愛し方を知らない氷帝の愛し方

永江寧々

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交渉権

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「ミュゲット・フォン・ランベリーローズ起きろ!」

 いつの間に眠っていたのか、兵士に名を呼ばれて目を覚ました。
 ドアの鍵が開けられる音も兵士たちが上がってくる音も聞こえなかった。それだけ深く眠っていたのかと自分でも驚いた。
 ミュゲットは少し過敏で、小さな物音でも目が覚めてしまうのだが、その日は何も聞こえないほど眠りについていた。

「ミュゲット……」

 一緒に眠っていたフランも兵士の大きな声に目を覚まし、不安げにミュゲットの服の裾を掴んでいる。
 なぜ自分の名前だけ呼ぶのかわからないと眉を寄せながら起き上がると兵士の腕が伸びてきた。

「おい、やめとけ。触るな」

 兵士の手を払うつもりだったが、ミュゲットが払う前に横にいた他の兵士がそれを止めた。

「皇帝陛下がお呼びだ。さっさと来い」
「フランは?」
「ミュゲット・フォン・ランベリーローズを呼べとのご命令だ」
「フランも一緒に行ってもいいでしょ?」
「ダメだ!」

 拒否するのに大声を出す必要はない。これだけ近くにいるのだから普通に話しても聞こえるのに、この兵士はいつも大声を出す。

「どうしてミュゲットだけ?」
「貴様に教える義理はない!」
「知らないだけでしょ。小間使いだから教えてもらえないんだ」
「なんだと!? 口を慎め! 貴様など陛下の一言で殺せるんだからな!」
「逆に言えばその皇帝陛下が言わない限りアンタはフランたちを殺せないってことだもんね。偉そうにしないでよ」
「コイツッ!」
「やめろ! 時間を取らせるな。時間通りに事を進ませろ。陛下がお怒りになるぞ」

 フランの挑発にも等しい言葉に兵士は簡単に挑発される。フンッと鼻を鳴らして勝ち誇った笑みを浮かべるフランを恨みがましげに睨みつける兵士を隣の兵士が先に出るようにドアのほうへと強めに押した。

「ミュゲット・フォン・ランベリーローズ、さっさと来い」

 さっきの兵士のように苛立っているわけではないが穏やかでもない。どこか焦っているように見える。
 この兵士の発言から察するにあの男を怒らせることだけは避けたいらしく、素直に従うよう極力威圧感は出さないようにしているのだと推測する。

「ミュゲット、行く必要ないよ。用事があるのは向こうなんだから向こうに来させよう」
「皇帝陛下を向こうと呼ぶとは許されん侮辱だぞ! 貴様は黙っていろ」
「フランだってランベリーローズだもん!」
「陛下はミュゲット・フォン・ランベリーローズをお呼びだ。貴様の名は一度たりとも口にされてはいない」
「何それ! どうしてミュゲットだけなのよ!」
「いいからさっさと来い。陛下を怒らせるな」
「どうして私だけなの?」

 ミュゲットの問いかけに兵士は大きなため息をついた。

「貴様らはまだ自分の立場を理解していないようだから一度だけ言っておいてやる。お前たちがここで穏やかに暮らせるかどうかは皇帝陛下のご機嫌次第だ。あのお方の機嫌を損ねればお前らは今日にでも俺たちの慰み者になるかもしれない。それはわかるな?」

 その言葉にはフランも反論しなかった。捕虜に自由などない。選択権だってありはしないのだから拒否権など存在さえしない。
 兵士の言うことはきっと脅しでもなんでもない。最初で最後の忠告だろう。

「フラン、大丈夫よ。用件を聞いたらすぐに戻ってくるから、お留守番しててくれる?」
「すぐ帰ってきてくれる?」
「もちろん」
「じゃあ……待ってる」

 立ち上がったミュゲットはフランの額にキスを落として兵士についていく。ドアの外で待機していた先ほどの兵士が『手間かけさせやがって』と悪態をつくのが聞こえたが、ミュゲットは振り向きもしなかった。
 城へと向かうミュゲットを窓から心配そうに見送るフランは一人になった不安を深呼吸することで落ち着かせる。

「ねえ、ご飯は?」
「皇帝陛下から許可が出たら持ってきてやる」
「許可が出なかったら持ってこないってこと!?」
「一日二日食わなくても死にゃしねぇだろ! 捕虜の分際であつかましいんだよ!」

 ドアを叩いて監視役の兵士に食事はどうすればいいのか問いかけると乱暴な言葉が怒声で飛んでくる。手にしている銃のグリップ部分でドアを強めに叩かれるとフランはそれ以上何も言えなくなってしまう。
 相手はこの家の鍵を持っている。あの兵士が言った『慰み者』という言葉が強く残っており、ミュゲットがいない今、下手に刺激して兵士に襲われたらと思うと怖かった。
 昨日から何も食べていない。今日も食べられなければ明日もないかもしれない。
 全ては皇帝陛下の機嫌次第。

「ミュゲット……」

 皇帝陛下の機嫌は皇帝陛下に呼ばれたミュゲットの対応次第ということになる。

「怒らせないでね……」

 そう祈るしかなかった。






「皇帝陛下、ミュゲット・フォン・ランベリーローズが到着しました」
「入れ」

 相変わらず感情のない冷たい声。
 ドアが開くと感じる部屋の温もり。この暖かな部屋の中にあの冷たい男がいるとのだと思うとうんざりする。

「抵抗せずに来たことは褒めてやる」
「抵抗してもよかったの?」
「お前が奴らの命を散らせたいと言うのであればな」

 どこまでも冷酷な男。人の命をなんとも思っていないのだ。自分が世界の中心で、自分の命に従わない者には罰ではなく死を。替えはいると思っているのだろう。
 ミュゲットは男の考えに反吐が出そうだった。

「妹を一人にしているんです。用件を」
「脱げ」

 どうして、と聞くほど物分かりが悪いわけでもウブなわけでもない。知識はあるし、経験だって済ませた。
 捕虜となった男は奴隷にされるか殺されるか。女は奴隷にされるか慰み者にされるか。戦争で負けた国の末路は家庭教師が教える歴史の授業で知ったため驚きはしない。
 昨日、自分は妹の移動を条件に抱かれた。自分から条件を出したということはそこで交渉は始まっているし、相手が了承した時点で交渉は成立している。
 家を与えてもらったからといって長く生かしてもらえる保証はない。今はまだ“機嫌を損ねていない“だけなのだ。

「……妹は、昨日から何も食べてないの。だから……何か食べさせてあげて」
「いいだろう」

 条件を口に出すのは一種の賭け。自分たちが捕虜だということはわかっている。本来であれば黙って抱かれなければならないのかもしれないが、交渉する術があるのならせめてフランだけでも不自由なく過ごさせてやりたいと思うから機嫌を損ねやしないかと不安を抱えながらもお願いする。
 無茶なお願いではない。捕虜の分際で、と言われてしまえばそこまでだが、男は二つ返事で了承してくれた。
 昨日と同じでドアの外で待機する兵士に伝えて戻ってきた。そして昨日と同じようにベッドに寝転んで手を伸ばす。
 フランはいつもお昼寝から目が覚めると『お腹すいた』と言って必ず何か食べていた。きっと今もお腹を空かせているはずだと思っていたため、一つ安心できた。

「来い」

 まるで犬でも呼ぶような言い方だが、ミュゲットは表情には出さない。捕虜も犬も同じだ。どういう生活を送れるかは全てこの男の機嫌次第。食事を与えてもらえるかどうかさえも。
 もし、自分が食事のことを言わなければ食事はどうなっていたのか──今は考えないようにしようと深呼吸を一度してネグリジェを脱いだ。
 ここに来るまでに冷えた身体が前に進む度に暖炉の熱で少しずつじんわりと温まっていく。
 男は一度もミュゲットから目を逸らさない。冷たい瞳が真っ直ぐミュゲットの瞳を捉えている。

「フローラリアの民は一様に褐色肌だが、お前の肌は雪のように白いな」
「雪?」
「雪の中を歩いてきただろう」
「あの白い雨は雪というの?」
「そうだ」

 帰ったらあの白い雨の名前をフランに教えよう。もし持って帰ることが許されるのであれば両手ですくって持って帰ろうとミュゲットの表情が少し緩む。

「一度触ってみるがいい。ここの雪はお前の肌のように滑らかだ」
「ッ……」

 触れられることにはまだ慣れない。それでも拒むことはできない。この男を受け入れることがフランを不安にさせない唯一の方法なのだ。
 捕虜に選択肢はない。ならば受け入れよう。この大きな手も、傷だらけの身体も、強い力も、冷たい瞳も全て──

「フランにだけは手を出さないで。お願い」
「お前がいい子にしていればな」
「それ、から……見える場所に吸い付かないで。フランには知られたくないの」
「その願いを聞くことに余になんの得があるのだ?」
「それ、は……」

 与えられたネグリジェはデコルテと背中が丸見えで、キスマークをつけられると見えてしまう。
 愛し合っていた両親は子供の前だろうと関係なく互いの身体にキスマークを残していた。唇にキスをする延長線のようなものだと笑っていたが、自分たちはそういう関係ではないし、一人で部屋に残って不安を抱えているだろう妹にはこんなことをしていると知られたくない。
 だが、やはりそう上手くはいかない。最初の交渉は相手の慈悲に思えるほどスムーズに聞いてもらえた。これは寵愛によるものではなく、新しい捕虜を手に入れたことで起きた気まぐれ。
 言葉を返せないミュゲットは男にお願いするよりさっさと行為を終わらせてフランへの言い訳を考えたほうがいいと首を振ってベッドに乗った。
 こんなことに慣れたくない。愛する人と夜を重ねることによって育んでいきたかった。
 今となってはそれも泡となって消えた夢。

「目を閉じるな。余を見ていろ」

 見ているだけで凍ってしまいそうなほど冷たい瞳。ミュゲットはこの瞳が嫌いだった。心臓を氷柱で貫かれるような鋭さがあるそれを見つめているだけで身体が緊張して冷静ではいられなくなってしまうから。
 瞳や声はこんなにも冷たいのに重なる身体は熱いほどで──

 フランにだけはこんな思いはさせたくない。こんな経験もしてほしくはない。
 フランは無事だろうか。兵士たちに何もされてはいないだろうか。本当に食事は運ばれたのだろうか──見るまで信用はできない。
 相手の冷たい瞳を見つめ、熱い身体を感じながらも頭は別のことを考える。
 諦めているはずなのに滲む涙が情けない。目の前がボヤけて目尻から涙がこぼれる。

(早く終わって)

 男の傷だらけの背中に爪を立てながらただそれだけを願っていた。
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