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十一年前
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「ちょ、ちょっと待って! 私たちが過去に会ってるって……」
「お前が覚えていないのも仕方ない。フローラリアは観光客が多い。顔見知り以外は全て観光客と思っていたのだろう。余がお前の記憶に残るようなことをしたわけではないしな」
全く記憶にない。誰か特別な人間が来たときは必ず呼ばれていたが、ちゃんと呼ばれるようになったのは十二歳になってからで五歳のときはまだ呼ばれていなかった。静かにしていなさいと言われることがほとんどだった。
これだけ整った顔をしている相手なら覚えていそうなものだが、ミュゲットはフローラリアの民でさえ顔と名前が一致しないことが多かったためそれも仕方のないこと。
「これが何かわかるか?」
ベッドから降りて本棚の上に手を伸ばし、掴んだ物を見せたアルフローレンスにミュゲットは目を疑った。
「シーポティリ……?」
「そうだ」
グラキエスにはビーチがない。こんな物が落ちているはずがないし、ましてやアルフローレンスがそれを拾うはずもない。
このシーポティリはフローラリアで見つかる物。漂流物ではあるが、一種の名産でもあった。
「十一年前、余が十七のときのことだ──」
───── 十一年前、フローラリア──────
「ここがフローラリアだ」
「知っている」
父親に無理矢理連れてこられた国はグラキエスとは正反対の暑い国。
緊張感のないふわふわとした人間が無駄に笑顔をばら撒いているのが印象的だった。
「おにーさんイケメンね! どう?」
水着のような服を着た女が何を言っているのか、十七歳のアルフローレンスには理解できていた。
「おにーさんぐらいイケメンなら安くしておくわ」
「興味ない」
「そんな緊張しなくてもいいのよ。おねーさんが可愛がってあげる」
「娼婦の分際で余に馴れ馴れしく触るな」
「は? 何その言い方。アンタみたいなクソガキこっちからお断りだよ」
美しい景色とは違い、フローラリアの人間は醜く見えた。
女は男を誘い、男は金を握りしめながら女の誘いに乗る。
吐き気がするほど強烈な匂いは母親を思い出させる。
これだけ離れた場所でまで母親を思い出したくはなかった。
父親の気まぐれでフローラリアに同行させられることとなった知らせを聞いた母親は悲鳴のような声で反対したが、皇帝である父親に逆らえるはずもなく、握りしめた手を離した。
泣きじゃくる母親を哀れだと思いながらもアルフローレンスにとって母親がいないこの数日間は息抜きのようなもので、少しリラックスしていた。
せっかくの美しい景色を母親のような女と一緒に過ごしたくはないと中指を立てる女を無視して父親の後を追う。
「母親以外の女を経験するのも悪くないぞ」
「必要ない」
「それもそうか。若い女を抱けば母親の相手などしてられなくなるだろうからな」
母親との行為はアルフローレンスが望んでいるものではない。母親が壊れてしまわないために付き合っているもので、そこに心はない。ベッドの上に寝転がって黙っていれば勝手に始まり勝手に終わる。心を無にしていればいいだけのこと。
この五年、ずっと心を無にして生きている。
「フローラリアの女はイイ女揃いだ。ここの娘はまだ子供だが、お前が気にいるなら嫁に迎えろ」
「黙れ。余にそんな趣味はない」
「口の利き方に気をつけろと何度言えばわかるんだ?」
「余は同行しろと言われたからこうして来ているだけだ。望んで来たわけではない」
「暫しの解放を与えてやった父親に感謝もなしか。大した息子様だな」
エルドレッドは愛する女との子供だった。アルフローレンスは違う。だから愛情など微塵もかけられたことはない。父親からの愛情を欲しいと思ったことは一度もなく、こうして連れ出されたことも解放に違いないが感謝はしない。
親でありながら恩着せがましい台詞を吐く父親を見ることなく足だけを進めた。
「ノーラ・フォン・ランベリーローズでございます、皇帝陛下」
「美しいな、ノーラ王妃」
フローラリアの王妃と対面したとき、この女がエルドレッドの母親なのだとすぐにわかった。あまりにも似すぎている。
そして父親が愛している女は妻ではなくノーラであることもわかった。
母親には一度も向けたことのない慈愛に満ちた目と優しい声。
王妃であり、二人の子を持つ母親でありながら恋する乙女のような顔を見せる王妃にアルフローレンスは軽蔑の眼差しを向けていたが、目が合うことはなかった。
「アルフローレンス、お前は外せ。呼んだら戻って来い」
返事もせずに立ち上がり外へと向かうとようやく感じる開放感にアルフローレンスは久しぶりに伸びをする。大きく息を吐き出しながら伸ばした腕を下ろしてゆっくりとビーチを歩く。
雪の上を歩くのとはまた違った感触を不思議に思いながらも目は砂浜ではなく美しい海に向いていた。
「美しいな」
青い空と青い海──グラキエスには無縁のもの。
止むことのない雪に覆われた国とは正反対の国の美しさに初めて心が動いた瞬間でもあった。
ザクザクと音を立てながら歩いていると茂みの中に顔を突っ込んでいる少女に気付いた。
「……何をしている」
海も空も見ずに頭隠して尻隠さずの状態で動かない少女に思わず声をかけてしまったのを後悔したのはこの直後。
子供の相手などしたことがないのになぜ声をかけたのかと。
「シーッ。こっちきて」
顔を戻した少女が小さな手で手招きするのを見て拒もうかと思ったが、拒んで泣かれても面倒だと付き合うことにして一緒に茂みに頭を突っ込んだ。
「リス?」
「クルミ食べてるの。かわいーね」
ただ食事をしているだけの姿を可愛いと言う少女に同意することはなかったが、この時間の穏やかさは嫌いではなかった。
グラキエスで動物を見るためには馬を走らせなければならない。見た目に反して獰猛な動物はそれなりにいて、こうして間近で見られることは少ない。
隣でご機嫌そうに笑顔でそれを眺めている少女を見ているほうがアルフローレンスには面白かった。
「いっしょにポティリ拾う?」
「ポティリ?」
「これ」
茂みから抜け出しポケットから取り出したガラス石にアルフローレンスは首を振る。
「そんなゴミを集めてなんになる」
「キレーじゃない?」
「海で発生するただの石だろう」
「私はポティリがだいすき。おひさまに向けるとキラキラしてとってもキレーなの」
どんな物であろうと石は石以上の価値を生み出さない。それを綺麗だからと集める人間の気が知れないとアルフローレンスは興味が湧かなかった。
「一番大きいのあげる。おひさまに向けてみて。とってもキレーだから」
「いらぬ」
「ダメ!」
「なぜお前が決める。選択肢は余にあるのだ」
「だって元気ないもん」
言いきられたことに驚いて固まっていると小さな手がアルフローレンスにポティリを握らせた。
「おひさまに向けたらきっと元気になるよ。私がいっしょに見てあげる」
アルフローレンスの手を持ち上げて太陽に向けようとする少女に従って太陽に向けてみても大したことはない、ただ石が透き通って見えるだけ。それでもアルフローレンスは釘付けになったように動かなかった。
なんでもない光景。ただ目が痛いだけなのに、色を持つ石が透けるだけの光景がひどく美しく見えた。
「元気になった?」
「ああ」
「でしょ? 元気ないときはポティリで元気になって」
「余の国では太陽は見えぬ」
「どうして?」
「雲が太陽を覆っているからだ」
「おひさまが見えなくなるとさむいね」
「そうだな」
太陽があるからこそ輝く物もグラキエスではただの石ころにすぎない。これを持っていたからといって何かの役に立つわけではない。だから必要ないと返そうとするのを少女が拒んだ。
「あげる」
「太陽のない国では無用の物だ」
「でもあげる。おひさまあるところに行けば元気になるもん」
両手を後ろに隠して受け取りを拒否する少女にアルフローレンスは押し付けることはできなかった。捨ててしまえば済んだものを、あの美しさを見てしまったせいでそれもできなかった。
「ポティリはね、海の神さまからのおくりものなんだって」
「神などいない」
首を傾げる少女が不思議そうな顔でアルフローレンスの顔を覗き込むと急に眉を下げた。
泣くだろうかと眉を寄せそうになったアルフローレンスは次いだ言葉に目を見開く。
「つらいの?」
子供に何がわかる。たった数年しか生きていない子供になぜそんなことを聞かれなければならないと思うのに言葉にはできなくて、アルフローレンスは静かに涙を流した。
なぜ涙が流れるのか自分でもわからない。ただ、誰もそんなことは一度だって聞いてくれなかった。
おかしくなっていく母の歪んだ愛情。傲慢な父親が向ける気まぐれな感情と暴力。反抗しても変わらない現実に心ばかり疲弊していくのを感じて、いつしかその問題に『なぜ』と問いかけるのはやめた。答えなどどこにもない。どれだけ時間をかけても納得できる答えなど見つからないのだから答えを探すことをやめようと決めてからずっと心を閉じていた。
子を気にかけるはずの親が子の心を殺す。誰一人として『大丈夫?』や『辛くない?』と心配してくれたことはなかった。それなのに出会ったばかりの子供に問いかけられた。
この涙の理由がなんなのか、アルフローレンスでさえ説明できない。
「だいじょーぶだよ」
抱きしめてくる少女に何もわかっていないくせにと頭では拒絶するのに身体はその小さな身体を抱きしめ返していた。小さな手が頭を撫でるそれは母親が撫でるものとは違ったが、子供に戻ったように安堵するもので、心地よかった。
少女はそれ以上何も言わなかった。まるで猫を撫でるようにアルフローレンスの涙が止まるまで頭を撫で続けていた。
「皇子、ここにおられましたか。陛下が先に馬車に戻っているようにと仰せです」
「あいつはどこだ」
「そ、それは……」
「どうしようもない人間ばかりだな」
暫く経ってアルフローレンスを呼びに来た兵士にアルフローレンスは鬱陶しいと言いたげな表情を向ける。
父親が何をしているのか聞くのは愚問だったかと兵士の反応を見て吐き捨てるように呟くと城を見上げた。
「あそこ、私のおうち」
「お前の名は?」
「ミュゲット」
馬車の中で聞いたフローラリアの王女の名。
「皇子、どうぞ馬車へ」
「もう行っちゃうの?」
「ああ」
観光客はいつも突然やってきて突然帰っていく。ミュゲットにとって観光客と触れ合ったのは今日が初めてだったのもあって楽しかった。もういなくなってしまうのかと指を引っ張りながら問いかけると短い返事だけが返ってくる。
「そっか……」
寂しさを堪えながらシーポティリが入っているポケットは反対のポケットを漁ったミュゲットが今度は飴玉を差し出す。
「おくすりあげる」
「飴だろう」
違うと首を振るミュゲットがもう一つ飴玉を取り出して口に含み、ポコッと出っぱった頬を押して笑う。
「元気になれるまほーだよ」
飴玉で元気になれるはずがない。ただ砂糖を固めただけ、甘いだけの食べ物。それでもアルフローレンスは返すことなくポケットにしまった。
「皇子」
「ああ」
「バイバイ」
名残惜しそうではあったが、観光客が去るのは見慣れているのか泣きはしなかった。
小さな手をいっぱいに広げて振る姿を目に焼き付けるように見つめた後、馬車に向かった。
「まほー……」
馬車の中で食べた飴がひどく甘くて、初めて胸に宿った想いと重なった。
──────────────
「覚えてない……」
「だろうな。期待はしていなかった。五歳の頃にたった一度会っただけの男を十年経っても覚えているなど期待するほうがどうかしている」
「どうして、翌年は来なかったの?」
もしそのやりとりが心に残っていたのなら翌年も来てくれればよかったのにと思うミュゲットのもとへ戻ったアルフローレンスはシーポティリ片手に膝枕に戻る。
「行こうと思っていた。行けばお前は余を覚えているのではないかと思っていたからな。だがその年、余は両親を殺した」
既に聞いていたことだが、本人の口から聞くとドキッとする。
翳したシーポティリを眺めるアルフローレンスの言葉を待った。
「お前が覚えていないのも仕方ない。フローラリアは観光客が多い。顔見知り以外は全て観光客と思っていたのだろう。余がお前の記憶に残るようなことをしたわけではないしな」
全く記憶にない。誰か特別な人間が来たときは必ず呼ばれていたが、ちゃんと呼ばれるようになったのは十二歳になってからで五歳のときはまだ呼ばれていなかった。静かにしていなさいと言われることがほとんどだった。
これだけ整った顔をしている相手なら覚えていそうなものだが、ミュゲットはフローラリアの民でさえ顔と名前が一致しないことが多かったためそれも仕方のないこと。
「これが何かわかるか?」
ベッドから降りて本棚の上に手を伸ばし、掴んだ物を見せたアルフローレンスにミュゲットは目を疑った。
「シーポティリ……?」
「そうだ」
グラキエスにはビーチがない。こんな物が落ちているはずがないし、ましてやアルフローレンスがそれを拾うはずもない。
このシーポティリはフローラリアで見つかる物。漂流物ではあるが、一種の名産でもあった。
「十一年前、余が十七のときのことだ──」
───── 十一年前、フローラリア──────
「ここがフローラリアだ」
「知っている」
父親に無理矢理連れてこられた国はグラキエスとは正反対の暑い国。
緊張感のないふわふわとした人間が無駄に笑顔をばら撒いているのが印象的だった。
「おにーさんイケメンね! どう?」
水着のような服を着た女が何を言っているのか、十七歳のアルフローレンスには理解できていた。
「おにーさんぐらいイケメンなら安くしておくわ」
「興味ない」
「そんな緊張しなくてもいいのよ。おねーさんが可愛がってあげる」
「娼婦の分際で余に馴れ馴れしく触るな」
「は? 何その言い方。アンタみたいなクソガキこっちからお断りだよ」
美しい景色とは違い、フローラリアの人間は醜く見えた。
女は男を誘い、男は金を握りしめながら女の誘いに乗る。
吐き気がするほど強烈な匂いは母親を思い出させる。
これだけ離れた場所でまで母親を思い出したくはなかった。
父親の気まぐれでフローラリアに同行させられることとなった知らせを聞いた母親は悲鳴のような声で反対したが、皇帝である父親に逆らえるはずもなく、握りしめた手を離した。
泣きじゃくる母親を哀れだと思いながらもアルフローレンスにとって母親がいないこの数日間は息抜きのようなもので、少しリラックスしていた。
せっかくの美しい景色を母親のような女と一緒に過ごしたくはないと中指を立てる女を無視して父親の後を追う。
「母親以外の女を経験するのも悪くないぞ」
「必要ない」
「それもそうか。若い女を抱けば母親の相手などしてられなくなるだろうからな」
母親との行為はアルフローレンスが望んでいるものではない。母親が壊れてしまわないために付き合っているもので、そこに心はない。ベッドの上に寝転がって黙っていれば勝手に始まり勝手に終わる。心を無にしていればいいだけのこと。
この五年、ずっと心を無にして生きている。
「フローラリアの女はイイ女揃いだ。ここの娘はまだ子供だが、お前が気にいるなら嫁に迎えろ」
「黙れ。余にそんな趣味はない」
「口の利き方に気をつけろと何度言えばわかるんだ?」
「余は同行しろと言われたからこうして来ているだけだ。望んで来たわけではない」
「暫しの解放を与えてやった父親に感謝もなしか。大した息子様だな」
エルドレッドは愛する女との子供だった。アルフローレンスは違う。だから愛情など微塵もかけられたことはない。父親からの愛情を欲しいと思ったことは一度もなく、こうして連れ出されたことも解放に違いないが感謝はしない。
親でありながら恩着せがましい台詞を吐く父親を見ることなく足だけを進めた。
「ノーラ・フォン・ランベリーローズでございます、皇帝陛下」
「美しいな、ノーラ王妃」
フローラリアの王妃と対面したとき、この女がエルドレッドの母親なのだとすぐにわかった。あまりにも似すぎている。
そして父親が愛している女は妻ではなくノーラであることもわかった。
母親には一度も向けたことのない慈愛に満ちた目と優しい声。
王妃であり、二人の子を持つ母親でありながら恋する乙女のような顔を見せる王妃にアルフローレンスは軽蔑の眼差しを向けていたが、目が合うことはなかった。
「アルフローレンス、お前は外せ。呼んだら戻って来い」
返事もせずに立ち上がり外へと向かうとようやく感じる開放感にアルフローレンスは久しぶりに伸びをする。大きく息を吐き出しながら伸ばした腕を下ろしてゆっくりとビーチを歩く。
雪の上を歩くのとはまた違った感触を不思議に思いながらも目は砂浜ではなく美しい海に向いていた。
「美しいな」
青い空と青い海──グラキエスには無縁のもの。
止むことのない雪に覆われた国とは正反対の国の美しさに初めて心が動いた瞬間でもあった。
ザクザクと音を立てながら歩いていると茂みの中に顔を突っ込んでいる少女に気付いた。
「……何をしている」
海も空も見ずに頭隠して尻隠さずの状態で動かない少女に思わず声をかけてしまったのを後悔したのはこの直後。
子供の相手などしたことがないのになぜ声をかけたのかと。
「シーッ。こっちきて」
顔を戻した少女が小さな手で手招きするのを見て拒もうかと思ったが、拒んで泣かれても面倒だと付き合うことにして一緒に茂みに頭を突っ込んだ。
「リス?」
「クルミ食べてるの。かわいーね」
ただ食事をしているだけの姿を可愛いと言う少女に同意することはなかったが、この時間の穏やかさは嫌いではなかった。
グラキエスで動物を見るためには馬を走らせなければならない。見た目に反して獰猛な動物はそれなりにいて、こうして間近で見られることは少ない。
隣でご機嫌そうに笑顔でそれを眺めている少女を見ているほうがアルフローレンスには面白かった。
「いっしょにポティリ拾う?」
「ポティリ?」
「これ」
茂みから抜け出しポケットから取り出したガラス石にアルフローレンスは首を振る。
「そんなゴミを集めてなんになる」
「キレーじゃない?」
「海で発生するただの石だろう」
「私はポティリがだいすき。おひさまに向けるとキラキラしてとってもキレーなの」
どんな物であろうと石は石以上の価値を生み出さない。それを綺麗だからと集める人間の気が知れないとアルフローレンスは興味が湧かなかった。
「一番大きいのあげる。おひさまに向けてみて。とってもキレーだから」
「いらぬ」
「ダメ!」
「なぜお前が決める。選択肢は余にあるのだ」
「だって元気ないもん」
言いきられたことに驚いて固まっていると小さな手がアルフローレンスにポティリを握らせた。
「おひさまに向けたらきっと元気になるよ。私がいっしょに見てあげる」
アルフローレンスの手を持ち上げて太陽に向けようとする少女に従って太陽に向けてみても大したことはない、ただ石が透き通って見えるだけ。それでもアルフローレンスは釘付けになったように動かなかった。
なんでもない光景。ただ目が痛いだけなのに、色を持つ石が透けるだけの光景がひどく美しく見えた。
「元気になった?」
「ああ」
「でしょ? 元気ないときはポティリで元気になって」
「余の国では太陽は見えぬ」
「どうして?」
「雲が太陽を覆っているからだ」
「おひさまが見えなくなるとさむいね」
「そうだな」
太陽があるからこそ輝く物もグラキエスではただの石ころにすぎない。これを持っていたからといって何かの役に立つわけではない。だから必要ないと返そうとするのを少女が拒んだ。
「あげる」
「太陽のない国では無用の物だ」
「でもあげる。おひさまあるところに行けば元気になるもん」
両手を後ろに隠して受け取りを拒否する少女にアルフローレンスは押し付けることはできなかった。捨ててしまえば済んだものを、あの美しさを見てしまったせいでそれもできなかった。
「ポティリはね、海の神さまからのおくりものなんだって」
「神などいない」
首を傾げる少女が不思議そうな顔でアルフローレンスの顔を覗き込むと急に眉を下げた。
泣くだろうかと眉を寄せそうになったアルフローレンスは次いだ言葉に目を見開く。
「つらいの?」
子供に何がわかる。たった数年しか生きていない子供になぜそんなことを聞かれなければならないと思うのに言葉にはできなくて、アルフローレンスは静かに涙を流した。
なぜ涙が流れるのか自分でもわからない。ただ、誰もそんなことは一度だって聞いてくれなかった。
おかしくなっていく母の歪んだ愛情。傲慢な父親が向ける気まぐれな感情と暴力。反抗しても変わらない現実に心ばかり疲弊していくのを感じて、いつしかその問題に『なぜ』と問いかけるのはやめた。答えなどどこにもない。どれだけ時間をかけても納得できる答えなど見つからないのだから答えを探すことをやめようと決めてからずっと心を閉じていた。
子を気にかけるはずの親が子の心を殺す。誰一人として『大丈夫?』や『辛くない?』と心配してくれたことはなかった。それなのに出会ったばかりの子供に問いかけられた。
この涙の理由がなんなのか、アルフローレンスでさえ説明できない。
「だいじょーぶだよ」
抱きしめてくる少女に何もわかっていないくせにと頭では拒絶するのに身体はその小さな身体を抱きしめ返していた。小さな手が頭を撫でるそれは母親が撫でるものとは違ったが、子供に戻ったように安堵するもので、心地よかった。
少女はそれ以上何も言わなかった。まるで猫を撫でるようにアルフローレンスの涙が止まるまで頭を撫で続けていた。
「皇子、ここにおられましたか。陛下が先に馬車に戻っているようにと仰せです」
「あいつはどこだ」
「そ、それは……」
「どうしようもない人間ばかりだな」
暫く経ってアルフローレンスを呼びに来た兵士にアルフローレンスは鬱陶しいと言いたげな表情を向ける。
父親が何をしているのか聞くのは愚問だったかと兵士の反応を見て吐き捨てるように呟くと城を見上げた。
「あそこ、私のおうち」
「お前の名は?」
「ミュゲット」
馬車の中で聞いたフローラリアの王女の名。
「皇子、どうぞ馬車へ」
「もう行っちゃうの?」
「ああ」
観光客はいつも突然やってきて突然帰っていく。ミュゲットにとって観光客と触れ合ったのは今日が初めてだったのもあって楽しかった。もういなくなってしまうのかと指を引っ張りながら問いかけると短い返事だけが返ってくる。
「そっか……」
寂しさを堪えながらシーポティリが入っているポケットは反対のポケットを漁ったミュゲットが今度は飴玉を差し出す。
「おくすりあげる」
「飴だろう」
違うと首を振るミュゲットがもう一つ飴玉を取り出して口に含み、ポコッと出っぱった頬を押して笑う。
「元気になれるまほーだよ」
飴玉で元気になれるはずがない。ただ砂糖を固めただけ、甘いだけの食べ物。それでもアルフローレンスは返すことなくポケットにしまった。
「皇子」
「ああ」
「バイバイ」
名残惜しそうではあったが、観光客が去るのは見慣れているのか泣きはしなかった。
小さな手をいっぱいに広げて振る姿を目に焼き付けるように見つめた後、馬車に向かった。
「まほー……」
馬車の中で食べた飴がひどく甘くて、初めて胸に宿った想いと重なった。
──────────────
「覚えてない……」
「だろうな。期待はしていなかった。五歳の頃にたった一度会っただけの男を十年経っても覚えているなど期待するほうがどうかしている」
「どうして、翌年は来なかったの?」
もしそのやりとりが心に残っていたのなら翌年も来てくれればよかったのにと思うミュゲットのもとへ戻ったアルフローレンスはシーポティリ片手に膝枕に戻る。
「行こうと思っていた。行けばお前は余を覚えているのではないかと思っていたからな。だがその年、余は両親を殺した」
既に聞いていたことだが、本人の口から聞くとドキッとする。
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