことはなかったため今回も何も期待せずにいたリオンは驚きに目を見開くが、すぐに嬉しそうに目を細めた。
抱きしめたい気持ちはあるが、それはやりすぎかと拒まれるのが怖くて手を出さなかった。
ほんの少しではあるが、手を握り返された喜びにリオンは心が満たされていた。
親交の挨拶の手紙などが送られてくるとそれに返事を出すのが王太子妃の役目。
机に向かって真剣に手紙を書くエリスローズにかけた言葉は何度目かわからない本名を求めるもの。
聞き飽きたと言わんばかりの表情を見せるエリスローズの傍に歩み寄ると背を丸めて顔を覗き込む。
「ダメかな?」
表情を作って甘える甘え上手なところもシオンによく似ているとエリスローズは口元を緩める。
「君が本名を教えないのは万が一のためだとわかってる。エリーナではない、アフロディーテなんて名前を呼んだら……まあ、アフロディーテは惚気として受け取ってもらえるけど、例えばそうだな……アリシア!なんて呼んだら大事だからね」
わざわざ紙には書かずに頷きだけで「そうですね」と答えるエリスローズ。
「女の子で定番の名前といえばなんだろう? メアリー、アリシア、アナスタシア、イザベラ、シャーロット、コンスタンツ、シェリー、エリザベス、フローラ、オリヴィア、パトリシア、スカーレット……」
どの名前にも反応を見せないエリスローズに今日もお手上げだと顔の横に両手を上げて降参ポーズを取るリオンにエリスローズがようやく顔を向ける。
「君の名前が知りたいんだ」
名前を知ったところで意味などない。
ここではエリーナとして過ごしているのだからエリーナでいい。
そう思っているのはエリスローズだけでリオンは違う。
『何度言われても名前は教えません』
「じゃあ、今度の帰省に僕も一緒に行ってもいいかな?」
エリスローズの目がこぼれそうなほど大きく見開かれ、何を言ってるんだと顔に書いた。
『前にも言いましたが──』
「わかってる。緊張するよね。でも僕は君を預かる身としてご両親に挨拶しておきたいんだ。僕が行って話をすれば安心してもらえるかもしれないし」
もうすぐ二ヶ月が経とうとしているのにエリスローズが慣れていないのは環境のせいだとわかっているが、そんな調子のまま帰れば家族はいつまで経っても安心しないのではないかと考えての提案なのだが、エリスローズは良い顔をしない。
だが、間違ってはいない。顔を見る機会さえないだろう王太子がどういう人間か知れば両親も少しは安心するかもしれないと思った。
「突然行くのもなんだから、先に手紙を送っておくよ」
意外と強引だと持っていたイメージにはない相手の性格にエリスローズは戸惑いながらも頷く。
両親はもう働かなくていい。だが心配は尽きないだろう。
娘は苦労していない。優しい人の傍にいるんだと思ってもらえれば少しは心休まるのではないかと思ったから。
だから渋々賛成するとリオンは新しい筆を取ってその場で手紙を書いた。
「これ、今すぐ僕の別荘に届けてくれるかい?」
「今すぐ、ですか?」
「大至急」
ドアの外に立っていた兵士に頼むと慌てて駆け出したのが足音でわかる。
こういった急な話をリオンからされることはないのだろう。
エリスローズとてこの二ヶ月間で急な対応を要されたことはない。
もうすぐ二度目の帰宅。
(帰ってくる、だろ?)
ロイの言葉を思い出して笑顔になる。
「僕にもそんな笑顔を向けてほしいな」
いつの間にか目の前まで戻ってきていたリオンの顔が近いことに驚いて慌てて顔を離す。
「誰のことを考えてたんだい? 家族?」
胸を押さえながら頷くと机に片方の尻を乗せて座るリオンがエリスローズの髪を一房手に取った。
「そういうのって特別だよね。自然に出る笑顔こそ本物だと思うんだ」
はりつけた笑顔が偽物であることはわかるが、そこに価値があるとは思わない。
まるで価値があるかのように話すリオンがそのまま髪に口付ける。
小さく鳴ったリップ音にエリスローズは少し気恥ずかしくなった。
「僕はまだそういうの向けてもらってないな」
『エリーナ様に向けてもらってください』
エリスローズはリオンの笑顔を見ることが多いが、同時に苦笑も多い。
ハッキリ言われた言葉には「向ける気はない」という意味が含んでいるような気がして苦笑が滲む。
真顔で言われたわけではなく笑顔で言われたのだが、それでもエリスローズの今の笑顔はさっきの笑顔とは別物で、自分に向けるものではないのだと実感してしまう。
「恋人はいる?」
首を振る。
「じゃあ恋人はいた?」
首を振る。
「好きな人は?」
首を振る。
「恋をしたことは?」
首を振る。
「……十九歳、だよね?」
頷くエリスローズにリオンが目を瞬かせる。
エリーナは二十五歳。エリスローズよりも六歳年上だが、エリスローズはちゃんとエリーナに見えるほど大人びていた。
年齢を聞いたときはリオンも驚いた。
正直言えばリオンはエリスローズの化粧をしていない顔のほうが好きだし、敬語なんて使われないほうが嬉しい。
エリーナの顔だが中身は全く違うエリスローズが見せる表情が好きと思っている。
書く字の美しさも聡明さも好きだった。
きっとよくモテただろうと思っていたのだが、今の質問の答えはリオンの想像と全く違っていて驚きに固まっていた。
『恋をして──』
紙に字を書き始めた音にリオンの意識がパッと向く。
『朝早くから織物工場で働いて終わるのは夕方。それからすぐに酒場で働いて家に帰るのは夜中。それを休みなく毎日繰り返す日々の中で恋人どころか恋をしている時間さえないんです。好きな人を作ってその人のことを考える余裕もない。だって弟たちの食べる物の心配で頭がいっぱいなんだから。恋人を作って恋人と過ごす時間を作る余裕があるなら私はその時間全てを弟たちと一緒に過ごすことに使いたい』
家族といるのが幸せで恋人が欲しいと思ったことはない。
一週間先のことさえわからない人生に余裕なんてない。
朝から夜中まで挫けず働けるのは大切な家族がいるから。
恋人がいないことを恥じたこともないエリスローズはそう書いた紙を持ち上げて見せた。
「キレイな人だね、君は。字がキレイな人は心もキレイだと言うし」
『字は教えてもらった通りに書いてるだけです』
「そう書こうと努力することもできない人は大勢いる」
『読みやすい字がいいと思っただけで──』
唇に当てられた指がエリスローズの言葉を遮る。
「カーラが言ってたよ、君は努力家だって。他人が見て認めるほどしてきた努力を当たり前のことだと卑下する必要はないんだ」
スラム街に生まれたことに卑屈にならなかったのは両親のもとに生まれたから。
それでもいつの間にか卑屈になっている部分があった。
どこに行っても吐きかけられるのは【スラム街のゴミ】という言葉。
貧困街の人間でさえそう呼ぶ。たった一つの階段があるというだけで見下されるのだ。
家族のことは愛しているし、スラム街のあのガラクタのような家が我が家だと誰にだって胸を張って紹介できる。
だが、ゴミという言葉を吐きかけられる度にエリスローズの中で摩耗していくものがあった。
それがいつしかエリスローズの中に溜まっていき、褒められても喜べないようになっていった。
この国の頂点に立つ者に褒められると尚更だ。
『ありがとうございます』
そう書きはしたが、気持ち的には最後に疑問符がついていた。
相手がダンなら笑顔を見せてキスの一つでもするのだが、相手は王太子であり、媚を売ったからと何も出てくることはないため書くだけ。
「君の唇が奏でる声はどんな色だろうね」
言い方に苦笑が出そうになるのを堪えるエリスローズは視線を泳がせる。
「君の声が聞いてみたいな」
『エリーナ様とは全然違う声ですよ』
「別人なんだから当然だよ」
『私はエリーナ様のような天使の声ではありませんし』
「天使?」
キョトンとするリオンは五秒ほど経って急に大笑いし始めた。
「エリーナの声が天使だって? 誰がそんなことを言ったんだい? どうせ母上だろう。天使の声なんてよくもそんな大嘘が……ッ、ダメだ……ははははははははッ!」
外にまで響いているだろう大きな笑い声にエリスローズも驚いていた。
エヴリーヌ王妃が天使だと言ったとき、エリスローズも笑いそうになった。天使の声を聞いたことがあるのかと言い返そうかと思ったほど。
しかし、ここまで笑うことはなかった。
腹を抱えて笑うリオンを見るのは初めてで、少し新鮮さを感じながら大笑いする様子を頬杖をついて眺めていた。
「あー笑った笑った。こんなに笑ったのは久しぶりだよ」
『大笑いでしたね』
「あの声を天使の声だなんてよく言うよ。エリーナの声は高飛車なイメージそのものだよ。天使の声とは程遠い」
『王妃様はエリーナ様を可愛がってるんですね』
「母上はカラスのように光物が好きだからエリーナが贈ってくれる宝石目当てで可愛がってるんだよ」
下心ありかと肩を竦めるエリスローズを見てリオンがクスッと笑う。
「君はどんな性格?」
『損得で動くタイプで口が悪いです』
「どんな風に口が悪いの?」
『王太子殿下には聞かせられないぐらいです』
「それは是非聞いてみたいな」
目を閉じて気取った顔で首を振るエリスローズの茶目っ気におかしそうに肩を揺らして笑うリオンが今度は親指で唇を撫でた。
「喋れないのは残念だね」
リオンはエリスローズの声が魔法使いによって封印されていることを知らない。病気か何かで喋ることができないのだと信じている。
ここで本当のことを伝えれば両親に怒鳴りに行くだろうかと考えるも、なんの得にもならないためやめた。自分が損をするだけだと容易に想像がつく。
「でも僕はこうしたやりとりも嫌いじゃないよ。このノートを見ればいつでも君との会話を思い出すことができるからね。むしろ他の人と違う特別な感じがして良いと思ってる」
『私の言葉しか書いてませんけど』
「読めば思い出せるよ」
リオンが紙ではなく紙を束ねたノートを与えてくれた。
一枚の紙だったらどこかへ行ってしまうけど、ノートだったらめくるだけでいいからと。
ノートを取って一ページ目からめくっていくリオンが目を細める。
「これは全部僕たちの思い出だから」
そう言ってノートを定位置に戻したリオンの笑顔は今まで見たことがないほど慈愛に満ちていた。
「そうだ! 何か手土産持っていかないと!」
『気を遣いますから』
「でも礼儀だからね。何が好きだい?」
『リオン様、本当に必要ないんです』
「君にあげるんじゃない。君の家族にあげる物だよ」
まさか自分が言われる側になるとは思っていなかったエリスローズは言い返せなかった。
そう言われてしまうと何も返せなくなる。
両親もこんな気持ちだったんだと今ようやくわかった。
「下は女の子だって言ったね? ぬいぐるみとか好きかな?」
『そうですね。うさぎのぬいぐるみが好きです』
台風で飛ばされてきた汚いぬいぐるみを今も大事にしている。
「シオンは何が好きだい?」
『シオンは風船が好きです』
何かのイベントのときに空を飛ぶ風船を見ては喜んでいた。
他には何も知らないため欲しがることもない。
「兄弟は他にいるの?」
『十歳のロイがいます』
「ロイ」
頷くリオンがメモをする。
名前と年齢と好きな物を書く様子にエリスローズの表情が緩む。
「ロイは何が好き?」
『……ボール、かな?』
「ボールね」
ロイはいつも弟たちの面倒を見ているため自分の時間を過ごすことはほとんどない。
スラム街では娯楽品など買えないため自分の時間があっても出来ることなど限られているのだが、目を離せない弟たちがいると全ての時間がそこに注がれてしまう。
ロイが好きな物はなんだろうと思い出すもハッキリとした物が出てこない。出てくるのは上から転がり落ちてきたボールを持っている姿ぐらい。
ちゃんと見ていなかったんだなと表情が消えるエリスローズの手をリオンが握る。
「たくさん玩具を持っていこう。彼らが好きな物で好きなだけ遊べるように」
その心遣いに少し鼻が動いた。唇が震えそうになるのを堪えると笑顔で頷く。
見ているつもりで、知っているつもりで知らないこともあって、口先ばかりの謝罪を繰り返していた自分が情けなくなる。
自分の意思で必要ないと断ろうとした自分が恥ずかしかった。
会ったこともないリオンのほうがずっと家族のことを考えてくれていると感謝の意を込めて手を握り返した。
今まで何度触れてもエリスローズから触れ返すことはなかったため今回も何も期待せずにいたリオンは驚きに目を見開くが、すぐに嬉しそうに目を細めた。
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