冬に出会って春に恋して

永江寧々

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予想外

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 十二月三十一日
 二人は朝から動き回っていた。家は常に磨かれていても冷蔵庫や食器棚の後ろまでは掃除していない。それらを動かしてしっかり掃除する。しかもおせちを作り終えてからの大掃除であるため疲れている。

「なんで大掃除なんかするんだ?」
「諸説あるそうですが、新年の神様をお迎えするためにするのだそうですよ」

 なんでもよく知っていると笑ってしまう。
 一人暮らしを始めてから大掃除をしたことは一度もない。部屋はいつも綺麗だったし、あの黒い害虫も見たことがなかったため掃除の必要性を感じたことがなかった。おせちだお雑煮だと意識することもなく、いつもと変わらない日々として迎えていた年末年始。
 
「目に見えない神様を信じて掃除するなんて日本人はいつからそんな信心深くなったんだ?」
「大掃除を面倒臭いと言う罰当たりな人を納得させるための理由かもしれませんけど」
「誰のこと言ってんだー?」
「なんのことでしょうか?」

 からかうことを覚えた椿に唇を噛むも浮かぶのは笑み。大したことはしていないのにヘトヘトだと床に座り込んでいた身体が立ち上がり椿に接近する。食器棚の戸の金具部分まで磨くように拭いている掃除熱心な相手を後ろから抱きしめると顔が上を向く。

「こんな働き者の旦那様捕まえてよくそんなことが言えるな?」
「あら、誰も旦那様のことだとは言っておりませんよ?」
「俺は神様なんか信じてないから新年の神様をお迎えするためって言われてもそんなの面倒な大掃除する理由にはならねぇの」
「じゃあお昼ご飯は抜きですね」
「なんでだよ」
「働かざる者食うべからず」
「いーよ、こっちのが美味そうだからこっち食うだけだ」

 椿の手を取って指先に軽く歯を立てるとおかしそうに笑う。そのまま離さないでいると少し伸びた爪が舌を軽く引っ掻くため表面で指の腹を舐め返せば勢いよく手が離れる。

「女性の指を舐めるなんて無礼ですよ」

 顔を真っ赤にしながらの反論に柊がニヤつく。

「男の舌を引っ掻くのはいいのか?」
「……無礼、ですね。すみませ──」

 勢いで反論することをしない椿が謝ろうとしたのをキスで遮った。驚きに目を見開きはするも逃れようとしない椿の喉に手を添えると小さな息が漏れた。細い首。このまま力を込めればきっと息の根を止めてしまえるだろう。
 息絶えた少女を培養液が入ったカプセルの中に入れておく。そうすればどこにも帰らず永遠に自分の手元に残る。
 ここが漫画の世界で尚且つ自分が世界最高の頭脳を持ったマッドサイエンティストならそうすると勝手な妄想に浸る意識を遮断して唇を離した。

「除夜の鐘突いたら初詣で何願う?」
「煩悩を払った直後にもう欲をかくのですか?」
「今年一年の煩悩を払い、新年で新しい欲をかく。これが日本のスタイルだよ」

 変なのと笑う椿が考える新年の欲は何か。こうして今年一年の最終日を過ごしているが、日付が変わるまで安心できない。今年いっぱいは自由を味わわせてやるつもりでいるのかもしれない。だから新年を迎えた瞬間に連れ戻しに来る。そんな想像をもう何百回としている。

「人混みは苦手でしょう?」
「願い叶えてもらいたくないのか?」
「神様を信じていない人が言うと説得力がありますね」
「お前ねぇ、もう一回口塞ぐぞ」
「だって神様なんか信じていないと言ったではありませんか。それなのにそういう時だけ都合よく神頼みだなんて──」

 これは一種の挑発と受け取った。期待していると思うのは烏滸がましいかもしれないが、警告したのに同じことを言うのだからと唇を塞ごうとした柊の唇を椿が避けた。
 キスするつもりだった柊にとってはまさかの反応。驚きに固まる柊が顔に文句を書いているのを見た椿がかぶりを振る。

「もう少しですから、頑張ってお仕事してください」
「まさか弄ばれるとは思わなかったな」
「さ、お仕事お仕事」

 椿は二回目のキスに耐えられる自信がなかった。クリスマスに生まれて初めてキスをした。唇同士が触れ合う愛し合う者が交わす愛情の証。
 柊と暮らすようになってから街中で何度か見かけた路上でキスをしているカップル。唇を交わすだけではなく互いを貪り合うように唇を動かしている者もいた。まさか自分が誰かとキスをする日がくるとは想像もしていなかっただけに触れ合った唇の感触の生々しさに心臓がおかしくなりそうだった。
 そして今日、またキスをした。なんの前触れもなく突然。それだけでも心臓が異常な動きを見せているのに二回もしたら立っていられなくなりそうで怖かった。
 平常を装えただろうか。あまり子供っぽい反応は見せたくない。相手に釣り合うような大人な反応を見せたい。そう思っていても赤くなることまでは抑えきれない。
 耳だけではなくうなじまで真っ赤に染まっているのを見て柊が音を立てずに笑う。相手が未成年でなければここで抱いている。そんな妄想を働かせながら首を振って食器棚と冷蔵庫を元の位置に戻した。
 
「浴室の換気扇洗ってくる」
「はい。お願いしま──ッ!!」

 うなじに落ちてきた柔らかな感触にピンッと伸びた背筋。固まる椿に振り返る余裕はない。どう反応すればいいのか、大人な反応はどれだと考える余裕もなく、ビリッと走った強烈な痺れに身体を小さく震わせた。
 浴室の方から音が聞こえ、堪えていた脱力に身を任せると四つん這いになる。
 クリスマス以降からの柊はスキンシップ過多で、何かあると触れてくる。人に触れられることへの免疫がゼロな椿にはあまりにも刺激が強い。
 手を繋いだり抱きしめられることならまだいい。でもキスや肌への触れ合いには慣れそうもない。カアッと一気に身体を手で仰ぎながら残る細かな場所の掃除に向かった。

「ふう……」

 おせちも掃除も終わった。明日を迎えるための準備もできた。
 あれほど明るかった陽は落ち、外はいつの間にか夜の静寂に包まれている。
 バルコニーに出て息を吐くと紫煙のように白が風に乗って流れていく。昼間は景色の良い高層階も夜になると景色が見えなくなってしまう。その代わりの夜景だが、街の様子はわからない。
 実家にいる時もそうだった。どの部屋からどうやって外を見ようと街の様子が見えることはなく、人がどれほどいて、店が何軒あって、どんな催しがあるのかさえ知らなかった。知る術がなかった。こうして眺めていると実家にいる気分になる。世俗から切り離された生活をおかしいと思うこともなく、それ自体がおかしなことであるとも気付かず、ただ言われるがままに傀儡のように生きてきた。
 ここに入り込んだ時、自分でも強引なやり方だと思った。きっとバレてしまうと。でも、バレることはなかった。婚約者と嘘をついて居候させてもらう代わりにと出された条件である家事はしっかりこなしてきた。それしかできない人間だったが、それだけができたからこそ置いてもらえた。優しい人で助かったと何度思っただろう。だが今は、優しすぎるとさえ思う。彼の優しさが少し辛くなる。別れた後、彼の優しさを何百回何千回と思い出してしまうだろうから。

「まーたロマンチックに星見てんのか?」

 後ろから抱きしめられたことで背中に感じる温もりもきっと何万回と思い出す。

「星を見上げることをロマンチックだと思っている旦那様こそロマンチックですよ」
「なんかそういうイメージなんだよな。願い星とか見ないし」
「私は飽きるほど見てきました」
「願い事したか?」
「流れ星は宇宙のゴミが燃えながら移動しているだけで願いを叶える神秘的な力はありませんよ? 衝突する前の隕石も同然なので」
「そういうとこはロマンがないよな」

 この笑顔も。

「あとで外出るから今は入ろうぜ。風邪引いちまう」
「お腹の具合はどうですか?」
「大運動会……大演奏会してる」
「ふふっ、じゃあ夕飯にしましょうか」

 夜は天ぷらとそば。そばも自分で打つのだろうかと想像していたが、流石にそこまではできないと言われた。その代わり出汁は既製品ではなく、いつもどおりと材料を鍋に入れて一から。
 柊はすっかりこの出汁の虜となっている。何にかけても美味いのだ。自分で作る天ぷらつゆが少し甘めなのも気に入っている。
 海老天一本ではなく、数種類の天ぷらがしっかりと皿に盛られ、そばと一緒に出てくる。ほぼ定食状態。

「俺が知ってる年越しそばじゃないな」
「旦那様の知る年越しそばはどういったものですか?」
「そばの上に海老天が一本か二本乗ってるだけ」
「うちは年末年始が一年で一番豪勢だったのでこういう感じで出てきました」

 誕生日もクリスマスもない家で一番豪勢なのは年末年始。それこそ年末年始も誕生日と同じで必ず巡り来るものだろうと当主の考えに呆れながらも余計なことは言わないでおいた。
 家出するほど嫌な家庭だとしても他人に悪く言われると腹が立つかもしれない。
 相手への好意を自覚してから一日一日を大切に過ごしてきた。それは今日も同じ。いや、今日が一番大切かもしれない。
 互いに感じている不安理由は同じ。今年いっぱい自由を与えようと思って捜索しなかったのであれば日付が過ぎた瞬間にインターホンが鳴る可能性がある。言葉にすれば現実になってしまいそうだから互いにいつもどおりを演じる。

「これ食べたら除夜の鐘に並ぶか」
「並ぶ?」
「寺によっては除夜の鐘を一般人に突かせてくれるんだよ」
「それに並ぶのですか?」
「やりたいだろ?」
「……やりたいです」

 少し迷った後、意を決して返事をした椿は良い顔をしていた。
 柊は過去に一度、恋人のわがままに付き合って並んだことがある。なぜわざわざ凍えるほど寒い日に外で並ばなければならないのかと不満を訴えた。これでは凍えに行くようなもので自殺行為にも近いと。恋人には呆れられたが、翌年から恋人は友人と行くと言ったため不満を訴えて良かったと思った。それなのに今は自分から提案して並ぼうとしているのだから自分の中で起きている変化に笑ってしまう。
 年末特番を見ることもせず、互いに向かい合ってゆっくりと食事を味わう。あるかわからない数時間後に迫った来年の抱負を互いに当たり前に訪れるものとして語りながら笑う。

「よし、じゃあ行くか」

 日付が変わる前に家を出る。除夜の鐘を突きに並ぶのはそれが目的。新年は一緒に過ごしたい。たった一日、新年になってから数時間過ごせたところで何が変わるのかわからなくとも柊にとっては大事なことだった。だからまだ十時過ぎなのに家を出た。
 手を繋ぎ、離れてしまわないようポケットの中に入れて椿にとって初めて見るだろう人混みの中に紛れていった。
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