冬に出会って春に恋して

永江寧々

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安易

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「お熱も下がりましたね。よかったです」

 お粥と薬がよく効いたのか、翌朝にはすっかり熱も下がっていた。
 ベッドに腰掛ける椿が体温計を拭いてケースに戻す。それを薬箱の中にしまって立ち上がろうとした彼女の腕を掴んだ柊の顔は真剣なもの。

「話がある」

 その言葉に椿はかぶりを振り、ポンポンとその手を軽く叩いた。

「必要ありません」

 何が言いたいのかは昨日の態度でわかっている。
 中園の立てた大きな音と声に柊は起きていた。内容に関して否定したいのだろうが椿は必要ないと言う。それが嫌だと柊はもう一度座るよう少し強引に引っ張った。

「椿、俺は──」
「旦那様、私には関係ないのです」

 突き放すような言葉に柊の表情が変わる。

「私は旦那様の本当の婚約者ではありません。厚かましくそう名乗ってここに居候させていただいているだけの身。ですから旦那様が誰とどのような交流をお持ちであろうと私には関係ないのです」
「それは……」
「旦那様、置いていただけるだけで私は幸せでございます」

 胸が裂けそうなほど痛くて辛い。
 椿の言っていることは尤もで間違いない。自分たちは婚約者ではなく恋人ですらない。契約書で結ばれただけの関係。たとえ椿が男遊びが激しい過去があろうと柊にそれを責める権利はない。話したところで意味もない。わかっている。ただ、ハッキリと言われたことが辛かった。

「……わかった。じゃあ釈明はしない。だけど、これだけは言わせてほしい」
「はい」

 椿の腕から手へと掴んでいる手を滑り下ろして握る。

「俺の言葉は疑わないでほしい。君に嘘をつくことはしない。どんな言葉だって全部本心だ。同情でお世辞を言うことはないし、後ろめたいからって隠し事もしない。全部正直に話す」
「わかりました」
「だから最初に言っておく。俺の帰りが遅いのは仕事であってホテル帰りのせいじゃない。真っ直ぐ帰ってきてるから」

 真剣に告げる柊を疑ってはいない。疑うことはしない。こんなに優しく紳士な人だから嘘も優しさだと理解するつもりだった。でもこう言われてしまっては信じる他ない。
 自然と緩む表情と同様に穏やかな声で「はい」と答えた椿を抱きしめた。

「またお風邪をひきますよ」

 夜、寒空の下に長居をした際のことを思い出して茶化すも「また看病してもらうからいい」と答えた柊に椿が笑う。

「お風呂のご用意ができておりますから汗を流してきてください」
「リョーカイ」

 かきすぎた汗を流しに向かい、頭から熱いシャワーを浴びる。身体に張り付いていた汗が流れて気持ちいいはずなのに柊の表情は浮かない。
 中園は間違ったことは言っていない。頭が朦朧としていて中園と椿を会わせる危険を考えずにいた自分が悪い。断ることもできたが押し問答のようになるのは目に見えているため時間が惜しく椿が心配しているだろうから早く帰らなければという思いと早く横になりたいという思いだけが頭を支配していた。その結果がこれだと苦笑いも浮かばない状況に陥っている。

『関係ない』

 そう言われたことが自分でも予想外にダメージを受けている。
 たった一ヶ月共に暮らしただけの女にのめり込んでいる自分に苦笑する。自分だけが追いかけている状態。椿にとっては雇い主の言い訳などどうでもいいことなのだと悔しさから壁に額を押し当てる。
 これでよかったのかもしれないとも思う。それは説明したときに椿がどう答えるかわからないから怖くもあるせい。三十二歳に清廉潔白を求めるような女じゃないのに、そんな男にはなれないのになぜ隠そうとするのかと自分の浅ましさが嫌になる。
 禁欲なんて馬鹿馬鹿しい。モテない奴が強がりで言うだけだと思っていた禁欲を自らに課しているが、これは我慢ではなく自然に出来ていること。女を抱きたいとあの柔らかさが恋しくなることもありはするが疲れがそれを上回る。それに幸せを感じるほどの満腹感を味わうことは女を味わうよりもずっと満足感を得られることだと知った。
 だから今はホテルに行くより直帰で椿の飯が食べたいと思って実行している。それがちゃんと伝わっただろうかと心配になった。
 椿は考えていることがわからないことがある。嘘か本音かを見抜けない。だから怖くもある。
 どれほど先を考えても手を繋いで歩く未来はなくて、必ず訪れる終わりを考える。覚悟も恐怖へと変わるその日に柊は少し怯えていた。

「ちゃんと暖かくしてくださいね。治ったと思う状態が一番気をつけなければならないのですから」

 出社前、どこから引っ張り出してきたのかクリーニングから戻ってきた状態でしまい込んでいたマフラーを巻いてきた椿の真剣な表情に柊は微笑む。

「わかってる。今日は残業せず早く帰るよ」
「お待ちしております」
「行ってきます」
「いってらっしゃいませ」

 いつもの声を受けながら会社へと向かう。今日は一応のため自家用車ではなくタクシー。大神と三森の心配を受けながら出社すると瑠璃川たちが駆け寄ってきた。

「大丈夫ですか!? 今日ぐらい休んでもよかったのに!」
「熱もないのに休むのおかしいだろ」
「社畜じゃないんスからそういう考えやめてくださいよ。風邪が続いてるって休めばよかったんスから」
「大丈夫だっての。もうすぐ年末だ。今年の仕事は今年のうちに、だろ」

 本当は休みたかった。椿を抱きしめたとき強くそう思った。風邪を理由に甘えてしまいたかった。でも嘘はつかないと約束した口で嘘はつけない。風呂場でのように考え続けるよりも出社したほうがいいと考えたのだ。
 心配してくれる瑠璃川の頭を撫でて自分のブースに入った柊を中園が追いかける。

「昨日は大丈夫でしたかぁ?」

 椿に暴言を吐いていた人物とは別人に思える声につい笑ってしまう。

「ああ。送ってもらって悪いな。間に合ったか?」
「もちろんです! あ、心配してくれてたんですかぁ?」
「間に合わなきゃ他の奴に迷惑かけるからな」
「もぉ、私の心配してくださいよぉ」

 キャッキャッと甘えながらハシャぐ中園に笑顔を向けるのはそうしていないと湧き上がる感情が顔に出てしまいそうだったから。

「椿はちゃんとお前に礼言えてたか?」

 呼び捨てにした婚約者の名前に中園の動きが止まる。

「丁寧にしてもらいましたよぉ」

 さっきよりも少し違う声に含まれているのは不機嫌だろう。中園はわかりやすい。

「驚きましたよぉ。立花さんいつの間に婚約者作ってたんですかぁ?」
「一ヶ月前にな」
「水臭いじゃないですかぁ。言ってくださいよぉ」
「まだ結婚したわけじゃないからな」
「ですよねぇ。婚約者だからって紹介するほどじゃないですもんねぇ」

 紹介もしてもらえない女なのだと心の中で嘲笑しながらいつもの笑みへと戻す。
 どれだけ余裕を見せていようと結局はそういう扱い。物珍しさで一緒にいるだけで冷静になれば婚約もなかったことにするはずだと笑顔が深くなる。

「立花さんって和菓子食べるんですねぇ」
「こないだ一緒にテレビ見てて美味そうだって言うから取り寄せたんだ」
「最近和菓子ブームですよねぇ。可愛い見た目が映えるし、私も和菓子好きなんですよぉ」
「甘ったるいだけで美味しくないんじゃなかったか?」

 笑顔のまま固まる中園に柊は相変わらず笑顔を向けている。
 聞いていた? でも眠ったと言っていた。まさか自分が立てたあの音で起きてあれ以降の話を全部聞いていた? でも和菓子が嫌いだと言ったのはテーブルを叩く前の話。寝ていなかった?
 頭の中で自問自答する中園の表情から笑顔が消える。あからさまな焦りを見ても柊はそれに気付いていないように表情は変えない。

「ま、前まではそうだったんですけどぉ、ほら、今って可愛いじゃないですかぁ。昨日出してもらった上生菓子?も可愛くてぇ、見た目で判断するのは良くないなぁって思ったんですよぉ」
「でも食べなかったんだな」

 引き攣った顔をする中園の顔がだんだん青ざめていく。

「俺もコールドプレスってのがどんな飲み物かは知らねぇんだわ。悪いな、無知で」

 聞いていた。間違いない。

「あ、あの、立花さん、私は──」
「お前に言いたいことは色々あるけど、椿が何も言い返さなかった以上は俺が言い返すのもおかしいからな。だから俺の意見としてこれだけは言っとく」

 震えて言葉が出てこない。言葉を遮るべきだ。逃げよう。逃げれば追いかけてきてまで文句は言わないはず。だから今すぐこの場を去るべきなのに足まで動かない。

「一回だけの関係をセフレとは呼ばないし、お前と今後そういう関係になることは絶対にないし、俺は椿を愛してる」

 愛を語るような人間ではなかった。愛などまやかしで馬鹿馬鹿しいとさえ言っていた人があんな時代遅れな女への愛を口にした。
 今日もちゃんと弁当を持ってきている。

「ここで弁当を食べることを選んだのは俺の選択だ。椿は部下と一緒に食べたほうがいいってうるさいぐらいだ。でもこれが俺の癒しでもあるから。悪いな」

 チラッと見ただけなのにそれを見逃さなかった柊から考えを読んだような言葉が吐き出されることに中園はもはや目を逸らすことしかできなかった。

「さ、仕事が始まるぞ」
「失礼します……」

 自分で出てきた中園の表情が暗く絶望にも似た表情をしていることから問題発言があったのだと瑠璃川たちは察した。
 昨日、柊を送って帰ってきた中園の態度と発言は目に余った。まさかそれを本人に言ったんじゃないだろうなと咎めても当然の態度で自慢のように話していた。 
 こうなることは想像するまでもなかっただけに当然の結果に誰も彼女を慰めようとはしなかった。
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