愛だ恋だと変化を望まない公爵令嬢がその手を取るまで

永江寧々

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母強し

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「父さん、セシルに期待をもたせるようなことを言うのはやめてくれ」
「お前にも発言権はあるが、決定権は父親である私にある」
「俺に任せると言っただろ!」

 話が違うとカッとなったカイルがテーブルを叩くと皿の中のスープが揺れる。
 その揺れが止まるのを待ってからネイサンはスープを口に運んだ。

「お前は過保護すぎるんだ。言ってるだろ、視野を広く持てと」
「持ってる! だから俺に仕事の一部を任せてるんだろ!?」
「仕事はな。だが、お前はアリスのこととなると視野が途端に狭くなる。それこそ夜の鳥のように何も見えなくなってしまうんだ」
「バカにするな! 俺はアリスの幸せを考えて行動してるだけだ! 俺の視野の問題じゃない!」
「なら、彼のことはどう見てる?」

 カイルからの評価は聞き飽きた。できればもう聞きたくはない。だが、ネイサンが聞いている以上はそれを拒むこともできない。
 スープを飲んで気を紛らわせるセシルにアリスが「大丈夫?」と問いかけ、小さく頷いた。

「セシルは問題を抱えている。それを克服できるまでは何があろうと認めるつもりはない」
「彼が問題を抱えていることは自己申告なため確かだが、候補として認めるぐらいはいいだろう」
「問題を抱えたままのセシルをアリスが好きになったらどうするんだ?」
「そのときはアリスが苦労すればいい」
「いい加減なことを言うな! 娘に苦労を課す親がどこにいる!」
「お前の親だ」
「ふざけるな!」

 響き渡るのがまた笑い声であればいいと願ったが、実際に響いたのはカイルの怒声。
 学園ではほとんど怒鳴らないカイルがこれほどまでに怒鳴るのはアリスを大事に思いすぎているから。
 両親は自分たち以上にアリスを大事にしているカイルに危機感を持ってはいるが、止め方がわからないでいる。
 アリスについて話し合うといつも怒鳴り散らすカイルにネイサンは何度ため息をついたかわからない。

「カイル、夫婦とは苦労も共に乗り越えていくものだ。苦しみも悲しみも痛みも何もかも共有して乗り越える。そういうものだ」
「世迷言を。母さんが苦労したのか? してないだろ! 父さんが第一線に立ち続けているから母さんは何一つ苦労もしないでのほほんと暮らしてこれたんだ。男は常に第一線に立って背中を見せるものだと言ったのは誰だ!? 父さんだろ! 実際にそうしてきた男が、妻にも子にも苦労させなかった男が何言ってんだ!」

 声を荒げ続けるカイルにシンディーが手を鳴らす。

「カイル、落ち着きなさい。お客様の前よ」
「知ったことか! なあ、俺は常々言ってきたよな? アリスの婚約者は俺が決める。俺が認めた男しか認めないと」
「アリスから幸せを奪ってでもお前は自分の感情を優先させるんだな?」
「俺は自分の感情を優先してるわけじゃない! 俺が認めた男と結婚すればアリスは幸せになれる」
「その根拠はなんだ? お前は千里眼でも持っているのか?」
「からかうな!」
「なら根拠を示せ。お前の感情だけではないこと、アリスが必ず幸せになれると言いきる根拠を、ここに、示せ」

 何度もテーブルを指で叩く父親の圧にようやくカイルが黙る。
 普段の言い合いは何を言っても必ず言葉を返すためカイルが黙ることはないのだが、今回ばかりは黙らざるを得ない。
 父親を納得させられる根拠などない。カイルがそう信じているだけなのだから。
 悔しげに唇を噛み締める姿を見るのは家族全員初めてだった。

「お前は少し頭を冷やしなさい」
「あなたもよ」

 シンディーの言葉にネイサンは耳を疑った。

「ん?」
「あなたも、と言ったの」
「私も!?」

 驚く夫にシンディーは腕を組んでその豊かな胸を押し上げる。

「お客様の前で息子と言い合いするなんてどういうつもり? 彼はアリスが初めて連れてきた大事なお客様なのよ? わかってるの?」
「だからカイルを──」
「食事の場で家族喧嘩を起こして娘に恥をかかせたことを自覚なさい」

 静かに告げるシンディーの圧に今度はネイサンが黙りこむ。

「二人とも外へ出て頭を冷やしなさい」

 黙ったまま動かない二人にシンディーはもう一度口を開いた。

「外に出て、頭を、冷やしなさい」

 三度目はないとわかっている二人は黙ったまま立ち上がって庭へと向かった。

「ごめんなさいね。許してちょうだい」

 二人に代わって謝るシンディーにセシルは首を振る。

「二人ともアリスを愛してますからね」
「カイルが異常なだけよ。でもありがとう」

 セシルのフォローに救われると胸に手を当てて感謝を示すシンディーと苦い顔で兄と父を目で追うアリス。

「私は正直、夫の意見にも息子の意見にも賛成なの。あなたが抱える問題はいつ解消されるかわからない。それが不安なの。でももし、アリスがあなたを好きになって結婚する意思を固めたとしたら快く送り出すつもりよ。私たちがどれだけ心配して過保護になろうと、順番的に考えたら私たちは絶対先にいなくなるんだもの。心配でも不安でも手を離して、この子を一人で歩かせなきゃいけないのよね」

 顔を上げてこちらを見るアリスの髪を優しく撫でると笑顔が優しくなる。
 その笑顔にセシルは拳を握って身体ごとシンディーに向け


「……僕は、アリスにキスをしました。二度も……」

 セシルの告白にシンディーは驚きに目を見開くが、アリスはそれよりも驚いた顔をしている。
 婚約者でもない男が嫁入り前の娘にキスをするなど許されることではない。アリスは隠し通すつもりだったのだが、まさかそれをセシル本人がアリスの親に言ってしまうとは思っていなかったため、どうすればいいのだろうとセシルと母親を交互に見る。

「申し訳ありません!」

 怒られることも軽蔑も罵倒も、どんな言葉も受ける覚悟があった。
 心から娘を愛している人たちに嘘はつけないと思ったのだ。
 だが、立ち上がって頭を下げるセシルの耳に届いたのは罵詈雑言ではなく笑い声。

「そんなことで謝らなくていいのよ」

 娘にキスをしたのにシンディーは「そんなこと」と言った。それに驚いたのはセシルではなくアリスのほう。

「令嬢は淑女であれ、なんて言うけど、私はそうは思ってない。あ、これはあの二人には内緒よ?」

 外に出てガラス越しにこっちを見ている二人を指差してから人差し指を立てるシンディーにセシルが頷く。

「共学の学校でたくさんの男性と出会う機会があるのにキスもその先も一人とだけなんてつまらないと思わない? 婚約者が決まるまで何度だって恋をすればいいの。火遊びだってすればいい。手を繋いでドキドキすることも、キスをしてとろけることもね」
「アリスが奔放な令嬢になることを許すと?」
「相性は大事よ。一生を添い遂げる相手と相性が悪いなんて最悪でしょ? キスのタイミング、キスの仕方が違うだけでも地獄なのに、ベッドの中でまで相性が悪いなんて泥舟に乗って旅に出るようなものよ。希望は一瞬で終わり。婚約者が決まったらそんなことできないでしょ? だから、キスぐらいで謝らなくていい。あ、さすがにその先はアリスの承諾を得てからよ?」
「お母様何言って──!?」

 豊かすぎるアリスの脳は一瞬でセシルとそういうことになっている情景を想像してしまい、顔を赤く染めながら母親に物申そうとするも唇に指を押し当てられて口を閉じる。

「誰とでもしなさいって言ってるわけじゃないのよ。婚約していなくてもあなたの気持ちが動くならキスぐらいしなさいってこと」
「で、でも私はお母様のような淑女になりたいって──」
「私がそうだったのに」
「ええっ!?」

 何を言ってるんだと言わんばかりに瞬きを繰り返しながら自分を指差す母親の衝撃発言にアリスは声を上げた。

「あら、知らなかったの?」
「知らなかった! だって、だってそんなこと一度だって言わなかったじゃない!」
「あなたのお母様はそれはそれは結婚まで多くの男性と恋路を歩いたのよって話、聞きたい?」
「聞きたくない、けど……」
「だから言わなかったの」
「だからって……」

 淑女の鏡のような人だと信じて疑わなかった母親は恋多き女だった。
 婚約者でもない相手と手を繋いだりキスしたりしていたのだろうかと想像するもすぐに首を振って払う。

「お父様はご存じなの?」
「もちろんよ。あの人ったら奥手なくせに強引でね、親戚の紹介で他国の王子に拝謁できるって日に皆の前で膝をついて指輪を見せてこう言ったの。『王子のもとへは行かないで。絶対に苦労はさせません。だからどうか、私だけのものになってください』って」

 それには二人とも声が出なかった。王子と拝謁できる機会を設けてもらいながらそれを断ったのかと。

「王子は怒ってなかった?」
「まさか。会ったもの」
「会ったの!?」
「もちろんよ。でなきゃ親戚の叔母が罰されちゃうじゃない」

 紹介を頼んだ側が断るとは何事だと王族の怒りを買うわけにはいかないことはわかるが、自分ならどうするだろうと考えたアリスはきっとオロオロしているだけだと思った。

「王子はなんて?」
「お父様のプロポーズを見てたみたいで、あなたはあなたの王子を見つけたんですねって。すごくロマンチックな言い方するものだから思わず本当の王子はあなたでしょって言っちゃったわ」

 思い出してはおかしそうに笑う母親にアリスはセシルと顔を見合わせて笑う。

「それで結婚を決めたの?」
「そうよ。お父様は約束を守って、妻に一切の苦労はさせなかった。私にもあなたたちにも」
「うん」
「でもね、お父様にも辛いときがあったのよ。それを口にも態度にも出さなかっただけ。全部一人で抱えて背中を見せ続けた。振り返れば両手には重たい物を抱えてるのに、それを離せば楽になるのに、約束だからできなかったのよね。バカな人」

 懐かしむように目を細めてはいるが、表情は少し寂しげだった。

「でもね、私はそんな約束破ってくれてもよかったのよ。一緒に抱えて隣を歩きたいって思ってたぐらいなんだから。でも彼には彼の覚悟があって、彼が持つプライドなのよね。そんなの丸めて捨てちゃえばいいのに、彼は今もそのプライドで私にもあなたにも背中を見せて立ち続けてる。きっと一生捨てないでしょうね」

 ふふっと笑う母親を見てアリスは思った。
 二人がいつだって笑い合っているのは、仲が良いのもあるが、わかり合っているからなのだと。
 背中を見せ続けるプライドを理解する妻とそれを理解してもらっていることをわかっている夫。
 辛くても妻の笑顔を見れば立ち続けられることを妻はわかっているから笑顔を見せ続ける。そしてその笑顔を見て夫は笑顔になり、また立ち続ける。
 
「私はお父様とお母様が笑い合ってる姿が大好きよ」
「私もよ。お父様の笑顔もあなたの笑顔もね。カイルも笑ってくれればいいけど、あの子はあなたにしか笑わないから」

 最後の言葉に苦笑するも、アリスにとって仲が良い家族は自慢だった。

「僕は──」
「待って」

 勢いよく手のひらを見せたシンディーがセシルの言葉を遮る。

「あなたがそれを私に聞かせるのはアリスと婚約してから。まずはアリスを落とすことから、でしょ?」
「ちょっと、お母様!?」
「アリスが嫌がってるのにあなたが強引にキスしたならカイルを呼び戻してあなたを噴水に投げ込ませるけど、そうじゃないんでしょ?」
「それが……アリスは目を回して倒れてしまって……」
「セシル!」

 どうして言うんだと腕を叩くもセシルは思い出して俯き、肩を揺らす。

「まあっ、この子ったら。キスだけで目を回してたんじゃその先なんてどうするの?」
「その先なんて知らない! 急にキスされて驚いたの!」

 キスされるとさえ思っていなかったのに、二度もキスされて心臓が止まりそうだったと必死に弁明するアリスにシンディーは頷くが、絶対バカにしているとアリスにはわかった。

「いろんな人と関わって、いろんな感情を知りなさい。そしていろんな経験をしなさい。男性を楽しませることも淑女には必要なことなんだから」
「お母様、もういいからもう何も言わないで」
「この子、奥手だから色々教えてあげてね。知識はあると思うの。いろんな小説読んでるから」
「もちろんです。色々教えます」
「セシルも変な返事しないで!」

 二人が笑顔で話す様子を外から中を覗き込んでいる二人にシンディーが身体を向けると「戻っていいわよ」と手招きをした。
 早歩きで戻ってきた二人は声を揃えて「なんの話をしてたんだ?」と聞くが「内緒」と笑うシンディーは上機嫌に食事を進めた。
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