痛みを感じない国王陛下の大いなる愛の執着

永江寧々

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披露宴3

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 ワルツが終わり、セバスティアン王子が恭しく礼を捧げる。
 エリンシアは王妃としての微笑みを絶やさず、静かにヴァレンの元へと歩き出した。
 ミスなく踊れたと心底安堵していたのも束の間、玉座に座るヴァレンの足元を見て、エリンシアの心臓が跳ねた。
 真紅の絨毯の上に、さらに濃い「赤」が水溜まりのように広がっている。  

「……陛下?」

 ドレスの裾を持ち上げ、エリンシアが駆け寄ると後ろに控えていた執事がすぐに真っ白なハンカチを彼女の手に差し出した。
 エリンシアは何が起きているのか理解できないままそれをひったくるように取り、 彼の拳を解いた瞬間、エリンシアは息を呑んだ。
 開かれた手のひらは、自分の爪によって無惨に抉れ、肉が剥き出しになっていた。
 慌ててハンカチを押し当てると、真っ白だった生地が一瞬で赤黒く染まっていく。 
 普通の人間なら、意識を失うほどの激痛が走るはずの傷。
 けれど、ヴァレンは眉一つ動かさず、血まみれの自分の手など存在しないかのような無関心さで、ただじっとエリンシアの瞳を見つめていた。  

「戻ったか……」

 その声には、痛みへの苦悶など微塵も混じっていない。
 あるのは、ただ、自分以外の男に触れられたエリンシアに対する、逃げ場のないほどの嫉妬と執着だけだ。  

「陛下……」

 エリンシアは泣き出すことさえ忘れ、震える手で血の溢れる掌を強く押さえつけた。
 どれほど力を込めても、ヴァレンは表情を変えない。
 彼にとって「痛み」は、体ではなく心にあるのだということを、エリンシアは嫌というほど思い知らされた。  
 せっかくの、二人にとって最高の門出であるはずの披露宴でヴァレンが血を流すことになるとは想像もしていなかった。

「痛みなどない」

 ヴァレンは血の滲むハンカチ越しに、エリンシアの手を左手で力強く握りしめた。
 そういうことではない。だが、ここで声を荒らげるわけにはいかない。
 会場内は既にざわつきが広がっている。 
 何故、王が血を流しているのか。何があったのかと困惑しているのだ。

「陛下、手当てに行ってください」
「問題ない。お前をひとりにはできぬ」
「陛下、二人同時にこの場を開けるわけにはいかないのです」
「だから僕は問題ないと言っている」

 これが強がりならどれだけいいだろう。傷口にハンカチを押し込むように力を入れれば嫌でも痛みに声を上げるのに、彼は痛みを感じないから問題ないと判断してしまう。

「私の夫は、自分を蔑ろにして妻を失望させるような方ではありません」

 その言葉にヴァレンはエリンシアの瞳を見つめ、黙り込んだ。
 考えている。それがわかっているからエリンシアはもう一押しと言葉を続ける。

「左手に支障が出て、私を抱き上げられなくなったらどうするのですか……?」

 三秒ほど見つめたあと、ヴァレンは小さく、けれど長い息を吐き出した。
 想像したのだろう。エリンシアを抱き上げようにも上手く手に力が入らず、落としてしまうかもしれないと葛藤する自分を。
 ヴァレンが立ち上がると場が静まり返る。
 彼らを一瞥することなく会場を去るヴァレンに使用人たちが慌ててついていく。
 執事は心配そうに見送ったあと、エリンシアに耳打ちする。
 頷いたエリンシアは立ち上がり、会場にいるゲストたちを見回した。

「皆様、ご心配おかけして申し訳ございません。陛下がお戻りになられるまで、今しばし、ご歓談を」

 執事が楽団に指示を出すと優雅な音楽が流れ、給仕たちがシャンパンを持って会場内を回り始めた。

(こんなことになるなんて……)

 彼らの変わり身は早い。音楽が再開すると誰もエリンシアを見ず、王族貴族同士で話を始めた。
 その内容の半分は間違いなく、憶測だろう。

「王妃陛下、こちらを」
「ありがとう」

 差し出された濡れタオル。それを受け取ろうとして、自分の手にも血がついていることに気づいた。ヴァレンの手を持ち上げたとき、ハンカチで押さえたときについた血だ。
 そっと手を拭いて執事に返すと、エリンシアは会場を見回す。

(誰一人味方がいない中で、王を演じなければならない孤独……)

 一人は不安だった。エリンシアは王族生まれではないため当然だが、それでも今こうして王妃として玉座に一人で座っていることでとてつもない不安を感じている。
 それは、今日、この場にいる全員が自分たちを祝うために来てくれたゲストだから。
 ヴァレンが戻ってくるまでに何か問題が起きたら自分だけで対処できるだろうか。
 エリンシアは膝の上で無意識にギュッと拳を握った。

「陛下はどうなさったのですか?」

 考え事をしていたエリンシアはその声でハッと意識を戻した。
 いつの間にか目の前にはカトリーヌが立っており、挑発的な目を向けている。

「少し怪我をされただけです」
「あら、陛下はお座りになっていらしただけですのに?」
「色々事情があるのです」
「説明義務があるのでは?」

 カトリーヌの言い方には悪意か、敵意か、そのどちらかが明確に含まれているのを感じていた。
 ここにいる全員がそう思っていると言わんばかりの表情でエリンシアを見つめ、腰に両手を当てている。

「本当に、少し怪我をしただけですので、すぐにお戻りになられます」
「心配しているゲストに説明するべきでは、と聞いているのです。この会場にいる誰もが陛下を心配しているのですよ? 少し怪我をしただけ、で済ませるおつもりですか?」

 同じ言葉を繰り返し続けるのも良くはないのだろう。晩餐会とは違う場。自分たちが主役の場で、エリンシアは王妃としての正しい対応がわからないでいた。
 ヴァレンの玉座を見ると、使用人たちが慌てて磨いたため血は残っていない。しかし、絨毯に染み込んだ血の匂いだけはまだそこにある。

「それはあまりにも誠意がないのでは?」

 返す言葉が見つからない。どう言えばいい。正直に言えるはずがない。
 高圧的な物言いをする彼女にエリンシアは心臓が速く動き出すのを感じていた。

「カトリーヌ王女殿下、陛下がお戻りになられましたらご説明があることと思いますので、今はどうぞご歓談の時間をお楽しみくださいませ」

 執事がそっと静かに、だがハッキリとした声で告げるとカトリーヌは面白くないと言いたげな顔でフンッと鼻を鳴らした。

「今ここで王妃陛下がご説明くださればよいだけでは?」

 顔合わせもなしに婚約破棄をされたことが彼女のプライドを大いに傷つけた。それはきっと、今後一生根に持ち続けるのだろう。
 それはヴァレンだけでなく、ヴァレンに選ばれたエリンシアにも牙を向く。
 王妃という立場に慣れていないことを知っていて迫ってきている彼女の底意地の悪さを感じながら執事を見たとき、肩に少し冷たい手が乗った。

「数日前、誤ってペーパーナイフで手を切ってしまった。手から滑り、そのまま落としておけばいいものを、反射的に手が出てしまってな。ぐっと握り込んだせいで手がぱっくりといった。その傷が開いただけだ。驚かせてすまない」

 ヴァレンの言葉の真偽を確かめようにも、彼は今日一日中、白い手袋をしていたため、包帯をしていたかどうかを知る術はない。

「妻も緊張している。あまり迫ってやってくれるな。説明なら僕がする」

 誰の想像よりも速い戻りにカトリーヌは気まずそうな顔をしてその場を離れた。
 ヴァレンが戻ったことでピタッと止まっていた音楽は執事の合図で再開する。

「陛下、しっかり治療受けられましたか?」
「ああ」

 手を開閉して見せるが、彼は痛みを感じないため無理をしているわけではない。
 傷が開いては困ると手をそっと押さえると握り込まれる。

「すまない。お前の大切な披露宴を台無しにした」
「私たちの、です。私だけが主役ではありませんから」
「お前のドレスは汚れていないか?」
「平気です、陛下」

 ヴァレンは気づいていた。エリンシアのドレスの裾が血で汚れていること。その部分をこちら側から見えないように巻いて誤魔化していること。
 それでも、ここでもう一度席を立つわけにはいかない。
 今日が上手く終われば、明日からはこうした時間がなどなくなるのだから。
 ヴァレンは静かにエリンシアに押さえられるままに手を開いて玉座に座り、舞踏会の時間が終わるまでエリンシアだけを見ていた。
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