陰キャに恋は早すぎる

ツワブキ

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逃避

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 まさか、自分の足で再びここに来ることになるとは思いもしなかった。

 歩はエレベーターの中でインジケータを濁った目で見つめる。

 歩を乗せたエレベーターは三階、四階…と昇っていき、六階で止まった。

 歩はエレベーターから降り、マンションの共有廊下を進む。単身者が多いマンションらしく、廊下で人とすれ違うことは滅多にない。

 歩は目的の部屋の前で一呼吸おくと、手に握り込んでいた鍵をゆっくりと鍵穴に差し込んだ。

 静かに玄関扉を開くとぱっと明かりが灯る。正面のリビングは真っ暗で人の気配はない。

 歩は靴を脱いで家主不在の家に上がる。きれいに整えられた生活スペースは、かつて歩が暮らしていた時の様子と変わらない。

 歩は身を隠すように寝室のベッドに潜り込む。洗剤と柔軟剤の清潔な匂いがした。

 暖かな羽毛の布団と肌触りのいい毛布に包まれていると、急激な眠気に襲われる。

 今日は授業も多かったし、街は人が多くて歩くだけでも疲れた。

 歩は思考を全て投げ出してその眠気に身を委ねた。









 洋は玄関扉を開けて唖然とした。

 センサー式の明かりが灯った瞬間、目に入ったのは見知らぬスニーカー。

 正面のリビングに繋がる扉のすりガラスの向こうは真っ暗で、人がいるとは思えない。

 合鍵を渡しているのは一人しかいないが、それにしたって彼が連絡も寄越さず急に訪ねてくることは考えにくい。

(…朝、鍵締めたよな…?)

 そこではたと気付く。

 そう言えば、昨日は持ち帰った仕事を片付けるのにずいぶん時間が掛かってしまって、今朝は寝不足気味で家を出たのだ。その時にうっかりして鍵を閉め忘れたか?

 洋は改めて足元のスニーカーを見下ろす。一見汚れやすり減りが見られないそのスニーカーは、つま先を玄関の方に向けて行儀よく並んでいる。泥棒にしたって妙だと思った。

 洋は怪訝に思いながらも靴を脱ぎ、そっとリビングの扉のノブに手をかける。

 ドアを開けて電気を点けるが、人の姿は見当たらない。

 緊張感を持ったまま、続いて寝室の扉を開け、洋は驚きのあまり目尻が裂けそうなほど目を見開いた。













「歩!!?」

 ぱっと部屋が明るくなると同時、歩の沈んでいた意識が浮上する。

 ぼんやりしたままゆっくりと体を起こすと、そこにはこの家の家主の姿があった。

「おかえりなさい。洋。」

 そう歩が声をかけた相手──、洋は幽霊でも見たような顔で歩を見ている。 

「…泥棒か、不審者かと思ったよ…」

 洋は深く息をつくと、絞り出すようにそう言って額を抑えた。

「ごめん」

「いや、いいんだ。いつでも来ていいと言ったのは俺だし。ただ、びっくりして。寝てた…よね?起こして悪かった」

 洋は安心したように笑うと、ベッドの端に腰掛けた。

「それにしても急にどうしたの?連絡してくれたら迎えに行ったのに」

「うんまあ。…近くを通ったから。」

 我ながら無理があると思ったが、当の洋は「そう」と穏やかに微笑むだけで、それ以上言及してくることはない。

「今日はクリスマスだろ?せっかく歩が来てくれたのにあいにく何も用意してない」

 クリスマス…と歩は頭の中で呟いて、苦い顔をする。

「いいよ。クリスマスとか、嫌いだし」

 歩はぶっきらぼうに言い捨てて、顔を背ける。

「嫌い?」

「…」

「前は“好きじゃない”って言ってたよね」

 はっとして、背けていた顔を洋に向ける。

「何かあったの?」

 洋は柔らかく笑う。

 ほんとうに、洋に隠し事はできない。

 しかし、「なにもない」と歩が首を横に振りさえすれば、洋は決してそれ以上は何も追及してこない。

「クリスマスが嫌いなら、今日はうちで普通の晩ごはんを食べよう」

 洋は明るく言うと、歩の手を引いて立ち上がる。

「ちょうどうちにはケーキもチキンもないんだ」





 洋がキッチンで料理をする音を聞きながら、歩は洋が入れてくれたミルクティーを飲んでいる。

 洋の家は対面式キッチンになっていて、ダイニングテーブルでお茶を飲んでいる歩から、キッチンで作業する洋の様子はよく見えた。

 手伝おうにも歩にできることはなさそうだから、歩はおとなしくお茶を飲みながら、手際よく作業する洋を横目で眺める。

 付き合っている時もよくこうして洋が料理をしてくれたなと思い出す。

 













 歩と洋が最初に付き合ったのは歩が高二の夏。

 その時の洋は23歳の社会人で、高二の歩から見ると洋はひどく大人に見えた。

 付き合おうと言ったのは歩の方だった。

 ちょうどその頃の歩は、滉に対する不毛な片想いに嫌気が差していた。

 滉への気持ちを誤魔化す為、色んな女の子と付き合ってはみたものの、どれもだめだった。

 滉への気持ちはそんなものでは収まらなかった。それどころか、なまじ恋愛というものを知ってしまったせいで、より滉への気持ちが強固なものへとなってしまっていた。

 しかし、そうはいっても滉を好きでいたところで辛いだけだ。なぜなら滉は歩のことをただの幼馴染としか思っていない。

 そもそも滉は異性愛者だ。恋人こそできたことはないが、寝物語にもならないような美少女との恋愛を夢見ている。

 そんな相手を好きでいてなんになるんだろう。

 滉と同じ小・中学校に通うため、親の意向に反し、私立校ではなく公立校を選んだことも、滉と同じ高校に入る為に必死に勉強したことも、小学校で滉をからかったクラスメイトの家に単身乗り込んでそいつの前でそいつの作った工作を全部ぶっ壊してやったことも、中学卒業間近になって一部の女子が目敏く滉の顔の良さに気付いた時に歩がそれを牽制したことも、滉は何一つ知らない。

 滉は歩の気持ちに少しも気づかない。

 こんな恋心、ない方がよっぽどいい。

 そんな時、ふと「男ならどうだろう」と歩は思った。

 女の子が滉の代わりにならないのなら、相手が男なら少しは自分を騙せるだろうか。

 歩は男の滉が好きだし、それは性愛を伴うものであったが、歩はゲイというわけではない。

 滉以外の男など、抱くのも抱かれるのも御免だ。考えただけでも悍ましい。

 しかし、以前から知り合いであった洋に関しては、他の、滉以外の男に抱くような嫌悪感は抱かなかった。

 これは、きっと千載一遇のチャンスだ。もしかしたら、これでほんとうに滉への気持ちを殺せるのでは?



「洋くん、オレと付き合って。オレの彼氏になってよ。」



 歩は洋を心から愛していたわけではない。でも、それは今まで付き合ってきた女の子だって同じだ。

 なら、試すだけ試してもいいだろう。だめならだめで、今まで付き合ってきた女の子たちと同じように別れればいいだけ。



 結論から言えば、洋は歩の告白に躊躇いながらも頷いた。

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